2000年代に生き残ったYamaha CP-70

Yamaha CP-70という楽器をご存知でしょうか。70年代の終わり頃に発売された鍵盤楽器です。いわゆるエレクトリックピアノ(エレピ)です。RhodesピアノやWurlitzerピアノと違い、このエレピは本当にピアノと同じく、弦をハンマーで叩いて音が出ます。Rhodesはタイン(トーンジェネレーター)という棒を叩いて、それをピックアップで拾い音を出すのに対して、このYamaha CP-70はグランドピアノの小さいの見たいな構造になっていて、そのピアノの弦のブリッジ部分にピエゾピックアップが付いていて、そのピックアップから拾った音をプリアンプで増幅して音が出ます。

今は、ステージや練習スタジオで使う鍵盤楽器と言えば、本物のアコースティックピアノを使える現場をのぞいては、デジタルピアノやらデジタルシンセサイザーでいくらでも事足りますが、70年代後期にはそういった便利なものはほぼ皆無で(無くはなかったですが大変高価で)エレクトリックピアノを用いておりました。

エレクトリックピアノの歴史は結構古く、ベヒシュタイン社が1920年代の終わりにネオ・ベヒシュタインというエレクトリックピアノを作っておりますが、この楽器は、大きさがグランドピアノと同じぐらいで、到底持ち歩きのできるような代物ではありませんでした。そのあと、50年代になって、Wurlitzerがエレクトリックピアノ110型を出し、エレクトリックピアノははじめて持ち運びが可能なサイズになります。60年代にハロルド・ローズがフェンダー社と共同開発したFender Rhodesピアノを出します。このローズピアノが先に挙げたウーリツァーと並びエレクトリックピアノの定番となりますが、ウーリツァーもローズもアコースティックピアノの音とはかけ離れた音色です。まあ、その音色はその音色で私は好きなのですが。

そんな中、アコースティックピアノの音に限りなく近い(とは言っても別物なんですが)音色が出せるエレクトリックピアノとして、ヤマハは70年代の中盤にCP-70を発売します。これが、結構良く出来ていて、鍵盤部分のアクションはグランドピアノと同じもの(ダブルエスケープメントアクション)が使われております。実際に弦が張られてますから、場所もとるのですが(小型のグランドピアノの2/3ぐらい)まあ、アコースティックピアノに比べると小型と言えます。

70年代から80年代にかけてはステージ上のピアノと言えば、このCP−70が定番で、ジャズのピアノトリオでさえCPシリーズ(73鍵のCP−70もしくは88鍵のCP−80)を使ったりしていました。コンサート調律師さんたちも、このころはステージの調律と言えばCPばかりだったという話も聞きました。まあ、本物のグランドピアノをステージに上げるのは大事ですが、このCPは本体が鍵盤部分と弦が張られている部分の2つに分かれて、持ち運びが楽です。とは言っても、各部60キロぐらいありますが。

最近は、デジタルピアノが安くなったので、このCPは全然ニーズがなくなってしまい、新品はもちろんとっくに廃番になりましたが、CP−70の中古に至ってはネットオークションで5万円ぐらいで手に入ります。もはや楽器と言うよりも、粗大ごみぐらいの扱いです。

それで、このCP−70を一台購入してみました。

グランドピアノと同じアクションを使っているだけあって、鍵盤を押さえた感触はピアノそのものです。ハンマーがゴムでできているので、アタック感はアコースティックピアノとは違いますが、それでも、まるでグランドピアノを弾いているかのような感覚で弾けます(73鍵ですが)。

この、CP−70を今でも演奏しているミュージシャンは少ないのですが、イギリスのKeaneというバンドのピアニスト、ティム・ライス・オクスリーは今でも頑固にCP−70を弾いております。Keaneというバンドは、ボーカル、ピアノ、ベース、ドラムの編成で、ロックバンドとしては、ギタリストが入っていない珍しいバンドなのですが、サウンドはいかにも2000年代のUKロックというサウンドです。私は、あまりこういうサウンドは好みではないのですが、現存するCP-70(CP−80か?)を使っている貴重なピアニストなので、聴いております。アコースティックピアノと似ているけれど、微妙に異なるCPのサウンドが聴けてそこそこ満足です。

Keaneのデビューアルバムとセカンドアルバムを持っておりますが、同じようなサウンドで落ち着いていて、なかなか聴いていて悪い気はしません。時々、こういう音楽も悪くないな、と思って聴いております。いわゆるアメリカンロックとも違った、ちょっとスタイリッシュなサウンドで、2000年代に青春時代を送った方々には、こういうサウンドが懐かしいのではないでしょうか。私もその世代に近いのですが、こういうサウンドは、あの時代良く聴きました。懐かしいです。

エレピサウンドの、一つの定番として、聴いてみることをお勧めします。

夏が過ぎ行く The Randy Newman Songbook Vol.1

このところ暑い毎日が続いたせいか、思考能力がずいぶん低下しており、何かを書こうと思っても、何も思いつかない。思考能力については、もともとそんなに高くはないのかもしれないけれど、それでも、以前なら、パソコンの前に座ると、何かしら書くことを思いついて、いろいろくだらないことを書けたもんだが。

