Michael BubleのMe and Mrs. Jones

今日はMichael Bubleを聴いている。

ブーブレなんて、今となっては時代遅れ感すらあるかもしれないけれど、聴いてみるとやっぱり上手い。音楽のサウンドには流行り廃りはあるのかもしれないけれど、歌の上手い下手はある程度絶対的な尺度なのかもしれない。上手い歌は聴いていて気分がいい。

Michael Bubleは昨年の夏頃に聴き始めた。それまでは、銀座の山野楽器でかかっていたのを聴いたことはあったけれど、自分でCDを買って聴くというほどのことはしなかった。何となく、山野楽器でかかっている音楽はヒップじゃないから意図的に避けていたのかもしれない。

昨年の夏に、ブーブレの歌うMe and Mrs. JonesをYouTubeで聴いたのがきっかけだった。Me and Mrs. Jonesは私が最も好きなバラードの一つだ。あの曲は淡々としている中にドラマがあるのがいい。オリジナルはBilly Paul。フィリーソウルの大御所だ。

曲のタイトル通り、Meと Mrs. Jonesの物語だ。毎日同じカフェで6:30pmに逢う二人。まさにソウルミュージックにぴったりの世界観である。Billy Paulの熱すぎない歌が良い。ソウルシンガーはパワフルに歌い切る人が多いけれど、この曲で彼は、少しナイーブに、ちょっと抑え気味に唄う。

私が初めてこの曲を聴いたのはTOKUという、ジャズトランペッターでボーカリストのCDだった。私が学生時代、テレビで彼が歌うのを聴いて、新譜で買った。TOKUのけだるいボーカルが、この曲にぴったりと合っていた。何とも豪華なことにRoy Ayersのヴィブラフォン、Grady Tateのドラムがバックを務めていた。このRoy Ayersのヴィブラフォンが良い。ベルベットのように曲の合間をすり抜けていくような音色。TOKUのBewitchingというアルバムだった。

ブーブレのこの曲も素晴らしい。ビッグバンドアレンジなのだけれど、ミュートトランペットが、この曲に可愛らしさを加えている。プロデューサー、デヴィッドフォスターの転がるようなピアノもさりげなくて良い。クライマックスでのビッグバンドのトゥッティのところでブーブレはぐっと抑えて唄いきる、そこがまたかっこいい。

Michael BubleのCall me irresponsibleというアルバム。まさに彼のボーカルの魅力が詰まった傑作だと思う。さすがはデヴィッドフォスタープロデュース、甘く、切なく、けれども甘ったるすぎることなく。オトナのアルバムに仕上がっている。エリッククラプトンのWonderful Tonightも含めて、スタンダードナンバー揃いの選曲も良い。

Me and Mrs. Jonesを聴いた、とても暑かった夏はすぐに過ぎ去り、秋になった。そして、早くもまた今年も夏になる。このアルバムは暑い夏の夜に程よく合っている。東京は明日から梅雨入りと聞いているけれど、また今年も、死なない程度に暑い夏がやってくることを心待ちにして。

今更私が言うことでもないけれど。

もう収束したのかもしれないけれど、アメリカでは、どうも大変なことになっているらしい。

なんでも、人種差別の問題をまた持ち出してデモをやっているようだ。たしかに、差別される側にとってみれば、一大事なわけだし、長い間差別を受けてきたことに対する怒りがあるだろう。話を聞いている限り、その怒りも真っ当な怒りだ。

私は、ジャズやらブルースやらのいわゆる黒人音楽などと呼ばれる音楽が好きなのだけれど、ふと考えてみると、ジャズやらブルースやらは、今でも黒人は黒人同士、白人は白人同士でグループを組んでいる方が多い。まあ、例外はたくさんあるけれど。

本当に凄いミュージシャンは、どんな人種だろうと凄くて、どんな連中と組んでもすごい音楽ができる。例えば、マイルスデイヴィスのバンドの歴代のピアニストには黒人も、白人も同程度いたし、アジア人(日本人)だっていた。それでも、すごい音楽を作り続けてきたことは間違いない。

今更、黒人だの白人だのまだ言い続けなくてはいけない世の中に住んでいるのはさぞかし住みづらいだろう。本当なら、インド人だって、中国人だって、日本人だって南米系の人だってたくさん住んでいるのだから、白人と黒人の二元論で話ができる世の中でもないのに、いまだに「Black lives matter」とかいうスローガンが出てくるのだから、恐れ入る。本来なら「Lives matter」というのが筋だろう。

それなのに、今更そこに「Black」という単語を入れて話をしなくてはいけない世の中であるというのは、何と嘆かわしいことか。

この議論は、なにもアメリカに限ったことではなく、ここ日本でも似たようなことは規模さえ違えども行われている。被差別者と、差別する人という図式が成り立たない世界は悲しいかな、まだ存在しない。日本人と外人、関東人と関西人なんて、とくにいがみ合っているわけでなくても、お互いに目には見えなくても差別はあるし、差別とまでは言えなくても目に見えない優越感、侮蔑、嫌がらせははびこっている。もっとわかりづらいのは、若者と老人、男性と女性、障害者と健常者、そういう世界の差別もある。

