読書という筋トレ

ここ数年本を読むという習慣を忘れかけていた。

あれほどまでに熱中した本や、欲しかった本もあったのにもかかわらず、何年もの間ほとんど本を読まずに過ごしてきた。そのせいで失ったものもたくさんあるかと思う。失ったものは失ってしまったので、可視化することはなかなか難しいけれど、たとえば、文章を書くことも好きではなくなってしまった。

本を読まなくなったのは、いつからだろう。体調を崩して一日中家にいた時も、ほとんど本というものを手に取らなかったということさえあった。

いま、自分の考える力の劣化を強く感じ、危機感を抱いている。それで、無理やり本を読んでいる。無理やりでも、読書はそれなりにためになるということは再確認できている。単なるインプットに終わらなければいいけれど、最悪、単なるインプットに終わったところで、失うのは読書に費やした時間ぐらいのものである。

読書を無理やり再開したのは、仕事のためである。仕事をするにあたって、自分の無知さと、刺激のなさに嫌気がさしてしまった。世の中には、無知なままでもいい仕事をできる人がいることはわかっているけれど、私はそういうタイプではない。かといって、常に勉強し続けてきたタイプでもなかった。

本を読む時間を作ることは、それほど難しいことではないかもしれない。電車に乗る時間や、寝る前の時間を幸い私は読書に割くことができるし、それ以外にも、酒を飲んだり、CD屋を見たりしている無駄な時間がたくさんあるので、その時間を読書に回せばいいのだ。

しかし、なかなかそう簡単にはいかない。

人間というのはやる気を起こすことが一番大変なのだ。やる気が起きてからは、あとはそんなに難しくはない。問題はやる気をいかに起こすかである。

やる気を起こすためにも、読書は役に立つ。読書をすると、自分の今まで知らなかった価値観を手に入れることができるし、それはグーグル先生や、ツイッターでは残念ながら手に入るものではない。しかし、困ったことに、グーグル先生やツイッターは、あたかも自分の持っていなかった価値観を提供してくれるような気分にだけはさせてくれるのだ。だから、つい人は易きにながれ、読書をしなくなってしまう。

もう、読書の時代は終わったという方もいるだろうし、古典を読むことから学ぶことが多いと言う方もいるだろう。私は、どちらも正しいと思う。読書なんかは、この時代においてある意味不経済である。自分の必要な情報にダイレクトにアクセスできない。そこに到達するためには、長い手順が待っているのが本というものの常だ。逆説的だが、だからこそ読書というものに価値があるのだと思う。

自分の必要な情報なんていうものはあくまでも、自分のイマジネーションの中だけの世界である。自分のアンテナは、自分が思っている何倍も小さい。自分の感受性を信じて進める人も存在するのだろうけれど、私にはそこまでの感受性はない。いや、感受性というのは、逃げであって、本当は努力という言葉の方が正しいのかもしれない。自分のイマジネーションは結局自分の努力であると思う。

そのための筋トレとして、読書は丁度いい。

テレビや、グーグル先生や、ツイッター等の手軽なメディアでは、その筋トレができない。筋トレをしなければ、重いものに出会った時に、諦めてしまう。私は、今まで、重いものをたくさん諦めてきてしまった。そして、手軽な方、手軽な方に逃げてきた。少なくとも過去数年にわたって。

いま、いきなり重量級の本を時々読んだりしているけれど、当然持ちきれない。かといって、軽いダンベルで基礎体力をつけ始めていては人生いくらあっても足りない。とりあえず、自分が持つことのできるギリギリの重さの本を読んで筋肉をつけている。

かつて、哲学書を読もうと思い立ち、何冊か読んでみたことがあったが、初めの5行目ぐらいから、全く頭に入ってこなかった。それも、当然であろう。私は哲学書と言うものに対して、どのように向き合えばいいのかを知らない。なので、仕方ない。仕方なく、4冊も読まずに諦めた。しかし、体力がついている人は、どのように向き合えばいいかわからない本であっても、力の加減だけで向き合えてしまうものである。私の目下の目標は、哲学書にすら立ち向えるぐらいの筋肉をつけることである。