仕方がないので、とにかく、ダラダラとキーボードに向かって、思いついたことをつらつらと書いているのだけれど、書きながら何もアイディアが浮かんでこない。これはきっと暑さのせいだということにしている。北海道で生まれ育った私は暑いのが得意ではないのだ。まあ、寒いのも得意ではないけれど。

今日は、隅田川花火大会の日だったようだ。花火大会の雰囲気は昼頃から街にあふれていた。

昨夜の台風が過ぎ、蒼く晴れわたった街には浴衣を着た浮かれた若い男女が歩いていた。暑さなど彼等にはどうでもよいのだと言わんばかりに涼しげに、からりとした笑顔で談笑している。
私は、その姿を横目に、玄関先に腰掛けエコーに火をつけ、暑いアチいと呻いていた。おろしたてのアロハシャツが汗だくになるのを、胸をはだけて、シャツをバタバタとフイゴのようにして風を取り込み、なんとか灼熱に耐えていた。側から見たら本当に暑苦しいだろう。

私だって、あの涼しげな若者の仲間に入ってはしゃいでいれば、それなりに気分もすっとするだろうけれど、どうも今はそんな気力もない。夏だから、海だ、山だ、やれサッカー、やれ野球、ハイキング、おおブレネリ、なんていうのもまっぴらだ。そういうことをやるほど元気が出ないのだ。全ては、この暑さのせいだということを言い訳にして。本当は、ただ、もうそういうことが似合わなくなってしまっただけなのかもしれない。若者に交じってはしゃぐようなのは、とっくに卒業せにゃならん年頃である。

こうして、だんだんおじさんになっていくのを、なんとなく受け入れながら、夏が過ぎ行くのにただ任せている。季節が巡るのに抗うことは出来ない。

仕方がないから、できるだけ涼しげな音楽でも聴こうと思い立ち、御茶ノ水に行き、ランディニューマンのセルフカバーアルバムを買ってきた。 The Randy Newman Songbook Vol.1というアルバム。リリースされたのは2003年とのことだから、かなり古いアルバムの類になってしまった。2003年などというと、そんなに昔でもないような気もするけれど、よく考えたら、もう15年も前の作品だ。古い。
ランディニューマンのピアノ弾き語りをかけながら、少しずつ歳をとりひねくれていく自分を憂いている。ここに収められている曲は、どれもが、ランディーニューマンがデビューして数年間の間にリリースした曲ばかり。彼のディスコグラフィについては、なにも知識がないのだけれど、このアルバムに入っている曲のオリジナルアルバムは、だいたい持っている(そんなに好きだっていうわけではないのだけれど)。2003年にセルフカバーアルバムで歌う彼は、既に還暦を過ぎていただろうか。訥々としたピアノの音は変わらないけれど(このアルバムではスタインウェイを弾いている)声はすこししゃがれていて、若い頃もこんな声なのだけれど、それでも齢を感じさせられる。

このアルバムを聴いていて、感じるのはそんなことだけではないのだけど。ここには彼のフレッシュな感性が再現されているし、ちょっと皮肉めいた彼独特の歌詞を(英語は聞き取れなくても)なんとなく楽しむことができる。インストナンバーも収められているが、本当に控えめで、シンプルで聴いていて暑苦しくない。もし、ピアノ弾き語りで彼の曲を一曲弾けるようになれるなら、このアルバムに収められているような雰囲気でSail Awayを歌えるようになりたい。オリジナルのオルガンのイントロから入るバージョンも良いけれど、ピアノ弾き語りというシンプルなアレンジがこの曲には良くあっている。こういうアルバムこそ、今の私には必要だったのかもしれない。モノクロームな中にトロピカルな雰囲気のジャケットも涼しげだ。

陽が傾き、薄暗くなっていく書斎で独り聴くNonesuchのCDのカバーは、日に焼けて、黴と埃の匂いがする。

もう返らない青春という言い回しがあるが、青春なんてところに戻りたくはないから、この蒸し暑くて陰鬱な休日の夕暮れをとりあえずなんとかして欲しいなどと考え、私は横になった。

Shut Up ‘n Play Yer Guitar

マルチなタレントに憧れることは憧れるのだけれど、それよりも、何か一つのことに秀でている人に強く惹かれる。例えば、ギタリストだと、ダニー・ガットンが好きなのだけれど、彼はギターを弾くことと、ホットロッド(改造車)をいじることに一生を費やしているように見えてかっこいい。

よく、ロックのミュージシャンなんかが、ステージで政治的な発言をしたりとか、最近では SNSなんかでそういう発信をする人たちがいるが、ミュージシャンはそういうことは言葉じゃなくて音楽で表現していればそれで良いと思う。これは、なにも政治に限ったことではなくて、美学・宗教・思想、なんでもそうだと思う。ギタリストはギターで表現できることで勝負している人の方が面白い。たとえ上手くても、いろいろな慈善活動とかに一生懸命だったりすると、その人の音楽にまでバイアスのかかった視線で見えてきてしまうのはとても残念だ。美学・思想・宗教も含めた総合的な表現として成立しているのであれば、それはそれで魅力的なのだろうけれど、残念ながらそこの域まで達している表現者を私はほとんど知らない。

