Art Pepperのように音楽を奏でられる天才は

スタンゲッツ、アートペッパー、チェットベイカー。この3人は間違えなくジャズの世界ではスーパースターだ。それぞれが、独自のサウンドを持っていながらにして、最晩年までメインストリームのジャズを貫いてきた。エレクトリックにもならずに、ジャズファンクもやらずに(3人とも白人だからというのもあるのかもしれないけれど)、チンチキチンチキの4ビートジャズを貫いてきた。

スタンゲッツは、サックスの世界では一番表情豊かな音色の持ち主だと思う。スタンゲッツの音色は、きっと真似しようと思っても真似できなかったのだろう。時に力強く、時に柔らかく、なんでもこなしてしまう。音色も、テクニックも、歌心も完璧なプレーヤーだ。まさにテナーサックスを吹くために生涯をかけたジャズマンだと言えるんではないか。

チェットベーカーは、それとは対照的に、すごく寡黙なトランペッターだ。いつもソフトなサウンドで、熱くなりすぎない。多くを語らない。それでいて、歌心は他のジャズプレーヤーから抜きん出ている。アドリブというものがいとも簡単に湧き出てくるかのようなフレーズの数々。チェットは、何方かと言えば不器用な方だ。

もちろん、若い頃のチェットベーカーはなんでもできたし、速いフレーズもバリバリ吹けた。ハイノートヒッターではないけれど、音域なんて彼の音楽の前ではどうでもいいファクターだったと思う。

それでは、アルトサックスのスーパースター、アートペッパーはどんなプレーヤーと表現すればいいのだろう。彼も、上に挙げた二人と並ぶ天才であることは間違いない。なんといっても、アートペッパーは自由自在に楽器を操ることができるし、チェットベーカーのように、鼻歌を歌うようにソロを吹きまくる。メロディーが溢れ出てくるようなそんなアドリブだ。

3人に共通しているのは、早死にしてしまったこと。スコットラファロやら、クリフォードブラウンのような早死にではないけれど、本来であれば、まだまだ活躍できる50代、60代で亡くなってしまっている。

チェットベーカーのアルバムは若い頃のものから、晩年の作品までかなり持っているけれど、スタンゲッツ、アートペッパーに関して言えば、聴くのは晩年の作品ばかりだ。

スタンゲッツとアートペッパーはどうも、上手すぎて、若い頃の演奏を聴いていると疲れてしまう。二人とも最晩年に録音したアルバムが素晴らしい。音色や、テクニックは若い頃の方がすごかったのだろうけれど、なんでもできてしまう名手だった二人が腕の衰えを少しだけ感じながらも情熱を振り絞って吹いているそれらの作品は素晴らしい。いくら、腕が衰えたと言っても、そこらのスーパープレーヤーの何倍も表現力はある。

今日は、アートペッパーのアルバムを聴いている。1975年の「Living Legend」という作品。晩年の作品ではないけれど、程よく力が抜けていて聴きやすい作品。この人がバラードを吹いたらいかに凄いかがわかる。

個人的には、アートペッパーの最高傑作は、「Roadgame」というアルバムに入っているEverything happens to meだと思っている。私は、そのトラックが好きで、何度も何度も繰り返し聴いた。本当に、感動的なバラード。

晩年のアートペッパーが、じっくりと一音一音を絞り出すかのようにバラードを奏でる。12分のトラックで、10分ぐらいまではクールに、美しく吹くのだけれど、最後で彼は、吹きまくっていた黄金時代を懐かしむかのように熱く、激しくバラードを奏でる。エンディングのテーマの最後の最後ではフラジオを鳴らすのだけれど、その音ががかすれそうで、それがなんともかっこいい。

まるで、「俺は、今でもまだ吹けるんだぞ」と聴衆に語りかけるようなエンディング。そのクライマックスで、彼は少しだけ苦しそうにフラジオを鳴らす。その叫びのような一音だけで、彼の音楽の美しさを証明しているかのようだ。

自由自在にサックスを吹ける奏者は沢山いる。けれども、アートペッパーのようにドラマチックにアルトサックスで音楽を奏でることができるプレーヤーは彼しかいない。そんな当たり前のことを、彼の録音を聴くたびに思い知らされる。

ベヒシュタインで録音されたピアノ音楽

何度かこのブログにも書いたけれど、私の自宅には1896年製のベヒシュタインのグランドピアノがある。庶民の私が、この貴重なピアノを所有するようになったのには、ちょっとしたストーリーがある。

その話は、長くなるから、今日は割愛して、一枚の素敵なアルバムを紹介したい。

「川岸秀樹ピアノソロ曲集 PIANOWORKS- 11 songs」と題されたこのアルバムは、ピアノの詩人 川岸秀樹さんが作曲したピアノ曲が11曲収められている。演奏するのは3人のピアニスト。川岸さんは北海道の調律師で、作曲もされる。いや、調律もする作曲家と呼んだ方がいいだろうか。