産みの苦しみを見てしまった、初夏

オペラシティーの建物を出たら、雨が上がっていた。

その日は朝から、おかしな天候だった。朝家を出た時には晴れていたのだが、初台についてみると、雷雨に見舞われ、私は演奏会が始まる前にその雷雨の模様を観ながら喫茶店で朝ごはんを食べ、コーヒーを飲んで時間を潰した。

私は、演奏会そのものには興味がなかった。ただ、その頃仕事で演奏会作りに加わっていたので、その関係で、勉強として一度ピアノのコンクールというものを見なければならないと考えていたので、そのために足を運んだ。

会場について、コンクールの予選を聴いていると、曲目は違えど、皆ほぼ一様に上手い演奏をする。それが、トコロテンを押し出すかのように、するすると現れ、舞台袖に降りていく。演奏そのものが心を打つことはほとんどなかった。小学生、中学生の演奏で感銘を受けるうような演奏は期待していなかったが、本当に聴いていても、つまらないものであった。

ただ、そこには確かに努力のあとはあった。それは、私の経験したことのない努力の形だった。ただ、ピアノを審査員にウケるように弾くというたゆまぬ努力。きっと楽しくなんかないだろう。受験勉強が楽しくないのと同様に、彼らも、そのつまらない努力のために、初夏を潰しているのだ。ひょっとしたら去年の冬から同じ曲と格闘しているのかもしれない。その、努力を感じさせる何かがあった。

人間とは不思議なもので、幾つかの演奏を聴いているうちに、弾き手がその努力を好きでしているのか、嫌々やっているのかがわかってしまう。初めはそれは、ただ流して弾いているだけなのかと思ったが、そうではなく、その演奏は嫌々弾いている演奏なのだ。これがプロの弾きてなら、嫌々弾いていようとどうであろうと、それを技術でカバーすることはできるだろう。悲しいかな、素人の子供にそれはできない。

親なのか、先生なのかに着せられた、ドレスや、似合わない背広に身を包んだ子供が演奏する姿を、半日も見るのはある意味つらかった。ただ、一つ確かにわかるのは、ここで演奏しているコンテスタントの方が、私の何万倍も辛いのであろうということだった。ここで、頭一つ抜けたところで、将来何の役に立つのかもわからないお遊戯を、審査員の前で晒し者にされながら踊り続けるのはさぞ辛かろう。

けれども、その中で、最後に弾いた中学生がの演奏には、なかなかの感銘を受けた。本人も楽しんではいないのかもしれないけれど、それが、芸としてある程度成り立っていたからだ。それは、審査員には興味のないことなのかもしれないけれど、ピアノの上手い下手もわからない私にとっては、芸として面白いかどうかだけがここに座っている意味だと思って聴いていたから、彼の演奏は唯一聴くに耐えた。ショパンの革命エチュードを弾いていたような気がする。

コンクールの予選を最後まで聴かずに、私は会場を後にした。コンクールの客席に、職場の同僚が娘さんを連れて聴きに来ていたので、彼女らとコーヒーを飲むことにしたのだ。彼女もまた去年までは娘さんをこのコンクールに出場させていたとのことだった。

娘さんは、黙ってコーヒーを飲んでいた。母親の職場の同僚とコーヒーを飲んでもつまらないのだろう。そりゃそうだ。かわいそうなので、早々に切り上げてあげるべきだったので、店を出た。

私が、手持ち無沙汰そうにしていると、気を使ったのか、天気も良くなったのでちょっと新宿まで歩きませんか。と同僚が背後から声をかけてきた。娘さんは、ちょっとお母さん早く帰ろうよ、というような雰囲気であったが、私は夕方まですることがなかったし、そもそも、ああいうものを観た後だったから気分転換に誰かと談笑しながら外を歩きたかった。