私の無知も手伝い、こういうことを考えているのだけれども、音楽家はとにかくまず音楽に集中していればそれで良いと思う。いくらスケールの大きな音楽ができるとしても、そこに、政治や社会情勢、思想が存在するかどうかは別問題であるし、私は政治や社会情勢、思想なんていうものがにじみ出てこないような音楽の方が好みである。なにも、そういったいろいろなバックグラウンドがにじみ出てくる音楽が小難しくて嫌だというわけでもない。ただ、多くの場合、そういったものが提示される場合、それらがあまりにも陳腐で興ざめだということを何度か味わっているのでこう考えるに至ったのだ。

例えば、昔のジャズ喫茶でジョン・コルトレーンを聴いていた人たちなんかがジョン・コルトレーンを語るとき、ファラオ・サンダースの音楽を語るとき、政治や差別の話を持ち出してこられたことがあった。この人たちは、あの素晴らしい(あんまり好きじゃないけれど)ジョン・コルトレーンの音楽をそんなつまらない側面から「解釈」しちゃっているのかと思い、なんだか気の毒になってしまった。ジョン・コルトレーンにも、その熱く語っていたおじさんにも。

音楽そのものが面白くないところに、たとえどんなに深い思想や美学があったところで、私の興味は惹かない。もちろん、そういうものも音楽やら表現には必要なときがあるということは頭では理解しているつもりだ。政治的メッセージのないボブディランやギル・スコット・ヘロンは想像できないし、思想のないレナード・コーエンもどうも思いつかない。けれども、私は彼らが何について歌っていても、音楽としてつまんなければ、聞くに堪えないと思うし、その意味で実際問題ボブディランの多くの作品に私はほとんど興味がない。レナード・コーエンも詩は立派だが(大した好きではないけれど)好きなアルバムは少ししかない。

これは、音楽に限ったことでなく、絵画やら文学やらにすら同じことを感じる。文学なんかは、特に思想とか、社会情勢の塊のように思われる節もあるけれど、それらは文学として成立する必須要件ではない。むしろ、おまけだと思う。私は、インド系移民ではないから、ジュンパ・ラヒリの境遇について何も知らなければ、昨今のインドの情勢について全くフォローはしていないし、アメリカで流行っている社会思想についても明るくはない。けれど、彼女の作品は私の心に響いてくるし、そのちょっと安普請な部分も好きだ。社会は、作品にとってあらかじめ与えられたものなのかもしれないけれど、作品を鑑賞する私たちにとって作品の向こうの社会は作品から推し量れる程度のものでしかない。同時代の作品であるならばともかくとして、そんな頼りない手探りの、知ったかぶりの世界を前提に作品を鑑賞するという面倒な手続きを踏まなくてもこちらに届いてくるものを私は選びとってきた。

絵画なんかについては、私は絵画そのものの歴史すら知らない。けれども、好きな作品はいくつかある。確かに、これは欲しいなと思わせるものが、一応ある。好きなカントリー音楽も、その歴史やら流派やらについてはよく知らないのだけれど、そんなことお構いなく盛んに聞いている。

フランクザッパの作品に「Shut Up ‘n Play Yer Guitar」というアルバムがある。私の言いたいことは、まさにそれで、風刺やら、ちょっと賢そうなギミックを多用する暇があるなら、とにかくまず黙ってギターを弾いていて欲しいのだ。そういうことをストイックにやっているミュージシャンが私のお気に入りには多い。

なにも、ジョン・レノンの悪口言っているつもりではないのだけど。

Leon Russell “Roll Over Beethoven”

ちょっと、地元のラジオに手紙を書くんだ、

ロックンロールナンバーをかけて欲しくて、

ベートーヴェンなんて糞食らえ。今日もロックを聴かなきゃ。

 

という歌い出しのロックンロールナンバー、この曲のオリジナルはチャックベリーなんだけれど、ビートルズがカヴァーしているので有名だ。私も、この曲を初めてきいたのはビートルズ。そのあと、オリジナルのチャックベリーを聴いて、ジェリー・リー・ルイスのを聴いた。

最近YouTubeを見ていて、レオン・ラッセルが歌うこの曲に再会した。ロックのレジェンド、レオン・ラッセルである。

レオン・ラッセルと言えば、ジョー・コッカー等とバンドを組んで、ライブアルバム、Mad dogs & Englishmenのプロデューサー兼アレンジャーをやっていたり、カーペンターズの数多くのヒット曲を書いたりして有名なのだけれど、それだけでなくて、フィル・スペクターやらバーズ、クラプトンなんかの曲でピアノを弾いている。そして、なんといっても、名曲「 A Song for You」のヒットで知られている。

私は、高校の頃、彼のベスト盤を買ってから、そのCDを何度も何度も聞いてきた。ギターものばかり聴いてきた私のレコードラックには珍しいピアノもののロックである。

彼のピアノは、テクニック的には特になんというものでもないけれど、独特の怠いノリで、それがなんとも心地よい。上記のロックンロールナンバーでも、彼独特のレイドバックしたピアノを聞かせてくれるんだけれど、そのノリをギターで再現しようとしたのだけれど、どうもできない。

YouTubeの動画ではエレピを弾いているんだけれど、彼のピアノの音はエレピの登場以前から、こういうチープでギラギラとした音がしていた。ホンキートンクというのか、それともちょっと違うような気もするのだが、生涯この音で通していたような気がする。

