1930年代のコンパクトカメラ

最近、写真が懐かしくなって、物置から古いカメラを出してきていじっている。

今日、暗室にしている物置から、1930年代のカメラを出してきた。1930年代当時の小型カメラ。

ガラス乾板を感光剤に使っていたのから、フィルムが出始めてきて、シートフィルムの時代があったらしい。らしいらしいで恐縮だが、1900年代の初めぐらいにロールフィルムというのが出てくるのだけれど、一般的になったのは1930年台をすぎたぐらいから。だんだんレンズの性能も上がってきて、小さなフィルムのフォーマットでも画質が安定するようになり、1935年ぐらいから一気にロールフィルムの時代がやってくる。

今日取り出してきたカメラも、もともとはガラス乾板もしくはシートフィルムで撮影するためにできたカメラだが、専用のロールバックをつけることにより、ロールフィルムでの撮影も可能となっている。

私が20代の頃、カメラマニアだった頃に、新宿のカメラ屋で購入した。レンズには、カールツァイスのテッサーが立派にも付いている。

すでに生産から90年が経っているので、外装はボロボロだが、まだまだ使えるカメラだ。さすがはテッサー、よく写る。

こんなカメラを出してきて、いつ使うのかもわからないけれど、とりあえず、写真とカメラが好きだった我が青春時代の遺品として、愛でている。

Viva 瀬戸正人

私は20代の頃写真が好きだった。好きで好きで、写真家になりたいとすら思っていた。3,000本以上のフィルムを消費し、自分のアパートの部屋に暗室を作り、日夜写真現像にうつつを抜かしていた。

その頃に、金村修さんという写真家のワークショップに出入りし、写真を習っていた。金村先生は難解な言葉を使うことなく、わかりやすく写真を言葉にしてくれた。その言葉を頼りに、バチバチ写真を撮り、ティッシュのように印画紙を消費していた。

それから15年ほど経ち、30代半ばに1年間ぐらいまた写真熱が再燃し、瀬戸正人さんの主宰する「夜の写真学校」に通っていた。瀬戸先生も、なんでも質問したらなんでも答えてくれた。写真は撮った写真を自分で選べるようになるしか上達の手段はない。写真が選べるようになると、自分でどのような写真をとるべきか、撮りたいのかがわかってくる。

上手い写真を撮るというのは、訓練であるが、良い写真を撮るというのは、なかなか訓練ではできない。訓練の上に、引きの強さと、執念がなければならない。ギャンブルに勝つためにはひたすら賭けまくるしかないように、良い写真を撮るためには、ひたすら撮りまくるしかあるまいと思い撮影していた。

近頃は、写真はiPhoneで撮れるようになり、誰もが並の写真家の数倍の量の写真を撮るようになった。だから、もう、写真家の時代は終わったものだと思っていた。それと同時に、私の撮影機材と暗室道具はカビが生えてしまい、ほとんど使われなくなってしまっていた。

そこに、舞い込んできたニュースがあった。東京都写真美術館で瀬戸正人の展覧会が開かれているとのことであった。それを知った翌日、私は瀬戸正人展を見に行った。

瀬戸正人展を見て、すぐに感じたことは、瀬戸正人ぐらいの強力な写真家にとってはiPhoneの脅威はなんのこともないのだと。今の時代、写真を撮り、発表し続けることの厳しさは私の青春時代の2000年代どころではないだろう。

あの頃は、誰もが今のように大量の写真を撮るということはできなかったし、そのような人もいなかった。今は写真を撮るという行為がなんら特別なことではない。だからこそ、写真で何を撮りたいのか、写真がどこに向かっているのかを強く意識して、強くプレゼンテーションしなくてはいけない。そして、強力な写真群を、一貫性を持って見せることができる写真家のみが生き残れる時代になっているのだと思う。

それを考えると、60年代の写真家、ウィノグランド、フリードランダーの写真はすごい。あの時代からそれをやってのけている。結局、写真の本質とはそこだったのだと、今になって思い知らされる。これは当たり前のことではあるけれど、今になって写真とはなんであったのかの定義が再び明らかになろうとしている。

そして、偉大な写真家達は、撮りながらその答えをそれぞれに持っていたのだろう。

私の好きなスデクの写真もそうである。静かでいて、写真に一貫性がある。力強い写真ではないけれど、力強いまとまりがある。そのまとまりがすこしぼんやりしているようにすら見えるのも不思議だ。スデクは、強力な写真家というのとは少しイメージが違う。どちらかというと静かな写真家だ。しかしながら、彼の作品群には、スデクの写真であるということを超えた、写真であることの必然性のようなものがある。

