偉大なるホラ吹き家系

あるピアニストのリサイタルに行った。

とても、個性的な演奏をするそのピアニストのリサイタルがあるということを知ったのはつい数日前のことだった。それから、チケットをとり、滑り込むようにリサイタル会場に着いた。

とても個性的なピアニストで、元の曲のイメージが大きく覆るような演奏だった。個性的でありながら、妙な説得力があり、特に冒頭のスカルラッティが美しく、奇抜だった。いや、この場合奇抜という言葉は的確ではないかもしれない。そこには、奇抜さを超えた個性があり、その個性はひょっとするとスカルラッティの曲が元々持ち合わせているものなのではないかと思うほど、いびつな形で曲の中に収まっていた。

私は、音楽の専門家ではないので、それをどのような言葉で表現すべきなのかを戸惑っているのだけれど、今まで聞いたことのある、可愛らしく、明るく、明朗なスカルラッティではなく、饒舌で、愛嬌があるのだが愛想を振りまいていない、常人の解釈では咀嚼できないスカルラッティを聞くことができた。

プログラムのメインはリストのロ短調ソナタだった。

リストのロ短調ソナタは一楽章のみで構成されていて、かつ、ものすごく長大でダイナミックな曲であるため、自宅の書斎で独り聴くにはすこし大曲過ぎるような気がして敬遠してきたのだが、このコンサートで聴くとその表情の豊かさも手伝い、初めから終わりまで飽きることなく、スリリングで、堂々としていて、心地よさとは少し違った満足感が得られた。私は、このコンサートの鮮明な印象をこの先しばらくは忘れられないであろう。

そのあと、自宅に帰ると、翌日の娘の運動会を見に、北海道の実家からはるばる両親が上京してきていた。

両親が来るのは、運動会当日の朝だと思っていたので、少し面食らってしまった。

両親は、私の自宅の古いベヒシュタインのピアノを見て、そのピアノの出自を知っているという。私が帰宅するや否や、私の父は矢継ぎ早にそのピアノにまつわるストーリーを話し始めた。北海道に戦前に渡ってきた宣教師と、彼の教会が取り壊されるまでの半世紀以上にもわたるストーリーを。

まるで、私がこのピアノに出会う前から、彼はそのピアノの存在を知っていたかのような、自信に満ち溢れたストーリー展開に私は圧倒され、時に涙し、耳を傾けた。

しかし、その話が嘘であることを私は知っていた。

このピアノは、1990年代のバブルの時期に、成金趣味の結婚式場に使われていたチャペルに置いてあったことや、その後その教会が取り壊されある調律師の手に渡ったことも。

しかし、父の話すストーリーには妙な説得力と、構成の妙味が加わり、愛嬌がありロマンチックに響いた。だから、そういう夢のようなストーリーを信じてもいいのではないかとすら思った。彼の夢を壊してはいけない。このピアノがいかに価値のあるものなのかについての彼の中での構築を崩すのはたとえ親子とはいえ憚られた。

ただ、私はそのような幻想のためにこのピアノを所有しているわけではない。ピアノのコンディションや、ハンマーの減り具合、鍵盤の触った感じ、外装のやつれ具合から、もっと大きな愛の物語をこのピアノから見出して、私はこのピアノを手元に置くことにしたのだ。北海道の歴史や、それによる歴史的価値のようなそういったくだらないことのために所有しているわけではない。

古い楽器は、楽器そのものが語ってくれるストーリーがある。そのストーリーの方が、想像上の歴史的背景なんかよりもずっと説得力がある。楽器の専門家ではない父は、そこまで頭が回らなかったのだろう。

結局、父も私も、このピアノを通して、それぞれのストーリーと背景を想像したにすぎない。真実について、私は詮索しようとはしていない。真実や事実よりも、このピアノそのものが持つ少ない情報から、体の良いロマンチックでいて現実味のない自分だけのストーリーを持っていたいのだ。

その、なんの根拠もないストーリーたちのために、私は数多くの楽器を手元に置いているのかもしれない。

大学6年生の夏の記憶

私はその頃、毎晩のように大学のゼミの後輩の女の子が住む寮の部屋に居座っていた。

私は、大学を2年も留年してしまっていて、大学6年生の夏を迎えていた。5年間付き添ってきた私の交際相手は、清く正しく4年生で卒業し、卒業したのちも1年間は勉強と私との時間を過ごすために東京に残っていてくれたのだが、一年が経過したところで、九州の実家に帰ってしまっていた。