しかし、今になって「Old lives matter」とか「Woman lives matter」とか言ったりしてみると、なんとも浅はかな響きがしてくるではないか。人間生きていれば、若者だって老人だっているわけだし、男だって女だっている。精神障害を持っている人もいれば、そういう障害という名前をつけられることなくのさばっているアホ野郎もたくさんいる。それに、今更ラベルをつけて、「俺は本来は偉いんだ」とか「あのかわいそうな方々にお恵みを」とか言ってみたところで、それは、差別をアプリオリなものとして受け入れているだけに過ぎないのではないだろうか。

私は、黒人だろうと、白人だろうと、日本人であろうと潰されていく人たちは潰されていくし、生き続ける方々は生き続けると思っている。ただ、社会はみんなに平等ではないことはわかっているから、運悪く、生まれつき潰されがちな立場に立っている方々も多いだろうということは推して測れる。そんなことを、いまさらわかりやすくしてやらなくてもいいのに。

わかりづらいので例を挙げると、私なんかは高校の頃、オーストラリアに留学していた。オーストラリアの高校で日本人は人間以下だ。白人、赤毛、アボリジニー、近隣諸国のネイティブの人、そのあとずーっと降って日本人である。一部の先生方からの差別も含め、ほとんど人間扱いされなかった。そして、その代償なのか何なのかわからないけれど、被差別者の我々は、ことあるごとに表彰された。まるで、その表彰が我々被差別者へのラベル貼りの作業のように。

今更、そんなこと言ってみたところで時代遅れなのはわかるけれど、人間はそうやって差別する側か差別される側に回りたがる癖があるらしい。私も、オーストラリアで日本人であるということを捨てて、現地人づらをしていれば、あんな目に合わなかったのかもしれない。現地人のように汚い言葉を使って、現地人並みに学校の成績が悪く、現地人並みに浅はかで、表彰の数々をはねのけていたら、あんなに差別されなくても良かっただろう。

しかし、私は、そんなアホな真似をするぐらいであれば、好んで差別され続ける道を選んだのだとも言える。現地人のように体はでかくなかったし、英語も下手だったが、そんなことよりも、自分が日本人であることにこだわった。自分自身に「私は日本人です」という看板を背負わせて歩いていた。そんなに日本人であることにこだわる必要はなかったし、そんなに嫌ならオーストラリアなんかにいなければ済んだ話だったのに。

アメリカの人種差別の場合は、もっと根が深く、今更アメリカを出て行くわけにもいかず、すでにコミュニティの中で居場所も見つけている方々に対する差別だから、こういう面倒なことになってしまうのだろう。

こういう時だからこそ、もう一度ラベルを貼ろうとしている自分たちに気がついて、ラベルそのものよりもラベルを貼ろうとする浅はかな自分たちのアホらしさと愛おしさに気づき、もう、そんなこと言ってる場合ではないだろう、こんな世の中なんだから、としらばっくれてみてもいいのではないかと思う。差別することの罪よりも、差別しやすくすることの罪をもう一度考えてみてはいかがかと思う今日この頃である。

BACHのトランペットのピストンボタンをターコイズにした

トランペットという楽器は、それだけで目立つ楽器なのだけれど、そのせいか、トランペッターの多くは目立ちたがり屋の人が多い気がする。

例えば、ディジーガレスピー。彼なんかは、アップベルの楽器を吹いている。ベルが上向きに曲がっていても、いなくても出てくる音そのものは変わらないのだろうけれど、目立つという理由だけでああいう楽器を吹いているのだろう。

もちろん、世の中には寡黙なトランペッターという方々も存在するのかもしれない。純粋に、トランペットの音が好きで、目立つ目立たないに関わらず吹いている人たちも、ひょっとしたら世の中に存在するのかもしれない。

しかしながら、私の数少ないサンプルの統計の結果、トランペッターは目立ちたがりと相場は決まっている。

私は、学生時代にモダンジャズ研究会という、サークルに所属していた。「研究会」と名がつくので、もっぱら研究に明け暮れている根暗な方々が多そうな印象を持たれるかもしれないけれど、ジャズ研の方々はそれはそれは個性的な方々が多かった。特に、ジャズ研に入部する管楽器の方々は、高校の吹奏楽上がりの方が多くて、吹奏楽部に入部すれば良いものを、ジャズ研に入部するわけだから、「目立ちたい」という想いを胸に来られた方が多かった。

例えば、吹奏楽部では、トランペットパートは何人かいるトランペットパートの中の一人であるのに対し、ジャズのコンボでは大抵トランペッターは一人いれば十分である。だから、目立つ。目立つのが嫌ならば、コンボで吹こうなどとは思わないだろう。吹奏楽上がりではない管楽器パートの方も多くいた。彼らは、大学に入学してから管楽器を習得しようという腹の方々である。私もそうだった。いわゆる「大学デビュー」組である。

