久しぶりに10-46の弦を張った

エレキギターには11-49のゲージの弦を張ることにしている。もうかれこれ20年近くダダリオの11−49のゲージを買って張っているだろうか。

今までに何度か、気まぐれに違うゲージやブランドの弦を張ってみたことはあるが、どうもしっくりこなくて結局このダダリオの11−49に落ち着いている。25セット入りのバルク弦を買ってつかっている。

25セットのバルク弦も2年もしないで使い切ってしまう。それほど練習するわけでもないのだけれど、ギターをしまいこんでおくと弦の状態が悪くなってしまうから、しかたなく交換しているうちに25セットをあっという間に使ってしまう。

この度、気まぐれにロトサウンドの弦を買って張ってみた。それも、普段は使わない10−46というひじょうに細いゲージの弦を張ってみた。10−46が細いかというとそんなことはなく、むしろ11−49というゲージは太めなのだけれど、普段サムピックを使って、指弾きをしているので、あまり細いとかえって弾きづらい。それで、11−49というのがスタンダード担っていた。11−52という弦を試したこともあったけれど、ちっと私には太すぎる気がして、それだけでなくギターのネックにかかる負担も考えて、少しだけ細い11−49といゲージに落ち着いていた。

ロトサウンドという弦は、いい意味で普通の弦である。派手な感じでも荒い感じでもない、かといってダダリオのように優等生すぎるというわけでもなく十分にロックンロールな弦である。ブリティッシュロックの方々がよくロトサウンドの弦をつかっていると聞くけれど、とくにブリティッシュロックだからどうのということもない。ニッケルワウンドらしい、元気でハキハキとした音である。

先日、同じロトサウンドのフラットワウンド弦を張った。12−52かなんかのジャズ弦の中では細めのゲージである。これが、また個性的な弦で、フラットワウンドなのにツルツルしていなく、ザラザラしている。おとも、ぼんやりとはしていなく、ハキハキとしている。オールドスタイルのハードバップなんかをやる人には合わないかもしれないけれど、ロックでリズムギターを刻んでいるひとにはオススメできる弦だった。ああいう力強い音がなるフラットワウンドは珍しい。

何れにしても、ギターは張っている弦によって随分音が変わるもんであるなあ、と感心してしまった。

10−46の弦にこれからどれだけお世話になるかはわからないけれど、ギターによって使い分けようかと思っている。

アンプグルのアンプを手にいれた

エレキギターの音色を決めるのは7割がアンプだと思っている。

もちろん、優れたギター本体から紡ぎ出される音は、それぞれのキャラクターを持っている。時に荒々しく、時に枯れていて、はたまたカプチーノのようにクリーミーな音色のものや、凛とした音色の楽器もある。それでも、一旦アンプに繋いでしまえば、そのアンプの音の中に染まってしまう。

アンプ7割と書いたのは昨今のデジタルアンプのことではない。デジタルアンプも、それぞれの音は持っていて、かつ、ギター本体の持つオリジナリティーを再現できるものは存在するであろう。むしろデジタルの方が忠実なのかもしれない。それでも、やはりアンプはチューブアンプ(真空管アンプ)のほうが私は好きである。最高のチューブアンプは、どんなに優れたデジタルアンプにも勝る音と、レスポンス、弾き心地がある。

チューブアンプは、その重量やら、コンディションを保つ難しさ等で、今のプレーヤーは敬遠してしまうかもしれない。消費電力も半端じゃない。そのあたりについては、デジタルアンプには遠く及ばない。デジタルアンプは、電源さえ間違わなければ、めったなことでは壊れない(壊れたらユニット交換以外の修理はほぼ不可能だが)。酷使してもそう簡単には壊れない。それに比べて、チューブアンプは、簡単に壊れてしまう。