独り東京に取り残された私は、誰とつるむこともできず、寂しい毎日を送っていた。それまでは、毎日朝から晩まで一緒にいてくれた交際相手を失ってしまったことで心が空っぽになりそうになっていた。本当に空っぽになっていたわけではないが、写真の撮影と現像を繰り返す毎日にも虚しいものを感じていた。大学の授業には参加せず、独り部屋にこもったり、街へ出て街行く人々を写真に収めていた。

そんな中で、親しくなったのは、大学でのアクティビティーのうち唯一参加していたゼミナールのメンバーの女の子だった。彼女の大学のゼミでの研究テーマは文学とセックスについてだった。そのせいもあり、彼女は性に開放的で、ゼミナールのメンバーと酒を呑みに行った際も、開けっぴろげに性についての論議をぶちかましていた。

そんな彼女と親しくなったのは、大学6年生の夏のことだった。

大学の夏学期の終わりのテスト期間を控えた頃、講義には出ていなかった私は、単位取得のためのテスト勉強のストレスもあり、たびたびゼミナールのメンバー数人で居酒屋で夜遅くまで激論を交わしていた。

そんなある夜、結局居酒屋も閉店の時間まで飲んでしまい、やるかたなしに私たち数名は彼女の寮の部屋に転がり込んだ。私を含めた男3名が、女子寮の部屋にころがりこめたということも、今となっては不思議なのであるが、彼女の部屋に缶チューハイやワインを持ち込み朝方まで話し込んだり、中平卓馬のビデオを鑑賞したりしていた。

夜も更けて、朝方になりだすと、私以外の男連中は彼女の部屋の中の想い想いの所に横になった。酒の酔いが覚めてしまった私と、彼女は、二人彼女のベッドに横たわりながら眠ることもできず明けていく朝日を眺めていた。もちろん、着衣のままなので、いかがわしいことはなかったが、時折体が触れ合うと、当時25歳だった私は、何とも気まずい思いをしたことを覚えている。朝日を見ていることしかすることがなかった私たちは、仕方がないので、そのまま抱き合い、ささやき声で世の中の不合理について話を始めた。

彼女にはイギリスに住むイギリス人の交際相手がいるということだったが、なかなか会いに行けるわけでもないし、退屈と孤独を持て余しているということだった。折良く、私も似たような境遇であったので、私たち二人は馬があった。その孤独を補うために、私たち二人は着衣のまま抱き合い、いつしか眠りに落ちた。

その翌日から、私は独り毎晩彼女の部屋を訪れるようになった。6月の終わりだった。私たち二人は、特に言葉をかわすこともなく当然のように同居し、部屋のテレビを見ながら、毎晩遅くまで呑んでいた。一通り飲んでしまうと、私たち二人は、彼女のシングルのベッドに横たわり、そのまま眠りに落ちた。

なぜだか、そういう生活が当たり前のように感じていた。夕方に居酒屋か彼女の部屋で落ち合い、彼女がイギリス人の彼氏と電話をする横で私はテレビを見て、缶チューハイを飲んだ。電話が終わると、彼女は私の横にぴったりと腰掛け、缶チューハイを空けた。

そんな生活が、3週間ぐらい続いただろうか。テスト期間も終盤に差し掛かり、東京の夜は暑くなり、お互いに気兼ねしなくなった私たちは下着になって、毎晩抱き合い眠りに落ちた。彼女とはそれ以上の関係を持ったことはなかったが、それは、性に開放的でアグレッシブな彼女に気後れして、そういった行為が苦手な私のほうがそういう事態になることを意図的に避けていたのかもしれない。

最後のテストが終わった雨の晩、私は、お祝いに花屋で買ってきた小さな花束と、缶チューハイ数本とシャブリのボトルを持って、彼女の部屋に戻った。その夜も同じように私たちは下着姿で抱き合って眠りに落ちた。

朝起きてみると、空は快晴で、朝日が眩しかった。まだ寝息を立てている彼女の横で私はピースライトに火をつけ、朝を眺めていた。

朝の8時頃まで彼女は眠っていただろうか。寮の裏のグラウンドから、野球のれんしゅうの音が聞こえてきていた。私は彼女の肩をゆさぶり、

「おい、夏休みが来たぞ! 起きて、何かを食べに行こうよ」と声をかけた。彼女はやっと起床し、服を着て、私のピースに火をつけ2〜3腹吸ったのち、灰皿にのこちのタバコを押し付けて、