吹奏楽上がりか、大学デビューかは楽器を見れば分かった。吹奏楽を経験してきたトランペッターは、大抵ヤマハのゼノか、バックのストラディバリウスを使っていた。それも必ず、決まって銀メッキの楽器を。ラッカーのバックを吹いている後輩も一人いたけれど、彼以外は皆、銀メッキの楽器だった。

それに対して、大学デビュー組はやけに目立つ楽器を使っていた。キングだの、コーンだの、そういった吹奏楽上がりはまず使わないであろう楽器だった。かくいう私も他聞にもれず、黒ラッカーのマーティンコミッティーを使っていた。その、黒ラッカーの楽器は持っているだけで目立った。持っているだけで上手そうに見えてしまった。

結局、目立ちたい気持ちだけが先走り、練習をちっともせずに学生時代は終わった。私は、下手なのに目立つのが嫌になってしまい、結局大学5年の春にその美しい楽器を手放してしまった。手放して、代わりに銀メッキのベッソンを買った。今でも、その美しい楽器を二束三文で手放してしまったことを後悔している。

大学を5年半かかりなんとか卒業させてもらい、そのあとしばらくトランペットを吹くことはなかった。楽器から離れてしまった。3年に一度ぐらい、思い出したかのように楽器を引っ張り出してきたり、新しい楽器を買ったりして、トランペットを再開しようとするが、挫折する。そんなことを何度か繰り返したりした。そんなのだから、トランペットはちっとも上達しないまま今日に至っている。

このコロナの騒ぎのおかげで、家にいる時間が多くなり、久しぶりにトランペットを手にしてみた。初めは、自宅の押入れにしまっているMartinの Committee Deluxeを吹いていたのだけれど、ちっとも上達しない。

そこで、基本に戻ろうということで、バックのストラディバリウスの中古を買ってきた。それも、シルバーメッキ、のような外見のニッケルメッキの1980年製のものを買ってきた。ニッケル鍍金というのは、一時期流行ったらしく、時々出てくるのだそうだけれど、もちろんバックのオリジナルではなく、後がけのメッキである。赤ベルのニッケル鍍金だから、かなり吹きづらそうに聞こえるけれど、さすがヴィンセント・バックの設計した楽器、吹きやすい。

40にして、初めて「普通の」トランペットを入手した。見た目は銀メッキの楽器と一緒だから、まるで吹奏楽上がりのトランペッターのようである。見た目だけは品行方正になった。

しかしながら、なんともその優等生な見た目は、心がウキウキしない。楽器は良い楽器だから、吹いている分には何の文句もないのだけれど、元々が目立ちたがり屋なのだろう。他の人と同じ楽器は嫌なのだ。

そこで、ピストンボタンをターコイズのものに交換した。

やれやれ、見た目ばっかり目立ちたがるのは、私の悪い癖なのだ。

交換してみたら、案外カッコよく、安心した。音色は全く変わらないのだけれど、ターコイズブルーのフィンガーボタンはなかなか美しく、銀色の楽器に映える。こういう、小さなところから練習のモチベーションを上げていくのだ。

かつて、ヴィンセント・バックのオリジナルパーツでターコイズのボタンというのが存在していたのだけれど、今はもう廃盤になってしまったらしい。どこを探してもなかった。仕方がないので、インターネットを探していたら、自分の好きな石を選んでボタンをつくってくれる店があったので、そこから購入した。バックは、いろいろなカスタムパーツが存在するから、嬉しい。

楽器の見た目はかっこよくなったわけだから、あとは練習をして、自分自身がかっこよくなるだけである。

せめて聴く音楽ぐらいは明るくなきゃ Leon McAuliffe

生きていると、いろいろなことがあり、気分が浮かれたり、気分が沈んだりするものだ。ましてや、昨今のこの伝染病の流行る流行らないの毎日だと、気分が滅入ってしまう。私なんぞ、ここ二ヶ月ぐらいずっと気分が滅入っている。

なんと言おうか、ずっと頭の中に暗い影が残るようなそんな気分だ。楽しいことがないわけでもない。美味しいものを食べていないわけでもない。むしろ、楽しいことがあったり、買い物をしたり、美味しいものを食べたりは積極的にしているのだけれど、不思議とこの頭の中の暗い靄はいつまでも消えない。

いっそのこと、お祓いにでも行こうかとすら思っている。お祓いが効くか効かないかはとくに気にしていないのだが、そういうようなことをすると、なんだか少し踏ん切りがついて、本来すべきことや、本来感じるべき感情とかがなんとなく掴めるきっかけになるのではないかと思っている。

しかしまあ、お祓いをしたところで、どのくらいの解決になるかはわからないし、それまで待っていて何もしないと、どんどんネガティブな気分になってしまう。それでは、毎日がおもしろくない。そこで、一時的なカンフル剤かもしれないけれど、いろいろな音楽を聴いている。