ソリッドステートのアンプも幾つかは持っているけれど、あれはあれで悪くはないのだけれど、チューブアンプの持つコンプレッション感や、弾き心地を味わえるようなものは少ない。少なくとも、私の持っているアンプで、ソリッドステートのもので、チューブアンプのようにふくよかでいて、個性豊かなクランチトーンを鳴らせるものはない。

それで、やっぱり真空管のアンプに行き着いてしまう。

行き着いた結果、何台か、チューブアンプを自作したりした。どれも、音が出るところまでは行くのだが、なかなか満足のいく音色にはならなかった。中には、フェンダーのヴィンテージアンプの回路をそのまま使って、パーツも手に入る限り良いものを使って作ったアンプもある。キットで買って、コンデンサやら抵抗やらを全て交換して、自分の納得のいくところまでチューンアップしたものもある。けれども、なかなかハムノイズが治らなかったり、特定の音で共振してしまうなど、なかなか満足のいく出来上がりになるものはできなかった。

私が、アンプ作りの教科書にしていた本があって、ジェラルド・ウェバーという人の書いたものである。100ぐらいの機種の回路図やら、レイアウトが掲載されていて、それをほとんど穴が開くぐらい読み込んだ。私にとってのアンプ・グルである。

この度、そのアンプグルの作ったメーカー Kendrickのギターアンプを中古で手にいれた。何箇所か改造箇所があるものの(勿体ない!!)ほぼオリジナルコンディションである。フェンダーのヴィンテージアンプのクローンなのだが、私は、かつてそのオリジナルのヴィンテージアンプを弾いたことがあり、素晴らしい夢のようなアンプだった。

Kendrickのアンプも、そのオリジナルのヴィンテージアンプとほぼ同じ音が出る。もちろん、ヴィンテージアンプよりも味付けは少し現代的で、ノイズも少なく、優等生なところがあるのだが、それも、嫌味ではない。ヴィンテージアンプは、いつどこがおかしくなるかはわからないので、なかなか面倒を見るのが大変である。その点、アンプグルのアンプは、新しいパーツで作られているので、安心である。

実は、アンプグルの本を読んで、Kendrickと全く同じ回路のアンプを自作して持っている。それはそれで、私が自作したアンプの中では良い音がするのであるが、この度、その2台を弾き比べて愕然とした。さすがアンプグル、たとえ生まれ変わったとしてもこの歴然とした違いは追いつくことすら不可能なレベルなのである。

いったい何が違うのか?つかっているパーツは、ほぼ同じものであるはずなのだ。

恐るべし、アンプグル。

もう、2度と自作アンプは作るまい。

私のメインキーボード CP−70B

私は、ピアノをまともに弾けない。ピアニストに憧れたこともない。きちんとピアノを練習したこともない。

弾けないけれど、鍵盤楽器は7台ぐらい持っていて、自宅にはグランドピアノすら置いてある。そのあたりのピアニストなんかよりも、鍵盤楽器に関して言えばずっと恵まれた環境で生きている。

なぜそんなにたくさん鍵盤楽器があるのかというと、かつてピアノメーカーに勤めていたこともその一因ではあるのだが、それよりもそもそも楽器というものが好きだからという方が正しいのかもしれない。鍵盤楽器は、ドを押せばドの音が出るし、ドミソと弾けばCメジャーコードが鳴ってくれる。これほどありがたい楽器はない。

そんなに、たくさんの鍵盤楽器に囲まれて、何をしているのかといえば、歌を歌う時の伴奏楽器として使っている。

伴奏と言っても、大層な伴奏を弾くこともできず、左手はもっぱらベース音(ルート音)を、右手はもっぱらコードを四つ打ちで弾いているだけなのだけれど、ピアノというのはよくできた楽器で、それだけで歌の伴奏としては、最低限の役目を果たしてくれる。そのためだけに、ピアノを持っているのは、すこしばかり贅沢なことなのだけれど、ピアノの音を鳴らしながら歌っていると、何か、自分がレイチャールズかビリージョエルにでもなったかのような気分にさせてくれる。