川岸さんの曲は、どれも優しく、朗らかで、切ない。初夏の札幌の日差しの中からポロポロと聞こえてくるピアノの音色のような、素敵な音楽だ。それは、ポップスでも、ジャズでも、はたまたクラシックとも少し違った、川岸さん流の「ピアノ音楽」だ。どの曲も、聴いていると心が休まってくる。

ピアノ音楽、というものが私は苦手だった。

ピアノ音楽の音は、どれも同じように濁っていて、ドカドカしていて、どうもハシタナイ、と思っていた。ピアノ屋で勤めるようになってからも、仕事で聴くピアノのコンサートも少しだけ苦手だった。中には本当に素晴らしいピアニストの方々も多くいたけれど、それでも、ピアノだけで奏でられる音楽というのは、どうも強迫観念のようなものを抱かされるぐらい、窮屈で、音が詰まりすぎていて、甘美すぎて、好きではなかった。まるで、甘すぎる果物のような。

いろいろなコンサートの現場で調律する川岸さんのことだから、様々なピアノ音楽に触れているだろう。きっと、私の苦手だった「ピアノ音楽」の方が、川岸さんの専門分野なのかもしれない。

けれども、このアルバムから聞こえてくる川岸さん流のピアノ音楽は、ピアノの音色が甘美すぎず、ダイナミック過ぎず、むしろ地味でいて、懐かしい。そして、そこに、ピアノという楽器が持つ、美しさのひとつの完成形があるような気がする。私は、このアルバムを聴いた時に「ああ、やっと見つけた」と感じた。

私の好きなピアノの音色とは、重なり合う時の濁り方と、単音で聴かせる時の澄み渡った感じが程よく混ざったものなのだ。それは、たとえどのような音楽を奏でていても共通することなのだけれど、そういう音を出せるピアニストと出せないピアニストがこの世の中にはどうも存在するらしい。そして、私の好みの音色を出せるピアニストは、どうもそう多くはないらしい。そして、そのような音を奏でる楽器もそう多くはないのだろう。

もちろん、ピアニストという商売は常に自分が弾く楽器を選べるわけではないので、どんな楽器でもその時のベストを引き出せないといけない。だから、使っている楽器云々を語るべきではないのかもしれないのだけれども、このアルバムに関しては、どうか楽器についても語らせて欲しい。

このアルバムは、私の自宅のピアノで録音された世界で唯一のアルバムだからである。

自宅のピアノを弾くたびに、このCDのことを思い出し、「どうやったらあんなに美しい音を作り出せるんだろう」と首を傾げたりする。そして、時々このアルバムを聴いている時に、どこか懐かしいものに出会ったような感覚にもなる。ペダルの軋む音、鍵盤から指を離してから音が消えるまでの少し物悲しいような響き、低音弦のゴロッとしていながらすこしナイーブな響き、そこには紛れもなく、私の自宅のベヒシュタインの音色がある。

よくぞこのピアノに合う曲をこんなに書いてくれた!!

残念ながら、このCDは一般流通はしていないようなのですが、アマゾンではストリーミング配信で売られているようです。

川岸さんにお願いして、家宝として、もう一枚買っておこうかな。

 

こういうアルバム、好きだなぁ Chet Baker & Paul Bley “Diane”

私の最も好きなトランペッターはChet Bakerなのだけれど、このブログではあまり彼のアルバムについてとりあげてこなかった気がする。

Chet Bakerは語られていることが多すぎて、今更私がここで書くほどのこともないのだけれど、彼の生涯についてはいろいろと言われているが、彼の音楽についてはその陰に隠れてしまいがちなので、少しだけ書かせていただこうと思う。

今日はChet BakerがPaul Bleyとデュオで吹き込んだアルバム「Diane」について。

そもそも、ポール・ブレイというピアニストについて私は詳しいことは知らない。参加作もこのアルバムぐらいしか持っていないかもしれない。しかし、このアルバムを聴く限り、ポール・ブレイのピアノはとても静かで、美しい。寡黙でいて、無駄がない。それでいて、語りかけてくるような、暗さと温かさがある。

70年代にカムバックしてからのチェットは、50年代のマイルスデイヴィスよりもさらにスペースのあるジャズを奏でる。このアルバムでも、その姿勢は変わらず、フレーズとフレーズの間隔が広く空いているのもそうだし、奏でられる歌もとても言葉少ない。Chet Bakerのトランペットも歌もそのようだから、そこにPaul Bleyのピアノが重なると、トランペットと伴奏という役割を越して、無口な二人の中年男性がなんとか会話の糸口を探りながら、音楽を進めているかのような感覚で聞こえてくる。

その会話は、いつまでも平行線のようにも聞こえるし、その一方で二人が語りたいことは十分語り尽くしているかのようにも聞こえる。まるで、音楽という表現に、音の数は関係ないかのようだ。実際、この二人には、音の数の多さなんていうものは音楽を形成するためにはさして重要なことではないのかもしれない、もしくは、音を絞ることによってそこから紡ぎ出される会話の内容を大切にしているのかもしれない。