新宿駅に向かい、西新宿のビル群を縫うように3人で歩いた。雨はすっかり上がって、日差しが強く感じられた。私は都庁の前で立ち止まり、自販機で水を買い飲んだ。水を飲んでいると、あのコンクールの時に気づかなかったプレッシャーのようなものから解放されたような気がした。聴いていた私が、これだけプレッシャーを引っ張っているのだから、あそこで演奏していた彼らは、いったいどれだけのプレッシャーを背負っていたのだろうと考えるとゾッとした。もっと、彼らの演奏に真摯に向かえばよかったと、少し後悔した。

プレッシャーから解放され、気分が軽くなったので私は気が大きくなってしまったのか、同僚の親子に都庁の展望室に登らないかと提案してみた。なぜ、そんなことを思いついたのかはわからない。この開放感を味わうためには、どこか見晴らしのいいところに立ちたいと思ったのだろうか。

娘さんは、嫌とは言わなかったが、行きたいとも言わずに、同僚と一緒に私についてきた。思えば、身勝手な提案ではあったが、私はあのプレッシャーからの開放感を味わわなければ、気分が滅入ってしまいそうであったのだ。

展望室に上がると、さらに気分が高揚し、私は二人を連れて都内の展望を案内した。まるで、自分の所有物であるかのように。

あっちは六本木、こっちに僕の家がある。日比谷線の三ノ輪駅の方だけど、ここから見えるかな。うちは3階建てだからひょっとしたら見えるかもな。

などと、言いながら、一通り外を眺めたら、やっと気分が晴れてきた。同僚も、お付き合いとはいえ、すこし楽しそうであった。ベンチに腰掛けていると、展望室の中にグランドピアノが置いてあり、それを弾くための行列ができていた。私は、その時初めてピアノが置いてあったことに気がついた。

ちょうど、その時ピアノを弾いていた若者はなかなかの腕前で、カンパネラを弾いていた。その演奏は、プロのようではなかったが、さっきまで聴いていたコンクールのそれとは違い、のびのびと感じられた。ああ、私はこういう音楽しか今まで聴いてこないようにしてきたんだな、と思った。たしかに、私はあのコンクール会場で聴いたような音楽は無意識的に聴かないようにしてきたのだろう。

芸というものを熟成させる過程で、どうしても、人に睨まれながら演奏をしなくてはいけない局面を何度も通過するであろう。けれども、そのような演奏をいつまでもしていては芸としてお金を稼げるようにはならない。あの、厳しいプレッシャーを通り越して、あたかも都庁の展望室で弾いているような演奏ができるようになって初めてそれが芸として成り立つ。そんな、どうでもいいようなことをつくづく考えながら、展望室を後にした。

都庁を後にして、照りつける暑い日差しの中を、新宿駅まで向かった。何か、美しいものが生まれるまでの産みの苦しみと言うものをまざまざと見てしまったような気まずさを感じながら、私たちは初夏の新宿を歩いた。

森田さんのSunnyが素晴らしかった

今日は、帰宅し、夕飯を食べてからまゆたまのオンライン配信ライブ(https://www.youtube.com/channel/UCv-iOMuACyDl7-yXVjWa6pA)を観た。とは言っても、今日はピアニストの森田珠美さんのソロ。ピアノソロ。

リクエストに応えながら、森田さんがそれぞれの曲をピアノソロで弾いていく。My favorite thingsや、どらえもん。アドリブでアレンジして弾く。アドリブでアレンジするだけでも大変なのに、それをリクエストに応えながらやるのはやはり凄い。

私もリクエストをした。何曲もリクエストしてみた。

そしたら、最後に、私のリクエストのSunnyを弾いてくれた。嬉しかった。

奇をてらわないアレンジでSunny。素晴らしかった。

生きるって

我が家には金がない。

金がない一番の理由は、私がいつも無駄遣いをしてきたせいであるし、それは弁明のしようもない。今まで、社会人になってから月末にお金が残っていたことはない。当然貯金もない。