ピアノの良いところは、自分を一瞬ロックスターや、ソウルシンガーにしてくれる、それだけではない。私はギターも弾くのだけれど(こっちも腕の方はからっきしであるが)ギターではおよそ鳴らせないような難しいコードもピアノであれば押さえることができる。例えば複雑なテンションコード、ギターであればある程度コードのフォームに習熟していないと、どの指をテンションノートにあてがうか、などと考えながら押さえなければならないところを、ピアノであれば、ある程度曖昧にすることができる。

それと同時に、コード理論の基礎もピアノがあれば簡単に納得できてしまう(キーをCに置き換えると尚更わかりやすい)。

私は、楽譜も読めない。

全く読めないというわけではないのだけれど、ベートーベンの悲愴の2楽章の一小節目を読もうとして、15分で諦めたぐらい読めない。あの、オタマジャクシが上下に2つ以上出てくると、何が何だか分からなくなってしまう。

しかし、コード表は読めるので、コードとメロディーだけであればなんとか押さえることができる。なので、さしあたり独りで弾き語りをする分には特に問題はない。全く、コード表記を考えた人は偉大だっと思う。まさに、私のような楽譜音痴のためにあれは存在しているのかもしれない。

そのため、楽譜はろくに読めないくせに、たくさん楽譜を持っている。大抵、ポップスの楽譜には、ちゃんとした譜面の上に、メロディーラインと、コードが記されている。そのため、本物の楽譜の方は読めなくても、楽譜を持っていると、だいたいのメロディーと、和音がわかるので、自分で楽しむ分にはある程度用をなす。

もちろん、難しいキーの曲は伴奏ができない。例えば、#やら♭なんかがたくさんついている曲は、そのままでは弾けない。

それでも、ポップスの曲の多くは、ラウンドミッドナイトのような変なキーの曲はそれほど多くはないので、不自由はしない。

そんな私が普段一番よく使っているのが、ヤマハのCP−70Bという電気ピアノだ。これは、80年代にヤマハが作った楽器で、実際に弦が100本以上張ってあり、キーボードアクションもグランドピアノと同等のものが使われている。鍵盤は73鍵しかないが、私の使い方では十分である。持ち運びができるように、足をとって、2つに分かれるようにできており、合計120キログラムの楽器が、なんと、60キロの箱2つになる。電気ピアノなので、弦の振動をピックアップが拾ってくれ、出そうと思えばアコースティックピアノでは到底かなわないような、ものすごい爆音も鳴らせる。アンプの電源を切っておけば、サイレントピアノとして使える。まさに、夜でも練習できる小さなグランドピアノである。

私にとっては、夢のピアノである。

このCP−70Bという楽器は、すでに製造されてから40年近くが経ってしまっているので、いろいろな不具合も出てきてはいる。電源がうまく入らないことがあったり、イコライザーがうまく効かないことがあったり。それでも、普段使う分には特に不自由を感じたことはない。

鍵盤には一部割れが補修された跡があり、外装の皮も剥がれてはきている。なにより、このピアノの上に、楽譜やら、エフェクターやら、愛用のカメラやレンズやら、はたまた服用している薬の袋やらが無造作に、うず高く乗せられているので、決してきれいな外見を止めているわけではない。しかし、私はこの楽器が手元にあって本当に良かったと思っている。普段、いつでも弾けるように、パソコンの置いてある机から振り返れば、すぐに弾ける状態にしている。

そもそも、私はヤマハというメーカーの楽器はどうも魅力を感じないのだけれど、このCP−70Bだけは別物である。音そのものはそれほど良いわけではないけれど、その独特のサウンド、鍵盤のタッチ、無駄に大きな図体、何をとっても素晴らしい楽器だと思う。多くのポップスミュージシャンが、このCP−70という楽器をメインキーボードにしているのも頷ける。

