この日本企画盤臭さはどこに由来するんだろう Dusko Goykovich Scott Hamilton 「Second Time Around」

良いアルバムなんだけれども、どうもはっきりと人に「良い」と言って勧められないアルバムというのがある。特に、ジャズのCDにある。

どういうアルバムかというと、「どうも胡散臭い」アルバムだ。

この「どうも胡散臭い」というのも様々なんだけれど、わたしが一番そう思うのは

「このアルバム、日本人向けに作ったんだろうな」

と思わせられるアルバムだ。

こういうアルバムは、結構多く存在している。まあ、世界の中で日本人が最もジャズが好きなんじゃないかと思うから(統計的な数字は知らないが)仕方がないのだけれど、プロデューサーが、日本市場を意識して作っているアルバムっていうのが結構たくさん存在する。

The great jazz trioとかChet Bakerの「Sings Again」なんていうのは、そもそも日本人がプロデュースしているからしょうがないけれど、そういう、もろ日本企画盤じゃないアルバムでも、この類のアルバムがある。

今日紹介するDusko Goykovich Scott Hamilton 「Second Time Around」もそういうアルバムの一枚だと思う。

Dusk Goykovichというトランペッターは、世界的にはどのくらい有名なのか、どのくらい評価されている人なのかは知らないけれども、日本人のジャズファン好みのトランペッターであることはまあまあ間違いないだろう。純粋に音楽的にどうなのこうなのという話を私がしても仕方がないけれども、まあ、平たく言うと「わかりやすい」ジャズを演奏してくれるトランペッターである。Tom Harrellとか、最近の若い売れっ子とは対極の、トランペッターである。

昔ながらの、間違いのないジャズを、かっちり演奏してくれるトランペッターと言える。

もう一人のScott Hamiltonだって、そういうサックス吹きだ。ハリーアレンと一緒にやっているテナーチームなんかのアルバムを聴いていてもそうだけれど、わかりやすい演奏を、昔ながらの古き良き”モダン”ジャズを間違えなく演奏してくれる。

こういうと、語弊があるかもしれないけれど、いかにも日本人のジャズファンが好きそうな演奏である。

それで、今日の「Second Time Around」である。

はっきり言って、アルバムとしては悪くないアルバムだ。有名なジャズのスタンダードばかり入っているし、ソロも、昔ながらのスタイルで、曲の解釈もこむづかしくない。聴いていて、全く疲れない演奏である。これはこれで良いもんだ。

しかし、なにかが物足りない。

私はこのアルバムのように完成されたパッケージよりも、どちらかというと、もう少し出来の悪い、完成度の低いアルバムを聴きたくなってしまう。プレスティッジの垂れ流しブローイングセッションとかそういうアルバムの方が聴いていて楽しい。決して名盤と呼ばれることのないアルバムでも、聴いていて刺激があって良い。

このブログのテーマは、都会の暮らしの中で疲れた時に聴ける音楽ということにしているから、この「Second Time  Around」なんてうってつけなんだろうけれども、だからと言って手放しで素晴らしいと人に紹介できない。

お勧めできない、というアルバムを紹介しても仕方がないのだけれど、あくまでも、私の好みから行くと、お勧めしない。

しかし一方で、完成度の高い、聴いていて疲れない、リラックスできるジャズを聴きたい方には、うってつけのアルバムであることも確かである。

現に、このブログを書きながら聴いてみたりしたんだけれど、なんというか、とても素敵なアルバムである。抑制の効いた演奏にしても、アレンジの上品さでも、よくできたアルバムである。

とくに良いのは3曲目の「You’re my everything」この曲の可愛らしいところをうまいこと表現していて、素敵だ。なんといっても、最後のターンアラウンドのところが、カウントベイシー風の味付けがされていて、良い。ジャズの基本を押さえた、なんとも言えない名演である。

けれども、まあ、このアルバム、そういうアルバムですから。

JBL 4312A を購入。とりあえず、Bill Evans Trioを聴く

約17年ぶりにスピーカーを替えた。

二十歳の春に上京した際に国立のオーディオユニオンでTannoyの安いスピーカーを買ったのだが、それに特に不満もなく今までやってきた。もちろん、満足していたわけでは無い。しかし、家ではあんまり大きな音は出せないし、聴く音楽も、カントリー、ジャズ、ロックやらクラシックはては演歌までだから、とくに偏りの無い安物のTannoyの音に慣れていたのだ。