スデクは、写真でみたこの世界を写真というメディアを通して再構築した。当たり前のことをやっているようだけれど、それが、写真で写真を表現するというのはとても難しい。難しい上に根気がいる作業である。それを、生涯を通して、一貫して行なっている。その上、それらの写真群はどれも、陰鬱でありながら清々しい。

瀬戸正人という写真家も、スデクのように、写真というもので写真の世界を再構築しているとも考えることができる。それは、優れた写真家の多くがそうなんだけれど、写真で写真を表現するということの難しさは、私には到底知りえないぐらい途方もない作業だと思う。

きになる方は、ぜひ、瀬戸さんの写真を見てみてください。写真家であるということの途方もないパワーを感じますから。

老けて太っても芸風は変わらないJohn Pizzarelli最高!!

2000年代に青春時代を過ごしたジャズファンなら、スコットハミルトン、ハリーアレンに次いでご存知の方も多いとおもうジョン・ピッツァレッリ(ジョンピザレリ)。私は、20代の頃大好きだった。

親父のバッキーピザレリ譲りの7弦ギターの鬼才!!スキャットともに飛び出す超高速ギターソロ、難しいことはやらないのだけれど、その分ハードコアなジャズファンにはあんまり認められていなかった。それでも、今聴いてみてもそのスインギーなカッティングは素晴らしい。

2000年代に最もスウィングしていたトリオと言っても過言ではないのではないか。(言い過ぎか)

今日たまたまジェームステイラーのYouTubeを見ていたら、ずいぶんバッキングが上手いギタリストが、横で弾いている。見覚えのない顔だけれど、やけにスウィングするし、やけに古いジャズに詳しい。何者だ!?と思って見ていたら、とちゅうでメンバー紹介の時に、

ギターは、ジョンピザレリ、

と言うではないか。びっくりして、何度もまじまじと見たが私が知っているジョンピザレリとはまるで別人であった。ジョンピザレリといえば、爽やかで、少年のようなおっさんという感じだったのだが、今じゃもうすっかり老け込んでしまって、横にいるジェームステイラーと良い勝負である。

驚いて、妻に話すと、妻がiPhoneで調べてくれて、やはりあのジョンピザレリだという、

そういえば、ジョンピザレリ、若い頃にジェームステイラーのカバーとかやっていたな、と思い、もう一度まじまじと見たが、やはりわからなかった。きっと別人だろう。と思わせる何かがあった。

しかし、そのギターの素晴らしくスウィングすること。こりゃ、本物のジョンピザレリだ。という風に独りごちた。

ジョンピザレリ、老けて太っても、永遠に私のスーパーヒーローでいてくれ!!

何、今日はレコーディングするの?

私は、レスポールというギタリストが好きで、アルバムも何枚か持っている。レスポールとは、あのギブソンのレスポールのレスポール氏である。

レスポール・レコーディングというモデルがあって、復刻版のそれを一台持っている。本当は70年代のやつが良いのかもしれないけれど、いかんせん70年代のレスポール・レコーディングに状態の良いやつは少ない。だから、復刻版を持っている。

復刻版の良いところは、通常のギターとして全ての音が使えるところだ。もちろんローインピーダンスのアウトプットも付いているのだけれど、そっちは使わない。もっぱらレギュラーのアウトプットを使っている。

一度、このギターをバンドの練習に持って行ったことがある。スタジオのJCにつなげたのだが、なかなか思うような音作りができなくて苦戦した。まあ、それまでテレキャスターばかり使っていたから、仕方あるまい。音の太さが全然違うのだから。

レスポール・レコーディングは音は太いのだが、なんとなくボワっとしていて、締まりがない音になりがちなギターである。あのレスポールさんの出すような、艶やかな音は、どうやって作っているのだろう。あの音が欲しくてこのギターを持っているのだけれど、なかなかああはいかない。

そもそも、この復刻版のピックアップはオリジナルのそれとは大きく異なっている。と、聞いたことがある。オリジナルを解体したことがないからわからないのだけれど、ギブソンが復刻版を作った際にまさかピックアップまで復刻したとは思えない。それでも、見た目が似ていて、このやたらと多いコントロールが好きで、持っている。

それと、このモデルは、通常のレスポールに比べてボディーが少し大きめなのも良い。サスティーンが長く、弾きやすい。

バンドの練習に持って行った際に、メンバーから、

何?今日はレコーディングするの?