購入した時は、本体価格より運送費の方が高くついてしまったぐらいだが、これからも、末長く大切にしていこうと思っている。

ゴスペル万歳!! Cory Henry

今日は素敵なオルガンアルバムを手にいれた。

Cory HenryのThe Revivalというアルバム。ゴスペルオルガンをじっくり堪能できるアルバムだ。

私は、オルガンもののジャズが好きなのだが、オルガンジャズといえば、ジミースミスも、ジャックマクダフも、やっぱりどこかにゴスペルの香りがする。いや、ハモンドB3のサウンドそのものがゴスペルの音といっても過言ではない。

オルガンのジャズを語る上で、このゴスペルフィーリングというものを抜きには語れない。ジャズとゴスペルは、近いようで遠くて、モダンジャズなんかになってしまうと、教会音楽からのレパートリーは少なくなってしまう。グラントグリーンなんかは率先してゴスペルナンバーをジャズに持ち出して弾いているけれど、彼なんかは珍しい方で、モダンジャズ奏者の多くはジャズの根底に流れているアーシーな要素をあまり表に見せない。

その点、オルガンもののジャズは、ゴスペル調なものが多い。その理由は、オルガンもののジャズを演奏するためには、オルガンが置いてあるジャズクラブか、オルガンを持ち込むかもしくはオルガンが置いてある教会に行かなければならない。

教会で録音された、ジャズアルバムは、ほとんど存在しないのだけれど、それでも、ジャズのオルガン奏者の多くは教会で演奏する機会も多いだろう。

この、Cory Henryのアルバムは、正確にはジャズのアルバムではなく、どちらかというとゴスペルアルバムなのだけれど、教会でライブ録音されている。それが、またなかなか臨場感があって、観客もノリノリで、ほぼトランス状態である。

とにかく、強力なので、オルガン好きな方は、聴いてみてください。お勧めです。

既視の街を手にいれた。

先日、中野のまんだらけで金井美恵子、渡辺兼人の「既視の街」を買った。渡辺兼人はこの本の写真で木村伊兵衛賞を受賞しているから、彼の代表作とも言える。

写真集としては、印刷がそこまで綺麗でもなく、小説の挿絵にしては主張してくる写真群がこの本を特殊なものとしている。小説は、妙に暗く、それでいて重すぎない。むしろ、何気ない日常を撮っている写真のほうが重い感じすらする。

もし、これらの写真が、もう少し軽い印象を受ける作品群であったら、この本はここまで異彩を放っていないだろう。その一方で、また、この小説がもっとドラマチックなものであったら、これらの写真も生きてこないだろう。その絶妙なバランスで、この本は成り立っている。

写真と、小説に関連性がなく、かつ、両方の持つ世界観がこれほどまで当たり前に共生できているのも不思議だ。この本は、写真集でもなければ、小説でもない。まさに、写真と小説が合わさり一冊の本となって完成している。

なんだか、この本について、私が今書けるべきことが整理できていないので、続きはまたこんど。

Gene Ammons & Sonny Stittもうお腹いっぱいです!!

昨日に引き続いて、Gene Ammonsを聴いている。

今日は、 Sonny Stittとの共演ライブアルバム。God Bless Jug and Sonnyというアルバムと、その続編のLeft Bank Encores。

ソニースティットとジーンアモンズの共演板といえば、名盤Boss Tenorsが有名だけれど、そのコンビでライブを行っているアルバムは何枚かある。そのうちの2枚。

この人たちのデュエットアルバムは、ただただ吹きまくっていて、聴いていて疲れてしまうのだが、時々聴くとこれはこれで悪くない。なんせジーンアモンズもソニースティットも激しいテナー吹きである。図太い音でアドリブを延々と繰り広げる。その体力たるやすごいもんなんだけれど、アルバムとしてじっくり鑑賞するとなると、聴いている方もなかなか体力がいる。