「よし、カレーを食べにいくぞ」

と私に宣言して寮の近くの欧州カレー専門店に私を連れ出した。

みせの席に座った際、私はかのじょの部屋にピースの箱を置いてきたことをわすれた。彼女はさぞ当然のように、少し離れたタバコ屋まで、私にタバコを買わせに行かせた。

カレー屋に戻り、ピースに火をつけて、彼女にも一本差し出すと、彼女は遠慮なくその一本を吸い始めた。

「これ、ずいぶんきついタバコね。それにタバコの葉派が口に残るでしょう?私には、もう少し軽いやつを買ってきてちょうだい。」

と頼むので、近くのコンビニまで走り、彼女になんのタバコだったかは忘れたけれど、5ミリぐらいのタバコを買ってきた。

カレー屋には私たち二人と、ゲイのマスターとアルバイトしかいなかった。マスターとアルバイトはなんだか楽しそうに話していた。食べ終えた私たちはなんの気兼ねもなくいつまでも話し込んだ。

結局、彼女は私が買ってきた5ミリのタバコを吸うことなく、私のショートピースをふかした。二人で一本のピースを、いつまでも吸い続けた。ゼミナールのメンバーの噂話や、その時好きだったウディアレンの映画なんかについて話し合いながら。

ショートピースの箱がなくなり、私たちは店の前で別れた。

その日は、彼女のイギリスのボーイフレンドが彼女に会いにくる日だった。彼が成田に着くのは私たちがカレー屋を出た頃だった。

私は、また独りになり、到来した夏休みをどのように過ごすべきか考えていた。また函館に一週間ほど旅行に行こうか。それとも京都に行こうか。その両方ができなかった。ゼミナールの彼女と過ごした時間の残り香が、私についていたから、それはできなかった。その代わり、私の交際相手が九州から私に会いに来てくれた。それは、偶然のことではなく、もうかれこれひと月前から予定されていたことだった。

彼女が東京に来るまでどのように過ごすか、それが私に課された問題だった。私は、一番簡単な答え、昼寝をして夕刻から酒を飲みに行くことを選んだ。だから、その日、家に帰って昼寝をして、夕方を待ちいつも通っていた「とむ」という居酒屋で酒を飲んだ。ひとりで飲むのはあまりにも辛かったので、所属していたサークルの後輩と二人で飲んだ。

酒に弱い私も、その日だけはなぜだか酔うことができなく、7時には店を出た。店を出て、まっすぐ家に帰れば良いものを、私とサークルの後輩は二人で、ゼミナールの彼女の住む寮の方向へ続く道を歩いた。その夜、道の脇の空き地ではすこし早い盆踊りが行われていた。私たち二人はその盆踊りで生ビールを買い、なんとなしに飲みながら、盆踊りの輪を眺めていた。

ふと、その輪の中にゼミナールの彼女の姿があった、彼女の横には似合わない浴衣を着たボーイフレンドの姿もあった。二人を眺めていた私を彼女が見とめ、こちらに歩いてきた。ボーイフレンドと二人で。

彼女は、私にボーイフレンドを紹介した。彼はイギリス英語で私に話しかけてきた。極めて紳士的に。

「君がいつも世話になっているリョーか、面倒をかけてるみたいだね」

「いえ、めんどうをかけているのはこちらの方です」

そのまま、わたしたち4人は盛り上がり、盆踊りの輪に入り、最後の曲が終わるまでビールを飲みながら踊った。

夏の始まりだった。

ほんとうに秋になった日

朝からの曇り空は、すぐに雨に変わり、雨の後には蒸し暑さが残った。その蒸し暑さもすぐに引き、あとはなんということのない涼しい1日だった。

私は、東京の夏が苦手である。夏の到来は、人のこころを上気させるし、それに簡単に乗っかってしまう自分もなんとも情けなく嫌なもんだ。短いような長いような梅雨が明けた日は、一時なんとも清々しい気持ちにはなるけれど、その気持ちもそれほど長く持つことはない。すぐに、いやに蒸し暑い夏がやってくる。

北海道に生まれ育った私には、この梅雨の後にほんの少しだけの清々しさが運んでくる、短くて蒸し暑い本当の夏が身体にこたえる。北海道ではこんなことはなかった。まず、梅雨というものはないし、その後にくる蒸し暑いだけの夏もない。あそこでは、長い春が終わったと思うと、ほんとうに少しだけ暑い夏がやってくる。ほんとうに1週間にも満たない夏は、暑いけれども、その暑さはどこか心地よく、べったりしていない。