チェットベイカーは、あまり譜面に強いトランペッターではなかったと聞いたことがある。コード譜というものにもそれほど強くなく、すべては耳で感じた感覚でアドリブを繰り広げていたと聞いた。そのような音楽家だから、これだけ寡黙なピアニストと組むと、会話が成り立たなくなってしまうのではないかという不安もあるのだけれど、幸いにしてこのアルバムは、そのような不安は微塵も感じさせない演奏に仕上がっている。

それは、収録されている曲がほぼジャズのスタンダード曲、それもチェットベイカーの得意なレパートリーばかりだということも、良い方向に働いているのだろう。無駄のない音使いの中からは、リラックスした二人の音楽家の会話が聞こえ、その音と音の隙間からは、次にどんな音楽ができあがるのだろうかというスリルが感じられる。

音使いの少なさばかりについて、書いてしまったが、もちろんこのアルバムはそれだけでは語れない。この、アルバムの音楽を作り出しているのは、チェットの柔らかく、ダークで深く、それでいて華奢な音色と、ポールブレイのキリリとしたピアノの音色とも言える。

特に、ポールブレイのピアノは、空気の澄んだ日にどこか遠くから聞こえてくる汽笛のようなキリリと澄んだ音色である。チェットのトランペットに寄り添うように弾いてみたり、時には独白調になってみたりしながらも、その澄んだ音色は変わらずにそこにある。ジャズのピアノの名手は数多いれど、このような音色で聴かせるピアノを弾ける名手はなかなかいないのではないだろうか。

チェットのトランペットはこの時ブッシャーのアリストクラートモデルを吹いているはずだ。アルバムのジャケットに写っているのもそのモデル。彼が、質屋で手に入れたと言われている、スチューデントモデルのトランペットである。私も、同じモデルを持っているので吹いたことがあるけれど、特にキャラクターの強い楽器ではない。

ポールブレイのピアノは、ハンブルクスタインウェイだろうか。それともヤマハだろうか、はっきりとしたことはわからないけれど、楽器のキャラクターが前面に出てくるような感じではないが、どのような楽器であれ、このような澄んだ音色を作り出せるのは凄い事だと思う。

二人は、このアルバムをたったの1日で録音している。チェットとポールブレイはアルバムこそこの一枚しかないかもしれないが、何度も共演していたとどこかで読んだ。このアルバムを聴く限り、ポールブレイは、晩年のチェットベイカーの音楽を実現するために理想的な共演者だったのだろう。

このアルバムで奏でられる音楽は、力強くなく、本当に儚い。しかし、そのはかなさの中に、本来音楽を奏でるということのために求められる大切な要素と、音楽を鑑賞するということの不思議な喜びが詰まっていることは確からしい。

五十嵐一生と辛島文雄の共演盤「I wish I knew」に並ぶ、愛聴盤である。

ディキシーランド再訪 Doc Cheatham

近頃、トランペットの話ばかり書いているので、ご興味のない方には大変恐縮なのだけれど、こういう不景気な世の中だからこそ、トランペットの温かい音色で鬱憤を吹き飛ばしてしまおうと、今夜もトランペットもののアルバムを聴いているChet Bakerが好きで、ジャズといえばチェットのアルバムばかり聴いているのだけれど、たまには趣向を変えて、今日はディキシーランドジャズを聴いている。

ディキシーというと、どうも苦手な方は苦手なようで、特にモダンジャズを聴く方の多くはディキシーを聴かないという人が多いように思う。たしかに、最近のジャズが好きな人がディキシーランドを聴くと、どうもトンガっていないような気分になってしまうのは仕方ないだろう。ロバートグラスパーを好きだと言う人にバリバリのディキシーを一緒に聴こうと誘ってもおそらく断られるだろう。

しかしながら、偏見を捨てて聴いてみると、こういうオールドスクールなジャズは、案外トンガっていてカッコイイ。一度に2本も3本もの管楽器がアドリブの取っ組み合いをやるジャズのスタイルって、ディキシーぐらいじゃないだろうか。片方がリードを吹いて、片方がそれにオブリガードをつける時もあれば、一気に両方とも前に出てきて吹きまくる、時にはそれに歌やピアノソロも加わる。こういうのは聴いていてスリリングである。

オールドジャズの世界も名盤は沢山あるけれど、今夜聴いているのは、Doc Cheathamというディキシー時代の大御所が歳をとってから吹き込んだ一枚「Swinging down in New Orleans」1994年の作品。バリバリのオールドジャズを高音質で楽しめる。

ドクチータムの若い頃の音源は聴いたことないのだけれど、80歳を過ぎたあたりから、ニコラスペイトンと共演盤を出したりして、俄然元気が湧いてきた名人である。1905年生まれのはずだから、このアルバムを吹き込んだ時は88歳。それでも、全然歳を感じさせない演奏である。

若い頃はどんなトランペットを使っていたのかはわからないけれど、このアルバムではスタンダードなBACHのストラディバリウスを吹いている、それも、ジャズマンには珍しい、銀メッキ。バックの銀メッキって、なんだかジャズに向いていないんじゃないかなんて、ずっと思っていたけれど、この人の演奏を聴いてイメージが変わった。ダークでハスキーな音色から、パリッとした音まで、バックらしいハキハキとした音色で聴かせてくれる。