ときにしみったれた音楽を、ときに軽快な音楽を、ときに荘厳な音楽をと考えているのだけれど、なかなか体と気分が付いてこない。そこで、その時その時聴ける音楽を聴くことにしている。無理して、聴きたくない音楽を聴けるほど人間は暇ではない。

今日は、少し軽快な、ウェスタンスイングを聴いている。Leon McAuliffeのバンドLeon McAuliffe & his Cimarron boysだ。

レオン・マックリーフは元々Bob Willsのプレイボーイズの中心人物だったスティールギタープレーヤーだ。4本ネックの凄い奴を自在に操って、ジャズでもカントリーでも、なんでもこなしてしまう。巧みにポジションを移動しながら、スティールギター独特のサウンドを鳴らしまくる。これだけで、ウェスタンスイング好きにはたまらない。

ボブウィルスのバンドも豪華な編成だが、レオンのバンドも同様に、フィドルやホーンセクションが入っていて、スウィングビッグバンドである。常に陽気で、それがちょっと疲れる時もあるのだけれど、ウェスタンスイングに暗いムードは似合わないのかもしれない。これはこれで、こういう音楽として成り立っているのだからよしとしよう。

ウェスタンスイングはカントリーミュージックの一つのルーツとも言えるけれど、むしろ一つの派生系と言ったほうが正しいのかもしれない。悲しいかな、日本のレコード屋には滅多に売られていない。こういう音楽を今更聴こうという人は本国アメリカでも少ないのかもしれないけれど、もっともっと見直されても良いジャンルの音楽だと思う。

日本でヴァイオリンときたら、十中八九がクラシック音楽で、ごく稀にジャズをやっている人がいるぐらい。ウェスタンスイングをやったり、ブルーグラスをやろうなどという人たちはごく少数だ。アメリカでは、ヴァイオリンといえば、クラシックのお坊ちゃん、お嬢ちゃんたちだけの楽器ではなくて、カントリーやら、ロックやらでもヴァイオリン(フィドルとか呼ばれているけれど)を弾いている人もそこそこいるのではないだろうか。

大草原の小さい家の、お父さんもフィドルを弾いたりしているし。アメリカのテレビの音楽番組ではマークーオコナーというヴァイオリニストが長年ホストを務めていたりする。マークーオコナーは、ブルーグラスプレーヤーだけれど、引かせようと思ったら、ジャズだろうと、ロックだろうと、ウェスタンスイングだろうと、なんだって弾ける。

スチールギターも、日本ではあんまり競技人口は多くないけれど、本国アメリカではまだそこそこ作っているメーカーがあるぐらいだから、盛んなのではないだろうか。5年ぐらい前にナッシュビルに出張で行った際に、ライブハウスでスチールギターを弾きまくっているお兄さんが居たから、そうに違いないと思っているのだけれど、実際のところどうなんだろう。

まあ、とにかくウェスタンスイングが、いかに盛んでも、いかに衰退していても、このLeon McAuliffeのアルバムを聴いていれば、いかに素敵な音楽かをわかってもらえるだろう。

Ray Charlesのピアノ弾き語りをじっくり聴きたい

レイチャールズが亡くなってしまってから、もう随分経つけれど、本当はもっと沢山録音を残して欲しかった。

レイチャールズの若い頃のアルバムは、どうも元気が良すぎてあんまりじっくり聴いていない。ピアノ一台でのバラードとブルースの弾き語りアルバムでも出してくれたら、一生愛聴盤にするのだろうけれど、それはもう叶わない。

そういうアルバム、探せばあるのかもしれないけれど、まだ聴いたことはない。

レイチャールズは、ピアノの弾き語りの一つのスタイルを作った人だと思う。彼のようにビートを感じられる歌手はなかなかいないし、彼のピアノもああいう風に弾ける人は多くはない。その二つが合わさって、そこにあのアドリブ感覚が加わって、あの音楽はできている。

レイチャールズのまだ聴いたことのない「理想のアルバム」について考えていても、実際にその音楽は聴けないから、今日は彼のデュエット集を聴いている。「Genius loves company」というアルバム。錚々たるメンバーとのデュエットの中でも、特にエルトンジョンとデュエットしている「Sorry seems to be the hardest word」が気に入っていて、時々聴いている。

それ以外の曲も、どれも素晴らしいのだけれど、このElton Johnとのデュエットは、二人のピアノ弾き語りの名人が、それぞれのスタイルをぶつけ合いながらも、一つのバラードを作り上げていて、聴いていてとても心地いい。Sorry seems to be the hardest wordはエルトンジョンの曲だけれど、巨匠レイチャールズは、あたかもこの曲を自分で書いたかのように歌いこなしている。

欲をいえば、これらのデュエットしている曲を、レイチャールズのピアノ一台で聴きたい。

何年も前に、会社の偉い人からチャックベリーのDVDを借りたことがあった。チャックベリーは、言わずと知れたロックンロールとブルースの偉人である。その彼が、DVDの最後で、エレキギター一台の弾き語りで、古いジャズのスタンダードを歌う。曲はなんだったのか覚えていないけれど、I’m through with loveだったような気がする。探せばCDがどこかにあったと思うけれど、もうずっと聴いていない。さすが、チャックベリー、それがすごく上手いのである。