偏りの無い、それでいて特に魅力も無い音であったのだが、やはり20年近く使っていると少しずつ物足りなくなってくる。特に、ジャズを聴くときのベースの頼りなさ、シンバルのシャリシャリ感が物足りなくなった。演歌だって、もっといい音で聴きたい。低音が安定するスピーカーで聴きたい。なんて思うようになった。

JBL 4312Aは期待通り低音が安定している。安定しているというよりも、大迫力である。JBLは低音が大迫力であるという評判は確かなようだ。部屋中にくまなく行き渡るベースの音。今までには無かった感覚だ。まるでライブハウスのようだ。

特に、アナログレコードを聴いたときに、今までは低音が物足りなかった。最近のCDはわりとドンシャリ系の音作りなのか知らんが、割とくっきりはっきり聴こえる。小型の Tannoyでは十分な低音は鳴らせないけれども、それでも、都会の喧騒に埋もれずにベースの音、バスドラの音が聴こえるような気がしていた。

しかし、 JBLに変えて初めてわかった。今までは低音が聴こえていなかったのだ。高音も聴こえていたのはほんの一部で、本当はレコード中にもっと豊かな高音部も隠れていたのだ。

JBLは決して万能スピーカーでは無いと思う。このスピーカーで聴くとバランスが悪くなってしまう音楽、特にクラシックなんかではあるだろう。オーケストラものやオペラなんかには向いていないと思う。思い込みかもしれないけれど。コンサートホールでオーケストラを聴くような繊細な音はこのスピーカーからは鳴らないような気もする。気のせいかもしれないけれど。

けれども、一旦それがモダンジャズとなると、このスピーカーを凌駕するものはこのクラスではなかなか無いんじゃ無いか。この、ピアノトリオを聴いているときの感覚が、ライブハウスのようだ。ウッドベースの最低音はもちろんだが高音部の音までパサパサしないで聴こえる。シンバルの音も、綺麗に聴こえる。ビッグバンドを聴いていると、生で聴くビッグバンドとは違うんだけれど、ビッグバンドらしい音圧に浸ることができる。

何よりも、フランクシナトラの声がくっきり聴こえる。さすがJBLである。フランクシナトラはJBLで鳴らすためにマイクの向こうで歌っているのでは無いだろうか、と思わせるほどシナトラの歌がドッシリとして聴こえる。ああいう、バリトンボイスにはうってつけのサウンド作りなんだろう。

今夜は、ビル・エヴァンスの「California here I come」を聴いている。ピアノトリオの名盤である。エディーゴメスの音が良い。今までエディーゴメスなんかを良いと思ったことはほとんど無かったのだけれど、なかなか良い。フィリーの音も良い。特にブラシの音が今までのスピーカーよりザラザラ感が出ていて良い。スネアのスナッピーの音がクリアだ。ビル・エヴァンスの音をどうとかいうのはよくわからないけれど、パーフェクトだ。

とりあえず、ビル・エヴァンストリオはJBLに向いているということは十分にわかった。

流行りに乗って、カズオ・イシグロ「 Never let me go」を読んだ

ノーベル平和賞だのなんだのにあまり興味はないけれど、やはりノーベル賞はすごいことだけは知っている。

ノーベル文学賞、などというと、それがどれぐらいすごいことなのかわからなくなってしまうくらいすごいものなんだろう。それは、川端康成、ガルシアマルケス、大江健三郎なんかの、数少ない私が読んだことのあるノーベル文学賞受賞者の顔ぶれをみても明らかである。

とくに川端康成は、すごいと思う。世界に何編の小説があるのか、私には見当もつかないが、まあ、数えて数えられる以上に現存することは確かだろう。星の数ほどという表現があるけれども、まさに星の数ほど、世の中には小説というものがある。

例えば、八重洲ブックセンターに行く。あそこにはそれこそ数え切れないほどの書籍が置かれており、9割9部9厘の本は読んだことのない本だ。その中の1割ぐらいが、小説やら文学という範疇に収まる本で、それだけを採ってみて、全て読んでみろと言われても、おそらく一生かけても読むことはできないだろう。しかし、忘れてはいけないことは、あそこに置かれている文学も、世界に現存する小説、文学のほんの一部であるということだ。