ロックといえば、ギターというイメージがあるのか、ピアノもののロックはあまり語られることがなくて、かくいう私もピアノもののロックは、彼か、ジェリー・リーか、はたまはベン・フォールズぐらいしか持っていないから確かに語れることも少ない。それでも、レオン・ラッセルのピアノを聴くと、そこに確かにロックンロールというもののかっこよさが宿っていて、一朝一夕には真似できないものがある。まあ、どんな楽器でも一朝一夕には真似できないのだろうけれど、一見大したことはやっていないからこそ、真似するのは至難の技だと思う。

先に挙げたMad dogs & Englishmenのピアノもすごく、かったるそうに弾いていて、好感が持てる。レオン・ラッセルはいつ聴いてもこの調子だから良い。Mad dogs & Englishmenの中では、特に、リタ・クーリッジが歌う「Superstar」のバッキングのピアノがレオン・ラッセルらしさがよく出ている。

冒頭に引用したRoll Over Beethovenについて、レオン・ラッセルは10代の頃この曲のレコードをヒットさせている。その頃の彼は、もっとバリバリのロックンローラーなのだけれど、まだちょっとかたっ苦しさがある。デヴィッドレターマンのトークショーにゲスト出演した時、この曲を歌うレオン・ラッセルは、もっとずっと力が抜けていて、いかにもアメリカの南部のロックサウンドで、それがなんとも言えず良い。こういうサウンドは、暑苦しいから好き嫌いが分かれるだろうけれど、私はめっぽう好きな方である。

彼の演奏を聴いていると、ロックンローラーに求められる資質、スリーコードのロックサウンドを壊さないで自分流に味付けをすること、の重要さを感じさせられる。

レオン・ラッセル、暇なとき、聴いてみてください。

Danny Boy, Ray Price

私はあまり映画を見ないのだけれども、時々気まぐれに見ることがある。

コーエン兄弟のMiller’s Crossingは好きで、3回ほど見た。見たと言っても  DVDかなにかでみたのであって、劇場で見たような気はしない。映画館で見ない映画鑑賞というのも、どうも味気ないもので、自宅の小さな画面で映画を見たところで、なんだか見たんだか見ていないんだかという気分がする。かといって、1,500円ぐらいを払ってまでして、見ようなんていう映画も少ない。

アマゾンでタダ同然に映画を見れるというのに、映画館に映画を見に行っている方々はどのくらいいるのであろうか。私は、先日しばらくぶりに映画館に行ったけれども、ガラガラでぜんぜん人が入っていなかった。前回、娘がドラえもんを見たいというので連れて行ったのがまだ冬だったから、かれこれ半年ぶりぐらいだろうか。その時、映画館に行ったのが約1年ぶりぐらいだから、1年に1・2度しか映画館にはいかない。自宅で映画のビデオを見るのも、一年に1・2度ぐらいだ。

そんな中、Miller’s Crossingは3回も見たのだから、結構よく見た方だと思う。あの映画は、ストーリー等はよく覚えていないのだけれど、途中で、マフィアのボスのレオが自宅にいるところをマシンガンを持った男二人に襲撃されるシーンがある。

そのシーンでは、ずっとダニーボーイがかかっているのだけれど、そのダニーボーイが好きで、そのシーンを見たくて繰り返し見たのだ。

映画の中では、Frank Pattersonが歌うダニーボーイが使われているのだけれど、私は、そのレコードを持っていないので、その代わりにRay Priceの歌うダニーボーイをよく聴いている。レイ・プライス若かりし頃の録音であるけれども、貫禄がたっぷりで、説得力がある。ちょっと凝ったアレンジになっているのだけれども、レイ・プライスの歌はオーソドックスで、ダニーボーイはこうじゃなきゃいかんとすら思う。

レイ・プライス(故人)はカントリーの大御所だったけれど、こういうトラディショナルな歌も十分歌いこなせていて、好感が持てる。カントリーシンガーは、フォークの香りも出せないとやっぱり本物ではないと思ってしまうのは、私だけだろうか。フォークやトラディショナルなものを堂々と歌いこなすのは難しいだろう。そういった曲は歌唱力が求められる。ボブディランみたいに、自分流(ウディガスリー調なのか?)に歌いこなすのも大変だと思うけれど、それよりも、オーソドックスでありながら、人の心をつかむように歌うのは至難の技だと思う。レイ・プライスはそれをやってのける。

センチメンタルな気分になった時、まあ、一度聞いてみてください。レイ・プライスの Danny Boy。

The Police「見つめていたい」ムカデへの手紙

先日、夜中に玄関の前でタバコを吸っていたら、足元にムカデがいた。
本物のムカデを見たのは初めてだったので、恐ろしさや気持ち悪さの前に、よく見ておきたいという衝動にかられ、ムカデをガン見してしまった。

「ガン見」という普段使わないボキャブラリーを動員しなくてはいけないほど、よく見てみたいという衝動は強かった。
ムカデは、そこそこ一生懸命に玄関の前を這いずり回り、私はその姿をどうするともなくただ見つめていた。

The Policeの「見つめていたい」という歌を思い出した。まさに、スティングが歌っているように、一挙一動を見つめていたいという衝動は、こういう時に訪れるものなのかと、なんだか他人事のように感じながら、私は自分のキュリオシティーに半ば感心しながら、もう片方では、だんだんムカデが気色悪いものだという認識がじわじわとこみ上げてきた。