だからと言って、心まで貧しくなってしまってはいけないので、心までは貧しくならないように気をつけて入るけれど、心を豊かにできるのは唯一、金である。

思えば、今まで家庭のために何もしてこれなかった。稼ぎが少ない私は、妻の収入に頼り家計をつないできた。

その妻も仕事を辞めてしまった。今となっては本当に貧乏暮しになってしまった。

ある時、自宅でくつろいでいると、妻がおもむろに話を始めた。

今日は10日だけれど、我が家には今月あと8,000円しかないのだよと。あと八千円で25日の給料日までに何とか凌がなければならないのだよと。それで、あんたは昨日も酒を飲んできたじゃないかと。

私は、そんなしみったれた話が嫌になってしまい、妻の財布から三千円を抜いて酒を飲みに家を飛び出した。

安酒屋で酒をしこたま飲んで12時頃に帰宅すると、ぼんやりと家に明かりがついていた。

家の中は、裸電球で照らされ、ダイニングテーブルの椅子に妻が座っていた。初めは気付かなかったが、妻は造花作りの内職作業を続けていた。私は、すっかり酔いが覚めてしまい、とりあえず流し台に行き、コップに水を汲み勢いよく飲んだ。

妻は、小さな声で私に、

どうだった?お酒飲んで楽しかったかい?美味しいお酒は飲めたかい?

と聞いた。私はつまらなくなってしまい。

そんなの楽しくなんかはないやい。酒を飲んで気持ち悪くなっただけだよ。

と吐き捨てて、寝床に着いた。貧乏とは自家中毒ようなもので、一度そのスパイラルに入ると、どんどん悪化していくものなのだ。

たまには、アジの干物を夕ご飯に食べたい、今日この頃である。

どれだけCDを買っても聴きたい音楽がつきないこと

今はもうCDの時代ではないのかもしれない。

最後に映画のDVDをレンタルしたのはもう5年以上前だったかもしれない。よく覚えていない。結局一度もBlu-rayディスクというものの世話にならなかった。映画はもっぱらアマゾンプライムで視聴している。アマゾンプライムで観ることのできる映画は非常に限られていて、観たいと思うような映画に限って取り扱いがないのが常なのだけれど、まあ、それは仕方ないだろう。アマゾンの映画レンタル商売と私の趣味が合わないのだから。しかし、まあ、アマゾンプライムで十分事足りるぐらいしか映画を見たいという欲求がないのでそれはそれで割り切っている。

しかし、こと音楽となると、数多ある配信サービスではどうも満足ができない。未だにCDやレコードを買って聴いている。これは、映画の場合と逆で、もしかしたら私のCDラックにあるぐらいの音源であれば、どこかの配信サービスで十分カバーできるのかもしれないけれど、それでは満足できない。

私は、まだ見ぬ名盤がないか探すためにいつもレコードショップに足を運ぶ。書斎には約3,000枚のCDがあるのだけれど、それでは満足できないのだ。なにせ、今聴きたいというような音楽は大抵自宅のレコードラックにはないのだ。

もしかしたら、音楽を嫌いなのかもしれない。音楽に飽きているのかもしれない。けれども、きっとどこかに、私が今聴きたいような音楽があるのではないかと思い、レコードショップに足を運ぶ。

自宅にあるCDのほとんどは、かつて聴きたくて聴きたくて仕方がなかったものばかりである。その時々で、それらの音楽がないと明日を過ごせないのではないかという切実な思いで買いあさった。

けれども、ふと音楽を聴きたくなった時、そこには聴きたい音楽が見つからないのだ。

これを、贅沢病といえば、まさにそうなのだろう。けれども、耳は常に贅沢で、耳の贅沢は心の贅沢で、心の贅沢は常に心を豊かにしたいという欲求に駆られているものである以上、この贅沢病を治そうとも思っていない自分がいる。

とは言っても、聴きたい音楽が手元にないというのとも違う。手元にある音楽はどれもなかなか悪くない音楽なのである。これほど多くの素晴らしい音楽と出会え、聞こうと思えばいつでも手が届く、この音楽視聴装置という魔法に出会え、それを所有していることは私にとってこの世界に生きている最も素晴らしい喜びの一つなのである。まったく、この世界に生まれてきて良かった。