と聞かれ、ああ、この人はギターのことよくわかってらっしゃる方なんだなぁと妙に感心したのを覚えている。ギター好きが一目おく機材。レスポール・レコーディング。

ずっと知り合えなかった人たち

年明け早々から、ずいぶんくらい本を読んでしまい、折からの不調も続き、気分が沈みがちである。

今日読んでいた本に、31歳になった著者が二十歳の頃を回想したくだりがあり、大変暗い気持ちになってしまった。私の二十歳はそれほど破れかぶれではなかったが、やはりそれほど明るい時代でもなかった気がする。

気がすると書いたのは、実際は遊び呆けていて、なかなかそれで楽しい二十歳だったかもしれないという気もしなくはないのだが、いかんせんよく覚えていないのである。よく覚えていないのは、その頃の自分がかっこ悪かったので、それを忘れようとしているのか、はたまた、それが楽しすぎてすぐに過ぎて行ってしまったのか、それすらも覚えていないのである。

二十歳の春、私は国立の駅に降りた。大学に通うため、国立のアパートを親が借りてくれたのだ。今思えば、国立のアパートを借りてくれる親がいるのだからかなり恵まれた青春時代である。かなり恵まれていたことは確かである。

四月には意気揚々と歩いていたキャンパスも、五月の終わりには、すでに頭を垂れて歩くようになっていた。その時点で、ほぼ落第は覚悟していた。同級生とも遊んでいたりはしたのだが、周りは落第生候補者だらけだった。優等生たちはほとんど相手をしてくれなかった。

私も二十歳である。歳相応に憧れの女性もいた。

あれは恋愛というのとは違うけれど、キャンパスに時折美しい人を見かけるようになったのは、六月も過ぎた頃だろうか。その頃は、もうすでに私はほとんど大学に足を踏み入れることはなかったが、六月に三度ほどその人を見かけた。同級生ではないようだった。いつもラグビー部の男と歩いていたので、彼の恋人だったのかもしれない。詳細はわからなかったが、私が普段読むことのない雑誌に出てくるような美しい人だった。

私は、ついに彼女が何者かを知ることができなかった。

1年後、私は案の定落第してしまい、さらに大学から足は遠のいた。もう、あの美しい人を見かけることはそれ以来なかった。

今日、帰り道に、そんなことを思い出していた。

いつの日か、私の暗い青春時代について、短い文章を書こうと思った。

下手だろうが上手かろうがモズライト

昨日、Mosriteについての話を書いたら反応があったのでもう少し。

Mosriteというギターはやはり一般的には弾きやすいギターではないだろう。何よりも、ネックが極端に細く、薄く、フェンダーやギブソンのギターを弾き慣れている方ははじめは戸惑ってしまう。また、バスウッドボディの割にはサスティーンが短いこともあり、弾き手の腕がバレてしまう。ビブラミュートやモズレーユニットと呼ばれるトレモロユニットも決して使いやすいものでもない。

それでも私がモズライトに惹かれるのは、その楽器としての完成度の高さかもしれない。ここで、完成度と呼んだのは、楽器の造りの良さも含めてなのだが、むしろ、エレキギターとしての個性の強さである。

フェンダーやギブソンといったメジャーなメーカーの楽器はともかくとして、モズライトというカリフォルニアのローカルなギターメーカーのギターを、たくさんのメーカーがコピーしている。その多くはヴェンチャーズ人気にあやかり日本のメーカーがコピーしたものだが、本家のモズライトとは比べるべくもない。モズライトに比べると、どれも大概造りが悪いのである。中には、モズライトにかなり迫っているものもあるが。

一度、御茶ノ水の楽器屋で、70年代のモズライトのフルアコを弾かせてもらったことがある。値段は50万円ぐらいだったから、70年代のモズライトの中としては結構高価なモデルだ。そのフルアコについていたネックも、通常のモズライトのように細く薄く、独特のグリップだった。搭載されていたピックアップもソリッドボディの通常のモデルと同じもので、アンプに繋ぐと、まさにモズライトの音がした。これでは、フルアコの意味がないではないか、と思うぐらいだった。