The Police、「警察」に「見つめていたい」と思われるのも嫌なもんだが、私に見つめられるのも、ムカデにとっては嫌なもんだろう。いわんや、気色悪いと思うとは。

ああ、いかんいかん、これでは見られているムカデに申し訳が立たんではないか。私は、勝手に彼(彼女か?)の前に現れただけであるし、彼だってまさかこんなところで私に遭遇するとも思わずにいたのだから。その出会い頭に、いきなり見つめられた上に、「気色悪い」などと思われてしまうというのは、誠に不本意極まりないだろうと思い、彼を見つめるのをやめてしまった。

そうすると、なんだかムカデに対して愛おしさのような感情すら湧いてきた。「ムカデ、ああ、すまん。ムカデ、どうぞご自由に私の自宅前を這いずり回るがいい」という寛容な気持ちと、断りもなしに「見つめていたい」という感情をダイレクトに彼に向けてしまったことを恥じた。

なんだか、私自身の居場所がなくなり(まあ、私の自宅の前なんだから、本来は私の方が堂々としていれば良いのだが)仕方なく、ムカデから少し離れたところに移り、タバコを燻らせた。

吸い終わり、うちの中に入ると、なんだかこのままではどうもいかんと思い、このままではどうもこうも心の整理がつかんと思い、とりあえず

「なんか、家の前にムカデいたよ」

と妻に報告した。

妻は

「キャー、気持ち悪い! 殺した?」

と返してきた。
いくら気持ち悪くても、なにも殺生に至ることはないではないか、これだから現代人は短絡的でいかん、けしからん。と思いながら、私はなんとなく自宅にすら居心地の悪さを感じ、書斎に引きこもった。

「ムカデ、すまん。確かに俺はお前を気持ち悪いと感じたぜ。確かに半ば興味本位でお前を観察したぜ。でも、殺そうとなんてちっとも思えなかったんだ。それだけは確かに言える。」

などと、独り言ちて、自分は何を言っているんだ、たかがムカデごときに馬鹿らしいなどと考え、寝た。

横になっていると、不思議な念にかられた。もし、あのムカデが、玄関の外ではなく、部屋の中にいたらどうだっただろうと。あるいは殺していたかもしれない。このような、慈しみの念にも駆られることなく。私は、自分の身勝手さを恥じた。

それから、数日が経った今日の昼ごろ、会社の隣の席に座っている社長が、何やら電話に向かって叫んでいた。

「俺は、そんなことは言っていないぞ!絶対に言ってない。神に誓って言ってないよ!」

そんな、簡単に神に誓えるようなぐらい、人間は誠実なものなのだろうか、と、また私は独り言ちた。

The Weight「幸せで満たされない」気持ち

肩の荷をおろせ、肩の荷を降ろすんだ。荷物を降ろして楽にすれよ。

the bandのこの名曲を、Marty Stuartが歌っているのを聴きながら、私の心は少しだけ救われる。この街で住むということはなにかとストレスがかかるもんなのである。

何かとストレスがかかる。ひとりでは抱えきれないほどの荷物を背負いこみ、朝の満員電車に乗り込む。乗り込むというよりも押し込まれるように。

会社の最寄駅についたら、レッドブルとペットボトルの紅茶を買い、一気に飲み干しオフィスへ向かう。そのまま、いちにち働き通しだ。

昼休みもろくに取れない。狭いオフィスのボロボロのデスクに座り、コンビニで買った昼ごはんを食べる。昼を食べながらも、視線はパソコンのモニターを見ている。キーボードから手を外さずに、昼飯をほうばる。

夕闇が降りてくる。夕闇が降りた途端に、私の手元には仕事が舞い込む。なぜだかわからないが、毎日物事はそのように進む。大抵はトラブル。トラブルでなくても、夕方に舞い込む仕事は大抵は面倒ごと。

面倒ごとも片付かぬまま時計は9時を回る。

これ以上、仕事を続けても効率が下がるだけである。

10時を回る前に、私はオフィスを後にする。時には11時をすぎることもある。それでも、給料が一円でも多くもらえるわけではないし、会社の景気も良くならない。

名刺に書かれた肩書きばかりがどんどん立派になっていっても、私の給料は一円も上がらない。世の中の30代後半のサラリーマンの平均の6割ぐらいの給料で、こうして楽器屋の毎日は過ぎていく。

達成感も、社会への貢献も、自己実現も何もない職場である。

しかし、私は楽器屋という商売以外にやりたい仕事もないのでそこで働き続けている。

楽器屋は悪い商売ではない。なによりお客様を含め、楽器が好きな人たちに広く夢を与える仕事だし、夢を売っている仕事だからだ。

私は、楽器がうまい人に楽器を買って欲しいとか、良い楽器だからたくさん練習して欲しいとか、全く考えない。ただ、楽器を買って、生活の片隅(時として生活のど真ん中)に楽器を置いて、その幸せを甘受して欲しいとだけ思う。もしも、楽器が買えなくても、楽器が欲しいという気持ちを温めることによって幸せを感じて欲しい。それが我々楽器屋のできる精一杯のことだから。