音楽はときに素晴らしく心を打つ。それは上手い下手を超えて、魂に手をかざしてくる神々のような存在だ。そもそも私が聴きたい音楽は上手い音楽ではない。例えば、クラシックのピアノであればホロヴィッツやミケランジェリなどは文句なしに上手い。その他、有名無名、ベテラン・若手の上手いピアニストは腐るほどいる。しかし、それがどれ程上手くても魂に手をかざすような演奏に仕上がっているわけではない。私がいう素晴らしい音楽は、私を超えて、私の魂と、音楽の神様に接近してくるような音楽なのだ。

以前、仕事柄、色々なピアニストの音楽を聴いた。その中には一部の有名人を含めて、上手いと言われている人、下手と言われている人がたくさんいた。しかし、その中で、私の魂に手をかざしてきたような演奏に出会えたのはほんの数回だった。まあ、私が自分から進んでピアノ音楽の演奏会に足を運ばなかったせいも大いにあるけれど、それでも、その少ない経験の中から私は学んだことがある。音楽の良し悪しは、演奏の良し悪しと必ずしも一致しないのだ。演奏が素晴らしいから、その音楽が素晴らしいわけではない。その聴き手の心の有り様にいかにアプローチしてくるかがもっとも大切なのである。

さらにピアノの世界には数多のコンクールがあり、幼い子供から、若手音楽家まで多くの人たちが参加している。

あれは、不毛だと思う。

たしかに、優れた演奏家を見つけることはできるだろうし。参加する演奏家はそのコンクールのために腕を磨くだろう。けれども、コンクールで秤にかけられるような音楽の中に、素晴らしい音楽を見つけることは、太平洋の中になくした貝殻を探すよりも難しい。もちろん、優れた演奏家は見つけ出すことができるのだが。

あのような形の中から、音楽を紡ぎだそうという無謀で不毛な産業に、何の意味があるだろう。

私が言っているのは、エキセントリックな音楽を聴きたいと言っているのではない。豊かでも良いし、貧しくても良いから、心を刺激してくれるような音楽に常に向き合っていたいのだ。それは、必ずしも優れた演奏の中には見つからない。もちろん、下手な演奏からそれを探す方が何万倍も困難なことは承知しているのだけれど。

そのような視点から、音楽と向き合える音楽家が出てこなければ、音楽の時代は終わるだろう。これは、クラシック音楽に限らず、ポップスにもジャズにも言える。むしろ、ポップスやジャズこそ、優れた演奏家の中から素晴らしい音楽を見つけることは困難であるとすら思う。

時々、音楽に良し悪しはないという意見をおっしゃる方もいる。彼らは、音楽を聴く心を持ち合わせていないのだろう。音楽に良し悪しはある。ただ、それが見えづらく、わかりづらいだけなのだ。

そのような事情で、私は時に素晴らしい音楽を探し、レコードラックに向かう。けれども、なかなかその中から、その時の気分に合っていて、かつ素晴らしい音楽というものを探すことは非常に困難だ。だから、そのためのメサドン療法として、上手い音楽も持っている。人間とは不思議なもので、良い音楽にあまり触れすぎていると、心が疲れてしまう。そういう時に、どうでも良い上手い演奏を求めるのだ。

今日は、疲れたので、上手い演奏を聴いている。これはこれで悪くない。

部屋を片付けた、ハモンド入ると良いな

暑い日々が続きますが、皆様のご機嫌はいかがでしょうか。特にお変わりないでしょうか。

今年は、新型コロナとかで皆マスクをつけているおかげか、夏風邪などあまり流行っていないのか、はたまた流行っているのか、よくわかりませんが、私は元気にしております。だんだん、この新型コロナウイルスなんかにも慣れてきてしまっていて、会社は知らないうちにすっかり通常運転に戻っております。景気はどうなんでしょうかね、私の周りはすっかり景気の悪い話ばかりを聞きます。

週末なんかも、派手に出歩いたりはできないのでしょうが、昨日渋谷に散歩に行くと、以前通りの人出でした。世の中、だんだんコロナにも慣れてきたのか、これは良いことなのか悪いことなのかはわかりませんが、そもそも、良い悪いで人は行動しないですからね。