それでも、この二人のアドリブ合戦は聴く価値がある。荒削りなところもあるんだけれど、ズートシムズとアルコーンのようなお洒落さとは違ったペーソスがある。

それに、これらのアルバムはバックを固めるメンバーもすごい。ピアノはシダーウォルトン、ベースはサムジョーンズ、ドラムはビリーヒギンスという、すごいメンバーで、ハードバップの大御所ぞろいである。

シダーウォルトンのピアノがかっこいい。テナーの二人は、ブルージーなソロを繰り広げるのだけれど、シダーウォルトンのピアノトリオとなると、一気にモダンにちょっとモーダルになる。Ugetsuをトリオでやっているのだけれど、シダーウォルトンの面目躍如。一気に弾きまくる。

1トラックの演奏時間がやけに長い(一曲17分ぐらい吹いている)のはご愛嬌だが、テナーバトル好きには、このぐらいじっくりやってもらったほうが嬉しいのではないだろうか。

学生時代の愛聴盤Boss Tenorsの拡張盤といったところだろうか。

クドいジャズをお好きな方にはオススメです。いや、いい意味で。

テナーのボス、 Gene Ammons

先日、私は41歳になった。

誕生日に、特にやることがなかったので、ゆっくり昼寝をした。ゆっくり昼寝をしたら、1日が終わっていた。41歳の誕生日にしては、上々の過ごし方だったと思う。

家を出ることもなく、日がな一日昼寝をしていたので、なんだか手持ち無沙汰になってしまい。アマゾンプライムで映画を見た。

便利な世の中である。夕方まで昼寝をしていても、映画を見ることができる。レンタルビデオ屋に行ったり、映画館に行く必要もない。すばらしい、環境である。

それで、映画を観ていたら、その映画のテーマ曲がGene Ammonsが吹くCanadian Sunsetだったので、無性にジーンアモンズのレコードを聴きたくなった。レコードラックを探すと、何枚かジーンアモンズのレコードは出てくるのだが、Canadian Sunsetが入っている大名盤Boss Tenorは見当たらなかった。学生時代に買って持っていたような気がしたのだが、あれは気のせいだったのか。

それで、仕方がないので、またアマゾンでジーンアモンズのBoss Tenorを購入した。翌日に届いた。またまた便利な世の中である。レコード屋に行かなくてもCDが買える。ついこの前までは、聴きたいCDがあっても、いざCD屋に行ってみたら無かった、何ていうことがしばしばあった。しかし、今は、私たちにはアマゾンがある。

それで、Gene Ammonsである。私は、この人のサックスが好きである。もっと名手のような人はたくさんいるけれど、ジーンアモンズのようにルーズでありながら、キリッとしたサックスを吹ける人は多くはいない。スコットハミルトンも私は好きなのだが、あのスコットハミルトンでさえ、時々ジーンアモンズのマネのような吹き方をする。

テナーサックスの王者は何と言ってもスタンゲッツであろう。それは間違いない。あんなに自由自在にサックスを吹ける人は他にいないんじゃないかと思うぐらい上手い。上手いだけでなく、グルーブ感も、力の入れ方も、力の抜き方も完璧である。そして、音に芯がある。

その昔、ジョンコルトレーンが、インタビュアーに「なぜあなたはスタンゲッツのように吹かないのですか」と野暮な質問をされたことがあったらしい。その時、コルトレーンは「もしスタンゲッツのように吹けたら、誰だってああいう風に吹くよ」と答えたらしい。らしいらしいで恐縮だが、スタンゲッツはそのぐらいすごい。

ジーンアモンズのテナーにはそういう要素はあまりない。もちろん、スタンゲッツのように力強いトーンは出せるし、フレーズ回しはブルージーときたもんで、なかなか説得力はあるテナーなのだが、スタンゲッツのようなお洒落さはあまり持ち合わせていない。

けれども、ジーンアモンズのサックスを聴いていると、サックスっていうのは、こういう風に吹くからこそかっこいいのではないかと思う。ルーズでいて、キリッとしてる。ペッペッペ、という唾を吐き捨てるようなタンギング。少しレイドバックしたノリ。それでいて、重すぎないスイング感。この人は、これはこれで最高なのではないか、「最高ですか?」「サイコーでーす!」みたいな説得力がある。