楽器を練習するとか、上手いとか、得意だとかはそれとは全く別の話だ。いい楽器を買う人たちには、楽器の良さを何かしら感じてもらい、それに喜びを感じてもらえればそれでいい。楽器の良さは、性能ではない。良い楽器とは、所有する人の夢を叶えてあげれる楽器だと思う。「高いから欲しい」「高級だから欲しい」「なんとか手に入る範疇だからほしい」「練習したくなるから欲しい」「持っているだけで満足できるから欲しい」「いい音がするから欲しい」等、理由などなんでもいい。

楽器屋の中には、いい楽器は上手い人に使って欲しいと考えているアホな輩がいるみたいで、私自身が楽器屋に楽器を見に行く際も、楽器屋の店員が私の楽器の腕前を計りにかけて私に「ふさわしい」商品を勧めてきたりすることがあるが、あれはとても不快である。だいたい、楽器屋に私の楽器の腕前についてとやかく言われたくない。私は、ただ、いい楽器が欲しくて楽器屋に行くのだ。黙って、俺に良い楽器を安く売って欲しいのだ。時には、ロクデモナイ楽器を高く売りつけて欲しいのだ。

楽器なんてたいした弾けなくたって、楽器の良し悪しはだいたいわかる。わからない場合でも、「値段」という分かりやすい計りの針が楽器にはついている。

だいたい。楽器が欲しくなった時に、2〜3店舗見て回ると、何が「良い楽器」で何がそうでないかは誰にでもわかるもんだ。わからないのではないかと考えるのは、楽器屋の勝手な思い上がりで、そんなことはない。誰にだって、自分のニーズに合っている楽器ぐらい5〜6台の楽器を触っているうちにわかる。

この感覚は、美術品を買ってみるとよくわかるだろう。美術品なんて、よく分からない、と思っている方も多いのかもしれないけれど、いざ身銭を切って絵を買おうと考えてみると、自分の予算、それに見合った価値のもの、自分の好みがはっきりしてくるのだ。

私が仕事で扱っている楽器は安い楽器ではない。安い楽器なら「性能」で差別化して売ることもできるかもしれないけれど、「性能」は安物の説明にしか通用しない。高価な品はいかに「夢」を提供できるかにかかっているのだと思う。だいたい、ランボルギーニを買う時に、取説のスペック表を見ながら比較検討する奴なんてほとんどいないだろ。ランボルギーニはランボルギーニだから欲しいんであって、フェラーリよりもスペックが良いフェラーリの代替品として買うことなんてほとんどないのだ。

私は、ギター屋に行って、「さて、ギブソンにしようか、それともフェンダーにしようか」なんて考えたことは一度もない。「どっちも欲しい」ということはある。どっちも欲しい時は、「どっちかより欲しくなった方」を買う。2者択一ではない。ギブソンとフェンダーは、ペットに猫を飼うか、鳥を飼うかぐらいの違いなのだ。

私の仕事は因果なことに、ピアノ屋である。今まで一度も興味がなかったピアノを売っている。ピアノはギターと違って滅多やたらに「ギブソンもフェンダーも」買うということができない。お金の方はそれを許しても(大抵お金の問題はなんとかなるもんだ)置き場所の方がそれを許さない。

ピアノ屋という商売の嫌なところは、実際は2者択一であるはずもない、かけがいのないブランドを、他のブランドと比較させて選んでもらわなければいけないことだ。そして、フェラーリやらランボルギーニと違って、一度買ってしまうと30年以上壊れることなく、存在し続けることだ。

本当はあれもこれも欲しい。けれども、どれかを選ばなくてはいけない。これが、ピアノ購入の悲劇である。よっぽど広い家に住んでいるわけでないのであれば、この、どうしょうもない、不毛な2者択一(もしくは3者択一)を迫られる。

楽器選びの一番面白いところは、この「欲しいけど、どうしようかな」と考えることだと思う。「欲しい、欲しい、ほしい。けど、どうしようかな」これが一番幸せな瞬間である。ギターの場合、一生のうちに100回ぐらいはこの気分を味わえるのだが、ピアノの場合多くても一生のうちに3回が関の山である。

私自身、セールスマンではないから売るのは専門ではないのだけれど、自分が人一倍楽器屋に足繁く通うので、楽器が欲しい時の「幸せで満たされない」気持ちがそこらの楽器屋よりもわかる。

その「幸せで満たされない」気持ちをくすぐられながら、だまされる楽しさが楽器購入の楽しみだと思っている。

そんなサービスを提供できるのは、ソープランドか、外車のディーラーか楽器屋ぐらいしかないのだと思い、私は今日も楽器屋の店員として働いている。

アメリカの詩人Gil Scott-Heron Winter in America

どうも、アメリカの音楽はよくわからないところが多い。

わたしのレコードラックのほぼ9割以上はアメリカ人による音楽のレコードやらCDなのだけれど、それでもよくわからない。

ジャズやら、ロックやらばかり聴いていたらなんだか気づいたらアメリカものばかりになっていた。30年代以降のアメリカの音楽は、私の貧しい音楽史の知識から言っても、かなり特徴的なものだと思う。

ジャズやロックという音楽の出現は、アメリカという文化の中でしか考えられなかったと言っても過言ではないと思う。ヨーロッパの色々な文化の良いところを引き継ぎ、無理やり単純化し、黒人音楽やバプテスト協会なんかの影響を匂わせながら、また単純化し、大量生産する。それこそがアメリカの音楽文化だと思う。