そういえば、ウィントンもニコラスペイトンも、あのロイハーグローブも、若い頃はみんなバックを吹いていたっけ。ニコラスペイトンはラッカーの楽器だったけれど、ロイハーはやっぱり銀メッキ。楽器なんてなんだってかんけいないんだなあ、と思っていたら、私の好きなチェットベイカーも晩年はセルマーが貸与したバックのストラディバリウスを吹いていた。

肝心の音楽の方は、これがまた素晴らしい。ディキシーらしく4弦バンジョーも登場する。聴いていて、暑苦しすぎず、楽しいアルバム。しかも、ジャズのスタンダード曲集なのも嬉しい。ニューオーリンズ系のミュージシャンに明るくないので、ドクチータム以外のメンバーは誰も知らないのだけれど、ノリノリのスイングもあれば、しっとりと歌を聴かせるバラードありのアルバム。

ドクチータムは、トランペットもピカイチなのだけれど、渋いボーカルも悪くない。こういうアルバムは、難しいこと考えずに、じっくり聴かないで、さらりと聴いていても十分楽しめる。しかめっ面して、うんうん唸りながら聴くようなジャズとは違うから、疲れていても聴いていられる。

ジャズ、聴いてみたいけれど、どれから聴けば分からんという方にも、ジョンコルトレーンを聴くほど元気じゃないと言う方にも、ジャズとはなんなのかわからなくなってしまったと言う方にも、オススメできるアルバムです。ジャズとはなんたるかを、もう一度叩き込んでくれる、そういうアルバムです。

 

あ。このアルバム紹介するの2度目だった。

今宵もまたSwing Jazzを Charlie ShaversとHarry Edison

世の中、新型コロナで大変ではあるけれど、こういう時こそ前を向いてこれから何をすべきかについてじっくり考えなくてはいけない。考えなくてはいけないとは思うのだけれど、こういう時に前向きに考えられるのは、ある意味普段からのトレーニングを要するのではないだろうか。

前向きに考えるトレーニングと言われても、そういうことは普通の学校なんかではなかなか教えてくれないし、スポーツでもやろうものなら別だろうけれど、完全に文科系の、私はそういうトレーニングを怠ってきたような気がする。

しかしながら、トレーニングを怠っていることはもはや言い訳にはできなくて、とにかくどんな時でも前に進まなければなるまい。時間ができた人は、この機会に本を読んだり、勉強したりでもいいだろうし、逆に、時間を取られてしまって忙しくて何も手がつかないという方は、この機会に普段とは違う経験をして、一回りでもふたまわりでも大物になれるチャンスなのではないだろうか。

そんな、無責任なことを書いているけれど、かくいう私は、特に普段と変わったことをしてはいない。もっと積極的になろうという気持ちはあって、毎朝、仕事に行く前に、今日こそ、昨日よりも積極的な態度で仕事をしようと思うのだが、いまいち不完全燃焼のまま数週間が経過してしまっている。

人間、何が辛いって、いやなことが降りかかるのも辛いけれど、不完全燃焼が続くのも辛い。

辛いのであれば、自分からもっともっと努力すればいいのだが、その努力すら不完全燃焼気味である。これは、よくない。とてもよくない。明日こそ、今日よりももっとしっかり仕事をして、汗だくにはならなくても、どっと疲れて帰って来るぐらいの態度で臨みたい。急に明日がそうならなくても、この騒ぎが収まる頃には、バリバリ働き、社会人としてもっと会社に貢献できる人間になっていたい。

そのためには、まず、気分のメリハリが必要だ。緊張している方は、いまいちなのであれば、少なくともリラックス方面は徹底してリラックスせねばなるまい。

リラックス、といえば、私は音楽を聴くことが一番リラックスかもしれない。もちろん、どんな音楽かによって、エキサイトしたりリラックスしたりは違うけれど、特に肩肘を張らずに、どんな音楽でも聴いていれば、リラックスのしかたを思い出すことが出来る気がする。

それで、今日もあいも変わらずチャーリーシェイヴァースのアルバムを聴いている。それも、先日紹介したガーシュウィン曲集ではなく、別のストリングスもの、所謂「ヒモ付き」のジャズスタンダード曲集「The Most Intimate」を聴いている。

このThe Most Intimateもなかなかの名盤である。Charlie Shaversに駄盤はないのか、と思わせられるくらい、この人のアルバムは良いものが多い。

甘ったるいから、ダメな人はダメなのかもしれないけれど、トランペット好きで、嫌いな人は、少ないのではないだろうか。かくいう私は、ずっとCharlie Shaversを聴いてこなかった。理由は、シンプル。巧すぎるからである。こういう、なんでもできちゃうトランペッターが苦手だった。なんでもできるから一流のプロで居られるのだけれど、この人の場合ズバ抜けてすごい。ハイノートは煌びやかだし、ハスキーな中音域もフレーズの歌い回しも、早いパッセージだってなんだっていとも簡単にこなしてしまう。