1963年モデルが一番高価で、作りも良いとされている。セットネックでボディーバインディングもついて、ラッカー塗装で、ヴィブラミュートユニットが付いている。さすがに、1963年製のモズライトは弾いたことはないのだけれど(100万円ぐらいしてしまうから)見ているだけで惚れ惚れしてしまう。エレキギターの世界で息をのむほど美しく、個性的な楽器は他にあるまいと思わせるぐらいの迫力がある。

しかし、悲しいかな、モズライトのギターを使うミュージシャンは少ない。モズライト使いといえばヴェンチャーズぐらいしか名前が挙がってこないのではないだろうか。モズライトのモデルで定番なのはヴェンチャーズモデルで、他のモデルはほとんど人気がない。したがって、ヴェンチャーズ世代の方々にしかモズライトのニーズはなく、ヴィンテージギター市場でもかなり値段が下がってきているのは確かだ。

ヴェンチャーズ以前にはJoe Maphisというカントリーの超速弾きギタリストがモズライトを愛用していて、ヴェンチャーズモデルは彼のモデルが元になっている。私もJoe Maphisモデルの60年代後期のものは触ったことがあるが、少し大ぶりなボディーで、やはりネックは細く、薄く、かなり個性的なギターだった。

Joe Maphis本人は、ほとんど自分のシグネチャーモデルを使うことなく、ほぼ9割方ダブルネックのカスタムモデルを弾いていた。彼の演奏を聴いていると、サスティーンが短いギターの特徴で、速いフレーズがキビキビと速く聞こえる。モズライトであのぐらい音符が揃って聞こえるように弾くのは至難の技だろう。モズライトはちょっとでもリズム感が悪いと、それがバレてしまう。

私は、腕がバレるような楽器ほど良い楽器だと思う。腕がバレるというのは、逆に言うとピッキングのニュアンスや節回しがはっきりと出るからである。初めのうちは弾いていても決して気持ちの良い楽器ではないかもしれないが、上手い人が弾くと、その人の表現が素直に聴こえてくる。まあ、私は、モズライトを自由自在に操れるほどの腕はないのだが。

そういう難しい楽器ではあるが、Joe Maphisやヴェンチャーズの弾くモズライトの音を聴いていると、なんだかギターというものがいかにカッコイイ楽器であるかを再認識できる。モズライトはそういう音のする楽器なのだ。

Mosrite The Nokie

私は、実をいうとVenturesが好きでCDもたくさん持っている。

Venturesも色々とメンバーが入れ替わっているので、どの時代が好きかと言われると、ちょっと迷うのだけれど、やはりノーキーエドワーズがいた頃が好きかもしれない。

Venturesといえば、モズライトというイメージがあるのだけれど、60年代にモズライトを実際に使っていた期間はそれほど長くはない。後になって、モズライトを使っている頃もあるのだろうけれど、そのあたりはあまり詳しくない。

けれど、やっぱりモズライトを使っているベンチャーズが一番かっこいいと思う。何と言ってもあの、鋭いエレキらしい音色が良い。フェンダーのジャズマスターとかを使っている時期も長いようなのだけれど、やはりあのモズライト独特のデケデケした音にはしびれてしまう。

それで、モズライトを持っている。65年代のマークVと、66年のマークI通称ヴェンチャーズモデル。それと、ノーキーエドワーズモデルのThe Nokieである。このノーキーエドワーズモデルは、日本製もたくさん出ているのだけれど、私のはどうやらアメリカ製のモデルらしい。ヘッド裏にセミーモズレーのサインが入っている。

そもそも、セミーモズレーは何年頃までギターを作っていたのかは知らないが、このThe Nokieがまたド派手ながら、弾きやすくて良いギターである。弾いているといつまででも弾いていたくなるような、弾き心地である。

さすがはノーキーモデルというギターである。

指板がメイプルなのだけれど、ネック材と指板材の間にローズウッドが挟まっている、珍しい造りだ。これは、ノーキーエドワーズの好みなのか、はたまたただ奇をてらっただけなのかはわからないけれど、その辺も凝った造りでなかなか、物欲をくすぐる出来上がりになっている。

砂をつかんで立ち上がれ

世間はすっかり2021年になった。年を越したので当たり前であるが、何だかこういう風に急に変わられると実感がわかない。できることなら、少しづつ、緩やかに新年を迎えて欲しいものだが、世の中そういうわけにはいかないのだろう。

仕方がないので、私も2021年に合わせて、人並みに元旦を過ごした。コロナ禍のこともあるので、できるだけ人混みのあるようなところにはいかずに過ごした。一日中本を読んだりゴロゴロしたりして過ごした。