こんなことを書いているけれど、もうすでに東京に暮らすようになりかれこれ20年を迎えようとしている。私の今までの生きてきた半分近くは東京での暮らしだというのに、こんなことを今更書いている。

いや、本当は、東京のこの蒸し暑くて、暮らしづらい夏も嫌いではないのかもしれない。ほんとうに夏を楽しめるようになったのは、東京に来て、大人になってからだとすら思っている。一時だけ気分を盛り上げて、その後直ぐにメラメラと燃焼していくというこの東京の夏のスタイルも悪くないとすら思っているのかもしれない。

その証拠に、今年の短かった夏も悪くなかった。

梅雨明けとともに過ぎていったメラメラとそしてじっとりと暑い夜。私たちは、暑い夜の中をどこまでも歩いたり、時々涼しいバーで呑んだり、タクシーに乗ったり、ピアノバーで酒を交わしたりして、それなりに楽しく過ごした。

それが、既に終わったかのような、秋空と、少しだけ蒸し暑さを残した秋の日がほんとうにやってきた。昨日、私たちは夏の最後の日をすごしたの。短かった夏を。

もう、完全燃焼するような歳ではなくなったことに気がつき、そのことにハッとして涙すら溢れてきた。東京に来て、もしかしたら初めて「夏が恋しい」と思ったぐらいかもしれない。

もし、今年の夏をもう一度やり直せるとしても、まあやり直すことはしないかもしれないけれど、去年のまでのいやな感じの夏の終わりとは違った、ゆっくりと、そして突然訪れる秋を感じることができた。こんなことは、生まれてこのかた初めてだったかもしれない。

なぜだかわからないけれど、30代最後の夏を過ごして、ここに来ていまさら、本当の意味で一つ大人になった夏だったと思う。

秋が静かで、厳しすぎない残暑を連れてきてくれることを願って。

アーメン。

 

30代の終焉によせて

昨年の夏の初めに、私は体と心を壊してしまい、3週間ばかり入院をした。

その引き金になったものが何なのかはよく分からない。仕事に打ち込みすぎたせいか、酒を飲みすぎたせいか、女性にうつつをぬかしすぎてしまったせいか、とにかく何もかもがストレスで、生きていくのが嫌になった。たった数日前までは、情熱をもってやっていたことが、突然つまらなくなり、死のうとすら考えた。

死のうとすら考えた。

という言葉を使うような人間は本当に信用できないやつだと常日頃考えていたのだけれど、その言葉をまさか自分が使うときが来るとは思ってもいなかった。

けれども、正確な話をすると、私はその前年の冬にも同じような状態になり入院をしてしまったわけだし、本当のところ何がどうなっているのか、自分でもわからないでいる。自分のことは自分が一番わかっているのだし、一番わからないとも言えるかもしれない。

とにかく、その長く暗いトンネルから抜け出すために約一月の休みをもらった。会社の方々や、家族には多大な迷惑をかけてしまった。そして、自分を深く傷つけてしまった。2年も連続で同じ過ちを繰り返している私は、そこから何を学んだのかというと、全く何も学んでいないのかもしれない。

砂漠をさまよう人間が、ただただ水を求めるように私は周りが見えない中で、ただ何かを追い求めていたのかもしれない。30代の終わりが到来し、焦りもあったのかもしれない。焦ったところで仕方がないのに。

30代の終わりは、感情の死なのかもしれない。もし、感情の死であるならば、私はこれからどのような人間になれるのだろうか。感情が死んでしまっても、私たちは生きることを求め、ただ前を向いて生きていくしかない。そのことを認めるのが嫌で体と心を壊してしまったのだろうか。

もうすぐ40代を迎える私は、幸せに生きることの辛さを、これから少しずつ受け入れて、鈍く、図太く生きていくしかないのかもしれない。

心移りについての追想

もうかれこれ13年ほど前に私は、二十歳の春につきあい始めた女性と6年あまりの交際ののち結婚した。

二十歳。高校を1年留年したのち、大学を一年で中退し、東京の国立市にある大学に再入学したのがその歳だ。

2,000年の3月の末、私は弾けもしないヴァイオリンを一挺肩にかけ、国立の駅に降り立った。ヴァイオリン一挺の他はほとんど着の身着のまま上京した。国立駅前の大学通りは満開の桜に彩られ、春の香りに包まれながら私は父親が借りてくれた、国立音楽大学付属高校の近くにあった、比較的住みやすいオートロックのかかる6畳のワンルームマンションに向かった。音楽を志すわけでもない学生の私がなぜ、ヴァイオリンなんかを持ってきたのかはよく覚えてはいないけれど、手許にあった楽器を何か持っていこうと思い、札幌の家を出発したのは覚えている。