それでも、私も外出は以前よりもすこし控えめ気味にしているつもりです。この、なんでも控えめ気味ぐらいが世の中丁度良いのかもしれません。なんでも一生懸命というのも、それはそれで良いのですが、人生長いので調子良いときも、調子が悪いときもあるのは仕方ありません。

かくいう、私も、ここ1年ぐらい(いやもうちょっとかな)仕事ではスランプに陥っているところです。どうも、毎日調子が上がらない。物事に集中して取り組めない。そのせいなのかなんなのか全然ポジティブなアウトプットがない、という状態が続いております。その一方で、物欲などは衰えていないので、これは仕事だけの問題なのか、または体調そのものが良くないのかはよくわかりませんが。あんまり調子が良いのも、いままで悪い兆候だったということもあるので用心しなければなりません。

自分で、ちょっと不調だなと思いながらやっているのはなかなか辛いことですが、これがなかなか人に説明するのは難しい。そもそも、そういう悩みはわかってくれる人がおりません。人間というのは孤独な生き物だということをこういう時こそつくづく感じます。

一方で、調子が良いと本人が思っているときはもっと要注意。私なぞは調子が良いのは長続きした試しがない。調子が良いと自分で思っていると、すぐに体調を崩してしまいかえって痛い目にあいます。だから、このいまのネガティブな気分さえなんとかなれば、少し不調なくらいで仕方ないのかもしれません。

このような、不調が続く毎日ですが、ちょっと日の光が見えてくるようなことがあります。人生捨てたもんではありません。捨てる神あれば拾う神あり。といえば言い過ぎでしょうか。

実は、ある知り合いからハモンドB3を貸してもらえるかもしれないのです。Hammond B3といえばジャズオルガンの名器、オルガンの世界の金字塔です。山でいう富士山。車でいうクラウン。相撲でいう朝青龍。時計でいうグランドセイコー。トランペットでいうバック。ピアノでいうスタインウェイ。スピーカーでいうJBL。オルガンでいう、、あ、オルガンではHammond B3でした。

なんだか、国産品やらなんやらしか思い浮かばないのは庶民の悪いところです。しかし、B3は庶民ではなかなか所有することはできません。まあ、わたしも別に所有できるわけではありませんが。それでも、B3が自宅に来るかもしれないのです!!

まず、困ったのは置き場所です。なんせB3は130cm四方ぐらいの場所をとる。自宅にそんなスペースはなかったのですが、なんとか片付けてスペースを作りました。次の問題は重量。これがゆうに200kgくらいあるのです。うちみたいなぼろ家の床が耐えられるのか。不安なところです。B3だけならなんとかいけるかと思いますが、問題はその上に座って弾くということ。これだけでも、床が耐えられるのか不安なところです。それでも、なんとか置きたいと思い場所を空けました。それもできるだけ窓際の床を。

最後の問題。これが一番の難関です。

果たして家に搬入できるのか。以前のアップライトピアノの経験から、玄関入れは絶対に無理ですので、窓入れになります。これが、掃き出し窓の一つでもあれば良いのですが、悲しいかな下町暮らし。そんなものはありません。なので、1階腰窓、ユニック入れです。果たして入れれるのか、心配です。

もし、入ったところで、ハモンドを演奏できるのか、という問題はありますが、演奏できるかどうかは二の次です。

それよりも、東京の50hz電源で使える仕様になっているのか(サイクルチェンジャーは付いているのか)、そもそも音はなるのか。などと、わからないことはたくさんあります。

心配してみたとことで、家に入らなければ始まりません。それ以外の問題は、少しづつ解決することとして、まずは家に入れることからです。まあ、音が出なければ、単なる場所をとる高価な粗大ゴミですが。それも仕方ありません。ハモンドを家に入れるという夢を叶えるためには、そのぐらいのリスクは背負わなければなりません。