ただ、この人のいただけないところは、ダラダラと吹き込んでいるジャムセッションアルバム、いわゆるブローイングセッションが多すぎることだ。だから、ジーンアモンズ参加のアルバムには駄版も多い。しかし、プロデューサーがしっかり作りこんだら、この人ほどいい仕事をできる人は少ない。

まあ、一度じっくり聴いてみてください。ジーンアモンズ。

1930年代のコンパクトカメラ

最近、写真が懐かしくなって、物置から古いカメラを出してきていじっている。

今日、暗室にしている物置から、1930年代のカメラを出してきた。1930年代当時の小型カメラ。

ガラス乾板を感光剤に使っていたのから、フィルムが出始めてきて、シートフィルムの時代があったらしい。らしいらしいで恐縮だが、1900年代の初めぐらいにロールフィルムというのが出てくるのだけれど、一般的になったのは1930年台をすぎたぐらいから。だんだんレンズの性能も上がってきて、小さなフィルムのフォーマットでも画質が安定するようになり、1935年ぐらいから一気にロールフィルムの時代がやってくる。

今日取り出してきたカメラも、もともとはガラス乾板もしくはシートフィルムで撮影するためにできたカメラだが、専用のロールバックをつけることにより、ロールフィルムでの撮影も可能となっている。

私が20代の頃、カメラマニアだった頃に、新宿のカメラ屋で購入した。レンズには、カールツァイスのテッサーが立派にも付いている。

すでに生産から90年が経っているので、外装はボロボロだが、まだまだ使えるカメラだ。さすがはテッサー、よく写る。

こんなカメラを出してきて、いつ使うのかもわからないけれど、とりあえず、写真とカメラが好きだった我が青春時代の遺品として、愛でている。

Viva 瀬戸正人

私は20代の頃写真が好きだった。好きで好きで、写真家になりたいとすら思っていた。3,000本以上のフィルムを消費し、自分のアパートの部屋に暗室を作り、日夜写真現像にうつつを抜かしていた。

その頃に、金村修さんという写真家のワークショップに出入りし、写真を習っていた。金村先生は難解な言葉を使うことなく、わかりやすく写真を言葉にしてくれた。その言葉を頼りに、バチバチ写真を撮り、ティッシュのように印画紙を消費していた。

それから15年ほど経ち、30代半ばに1年間ぐらいまた写真熱が再燃し、瀬戸正人さんの主宰する「夜の写真学校」に通っていた。瀬戸先生も、なんでも質問したらなんでも答えてくれた。写真は撮った写真を自分で選べるようになるしか上達の手段はない。写真が選べるようになると、自分でどのような写真をとるべきか、撮りたいのかがわかってくる。

上手い写真を撮るというのは、訓練であるが、良い写真を撮るというのは、なかなか訓練ではできない。訓練の上に、引きの強さと、執念がなければならない。ギャンブルに勝つためにはひたすら賭けまくるしかないように、良い写真を撮るためには、ひたすら撮りまくるしかあるまいと思い撮影していた。

近頃は、写真はiPhoneで撮れるようになり、誰もが並の写真家の数倍の量の写真を撮るようになった。だから、もう、写真家の時代は終わったものだと思っていた。それと同時に、私の撮影機材と暗室道具はカビが生えてしまい、ほとんど使われなくなってしまっていた。

そこに、舞い込んできたニュースがあった。東京都写真美術館で瀬戸正人の展覧会が開かれているとのことであった。それを知った翌日、私は瀬戸正人展を見に行った。

瀬戸正人展を見て、すぐに感じたことは、瀬戸正人ぐらいの強力な写真家にとってはiPhoneの脅威はなんのこともないのだと。今の時代、写真を撮り、発表し続けることの厳しさは私の青春時代の2000年代どころではないだろう。