きっと、レイチャールズが独りでピアノ弾き語りをやってもあれぐらい上手いだろう。どうせなら、アコースティックピアノの弾き語りアルバムと、ローズピアノの弾き語りを両方聴きたい。

世の中には、きっと私と同じことを考えている人がいるだろうから、探せばそういうアルバムがあるのだろうけれど、どうなんだろう。

レイチャールズはスーパースターだったから常に、凄いアレンジャーが付いていて、素晴らしいバックバンドが付いている。レイチャールズ本人もきっとそういう大編成が好きだったのだろう。このアルバムのタイトルの通り、Genius loves companyだったのかもしれない。

Ray Charlesが好きな方にもう一人オススメなのは、Charles Brown。R&Bのピアノ弾き語りを得意としている歌手である。名曲Please Come Home for Christmasを是非聴いてみてください。

バディーエモンズの脅威

ペダルスチールギターについて、過去に何度かこのブログでも書いたけれど、チャレンジしては挫折してを繰り返し、ちっとも上達しない。私の書斎の一等地にこのペダルスチールギターという楽器が鎮座しており、いつでも練習できるのだけれど、なかなか練習しようという気持ちが湧いてこない。難しすぎるのだ。

今夜は帰宅してから、このペダルスチールギターという楽器の弦を交換した。今年の私の誕生日に妻に買ってもらったFender 400というスチールギター。

弦が錆びていたわけではないのだけれど、どうも今までのチューニングではどうしても弾けないフレーズがあり、E9thチューニングにチューニングし直したのだ。同時にペダルのセッティングも変更した。

これで、弾けるフレーズは増えたはずなのだけれど、どうもまた複雑になってしまった。E9thチューニングはペダルスチールギターの開祖、バディーエモンズが開発したチューニングで、まさに万能チューニングなのだが、慣れないとこれほど難しいチューニングはない。特に1弦と2弦のチューニングが3弦よりも低いことに初めは戸惑う。これらの弦はどのように使えばいいのか、と戸惑うのだ。

しかし、練習しているうちに、この2本の弦のありがたさがじわじわとわかってくる。メロディーを弾くときにどうしても必要な弦なのだ。

楽器の方は、目下練習中なので、詳しい話はまた今度にする。

今夜は、スチールギターの巨匠、バディーエモンズのCDを聴いている。

複雑なハーモニーをこの複雑な楽器でプレイするのは並大抵のことではないだろう。しかし、バディーエモンズは、それをいとも簡単に行ってしまう。スチールギターという楽器でどこまで表現できるかの究極をこの人は追い求めていたのだろう。

アップテンポの曲でのスピードピッキングも凄いのだけれど、バラードを演奏する時の和音の使い方が凄まじい。6弦のギターでは再現不可能な和音を駆使して、ジャジーに鳴らしたり、カントリー調にしたり、聴いている私たちを楽しませてくれる。

ペダルスチールギターを聴いたことがない方は、まず、このバディーエモンズから聞いてみてください。スチールギターのイメージが変わります。

Art Pepperのように音楽を奏でられる天才は

スタンゲッツ、アートペッパー、チェットベイカー。この3人は間違えなくジャズの世界ではスーパースターだ。それぞれが、独自のサウンドを持っていながらにして、最晩年までメインストリームのジャズを貫いてきた。エレクトリックにもならずに、ジャズファンクもやらずに(3人とも白人だからというのもあるのかもしれないけれど)、チンチキチンチキの4ビートジャズを貫いてきた。

スタンゲッツは、サックスの世界では一番表情豊かな音色の持ち主だと思う。スタンゲッツの音色は、きっと真似しようと思っても真似できなかったのだろう。時に力強く、時に柔らかく、なんでもこなしてしまう。音色も、テクニックも、歌心も完璧なプレーヤーだ。まさにテナーサックスを吹くために生涯をかけたジャズマンだと言えるんではないか。

チェットベーカーは、それとは対照的に、すごく寡黙なトランペッターだ。いつもソフトなサウンドで、熱くなりすぎない。多くを語らない。それでいて、歌心は他のジャズプレーヤーから抜きん出ている。アドリブというものがいとも簡単に湧き出てくるかのようなフレーズの数々。チェットは、何方かと言えば不器用な方だ。

もちろん、若い頃のチェットベーカーはなんでもできたし、速いフレーズもバリバリ吹けた。ハイノートヒッターではないけれど、音域なんて彼の音楽の前ではどうでもいいファクターだったと思う。

それでは、アルトサックスのスーパースター、アートペッパーはどんなプレーヤーと表現すればいいのだろう。彼も、上に挙げた二人と並ぶ天才であることは間違いない。なんといっても、アートペッパーは自由自在に楽器を操ることができるし、チェットベーカーのように、鼻歌を歌うようにソロを吹きまくる。メロディーが溢れ出てくるようなそんなアドリブだ。