そのヴァイオリンはほぼ一度も演奏されることなく、今でも私の書斎に転がっているのだけれど、産まれてこのかたつい先日までヴァイオリンを演奏できるようになろうなどとは考えたことはない。先般、私は一台のエレクトリックヴァイオリンを格安で手に入れ、時折気まぐれにそのエレクトリックヴァイオリンでデタラメな音階を鳴らしたりしている。そのことに伴い、私が20年近く全く触れていなかった上京時に持参したヴァイオリンを、物珍しさに手に取ることも少なくはなくなった。

こう考えてみると、20年ほぼほったらかしにしてきたヴァイオリンとほぼ同じ時間を私の妻とともに過ごしてきたことになる。

ヴァイオリンと妻を引き合いに出して、何を語ろうというほど大それた考えはないけれど、二十歳の頃の記憶といえば、それぐらいしかないというところが実のところである。

私は現在、楽器屋の端くれであるけれど、楽器というものをとても好いている。自宅には約40台のエレキギターがところせしとひしめいているし、書斎には2台のエレクトリックピアノとオルガン、アップライトピアノを置いている。書斎の物置の中にはトランペットも7台入っている。そこに、つい先日一台のマンドリンも加わった。

楽器をそれほどまでにたくさん所有しているにもかかわらず、私は楽器の練習というものを好かぬ所為か、演奏の方はからきしダメである。いくつ楽器を手に入れたところで一向に楽器の腕は上がらないのである。それでも時折それらのうちの一台を取り出してきて、気まぐれにかき鳴らしたりしてお茶を濁している。

先ほどエレキギターを約40台持っていると書いたが、エレキギターというのは時折鳴らしたり、弦を交換しなくてはどんどん楽器のコンディションが落ちてしまうものなのである。仕方がないので、書斎の文机の横にギターが7本収まるラックを用意し、だいたい月替わりでそれらを交換するようにしている。そのことによって、40台のギターは数ヶ月ごとに一巡し楽器のコンディションをかろうじて保っているのである。

楽器というものは、真面目におつきあいをしようと思うと、メンテナンスにとても手間がかかるもので、本来40台以上所有することを前提には作られていない。一台一台を大切に演奏し続けることが前提で作られているのだ。

それにもかかわらず、私は約20年にわたり「楽器心移り」の持病を抱え、現在このような体たらくである。「楽器心移り」の病は、ここ数日は小康状態を保っているのだけれど、いつ何時また再燃するかはわかったものでない。わかったものでない、ことが萬の病の恐ろしいところである。それに加え、この「楽器心移り」の病は心の病であるにもかかわらず、特効薬がない。

現在、医療がとても進んだこともあり、心の病の多くにはそれぞれの症状に対しての薬が揃っており、持病があっても、薬さえ飲み続けていればほぼ日常生活に支障はない。私自身も、10年以上持病を抱えているのだけれど、社会生活にほぼ支障なく日常を過ごしている。何度かの入院も経て、薬は何度も変わりその度に手探りの治療が続いてはいるのだけれど、幸いにして命には別状ないし、サラリーマン生活に全く支障はないとまでは言えないが、世の中では平均ぐらいの社会人生活を送れている。

それにもかかわらず「楽器心移り」の病にはつける薬がない。この病は、特段命に関わることはないにしろ、多額の資金を要し、家計を圧迫し、居住空間の多くを奪い、家族の生活を脅かすという側面がある。まあ、悪い反面、愛おしい楽器たちに囲まれ幸せな暮らしができるという面もかなり大きいということは確かなのだけれど。

私が楽器屋でやっていく以上、この「楽器心移り」の病とは離れることはできないのかもしれない。まして「断捨離」ということは今までに一度も考えたことはない。

 

話は戻り、妻である。私の妻は私が産まれて以来初めて交際した女性である。私は初めて交際した女性と結婚したのだ。

世の中の人は、やれ「元カノ」だの「元カレ」だの、「今カノ」だの「今カレ」という言葉を使うが、私にはそのような方々は存在しない。いわゆる「今カノ」しか私の人生には存在しなかったし、これから先もそのようであることを祈っている。