ビバップ以降のスタイルの凄腕もすごくて、尊敬してしまうけれど、それ以前のスタイルでも、すごいやつは凄い。代表的なところでいくと、Harry Jamesあの人も凄い。もう、トランペットと一緒に生まれてきたのではないかというくらいトランペットを自由自在に操り、めまぐるしく表情を変えながら音楽を奏でる。いくらトランペットが体の一部だって、あれだけ体の一部を操れるのは、オリンピック選手ぐらいではなかろうか。スポーティーな凄腕である。

しかし、スポーティーな凄腕というのも、いつも聴いていると飽きてきてしまうものでもあるのだ。チャーリーシェイヴァースは、スポーティーなところをあまり見せつけないアルバムがあるので、良い。疲れたらそれを聴けば良いのである。

それでもチャーリーシェイヴァースの音楽は、ちょっとよくできすぎている。彼のようなビシッとキマッた音楽に疲れたら、もう少しラフなジャズを聴きたくなるのもので、私も、Charlie Shaversの後には、なにかクールダウンする音楽を聴くことにしている。

それは、騒がしいハードバップでも良いのだけれど、トランペットで言えば、もうすこしリラックスして、Harry EdisonかBobby Hackettなんかが丁度良いと思っている。Harry Edisonは名盤が多いのだけれど、特に「Sweets for the Sweet」という、これもストリングスもののアルバムが良い。ストリングスものではなくもっとじっくりとジャズを堪能したいのであれば、「At the Haig」というワンホーンカルテットでの名盤もある。今日は、さらにもう少し、リラックスした音楽をと思い、Buddy Tateやら Frank Wessやらのスイング時代の大御所とのジャムセッション「Swing Summit」を聴こう。

Charlie Shaversでお腹いっぱいになった後は、Harry Edisonのアルバム、オススメです。

姉の仇のように聴いていた「Hot House Flowers」

姉が中学の時にブラスバンド部でトロンボーンを吹いていた。いや、正確にはトロンボーンを吹こうとしていた、といったほうが良いかもしれない。私は、姉がトロンボーンを吹いているところを一度も見たことがない。

「教育熱心」だった両親は、姉が勉学ではなく部活動に精を出すのが気に入らなかったようで、ブラスバンド部にも反対していた。今考えてみると、なんの取り柄もない、勉強だけできる人間を育てたところで、なんの良いこともないのに、両親は、姉の学校の成績のことばかりに文句をつけ、しまいにはブラスバンド部をやめさせてしまった。

姉だって、もしかしたら少しは悪いところはあったかもしれない。私の姉は、聖人ではないし、その頃どんな人間だったかなんてすっかり忘れてしまった。

姉が、トロンボーンのマウスピースでバジングをしているところを2度ほど見たことがある。中学のブラスバンド部に入部したての頃だ。姉は、ジャズを吹きたいと言っていた。吹奏楽の退屈なCDを何枚か持っていたのも覚えている。私も、姉がいない時にこっそり聴いたからだ。

4歳ぐらい離れた弟の私は、高校に入る頃、ジャズばかり聴いていた。それも、トランペットもののジャズを。

きっと、ジャズを吹きたかった姉の憧れていたものが、どんなものなのか知りたかったということもその理由にあったのだろうけれど、ちっとも良さがわからないジャズのCDを4枚ほど持っていて、それを何度も繰り返し聴いていた。結局、ジャズの魅力なんて、ちっともわからなかった。ジャズのレコードから流れてくるトランペットの音は、私のイメージするトランペットの音とはかけ離れていた。私の中では、ニニロッソのような甘ったるい音色がトランペットだと思っていたからだ。

それでも、トランペットには憧れがあって、高校の同級生がどうやらトランペットを持っていて、使っていないというので、借りてきて、吹いてみようとしたりもした。

マウスピースは、街の楽器屋で2,500円で売っていたDoc Severinsenと書かれた箱に入っていた7Cを使っていた。その頃はDoc Severinsenが誰なのかも知らなかった。彼の世界最高の音色については、何も知らなかったけれど、とにかく、安かったので、そのマウスピースを買った。

両親は、私の学校の勉強のことにしか興味がなく、私も、ずいぶん前にヤマハ音楽教室を嫌で嫌で辞めたこともあり、誰にもトランペットを習うこともせずに、時々、借りた楽器を口に当てて、ひどいアンブシュアだけが身についた。のちのち、そのアンブシュアを治すのにずいぶん大変な思いをした。

高校時代に、家が嫌になってしまい、日本の学校も嫌になってしまい。オーストラリアの高校に通った。そこでも、人種差別で大変な目にあい、ろくに友達はできなかった。それで、仕方なく、また、音楽を聴いてばかりの生活になった。

そのころも、まだジャズと、トランペットへの憧れは変わらずに、わかりもしないジャズを何度も繰り返し聴いていた。今考えてみると、当時私が聴いていたジャズは複雑すぎた。だから、それだけ何度聞いてもちっとも体に入ってこなかったのかもしれない。ただ、音楽のセンスがなかっただけかもしれないけれど。