一年の計は元旦にありなどという言葉もあるから、元旦こそ充実した一日を過ごさなければならないのだろうけれど、なかなかそういう風に身体はできていないので、急に元旦だからといって体がキビキビ動くようなものではない。それでも、あまりゴロゴロしてばかりではダメだろうと思い、本を読んだり、家族と過ごしたりして一日を過ごした。

特にクリエイティブなことはできない一日ではあったが、それでも、為になる本を読めただけでも良しとしよう。(まだ、読み終わったわけではないけれど)

もう、10年も前に出版された楠木建の「ストーリーとしての競争戦略」を読んでいる。なかなか面白い本で、どんどん読み進めてしまう。面白いだけで何も身につかなそうなところは怖いけれど、それでも、何も読まないよりは仕事に役立つのではないかと思って読んでいる。「競争戦略」というとそれこそ色々な本が出ており、どれもなかなかこむづかしいことが書かれている印象を受けるのだが(読んだわけではないので、正直わからない)、この本は平易な言葉で書かれているので、誰にでもわかる。

競争戦略を立てる為には、強く、太く、長いストーリーを考えなくてはいけない、そしてそれをスラスラと語れなくてはいけないというような内容である。いや、その逆か。優れた競争戦略は強く、太く、長いストーリーがあり、もっともっとそのストーリーを聞きたいと思わせるものである。といったほうがいいか。

「強く」というのは、そのストーリーが帰結する成功に向かう必然性の強さであり、「太く」というのはそのストーリー展開を支える要素の広がりと、まとまりであり、「長い」というのは、そのストーリーの語るべき内容の深さとも言い換えることができる。と、今は、そこの部分までしか読んではいないのだが、この続きが楽しみである。

願わくば、この本を読み終えた時、単なる成功事例の俯瞰に終始せず、自分のやり方の幅を広げる手助けとしていきたいと思っている。この手の本を読む際に、「ああ、そういう成功譚があるのね」という風に感じて終わってしまう、ということがままある。もしくは、単に「目から鱗」で終わってしまうこととか。

それでは意味がない。それは、学問の一番役に立たない形ではないか。私は、この本に学問は求めていない。実戦への転用を求めているのだ。この本にという書き方は受け身でよくなかった。この本を読んで私がしなくてはならないことは、この本から何か小さなことでも掴み取り、実践に生かすことなのだ。中島らもの言うところの「砂をつかんで立ち上がれ」ということだ。(本当にそんなこと言ってたかしら)

読むだけで満足してはいけない。今は、まだそんな齢ではないはずだ。

今年こそ、砂をつかんで立ち上がるのだ。

想い出の夏Toots Thielemans

今年の夏は短かった。

いや、今年は短かった。短くて、辛い一年だった。時ばかりが過ぎ、先に進めない一年だった。そんな一年を思い出し、レコードを聴いている。

今年40歳になった私は、転職し、生活も変わった。他にも色々あったのだけれど、よくは覚えていない。何となく、一年が過ぎていった。

本を読まない一年だった。もっと読めばよかった。体を動かさない一年だった。当然太った。携帯電話をいじってばかりの一年だった。目が悪くなった。楽器の練習をしない一年だった。バンドの練習もできなかった。ブログの更新をサボった一年だった。つまらないことすら書き残せなかった。

来年はどんな一年になるのだろうか。

これはToots Thielemansというハーモニカ吹きで、想い出の夏という曲。私が最も好きなバラードの一つ。ジャズのバラードで好きな曲はたくさんあるけれど、ミシェルルグランの書いた曲が好きだ。

ミシェルルグランの曲でHow do you keep the music playingという曲があるけれど、あれも美しい。フランクシナトラがクインシージョーンズのビッグバンドを従えて、歌っているのがとても好きだ。

私は、布団から出て、ボーとしている。時が過ぎていくのを感じながら、服を着て、

明日が来てもなにも変わらないのが常というものだ。明日が変わるのは、一年のうち今日ぐらい。今日から生まれ変わったように努力しなくては、明日も同じ自分でいてしまう。

末詣

空は晴れ渡っていたが、寒い日だった。家族で浅草寺にお参りに行ってきた。何も考えず、無心に祈った。何も願かけることなく、無心に。

私は、宗教というものを殆ど信仰していない。信仰がないというのとも違うが、かといって、何処かの寺の檀家ではないし、教会に通っているわけでもない。結婚式もしなかったので、自分が葬式を迎える時、どこのなんの宗教で葬式をするのかもわからない。きっと、別れの会のようなもので済ますのだろう。