その意味で、私はとても一途な人間である。世の中に稀に見る一途である。

それでは、今まで女性に心移りをしたことがないのか、と問われると、それは。そのことについては全く潔白というわけでもない。

人生というものは、人が思っているよりもずっと複雑なもので、世の中で通常流通している尺度が、ほとんどの場合用をなさないものなのである。また、世の中の線引きというものも、多くの場合全く用をなさない。

浮世には数多の美しい女性がおり、「心移り」してしまうのは人の常。

来し方を振り返ると、「心移り」の連続とも言えなくはない。それもまた、心の病といえるのかもしれない。それでまた、この病が発症したのも、約20年前に上京してからのものである。私は、発症が遅かった方なのかもしれない。

なぜ、今日ここでこのようなことを書いているかというと、最近お酒の席で、とある女性と対話をしている中で、この「心移り」の病について打ち明けたからである。

どうも、私は困った病を抱えているようだ。そしてこの病は、程度の差こそあれ継続的に発症するもののようである。と打ち明けた。

 

彼女は、少し考え、グラスに注がれた白ワインを口にし、また少し考え、ポツリポツリと言葉に換えていった。

心移りは人の常、誰しもが多かれ少なかれ持つ病である。しかし、今までに大事に至らなかったのであれば、それはそれでいいのではないか。

という、言葉を期待していたのだが、彼女の口から出てきた言葉はそれとは随分と異なったものであった。

私は、彼女の言葉をうまく飲み込めずに、ただただ飲めない酒を呷った。酒は一時答えを保留にはしてくれたが、未だに彼女の言わんとしたことを私の言葉にすることができていない。もしかすると、彼女の言葉こそ、この心移りの病への特効薬であるかもしれないのに、それが何なのか、わからずにここ半月を過ごしている。

帰ってきたブルーグラス野郎 ギター、フィドルとマンドリン

このところマンドリンを練習している。

マンドリンはヴァイオリンとチューニングが一緒のソレラミの5度チューニングなので、ヴァイオリンと一緒に練習すると楽だ。楽ではあるが、一向に上達はしないのだけれど、指に運指を覚えさせて、ヴァイオリンの練習も兼ねることができる。

おかげで、ギターはちっとも上達しない。ピアノも全然上達しない。トランペットに至っては、すでに上達をあきらめている。一生のうちに練習できる楽器は限られているのだけれど、私の目的は演奏できるようになって人前で発表することではなく、家でつま弾いて楽しむことなので、これはこれである程度満足している。

満足はしているのだが、欲を言えば、もうすこしギターが上手くなりたい。ギター一台で一曲頭から終わりまで演奏できるようになりたい。できればソロギターでジャズを弾けるようになりたい。ピアノも、ソロで弾けなくても良いから色々なジャンルの音楽を弾き語りできるようになりたい。

そういう目標はとりあえず掲げているのだが、とりあえず、フィドルとマンドリンを練習している。なぜならば、私はここのところひと月ほどブルーグラスにはまっているからだ。ブルーグラスは奥が深い。元来シンプルな音楽でありながら、ブルーグラスのフォーマットでジャズのようなことも、カントリーもクラシックのようなこともできる。それも、メンバー3人もいれば立派なバンドとして活動できるのも良い。

私は、バンジョーが苦手なので、いつか、バンジョーなしでブルーグラスのユニットを組みたいと思ったりもしている。なんなら、ギターとマンドリンと歌だけでも良いと思っている。

ブルーグラスを語れるほど、詳しいことは知らないけれど、とりあえず、ブルーグラスって何?という方には、ビルモンローとモリータトルだけでも聞いてみると良い。

何かと便利なヴァイオリンスタンド

最近購入したZetaのヴァイオリンの置き場所に困っていたので、ヴァイオリンスタンドを買った。アマゾンで1,400円ぐらいだった。

このスタンドの便利なところは弓を一緒に立てかけられること、ヴァイオリンはポンとそこらに置いておくことはできるけれど、弓を置いておく場所がない。ましてや、あまり扱い慣れていない楽器であるから、ポンと置いておいて大丈夫なもんなのかどうなのかもよく分からない。

そういうこともあり、それでは、スタンドがあると便利だろうと思い購入した。

このスタンド、ヴァイオリンだけでなくウクレレやマンドリンも立てられるそうである。ウクレレも、ずいぶん高価なヴィンテージのやつを一台持っているのだけれども、これも、どこに置いて良いかわからなくて、困っていた。仕方がないからいつもハードケースに入れているのだけれども、ちょっと出してきて弾いている時に立てるところがない。こういう便利なものがあるということは知らなかったので、今度、たまに使ってみようかと思っている。