最近読んだ、高木クラヴィアの社長さんの本でも紹介されていたけれど、ピアノの名器スタインウェイは、まさにアメリカの音楽文化から生まれた楽器だ。アメ車のようにパワフルで、ヨーロッパ音楽の流れも組みながら、アメリカの音楽文化に合わせて作られている。後になってハンブルクでもスタインウェイは作られるようになったけれど、やっぱりスタインウェイはアメリカが生んだピアノだと言えるだろう。

ギターの発展も然り。鉄弦のギターなんていうのはやっぱり音量追求。その、音量追求により出来上がった新しいサウンドもあるのだけれど、ヨーロッパ音楽の流れを断ち切る楽器の出現だっただろう。

そんな中でGil Scott Heronアメリカの生んだ偉大な詩人でありソウルミュージックの星。

ラップの起源は諸説あるけれど、一つは、バプテスト教会のお説教。これは、まあ、多分本当の起源と言えるだろう。ゴスペルの起源もそこだそうな。

もう一つは、カーティスメイフィールドのMC。あれは、まあ、ほぼラップだ。

そして、もう一つがGil Scott-Heron。

このWinter in Americaというアルバムは、わりと静かめの曲が入っているのだけれど、ジャズ好きの方々が彼の音楽を聴くのには一番良い入門版だと思う。

もちろんRhodesピアノの素敵な音色で聴かせてくれる。

Rhodes好きにも外せないアルバム。

Tangoはアルゼンチン人だからいいっていうわけでもないんだな。

最近は、ジャズやらクラシックやらばかり聴いていたら、ちょっと箸休めにタンゴを聴いてみたら、これがまた案外良かった。案外良かったというのも、なんだか演奏者に誠に失礼なのだが、タンゴというものを私はなんとなく誤解していた。

誤解していたのも仕方あるまい。世の中、タンゴのそれもアルゼンチンタンゴのCDが売っている店に行くと、CDの棚にはピアソラしか置いていないことがしばしばである。なにもピアソラが悪いと言っているわけではないのだけれど、ピアソラは確かにすごいんだけれど、あれはあれで、特別な形のタンゴであって、タンゴのスタンダードではない。

アルゼンチンタンゴはもっともっといろいろなスタイルがあるし、もともと、歌モノの曲が多い。

まあ、アルゼンチンタンゴっていう音楽の歴史はそんなに長い歴史があるわけでもないのだけれども、それでも、ピアソラが出てくるずっと前からタンゴは存在した。

有名どころでいうと、カルロス・ガルデルとか、いや、カルロス・ガルデルだってそんなに有名じゃないか。俺もいまガルデルの名前思い出すためにレコードラック見てしまったからな。まあ、そんなところの有名なタンゴ歌手がいる。ピアソラみたいに、うつむいてウンウン言いながら聴くような小難しいタンゴではなくて、もっとポピュラー音楽に、歌謡曲に近いようなタンゴ。

私も、そんなに詳しくはないのだけれど、そういう歌謡曲みたいなタンゴがかつて盛んに録音されていた。そこに、ピアソラみたいな「芸術」みたいな小難しそうな、賢そうなタンゴが出てきて、話がややこしくなった。

音楽というのは不思議なもので、話がややこしくならないほうが気楽に楽しめるのもあるだけでなく、長持ちする。いや、それはウソかな。現に、日本のレコード屋からはピアソラ以前のタンゴがほぼ死滅しているんだから。

それでも、複雑になったから、新しいものが出てきたからといって豊かになるというものではないのが音楽の常だ。あのマイルスデイヴィスだって、キャリアの中で、いろいろなスタイルの音楽をやったけれど、なんだかんだ言って、ハードバップをやっている頃の、それもモードジャズになる前のマイルスが一番とっつきやすいし、いつまでも聴くに耐えうる音楽だと思う。クオリティーの話を抜きにしておいたとしても。

私は、マイルスデイヴィスの音楽が好きなのだが、特に「My Funny Valentine」とか、あのあたりのアルバムが好きなのだが、一番聴いていてリラックスするのはマラソンセッションあたりのアルバムだ。あのあたりのアルバムは、結構やっつけ仕事で作っているという話を聞いたりするのだが、マイルスの、マイルストーンだと思う。

それで、タンゴ、今夜はウルグアイ出身のタンゴ奏者Hugo Diazのアルバムを聴いている。さしずめ「タンゴ名曲20選」といったような内容のアルバムなのだけれど、これがまたなんとも言えずいい。

ピアソラ以降のジャズを踏襲した音楽なんだけれども、それが、あまり面倒くさい話にならずに、古き良きタンゴの延長線上に位置付いていて、なかなか悪くない。古き良きタンゴと言っても、こもった音色でおじさんが歌を歌うというようなサウンドではないのだけれど、ピアソラのバンドのように締まっていて、シャープで、ちょっとオシャレで、その上でちょっと懐かしい。

こういう、タンゴなら、肩肘張らずに聞くことができる。

 