その証拠に、私は何度かあの店で中上健次の本を探しに行って無かった、という経験がある。中上健次に限らず、福永武彦、堤中納言物語もそうだった。無かった。

中上健次、福永武彦などと言ったら、文学の世界では大家である。その、大家の本ですら無い。いや、探したらあったのかもしれないけれども、見当たらなかった。いわんや、大家では無い方々の作品のこと、日本語に訳されていない海外の文学に思いをはせると、それこそ、八重洲ブックセンター50軒分以上の文学というものがこの世に存在するであろう。

その中でも、川端康成は特別なんだから、すごいと思う。数多ある文学の中から、「ノーベル文学賞」をとっちゃったんだからすごい。

なにも、ノーベル賞をとったから川端康成がすごいというのでもない。あまり本を読まない私の中でも、川端康成は特別にすごいと思う存在だ。彼の作品は何度もなんども読むたびに新たな発見がある。それだけでは無い、読むたびに心を惹くものがある。人をして、感動させる何かがある。それがいったいなんなのかがわからないのだけれども、とにかく強く惹きつけられるものがある。

生きていて、川端康成の作品に出会えてよかったと思う。夏目漱石の草枕だって、素晴らしい作品だと思うけれども、川端康成のほうが上だと思う。文学に上も下も無いとおっしゃる方もいると思うけれど、それでも、川端康成のほうが上だと思う。

それで、ノーベル文学賞である。

イシグロカズオ、もといカズオ・イシグロがとったらしい。かずお・楳図ではなく、カズオ・イシグロがとったらしい。あの、日の名残りのカズオ・イシグロである。

「わたしを離さないで」(原題Never let me go)を読んだ。

世の中では、村上春樹がとるんじゃないか、とか毎年騒がれるが、村上春樹がとるなら、その10年前にカズオ・イシグロがとらないとおかしいだろう。Never let him go!とカズオ・イシグロに叫ばれているような衝撃を受けた。

単なる気味の悪い小説とも捉えられるこの一編の中には、一貫したものがある。一貫性ではなく、一貫し、話を突き動かすものがある。それがなんなのか、言葉で言えるのであれば、この小説など読まなくてもいいだろうけれど、私にはそれがなんなのか言い表わせるボキャブラリーが無い。

あえて言うならば、それは、不安という言葉であろうし、腰掛の人生に対する肯定とも言える。自分という存在を肯定することの果てども無い戦い、そしてその戦いの虚しさ。そういうものがこの小説にはある。それが、ここで私の言っている一貫しているものと同じものでは無いのかもしれないけれど、ある意味ではそうだとも言える。いや、そう言いたい。

そう言い切りたいが、そう言えない。そういうもどかしさを含んだ人生そのもに対するどうでも良さと切実さ、それがこの小説にはある。

この際、主人公の置かれている特別な境遇は一度置いておこう。それでも、そこには誰もが持つ自分を肯定したいという飽くなき欲求と、肯定したところでどうということでも無いという虚しさがはっきりと描かれている。それは、すべての登場人物に共通しているようで、いや、まあ、共通しているのだけれども、それぞれに違った立場からその足元の不安定さが滲み出てきている。

これが、仮に普通の境遇の人の話だったとしよう。そうしたところで、この話そのものが私に訴えかけてくるメッセージはそれほど変わらないのかもしれない。

けれども、この小説の持つ独特の世界観、主人公たちの持つ境遇、普通の人生では無い人生が、まるで鏡のように私たち「普通の人」たちを映し出す。それも、かなりいびつな形に、不自然な形に、特権階級の人達として映し出す。

この小説は、他の多くの小説同様にいびつな鏡なのである。私を映し出すいびつな鏡。

この小説はそこだけでも、十分に成り立つ作品なのであるが、そこに留まらず、懐かしさを超えた気味の悪さが存在する。その気味の悪さも同様にこの小説を貫いている。気味の悪い小説というものは世の中にたくさんあるのだろうけれど、この小説に説得力があるのは、その気味の悪さの原因は読者自身にあるということを初めから投げかけてくることだろう。

まあ、それ以上書いてしまうとこれからこれを読む人たちに悪いから、書かない。それと、これほどまでに完成された作品について、何かこれ以上言える言葉を私は知らないから。