3人に共通しているのは、早死にしてしまったこと。スコットラファロやら、クリフォードブラウンのような早死にではないけれど、本来であれば、まだまだ活躍できる50代、60代で亡くなってしまっている。

チェットベーカーのアルバムは若い頃のものから、晩年の作品までかなり持っているけれど、スタンゲッツ、アートペッパーに関して言えば、聴くのは晩年の作品ばかりだ。

スタンゲッツとアートペッパーはどうも、上手すぎて、若い頃の演奏を聴いていると疲れてしまう。二人とも最晩年に録音したアルバムが素晴らしい。音色や、テクニックは若い頃の方がすごかったのだろうけれど、なんでもできてしまう名手だった二人が腕の衰えを少しだけ感じながらも情熱を振り絞って吹いているそれらの作品は素晴らしい。いくら、腕が衰えたと言っても、そこらのスーパープレーヤーの何倍も表現力はある。

今日は、アートペッパーのアルバムを聴いている。1975年の「Living Legend」という作品。晩年の作品ではないけれど、程よく力が抜けていて聴きやすい作品。この人がバラードを吹いたらいかに凄いかがわかる。

個人的には、アートペッパーの最高傑作は、「Roadgame」というアルバムに入っているEverything happens to meだと思っている。私は、そのトラックが好きで、何度も何度も繰り返し聴いた。本当に、感動的なバラード。

晩年のアートペッパーが、じっくりと一音一音を絞り出すかのようにバラードを奏でる。12分のトラックで、10分ぐらいまではクールに、美しく吹くのだけれど、最後で彼は、吹きまくっていた黄金時代を懐かしむかのように熱く、激しくバラードを奏でる。エンディングのテーマの最後の最後ではフラジオを鳴らすのだけれど、その音ががかすれそうで、それがなんともかっこいい。

まるで、「俺は、今でもまだ吹けるんだぞ」と聴衆に語りかけるようなエンディング。そのクライマックスで、彼は少しだけ苦しそうにフラジオを鳴らす。その叫びのような一音だけで、彼の音楽の美しさを証明しているかのようだ。

自由自在にサックスを吹ける奏者は沢山いる。けれども、アートペッパーのようにドラマチックにアルトサックスで音楽を奏でることができるプレーヤーは彼しかいない。そんな当たり前のことを、彼の録音を聴くたびに思い知らされる。

ベヒシュタインで録音されたピアノ音楽

何度かこのブログにも書いたけれど、私の自宅には1896年製のベヒシュタインのグランドピアノがある。庶民の私が、この貴重なピアノを所有するようになったのには、ちょっとしたストーリーがある。

その話は、長くなるから、今日は割愛して、一枚の素敵なアルバムを紹介したい。

「川岸秀樹ピアノソロ曲集 PIANOWORKS- 11 songs」と題されたこのアルバムは、ピアノの詩人 川岸秀樹さんが作曲したピアノ曲が11曲収められている。演奏するのは3人のピアニスト。川岸さんは北海道の調律師で、作曲もされる。いや、調律もする作曲家と呼んだ方がいいだろうか。

川岸さんの曲は、どれも優しく、朗らかで、切ない。初夏の札幌の日差しの中からポロポロと聞こえてくるピアノの音色のような、素敵な音楽だ。それは、ポップスでも、ジャズでも、はたまたクラシックとも少し違った、川岸さん流の「ピアノ音楽」だ。どの曲も、聴いていると心が休まってくる。

ピアノ音楽、というものが私は苦手だった。

ピアノ音楽の音は、どれも同じように濁っていて、ドカドカしていて、どうもハシタナイ、と思っていた。ピアノ屋で勤めるようになってからも、仕事で聴くピアノのコンサートも少しだけ苦手だった。中には本当に素晴らしいピアニストの方々も多くいたけれど、それでも、ピアノだけで奏でられる音楽というのは、どうも強迫観念のようなものを抱かされるぐらい、窮屈で、音が詰まりすぎていて、甘美すぎて、好きではなかった。まるで、甘すぎる果物のような。

いろいろなコンサートの現場で調律する川岸さんのことだから、様々なピアノ音楽に触れているだろう。きっと、私の苦手だった「ピアノ音楽」の方が、川岸さんの専門分野なのかもしれない。

けれども、このアルバムから聞こえてくる川岸さん流のピアノ音楽は、ピアノの音色が甘美すぎず、ダイナミック過ぎず、むしろ地味でいて、懐かしい。そして、そこに、ピアノという楽器が持つ、美しさのひとつの完成形があるような気がする。私は、このアルバムを聴いた時に「ああ、やっと見つけた」と感じた。

私の好きなピアノの音色とは、重なり合う時の濁り方と、単音で聴かせる時の澄み渡った感じが程よく混ざったものなのだ。それは、たとえどのような音楽を奏でていても共通することなのだけれど、そういう音を出せるピアニストと出せないピアニストがこの世の中にはどうも存在するらしい。そして、私の好みの音色を出せるピアニストは、どうもそう多くはないらしい。そして、そのような音を奏でる楽器もそう多くはないのだろう。