なんだか知らないが、メロディア盤を買ってしまう

しばらくブログを書くのをサボってしまった。

最近は仕事が忙しく、わけのわからないイベントばかりやっているので、困ったもんだ。これでは楽器屋なのかイベントやなのかがちっともわからなくなる。

それで、休みを取れる日にはじっくり休むことにしている。極力仕事はしない。パソコンを開いても、極力仕事のメールチェックはしない。

外に出歩く。散歩をする。できるだけ買い物はしまいしまいと思っているのだがつい買ってしまう。今日も御茶ノ水ディスクユニオンに行って、レコードを3枚買ってしまった。ジャズ2枚とクラシック1枚。

ジャズ2枚は、バーニーケッセルのアルバムと、レイブライアント。どちらも四百円ぐらいだった。

レコード針をユニオン針に替えてから、なんだかレコードを聴くのが楽しくなった。ユニオン針はなんだか感度が随分いいらしく、さかんにノイズを拾うのだが、やけに音に迫力が出る。これがいい。

今日買ったのはメロディア盤のサン・サーンスのピアノコンチェルト第5番。ピアノはリヒテル、指揮はキリルコンドラシン、オケはモスクワフィルハーモニー。うーん、間違いない組み合わせである。いかにも、フランス物をやるのに向いていなそうな取り合わせである。

最近まで、キリル・コンドラシンという指揮者の録音をほとんどまともに聴いたことはなかった。カバレフスキーやらハチャトリアンの管弦楽曲集は持っているのだが、その他は一枚もなかった。

ところが、このところなぜかこのコンドラシンのレコードを何枚か所有することになった。会社の偉い人が、何枚かSPレコードを譲ってくれたのだが、その中に確か、コンドラシンの指揮したやつがあった。いや、SPじゃなくてLPだったかな?よく覚えていない。まだよく聞いてもいない。

しかし、今日買ったサン・サーンスは良かった。続けて2回も聞いてしまった。

サンサーンスという作曲家自体、今までほとんど聴いてこなかったのだが、「序奏とロンド・カプリチョーソ」は好きで、ずっとレコードが欲しかったのだ。それも、オーケストラ伴奏盤ではなくて、ピアノ伴奏盤。これが探しても面白そうなやつはなかなかない。

それが、たまたま、会社の偉い人にもらったSPの中に、その「序奏とロンド・カプリチョーソ」のレコードが入っていたのだ。ミッシャエルマンがヴァイオリンを弾くレコード。

私は、この「序奏とロンド・カプリチョーソ」がルイ・マルの映画「さよなら子供たち」の映画鑑賞会のシーンでかかるのを聴いて、感動してしまい、それからピアノ伴奏盤をずっと探してきたのだが、思わぬところでそれと出会った。やっぱり会社勤めはするもんである。

ミッシャエルマンも多分ロシア人(ウクライナ人?)なんだろうけれども、このロシアの方々というのはみなさん個性が豊かでとてもよろしい。お手本のような演奏のクオリティーなのだが、その演奏の内容が凶暴であったり、落ち着きがなかったり、ダイナミックであったりして、健康で宜しい。ちょっと病気なんじゃないかというくらい、音楽がエンターテイメントに仕上がっていて宜しい。

音楽はこうでなくてはならん。

確かにいぶし銀の演奏も素晴らしい。ハイティンク、ロイヤルコンセルトヘボウなんかの演奏も確かに素晴らしい。

素晴らしいが、やはり、音楽には娯楽性があったほうが面白い。ロシアというお国柄なのか、まことにそのことがわかっているような気がする。アメリカ的エンターテーメントではないのも良い。

アメリカのエンターテーメントはただ単にワイワイガヤガヤ、と笑いである。そこにハイクオリティーな出し物が乗っかってくるという図式である。

それに対して、ロシアのエンターテーメントは、まずハイクオリティーな出し物だけで楽しませるかのようだ。まあ、レコード3枚聞いたぐらいなので、なんとも言えないのだが、ロシア盤のレコードを聴いていると、ロシア人がいかに音楽を楽しむことを渇望していたかがわかる。

それは、メロディア盤とかのレコードのジャケットを見るとよく分かる。

全く装飾がない。

レコードの盤面に記載されている情報がすべてである。

潔い。

この、無愛想なジャケットにやられてしまって、メロディア盤を愛聴している。レーベル名すら解読できない物ばかりであるのも良い。曲名すら判読不可能。レコード店で記載されている情報を信用するしかないのも良い。

わからないものはわからないで良い。演奏者もわかるようなわからないような名前なのが良い。コンドラシン、ムラヴィンスキー、ザンデルリングくらいしかわからない。あとは、何を書いてあるのか判読不可能。オケの名前すらわからない。ソリストの名前もわかるようなわからないような。

それだからこそ、音楽に集中できる。変な先入観なく、それが「ロシア盤」であるという先入観のみを頼りに音楽を聴く。

これが良い。

針を落とすと、やけにオケのクオリティーが高いのも好感が持てる。管楽器だけ、別に録音しているのではないかと思われるほど力強いのも良い。

良いことづくし、なように上記からは思われるだろうけれども、実際聴いてみると、これがまた癖があって、全然好きになれないと言う方も多いだろう。

それが一層好感が持てる。

誰もが好きな味付けではない。苦手な人は大っ嫌い。

それが良い。

メロディア盤が怖ければ、まずは、ムラヴィンスキーがレニングラードフィルとグラモフォンに吹き込んだチャイコフスキーを聴いていただくのが良いだろう。

ロシアオケ入門盤にして、最高傑作の一枚。