ハモンドの修理って、いったいいくらぐらいになるんだろう。メンテナンスっていったいいくらぐらいになるんだろう。

不安なことばかりですが、とりあえず、まずは家に入るかがさしあたっての問題です。

ハモンド、家に入ったら良いな。

さよなら夏休み

今年の夏休みが終わった。今年は、コロナとかでどこにも行けず、家で寝転んだり、近所に散歩に行ったり、酒を飲んだりして過ごした。なんとも夏休みらしい良いお休みだった。

そもそも、私は旅行の類が得意ではない。だから、むしろ家にずっといる方が気楽で良いのだ。来年の夏休みも、もしコロナが終息していたとしても、また同じように家でゆっくり過ごしたい。

こういう、お休みの時こそ楽器を練習するチャンスなのだが、今年の夏休み中には、ちっとも楽器の練習をしなかった。そもそも、楽器すらほとんど触れなかった。今日は、休みが最後なので、ちょっとだけギターを練習できた。ほんとうに申し訳程度に練習できた。

心に残る、静かな夏休みだった。

いつかはBob Jamesの曲を

我が家にはRhodesピアノが2台ある。一台はRhodes Stageでもう一台は、Rhodes Suitcaseだ。なぜ、2台も持っているかというと、これはもう道楽の世界で、実際のところ本当に2台も必要なのかは怪しいところなのだけれど、トレモロを楽しむためにはどうしてもSuitcaseが必要になるし、書斎に置くにはStageが丁度良い。

それで、2台ある。

なぜ、シンセに入っているローズの音源ではダメなのかというと、これはもう、ローズを触ってみたことがある人にしかわからない世界である。生のローズにはそれにしかない感触がある。特に木製鍵盤のRhodesは格別である。

私はRhodesピアノの音が好きで、いつも、聴いていたいぐらいだ。とくに、Bob Jamesの弾くローズの音は良い。彼がどのモデルでレコーディングしているのかは知らないけれど、彼のローズの音には、彼にしか出せない何かがある。あの音はスーツケースでしか出せない。したがって、スーツケースはどうしても必要なのだ。

それでは、ローズで何かを弾けるのかと言われれば、何も弾けない。私は、鍵盤楽器はほとんど弾けないのだ。

いつかは、ボブジェームスの曲を一曲でも弾けるようになりたいものだ。

ゴミ同然で手に入れたGretsch 6117

約10年前に、1964年頃製造のGretsch 6117、いわゆるDouble Anniversaryを楽器屋で発見した。その時は、ボロボロで、ゴミ同然の状態だった。ネックはかろうじてボディーにくっついていたが、いつ取れてきてもおかしくないような状態だった。

楽器屋に値段を聞くと、まだ値段はつけていないという。

値段が付いていないのでは仕方がないので、そのまま帰ろうとしたのだが、なんとなく不憫に思い、もし値段が出たら教えてくださいと一言伝えて、連絡先をおいて店を出た。きっと15万〜20万ぐらいにはなってしまうだろうな、と思っていた。その頃比較的綺麗な60年代のグレッチのアニバーサーリーはだいたい25万円ぐらいだった。

数日が経って、仕事をしていると、携帯電話が鳴った。楽器屋からだった。電話口でそのグレッチの値段を言われた時、思ったよりも安かったので、驚いたのを覚えている。

「ただ、状態が酷いんです。もはや楽器として機能しません。その上での値段です。」と伝えられた。

その日、仕事帰りに楽器屋まで飛んで行った。楽器屋で改めて見てみると、その楽器は酷い状態だった。ピックアップは最近のフィルタートロンに交換してあったのだが、どちらも高さが合わなかったらしく、ブレーシングを削って、大きなキャビティーを開けてピックアップがマウントしてあった。そのため、ブレーシングは折れる寸前で、出てくる音もガラガラという酷い音だった。

それでも、楽器屋にお金を払って、ギターを梱包してもらい店を出てきた。

そのあと、10年間のうち、2回ほどネックを取り外してリセットした。60年代のグレッチのネックジョイントの工作精度はひどく、いくらリセットしても、所詮は素人仕事、何度やっても起きてきてしまう。

今も、いつ何時またネック起きが始まるかはわからないけれど、弦を張り、2日が経過した。その間に、ネックの反りを直し、フレットを磨き、なんとか音が出るようにまで回復した。