もちろん、ピアニストという商売は常に自分が弾く楽器を選べるわけではないので、どんな楽器でもその時のベストを引き出せないといけない。だから、使っている楽器云々を語るべきではないのかもしれないのだけれども、このアルバムに関しては、どうか楽器についても語らせて欲しい。

このアルバムは、私の自宅のピアノで録音された世界で唯一のアルバムだからである。

自宅のピアノを弾くたびに、このCDのことを思い出し、「どうやったらあんなに美しい音を作り出せるんだろう」と首を傾げたりする。そして、時々このアルバムを聴いている時に、どこか懐かしいものに出会ったような感覚にもなる。ペダルの軋む音、鍵盤から指を離してから音が消えるまでの少し物悲しいような響き、低音弦のゴロッとしていながらすこしナイーブな響き、そこには紛れもなく、私の自宅のベヒシュタインの音色がある。

よくぞこのピアノに合う曲をこんなに書いてくれた!!

残念ながら、このCDは一般流通はしていないようなのですが、アマゾンではストリーミング配信で売られているようです。

川岸さんにお願いして、家宝として、もう一枚買っておこうかな。

 

こういうアルバム、好きだなぁ Chet Baker & Paul Bley “Diane”

私の最も好きなトランペッターはChet Bakerなのだけれど、このブログではあまり彼のアルバムについてとりあげてこなかった気がする。

Chet Bakerは語られていることが多すぎて、今更私がここで書くほどのこともないのだけれど、彼の生涯についてはいろいろと言われているが、彼の音楽についてはその陰に隠れてしまいがちなので、少しだけ書かせていただこうと思う。

今日はChet BakerがPaul Bleyとデュオで吹き込んだアルバム「Diane」について。

そもそも、ポール・ブレイというピアニストについて私は詳しいことは知らない。参加作もこのアルバムぐらいしか持っていないかもしれない。しかし、このアルバムを聴く限り、ポール・ブレイのピアノはとても静かで、美しい。寡黙でいて、無駄がない。それでいて、語りかけてくるような、暗さと温かさがある。

70年代にカムバックしてからのチェットは、50年代のマイルスデイヴィスよりもさらにスペースのあるジャズを奏でる。このアルバムでも、その姿勢は変わらず、フレーズとフレーズの間隔が広く空いているのもそうだし、奏でられる歌もとても言葉少ない。Chet Bakerのトランペットも歌もそのようだから、そこにPaul Bleyのピアノが重なると、トランペットと伴奏という役割を越して、無口な二人の中年男性がなんとか会話の糸口を探りながら、音楽を進めているかのような感覚で聞こえてくる。

その会話は、いつまでも平行線のようにも聞こえるし、その一方で二人が語りたいことは十分語り尽くしているかのようにも聞こえる。まるで、音楽という表現に、音の数は関係ないかのようだ。実際、この二人には、音の数の多さなんていうものは音楽を形成するためにはさして重要なことではないのかもしれない、もしくは、音を絞ることによってそこから紡ぎ出される会話の内容を大切にしているのかもしれない。

チェットベイカーは、あまり譜面に強いトランペッターではなかったと聞いたことがある。コード譜というものにもそれほど強くなく、すべては耳で感じた感覚でアドリブを繰り広げていたと聞いた。そのような音楽家だから、これだけ寡黙なピアニストと組むと、会話が成り立たなくなってしまうのではないかという不安もあるのだけれど、幸いにしてこのアルバムは、そのような不安は微塵も感じさせない演奏に仕上がっている。

それは、収録されている曲がほぼジャズのスタンダード曲、それもチェットベイカーの得意なレパートリーばかりだということも、良い方向に働いているのだろう。無駄のない音使いの中からは、リラックスした二人の音楽家の会話が聞こえ、その音と音の隙間からは、次にどんな音楽ができあがるのだろうかというスリルが感じられる。

音使いの少なさばかりについて、書いてしまったが、もちろんこのアルバムはそれだけでは語れない。この、アルバムの音楽を作り出しているのは、チェットの柔らかく、ダークで深く、それでいて華奢な音色と、ポールブレイのキリリとしたピアノの音色とも言える。

特に、ポールブレイのピアノは、空気の澄んだ日にどこか遠くから聞こえてくる汽笛のようなキリリと澄んだ音色である。チェットのトランペットに寄り添うように弾いてみたり、時には独白調になってみたりしながらも、その澄んだ音色は変わらずにそこにある。ジャズのピアノの名手は数多いれど、このような音色で聴かせるピアノを弾ける名手はなかなかいないのではないだろうか。

チェットのトランペットはこの時ブッシャーのアリストクラートモデルを吹いているはずだ。アルバムのジャケットに写っているのもそのモデル。彼が、質屋で手に入れたと言われている、スチューデントモデルのトランペットである。私も、同じモデルを持っているので吹いたことがあるけれど、特にキャラクターの強い楽器ではない。