これは、私に限ったことではなく、私の家族は誰も、特定の信仰がない。それでも、寺社仏閣にお参りに行ったり、教会でクリスマスを祝ったことすらある。もしかすると、日本国内の世間一般の家庭は私の家のように宗教と付き合っている方が多いのかもしれない。

私が、慶応の法学部を受けた時、面接というのがあった。その面接で、私は、高校時代の留学経験について話した。留学経験と言っても、2年に満たない短い留学ではあったが、私はオーストラリアの高校に通っていたことがある。オーストラリアで何か特別な勉強をしたわけではないので、正確には留学ではないが、その短い滞在で、私は大きな経験をしたと思っている。それは、自分が日本人であるということを強く感じたことだ。

日本人のアイデンティティーという表現をその面接で使ったのは少し大げさだったかと今では思うけれど、高校時代の私にとってはそれは日本人としてのアイデンティティーと呼べるぐらいの一大事だった。自分は、オーストラリア人ではない。移民でもないし、一時的にここに間を借りて住んでいるだけの日本人である。という思いを強くした。

その、日本人のアイデンティティーとは何ですか?私に面接官は聞いた。私は、それをすぐに言語化できずに、言葉に詰まりそうになった。例えば、英語ができないとか、そういうことであれば、日本人のアイデンティティーとは言わない。例えば、ひたすらお辞儀をしてしまうのも、日本人のアイデンティティーとは言えない。けれども、そういうことが重なり、自分は確かにここに住むだけの、異国の人間だと強く感じたのだ。

その一つの側面は、自分は信仰というものを殆ど持たないということであろうか。もしくは、宗教というものに囚われずにものを考えることができるということだろうか。それが、日本人のアイデンティティーという言葉を使ったことの象徴的な一面です。と、その面接で、何だか日本語らしくない表現をしてしまった。

例えば、向こうの人たちは、キリスト教徒であればキリスト教徒の習慣があり、仏教徒と自分を表現する人に対しては、異色な存在として扱う。ちょうど、私の友人が、自分を仏教徒だと表現していた。日本から数珠さえ持ってきていた。単身高校に通うためにオーストラリアに来たのに数珠を持ってくるぐらいだから、確かに仏教徒である。彼は、私の滞在中は仏教徒らしいことはなにもしていた様子ではなかったが、確かに自分のことをそう表現していた。

私は、そのとき信仰を持たなかったというよりも、ホストファミリーに合わせていた。私のホストファミリーは、一応キリスト教徒だったのかもしれないが、教会には通っておらず、全くそれらしいそぶりも見せなかった。けれども、何かの機会に祈る時には十字を切っていたし、イースターを祝ったりと、キリスト教徒の習慣をこなしていた。私は、それに合わせ、イースターを祝ったり、ホストファミリーの祖父にあたる人が亡くなった際には、十字を切って祈った。

そのように、習慣を合わせていたことは、その時の自分にとってなにも意味があったわけではないが、十字を切りながらも、キリストの救いなどについては信じてはいなかったし、自ら教会に行こうとも思わなかった。

以前にも書いたが、私の実家は両親がキリスト教徒である。父の方は、洗礼は受けているらしいが殆ど信仰していないのと同義なぐらいなにもしないが、母は毎週一応教会には通っているようだ。だから一応キリスト教徒ということになる。

しかし、その一方で、家に坊さんを招いて、般若心経を唱えさせたりしている。数年前に他界した祖母のためとは言え、家には仏壇があり、坊さんが年に一度や二度やってくるのは滑稽だ。実家の人間も、私と同程度に宗教に無頓着なのかもしれない。ことによっては私以上に。

それで、私である。

浅草が近所なので、時々浅草に行くのだが、その際は必ず浅草寺にいきお参りをする。妻などは、うちのホームテンプルは浅草寺だと言っている。そうか、私はもしかすると仏教徒なのかもしれないなどと思うのだけれど、実のところ、浅草寺が何宗の寺なのかなど考えたことはない。

ただ、人にその話をすると、宗教を冒涜しているように聞こえるのが嫌なので、私は普段、祖母の宗派であった浄土宗であるということにしている。

年の暮れで、とりとめもない話になってしまったが、浅草寺を詣りそんなことを考えた。