ブレーシングはスプルース材で埋木してキャビティーのようになっていた箇所は直したのだけれど、まだガラガラという音しか出ない。それでも、買ってきた当初よりはだいぶマシになって、一応ハコモノの音が出るようにまでなった。

ピックアップは10年ほど前にヴィンテージのハイロートロンとディアルモンドの安物に付け替えたままだが、かろうじて良い音が出ているので、そのままにしている。

これ以上、このギターにお金をかけるわけにもいかないので、今できる調整だけしているのだけれど、いまでも、いつ壊れてきてしまうかはわからない。

ライブに使えるわけでも、練習に持っていけるほど頼りになるわけでもないけれど、大切な私の相棒。Gretsch 6117.

フラメンコを少々 Tomatito

先日、従兄弟から電話があった。

従兄弟から電話がくることなど、滅多にないことなので、私は不謹慎にも誰か親戚が亡くなったのかと思ってしまった。だいたい、滅多に連絡がこない人からの電話は、よくない知らせのことの方が多い。今回も、またそのような知らせかと思い、焦るような、諦めるような気持ちになり、電話を取った。

すると、電話の向こうの従兄弟はそれほど緊迫した様子でもない。むしろ、急ぎの用ではないというようなことを言うではないか。久しぶりに電話をかけてきて、急ぎの用ではないということは、日常では滅多に起こらないことである。大抵、急ぎの用でないときは、手紙などを書く。しかしながら、手紙ではなく電話なのだから、ある程度は急いでいるのだろうとタカをくくっていたが、実のところ、本当に急ぎではないようだった。

どうも話によると、従兄弟の息子さんがこの度ギターを始めるという。それにあたり、どのようなギターを買い与えれば良いかの相談だった。私の得意分野である。実のところ、恋愛とか相続とかの相談とかでなく、楽器の相談で安心した。楽器の相談以外では、私はほとんど役に立たない。親戚の中でも、私ほど相談のしがいのない人間は珍しい。

それで、息子さんは何ギターが弾きたいのですか。エレキギターですか、クラシックギターですか。と尋ねてみるも、いや、それは息子に聞かないとわからないという。無理もない。ギターについてズブの素人に、何ギターですかと聞いてもわかるわけがない。

フラメンコギターです。

と答えが返ってきたら、どうしようかと思った。フラメンコギターは専門外である。コンデエルマノスぐらいしか知らない。

運良く、息子さんはクラシックギターを嗜むつもりらしい。

クラシックギターならば、19,800円ぐらいからありますよ。ありますけれど、大人が弾いて満足するようなギターはだいたい20万円ぐらいからでしょうね。子供の練習用だと、まあ5〜8万円ぐらいを考えておくといいかもしれません。と回答すると、

え、ギターってそんなにするのかい。それは、まいったなぁとのことである。まいるのはこちらである。19,800円のギターで満足されていては、私の生業は成り立たない。せめて、20万円ぐらいは覚悟してもらわないと。

一度、いいギターの音を聞いてもらって、その上で判断してもらった方が早そうだ。

それで、今夜はトマッティートを聴いている。当代きってのフラメンコギタリストである。パコデルシア亡き後、彼とヴィセンテアミーゴぐらいしか、私はギタリストを知らない。

トマッティートの音は、乾いていて、なんとも悩ましい音がする。この、カラッからに乾いているようでいて、ずっしりくる音圧は、なんなんだろう。ギタリストたるもの、このようなずっしりとした存在感をギター一本で出せなければいけない。

指が回るのは、それはフラメンコを志しているのであれば、もちろん必須の条件なのだけれど、トマッティートはそれに加え、このガラスを砕いたようなギラッとしたラスゲアードや、そもそも、何を弾かせても、ずっしりくる感じとか、彼のサウンドがある。指の力がよっぽど強いのだろう。クラシックギターの連中にはこうはできまい。

トマッティートには、今後もこのような凶暴でいて、さっぱりしていて、哀愁などとは無関係な音楽を続けて欲しいと思っている。