あの頃は、誰もが今のように大量の写真を撮るということはできなかったし、そのような人もいなかった。今は写真を撮るという行為がなんら特別なことではない。だからこそ、写真で何を撮りたいのか、写真がどこに向かっているのかを強く意識して、強くプレゼンテーションしなくてはいけない。そして、強力な写真群を、一貫性を持って見せることができる写真家のみが生き残れる時代になっているのだと思う。

それを考えると、60年代の写真家、ウィノグランド、フリードランダーの写真はすごい。あの時代からそれをやってのけている。結局、写真の本質とはそこだったのだと、今になって思い知らされる。これは当たり前のことではあるけれど、今になって写真とはなんであったのかの定義が再び明らかになろうとしている。

そして、偉大な写真家達は、撮りながらその答えをそれぞれに持っていたのだろう。

私の好きなスデクの写真もそうである。静かでいて、写真に一貫性がある。力強い写真ではないけれど、力強いまとまりがある。そのまとまりがすこしぼんやりしているようにすら見えるのも不思議だ。スデクは、強力な写真家というのとは少しイメージが違う。どちらかというと静かな写真家だ。しかしながら、彼の作品群には、スデクの写真であるということを超えた、写真であることの必然性のようなものがある。

スデクは、写真でみたこの世界を写真というメディアを通して再構築した。当たり前のことをやっているようだけれど、それが、写真で写真を表現するというのはとても難しい。難しい上に根気がいる作業である。それを、生涯を通して、一貫して行なっている。その上、それらの写真群はどれも、陰鬱でありながら清々しい。

瀬戸正人という写真家も、スデクのように、写真というもので写真の世界を再構築しているとも考えることができる。それは、優れた写真家の多くがそうなんだけれど、写真で写真を表現するということの難しさは、私には到底知りえないぐらい途方もない作業だと思う。

きになる方は、ぜひ、瀬戸さんの写真を見てみてください。写真家であるということの途方もないパワーを感じますから。

老けて太っても芸風は変わらないJohn Pizzarelli最高!!

2000年代に青春時代を過ごしたジャズファンなら、スコットハミルトン、ハリーアレンに次いでご存知の方も多いとおもうジョン・ピッツァレッリ(ジョンピザレリ)。私は、20代の頃大好きだった。

親父のバッキーピザレリ譲りの7弦ギターの鬼才!!スキャットともに飛び出す超高速ギターソロ、難しいことはやらないのだけれど、その分ハードコアなジャズファンにはあんまり認められていなかった。それでも、今聴いてみてもそのスインギーなカッティングは素晴らしい。

2000年代に最もスウィングしていたトリオと言っても過言ではないのではないか。(言い過ぎか)

今日たまたまジェームステイラーのYouTubeを見ていたら、ずいぶんバッキングが上手いギタリストが、横で弾いている。見覚えのない顔だけれど、やけにスウィングするし、やけに古いジャズに詳しい。何者だ!?と思って見ていたら、とちゅうでメンバー紹介の時に、

ギターは、ジョンピザレリ、

と言うではないか。びっくりして、何度もまじまじと見たが私が知っているジョンピザレリとはまるで別人であった。ジョンピザレリといえば、爽やかで、少年のようなおっさんという感じだったのだが、今じゃもうすっかり老け込んでしまって、横にいるジェームステイラーと良い勝負である。

驚いて、妻に話すと、妻がiPhoneで調べてくれて、やはりあのジョンピザレリだという、

そういえば、ジョンピザレリ、若い頃にジェームステイラーのカバーとかやっていたな、と思い、もう一度まじまじと見たが、やはりわからなかった。きっと別人だろう。と思わせる何かがあった。

しかし、そのギターの素晴らしくスウィングすること。こりゃ、本物のジョンピザレリだ。という風に独りごちた。

ジョンピザレリ、老けて太っても、永遠に私のスーパーヒーローでいてくれ!!