スタンドも、そこそこ場所は取るのだけれど、部屋の角地に置いておく分には、まあまあ収納性は良い。

とりあえず、しばらく使ってみないと実のところ使い勝手が良いのかはわからないけれど。寝る前に練習して、弓を置いておくところがなかったので、枕元に置いておけば、安心だ。

まあ、そんなに熱心にヴァイオリンを練習しているというわけでもないけれど。

ああ、それより、ピアノとギターの練習しなきゃ。ピアノは、なかなかまとまった時間がないと、練習ができないから、明日の休みにでも練習しよう。

おとなしくギターだけ練習していればいいのに、Zeta Violin

私は、どうも楽器というものが好きである。

弾けもしないのに、ペダルスチールギターを持っている。これは、せっかく買ったので、練習しなければなるまいと最近切に思うようになってきて、休みの日にこっそりと練習している。こっそりと練習しているもんだから一向に上手くならない。そもそもがペダルスチールギターは難しい楽器なのである。

ペダルスチールギターも結構まとまったお金が必要なお値段がする。新品で購入したら40〜50万円はするような品物である。当然、新品では買えないから中古で買ったのだが、まだまだ全然弾けていないので、元は取れていない。ペダルスチールギターをバリバリ弾けるようになって、方々のカントリーのバンドから引っ張りだこというのを夢見て買ったのだが、このままでは引っ張りだこはおろか、絶対にバンドから声はかからない。

悲しいもんである。

かつては盛んにトランペットを吹こうと考えていたこともあった。トランペットだけで今まで10本は買った。そのうち7本ぐらいを今でも所有している。所有しているだけで全然吹いていないもんだから、知り合いのジャズトランペッターに長期で貸している。彼は、バリバリステージで私の楽器を吹いてくれている。私のコレクションの中でも最もいい楽器を使ってもらっているから、楽器としても幸せな部類だろう。

ギターも、何本も所有している。これは、弾かなければギターはダメになってしまうので、ローテーションで引っ張り出してきては弦を交換して、それぞれの楽器で練習している。それでも、ギターを練習する時間は平日では殆ど取ることができないので、休みの日にちょこっとだけ練習しているような体たらくである。これでは、ギターを出し入れしているだけのような気分がしてくるのである。

その他にも、グランドピアノのとびきり良いやつを持っている。アップライトピアノも、一般家庭にあるものの2倍ぐらいの値段がするそこそこ良いやつを持っている。ローズピアノも2台持っている。これらも、弾かなければダメになるので、こまめに練習するようにしている。

上記のように、いろいろな楽器を持って入るのだけれども、どれもろくに弾けないのが実情である。練習する時間が取れないので弾く時間がない、と言う意味でろくに弾けないと言うのではなく、ぜんぜん弾けるだけの腕がないのである。要するに、どの楽器もド下手なのである。

そこに来て、また楽器を買ってしまった。

ヴァイオリンである。

ヴァイオリン? あの、 子供が習い事でやるあのヴァイオリンである。

ヴァイオリンって、子供の頃からやらないと弾けるようにならないんじゃないのか?とか、もしかして子供の頃に習っていたの?とか聞かれそうだが、ヴァイオリンの経験ゼロ、全く弾けないのである。

しかし、私は中学時代よりブルーグラスが好きで、人一倍フィドルの音楽は聴いてきたのである。

聴いていれば弾けるのか?

当然、弾けない。弾けないのだが、人一倍フィドルへの憧れはあるのである。そのフィドル界でも最も有名な巨匠、マーク・オコナーのシグネチャーモデルのエレクトリックヴァイオリンを購入したのだ。マーク・オコナーなんて言っても知らない方も多いかもしれない。日本では、ブルーグラスがあまり流行っていないから、彼の名前もそこまで知られていないのだが、ブルーグラスフィドルの世界では、世界一のプレーヤーである。

Zeta Violinというエレキヴァイオリンではトップメーカーのマーク・オコナーモデルである。30年以上前の楽器なのでけれど、新品定価は一体いくらだったのだろう?いまZetaの新品が30〜40万円なので、当時もそこそこしただろう。そのエレキヴァイオリンが、二束三文の値札を付けられてギター屋で売られていたのだ。まあ、二束三文といえども、万の桁だったけれど。