それでも、何度も何度もウィントンマルサリスの「Hot House Flowers」というアルバムを繰り返し聴いた。なぜか、そのわからない音楽のこのCDが好きだった。ウィントンの音楽は、今聴いても、どうもインテリ的で、テクニカルで複雑なのだけれど、さすがはトランペットの天才、音色は素晴らしい。その、音色の素晴らしさだけでも、感じるところはあったのかもしれない。

オーケストラアレンジなので、どうも、ストレートアヘッドなジャズとも違うのだけれど、これはこれで、今聴いてみるとなかなか良い。ウイントンのトランペットは、どうも味気ないという先入観があったけれど、味気ない中にも、なにか説得力のようなものがある。味気なさは、巧すぎるところからきているのかもしれない。実際、ソロも、優等生的なだけにおさまらないで、自由に吹きまくっている。この自由さは、若い頃のウィントンマルサリスのアルバムでは存分に発揮されているのだけれど、その自由さがどうも気に食わなかったのだけれど、このアルバムの自由さは私が聞き慣れているせいもあるけれど、どこか心地よい。

この頃のウィントンはBACHのヴィンドボナを吹いていたと思う。どう考えてもクラシック野郎の吹くようなこのおぼっちゃま楽器から、ダークでリリカルなジャズを紡ぎ出していたんだから、さすがウィントンである。

特に、個人的には5曲目の Djangoが好きで、何度も聴いた。

お勉強ばっかりやっていても、ロクな人間にならないだろうと冒頭に書いたけれど、楽器の練習と音楽のお勉強ばかりやっていたであろうウィントンであるが、19歳にしてこのような素晴らしい演奏ができるのだから、天才はやっぱり違う。

ウィントンは、これからどうやって枯れていくんだろう。それが、本当のかれの音楽的勝負だと思いながら「Hot House Flowers」をあらためて聴いている。

 

じっくり聴けるアルバムは多くないけれど、素晴らしい音楽家 Chet Atkins

カントリー音楽を聴き始めてから随分経つけれど、Chet Atkinsを好きになったのは聴き始めたからずっと経ってからだった。

そもそも、チェットアトキンスは夥しい数のアルバムを出していて、まず初めにどれを聴けば良いかよく分からない。今でこそカントリーミュージックのディスクガイドのようなものも何冊か出ているけれども、それは、ここ数年でカントリーミュージックがある程度再評価されてきたおかげかもしれないし、ひょっとしたら、私の知らないところでカントリーがブームになっているのかもしれない(いや、それはないか)。かつては、そんな便利なものは無かった。

とにかく、何の手引きもないところで、ギターのインストロメンタルのアルバムを片っ端から聴くというのはなかなか大変な作業だ。その上、誤解を恐れずにいうと、Chet Atkinsの脂がのっていた頃のアルバムで、一枚じっくり聴きこめるような名盤は何枚あるだろう?RCA時代から、たくさんのヒット曲はあるけれど、どちらかと言うとラジオで聴いたり、何かのBGMで聞く程度で、自宅のステレオでじっくりアルバムを聴くような類いの音楽ではないのかもしれない。

けれども、私は、Chet Atkinsの音楽がとても好きで、手の届かない憧れのギタリストでもある。それは、彼が凄いテクニシャンというだけでなく、彼の音楽がうるさすぎず、テクニックをそれほどひけらかさないところに好感を持っているのかもしれない。そして、何よりも、独特の懐かしさと豊かさを彼の音楽から感じるのだ。

それでは、チェットアトキンスをいざ聴こうというときにどのアルバムから聴けば良いだろう。

いきなりデュエット盤を推薦するのも恐縮なのだけれど、Les Paulとの共演盤「Chester Lester」を私は推したい。このアルバムで、チェットアトキンスとレスポールはとてもリラックスしたムードで、かつかなり高度なテクニックを駆使してギターインストを繰り広げている。

ギターインストといえば、どうも弾きまくりのアルバムが多くて、聴いていると疲れてしまうのだ。このアルバムも弾きまくりには違いはないのだけれど、そういう疲れのようなものは不思議と感じさせない。何だかChet AtkinsとLes Paulの二人がデュエットを楽しんでいるかのようで聴いているこっちも力まずにいることができる。(当の本人たちは、一生懸命やっているのだろうけれど)

そういう意味で、このアルバムはチェットアトキンスの入門盤に丁度良い。そして、それだけでなく、このアルバムの曲はどれもがアメリカ音楽のスタンダード曲ぞろいだというのも良い。どこかで聞いたことのあるメロディーをギターの名手二人が弾くんだから悪いわけがない。

チェットアトキンスの名盤は少ないような気がすると書いたけれど、彼のレコードについて語るべきことはたくさんあって、語りきれないかもしれない。たとえ、それが所謂「名盤」と呼べるようなアルバムではなかったとしても、ギタリストだけでなく、多くの音楽好きにとってたくさんの発見があるレコードばかりだからだ。