ポールブレイのピアノは、ハンブルクスタインウェイだろうか。それともヤマハだろうか、はっきりとしたことはわからないけれど、楽器のキャラクターが前面に出てくるような感じではないが、どのような楽器であれ、このような澄んだ音色を作り出せるのは凄い事だと思う。

二人は、このアルバムをたったの1日で録音している。チェットとポールブレイはアルバムこそこの一枚しかないかもしれないが、何度も共演していたとどこかで読んだ。このアルバムを聴く限り、ポールブレイは、晩年のチェットベイカーの音楽を実現するために理想的な共演者だったのだろう。

このアルバムで奏でられる音楽は、力強くなく、本当に儚い。しかし、そのはかなさの中に、本来音楽を奏でるということのために求められる大切な要素と、音楽を鑑賞するということの不思議な喜びが詰まっていることは確からしい。

五十嵐一生と辛島文雄の共演盤「I wish I knew」に並ぶ、愛聴盤である。

ディキシーランド再訪 Doc Cheatham

近頃、トランペットの話ばかり書いているので、ご興味のない方には大変恐縮なのだけれど、こういう不景気な世の中だからこそ、トランペットの温かい音色で鬱憤を吹き飛ばしてしまおうと、今夜もトランペットもののアルバムを聴いているChet Bakerが好きで、ジャズといえばチェットのアルバムばかり聴いているのだけれど、たまには趣向を変えて、今日はディキシーランドジャズを聴いている。

ディキシーというと、どうも苦手な方は苦手なようで、特にモダンジャズを聴く方の多くはディキシーを聴かないという人が多いように思う。たしかに、最近のジャズが好きな人がディキシーランドを聴くと、どうもトンガっていないような気分になってしまうのは仕方ないだろう。ロバートグラスパーを好きだと言う人にバリバリのディキシーを一緒に聴こうと誘ってもおそらく断られるだろう。

しかしながら、偏見を捨てて聴いてみると、こういうオールドスクールなジャズは、案外トンガっていてカッコイイ。一度に2本も3本もの管楽器がアドリブの取っ組み合いをやるジャズのスタイルって、ディキシーぐらいじゃないだろうか。片方がリードを吹いて、片方がそれにオブリガードをつける時もあれば、一気に両方とも前に出てきて吹きまくる、時にはそれに歌やピアノソロも加わる。こういうのは聴いていてスリリングである。

オールドジャズの世界も名盤は沢山あるけれど、今夜聴いているのは、Doc Cheathamというディキシー時代の大御所が歳をとってから吹き込んだ一枚「Swinging down in New Orleans」1994年の作品。バリバリのオールドジャズを高音質で楽しめる。

ドクチータムの若い頃の音源は聴いたことないのだけれど、80歳を過ぎたあたりから、ニコラスペイトンと共演盤を出したりして、俄然元気が湧いてきた名人である。1905年生まれのはずだから、このアルバムを吹き込んだ時は88歳。それでも、全然歳を感じさせない演奏である。

若い頃はどんなトランペットを使っていたのかはわからないけれど、このアルバムではスタンダードなBACHのストラディバリウスを吹いている、それも、ジャズマンには珍しい、銀メッキ。バックの銀メッキって、なんだかジャズに向いていないんじゃないかなんて、ずっと思っていたけれど、この人の演奏を聴いてイメージが変わった。ダークでハスキーな音色から、パリッとした音まで、バックらしいハキハキとした音色で聴かせてくれる。

そういえば、ウィントンもニコラスペイトンも、あのロイハーグローブも、若い頃はみんなバックを吹いていたっけ。ニコラスペイトンはラッカーの楽器だったけれど、ロイハーはやっぱり銀メッキ。楽器なんてなんだってかんけいないんだなあ、と思っていたら、私の好きなチェットベイカーも晩年はセルマーが貸与したバックのストラディバリウスを吹いていた。

肝心の音楽の方は、これがまた素晴らしい。ディキシーらしく4弦バンジョーも登場する。聴いていて、暑苦しすぎず、楽しいアルバム。しかも、ジャズのスタンダード曲集なのも嬉しい。ニューオーリンズ系のミュージシャンに明るくないので、ドクチータム以外のメンバーは誰も知らないのだけれど、ノリノリのスイングもあれば、しっとりと歌を聴かせるバラードありのアルバム。

ドクチータムは、トランペットもピカイチなのだけれど、渋いボーカルも悪くない。こういうアルバムは、難しいこと考えずに、じっくり聴かないで、さらりと聴いていても十分楽しめる。しかめっ面して、うんうん唸りながら聴くようなジャズとは違うから、疲れていても聴いていられる。

ジャズ、聴いてみたいけれど、どれから聴けば分からんという方にも、ジョンコルトレーンを聴くほど元気じゃないと言う方にも、ジャズとはなんなのかわからなくなってしまったと言う方にも、オススメできるアルバムです。ジャズとはなんたるかを、もう一度叩き込んでくれる、そういうアルバムです。

 

あ。このアルバム紹介するの2度目だった。