ギター屋曰く、

これ、うちに置いておいても全然売れないんですよ。そもそも、マーク・オコナーを知っているお客さん少ないですし。

ということだった。

購入したらKunの肩当と、立派なケースが付いてきた。純正ケースである。さすがは、ツアーに持って歩く為の楽器である。お家に大事に置いておく類の楽器ではない。だから、ケースもずいぶん持ち歩きのしやすいケースである。

それで、お会計を済ませて帰ろうとしたら、

お客さん、弓、持って帰らないと。

と言うことで、中古の弓もつけてくれた。それも、一度はその辺にあったドウデモイイ弓をつけてくれそうになったのだが、

おい、奥にもっと良い弓あっただろう!!それつけてあげれ、

と言うことで、「もっと良い弓」というのをつけてくれた。

目下、練習中である。練習中であるが、さすがはヴァイオリン、ものすごく難しい。

革紐を買ってきて、四つ編みにして楽器のストラップを自作した

先日、御茶ノ水の楽器屋に行って、ギターのストラップを買おうと物色していた。ブルーグラスやフォークミュージックをやるのに雰囲気が良さそうなストラップを付けようと思っていたので、そういう楽器専門店に出向いてストラップを見ていたのだ。

あのー、バンジョーとかマンドリン用のブルーグラスっぽいストラップってありますか?

と、お店の人に聴いたところ、

ああいう人たちは、あんまり既製のストラップ使っていないんだよね。それも、プロになればなるほど、そこらにある麻ヒモとか革紐とかを使って楽器を持っている。だから、ストラップは商売あがったりなんですよ。

などと、ずいぶん商売っ気がないことを言われた。

それならこれですよ、これですこれです。

と言われていたら、素直にそれを買っていただろうに、そういうことも言われなかった。なんだか少し、残念だった。残念だったが、そのおかげで余計な買い物をしなくて済んだので、良かった。

それで、その楽器屋さんが言うように、ストラップにするための革紐を買ってきて、四つ編みにして、自作の楽器ストラップを作った。日暮里で5ミリの革紐を一本三百円で4本買ってきた。税込み1,296円であった。皮でできた既製のストラップを買っていたらゆうに一万円はしただろうから、いい買い物をした。

目下、どの楽器にこのストラップを付けようか迷っている。とりあえず、しばらくは眺めてみて、どういう風に使おうか考えてみようかと思っている。思い切って、秘蔵のライオンアンドヒーリーのウクレレにでもつけてやろうか。などと考えている。いや、ウクレレに傷がついたら大事だ。やめておこうか、

とりあえず、気分だけはブルーグラス、フォークの世界に浸っている。

Hamiltonの腕時計を手に入れた

1940年代だろうか、ずいぶん古いハミルトンの腕時計を手に入れた。丸一日つけてみたが、どうやら時間は正確に刻んでいるようだ。ひとまず安心。

古いものだから、どこがどうダメになっているかもわからないし、大切にせねばならない。去年の今頃、Lord Elginの同じような腕時計を買って、壊れていた。それで、それはすぐに捨ててしまった。同じようなスモールセカンドで、1940年代だったような気がする。すぐに止まってしまう時計だった。

私は、腕時計には特にこだわりはないのだが、過去数年で、いくつも所有して、いくつも壊してきた。古い腕時計はほんとうに大切にしないと、すぐに壊れてしまうのだ。70年以上も時を刻んできているのに、私が乱暴に扱うせいで壊してしまうのはとても時計に申し訳ない。申し訳ないのだが、時計はコレクションではなく実用のものとして使っているので、普段から付けて歩くし、時にはポケットに入れて作業もする。

そもそも、70年以上前は腕時計も今よりも高価だったかもしれない。その辺はよく分からない。おそらく、そこそこいい値段がしたのだと思う。だから、かなり大事に使われる前提で作られていたのではないだろうか。そのせいか、乱暴に扱うとすぐに壊れてしまう。すくなくとも、乱暴に扱われる前提では作られていないのだろう。

私の手元にComplete Price Guide to WATCHESという洋書があって、そこに古い機械時計の相場が載っているのだが、見てみると、このハミルトンなんかはかなり安い。たくさん作られていたからだろうか。ぜんぜん価値がない。ひょっとすると、これが作られてころにも、たいして高くなかったんじゃないだろうかというような値段である。

けれども、古いフィルムカメラと違って、時計は時を刻めば用をなすから、多少日差があっても動いていれば時計としての価値はある。少なくとも価値はあると私は考えている。高価なものではなくても、70年以上前のものがこうしてまだ現役でいるということが奇跡なのではないかと思う。

明日から早速仕事につけていこうかと思っている。