まあ、とりあえず、持っている人も、持っていない人も、聴いてみてください。「Chester Lester」

 

久しぶりにアルバム1枚通して聴いた Gershwin, Shavers and Strings

Charlie Shaversという名トランペッターについて、詳しいことはよく知らないけれど、とにかくトランペットが上手くて、音も煌びやかな音からしっとり聴かせる音色まで的確に使い分ける凄いやつだ。

私は、ずっとこのCharlie Shaversが苦手だった。どうも上手すぎるので、癪にさわるというか、なんというか。世の中にこんなに自在に楽器を弾けるやつがいるというのがどうも受け入れられなかった。

しかし、先日、ちょっとした気まぐれから、この「Gershwin, Shavers and Strings」というアルバムを買ってきて、聴いたところ、やっぱり良いものは良いのだという当たり前のことを再確認した。

どっぷりとジャズを聴こうと思うと、このアルバムは肩透かしを食う。なぜなら、ここにあるのはジャズというよりもムード音楽だからなのだ。ムード音楽、と聞くと多くの人は、「じゃあ、それならやめよう。時間の無駄だ」と思ってしまうかもしれないけれど、ここまで完成度の高いムード音楽を聴いてみると、心を奪われてしまう。

ガーシュウィンの曲集にちなんで、イントロが「ラプソディーインブルー」の引用だったりして(それも、何曲もそのパターン)どうもなんとなく胡散臭いのだけれど、その怪しさも含めて、遊び心があるムード音楽に仕上がっている。ジャズの要素が全くないかというと、そんなこともなくて、メロディーをフェイクしたり、アドリブソロがちょっとだけ入っていたりして、それはそれでCharlie Shaversのジャズ魂も確認できるのだけれど、そういう難しいことは抜きにして、ジャズが苦手な方にも楽しんでもらえそうな内容に仕上がっている。

トランペットもののムード音楽といえばニニ・ロッソなんかを連想してしまいそうな感じもするのだけれど、ああいうヨーロッパ系の(ニニ・ロッソがヨーロッパなのかどうかは知らないけれど)ムード音楽とは一線を画す、古き良きアメリカ音楽に仕上がっているのもこれはこれで貴重だ。

Charlie Shaversの他のアルバムと違うところは、彼がテクニックをこれでもかとひけらかさないところ。それでいて、完璧なコントロールのもと危なげなくトランペットを吹ききっていて、聞き惚れてしまった。

このところ、アルバム一枚をゆっくり聴いたことなど久しくなかったけれど、このアルバムは、最初から最後まで通して聴いてしまった。

黒と白で 1973Telecaster

私は、どうも黒いギターに弱いらしく、黒いギターばかり持っている。

中学の頃ギターを始めて手にした頃は、ずっとスリートーンサンバーストに憧れがあって、フェンダーのストラトはサンバーストが一番良いだろうと思っていた。

しかし、いつの間にか、手元には黒塗りつぶしのギターばかりが残っていた。

確かにサンバーストはエレキギターらしいし、あれはあれで美しいのだけれど、どうもものとしての存在感が強すぎて、つい眺めてばかりになってしまい、あまりじっくり弾きこむということをできなくなってしまうような気もする。まあ、気のせいなのだろうけれど。

その点、黒の塗りつぶしはシンプルでいて、飽きなくて、良い。食材の世界でも、黒酢、黒豚、黒にんにく、と黒は重宝されているけれど、ギターについても同じぐらい黒は重宝されても良いのではないか。

塗装の良し悪しが一番顕著に出るのも黒の塗りつぶしだと思う。サンバーストは、サンバーストであればなんとなくカッコがつくし、木目が透けている塗装はどうも、ごまかしがあるように感じる。黒は、いちばん簡単そうでいて、綺麗な黒の塗装というのはこれがまたなかなか奥深いものがある。

例えば、黒いピアノ、あれはあれでいて一般的だけれど、近年作られた黒塗りのピアノで、「ああ美しいな」と思わせるような黒を見たことがない。一部の高級ピアノを除いて、どれもつまらない黒である。

それが、ちょっと古い60年代ぐらいまでの黒いピアノは黒に引き締まった感じがするものがある。塗装が厚ぼったくなくて、黒に透明感があり(艶消しでも)、カブトムシのような黒でかっこいい。ああいうのが黒の理想形である。

それで、黒いギターに話を戻すと、これがなかなか美しい黒のギターは少ない。

そもそも、ギブソンはレスポールカスタム以外に黒のフィニッシュのギターを近年までほとんど作っていなかったし、フェンダーも70年代中盤まで黒はカスタムカラーだった。

最近になって、エボニーフィニッシュのレスポールスタンダードなんかもあるけれど、70年代まではレアカラーの部類である。

私の手元に1973年のFender Telecasterがある。ブラックフィニッシュで、ホワイトガードである。

70年代のテレキャスター、というか70年代のフェンダーもギブソンも、私が学生の頃ぐらいには新品の半値ぐらいか、もっと安く売っていた。ところが、ここに来て、少しづつ値段が上がっているのだ。

私が、始めて1979年のテレキャスターを20代の終わりに買った時は、12万円だった。もっとも、リフィニッシュで、改造箇所もいくつかあって、フレットは減りまくっていたけれど、それでも、今買うと倍ぐらいするようになってしまった。

70年代のテレキャスターは75年ぐらいを境にボディーがノーザンアッシュのものすごく重いやつになるので、サウンドも引き締まるというか、ちょっとバリバリという感じに変わるのだけれど、あれはあれで他のギターには出せない魅力がある。だから、75年から79年ぐらいのテレキャスターが好きだ。

ただ、あれだけでテレキャスターの音というものは語れなく、どうしても、テレキャスターといえば50年代のヴィンテージというところに回帰していく。けれど、50年代のヴィンテージは今や数百万円の値段が付いていて買うことができない。60年代の個体でも100万円はゆうに越してしまう。

そこに来て、71年から74年ぐらいまでのテレキャスターは、古き良きテレキャスターのテイストを残しつつ、バリバリと暴れる感じもあり、テレキャスターを語るには十分素晴らしいギターだと思う。

できれば、これからも、あまり値段が高騰しないで、誰にでも手がとどく値段帯でいてほしい70年代のテレキャスター。まだ、派生モデルが少なく、モデル名がシンプルに「Telecaster」だった時代の楽器を、ギターおじさん達のためにも買占めとかしないでおいてやってほしい。

73年のテレキャスター、

とても不器用ですが、素晴らしい楽器です。そして、ブラックフィニッシュです。

家のベヒシュタインを調律してもらった

昨年の5月にベヒシュタインの古いグランドピアノを家に迎え入れた。それで、うちの貯金は全て使い果たしてしまった。そういうわけで、我が家には住宅ローンやら、楽器のローンやらだけが残った。

確かにお金は無くなったが、心は満たされた。

しかし、ピアノというものはメンテナンスをしなくては、どんどん劣化するものである。逆に、メンテナンスさえ怠らなければ、うちのピアノのように120年後にも楽器としての役目を果たせるのである。

しかし、悲しいかなピアノを買ってお金に窮してしまい、1年ほど調律ができなかった。北の国から運ばれてきた私のピアノは、東京の湿度にやられピッチがどんどん上がってきてしまい、ついには447Hzぐらいに狂ってきてしまっていた。これでは、ピアノを常に痛みつけているような状態だ。

これではピアノが壊れるのが時間の問題なので、清水の舞台から飛び降りる気持ちでピアノを調律してもらった。

ピアノをずっと調律できないでいたのには、お金以外にもう一つ理由があった。うちのピアノは1896年製ということもあり、すでにボロボロでいつ壊れてもおかしくない。そのようなピアノを調律したりすると、壊れてしまうのではないかと心配だったのだ。

響板には幾つもの割れがあり、アクションは元気なのだが、フレームにヒビが入っている。このフレームのヒビが気になってしまい、このピアノを調律すると、このヒビがさらにひどいことになるのではないかと危惧していて、ずっと触らずにいたのだ。また、そのようなピアノを快く調律してくれるような調律師がいるのか、ということも心配だった。

しかし、一方ではピッチが5ヘルツも上がっている。このままではピアノに負担がかかりすぎて、ピアノがダメになってしまう。

困った挙句、餅は餅屋だろうということでベヒシュタイン・ジャパンに電話をかけ、調律師さんにとりあえず来て診てもらうことにした。

こうこうこういう状態なのですが、ピアノ、調律していただけますかね?もし、来てみて、これはもうダメだということであれば、何もしないで帰っていただいても構いません。と、ダメ元でお願いしたら、調律師さんは

大丈夫です。ピアノは、持ち主が諦めない限り、いつまででも寿命を延ばすことはできます。お金がかかる場合もありますが、諦めなければ、ピアノはゴミにはなりません。ましてや、ベヒシュタインという名器をお持ちであれば、諦めずにコツコツメンテナンスすれば、必ず、良い状態を保てます。

と言ってくれるではないか。

それでは、ということで、調律に来てもらった。

午後の1時半から何時間もかけて、じっくり調律してもらった。調律だけでなく整音もしてもらった。440Hzにしてもらったから、7Hz下げである。調律を3回したという。

ピアノは、また蘇り、元気を取り戻した。もちろん、120年前の楽器である。色々とガタはきている。御老体である。新品同様とはいかない。けれど、雑音していたところも、できるだけ雑音を消してもらい、音色のバランスも整えてもらった。以前よりも、鍵盤の押さえ方に対して敏感に反応するようになった。

このピアノは、元ピアノ屋稼業の私にとって特別な一台なのだ。そして、我が家の大切な宝物なのだ。

これから、時々は練習して、いつかErroll GarnerのMistyを弾けるようになりたい。そこまでいかなくても、弾いてみたい曲は幾つかある。

この、外出自粛の中、私の心を癒してくれるのは一台のBaby Grandなのだ。