なんだか知らないが、メロディア盤を買ってしまう

しばらくブログを書くのをサボってしまった。

最近は仕事が忙しく、わけのわからないイベントばかりやっているので、困ったもんだ。これでは楽器屋なのかイベントやなのかがちっともわからなくなる。

それで、休みを取れる日にはじっくり休むことにしている。極力仕事はしない。パソコンを開いても、極力仕事のメールチェックはしない。

外に出歩く。散歩をする。できるだけ買い物はしまいしまいと思っているのだがつい買ってしまう。今日も御茶ノ水ディスクユニオンに行って、レコードを3枚買ってしまった。ジャズ2枚とクラシック1枚。

ジャズ2枚は、バーニーケッセルのアルバムと、レイブライアント。どちらも四百円ぐらいだった。

レコード針をユニオン針に替えてから、なんだかレコードを聴くのが楽しくなった。ユニオン針はなんだか感度が随分いいらしく、さかんにノイズを拾うのだが、やけに音に迫力が出る。これがいい。

今日買ったのはメロディア盤のサン・サーンスのピアノコンチェルト第5番。ピアノはリヒテル、指揮はキリルコンドラシン、オケはモスクワフィルハーモニー。うーん、間違いない組み合わせである。いかにも、フランス物をやるのに向いていなそうな取り合わせである。

最近まで、キリル・コンドラシンという指揮者の録音をほとんどまともに聴いたことはなかった。カバレフスキーやらハチャトリアンの管弦楽曲集は持っているのだが、その他は一枚もなかった。

ところが、このところなぜかこのコンドラシンのレコードを何枚か所有することになった。会社の偉い人が、何枚かSPレコードを譲ってくれたのだが、その中に確か、コンドラシンの指揮したやつがあった。いや、SPじゃなくてLPだったかな?よく覚えていない。まだよく聞いてもいない。

しかし、今日買ったサン・サーンスは良かった。続けて2回も聞いてしまった。

サンサーンスという作曲家自体、今までほとんど聴いてこなかったのだが、「序奏とロンド・カプリチョーソ」は好きで、ずっとレコードが欲しかったのだ。それも、オーケストラ伴奏盤ではなくて、ピアノ伴奏盤。これが探しても面白そうなやつはなかなかない。

それが、たまたま、会社の偉い人にもらったSPの中に、その「序奏とロンド・カプリチョーソ」のレコードが入っていたのだ。ミッシャエルマンがヴァイオリンを弾くレコード。

私は、この「序奏とロンド・カプリチョーソ」がルイ・マルの映画「さよなら子供たち」の映画鑑賞会のシーンでかかるのを聴いて、感動してしまい、それからピアノ伴奏盤をずっと探してきたのだが、思わぬところでそれと出会った。やっぱり会社勤めはするもんである。

ミッシャエルマンも多分ロシア人(ウクライナ人?)なんだろうけれども、このロシアの方々というのはみなさん個性が豊かでとてもよろしい。お手本のような演奏のクオリティーなのだが、その演奏の内容が凶暴であったり、落ち着きがなかったり、ダイナミックであったりして、健康で宜しい。ちょっと病気なんじゃないかというくらい、音楽がエンターテイメントに仕上がっていて宜しい。

音楽はこうでなくてはならん。

確かにいぶし銀の演奏も素晴らしい。ハイティンク、ロイヤルコンセルトヘボウなんかの演奏も確かに素晴らしい。

素晴らしいが、やはり、音楽には娯楽性があったほうが面白い。ロシアというお国柄なのか、まことにそのことがわかっているような気がする。アメリカ的エンターテーメントではないのも良い。

アメリカのエンターテーメントはただ単にワイワイガヤガヤ、と笑いである。そこにハイクオリティーな出し物が乗っかってくるという図式である。

それに対して、ロシアのエンターテーメントは、まずハイクオリティーな出し物だけで楽しませるかのようだ。まあ、レコード3枚聞いたぐらいなので、なんとも言えないのだが、ロシア盤のレコードを聴いていると、ロシア人がいかに音楽を楽しむことを渇望していたかがわかる。

それは、メロディア盤とかのレコードのジャケットを見るとよく分かる。

全く装飾がない。

レコードの盤面に記載されている情報がすべてである。

潔い。

この、無愛想なジャケットにやられてしまって、メロディア盤を愛聴している。レーベル名すら解読できない物ばかりであるのも良い。曲名すら判読不可能。レコード店で記載されている情報を信用するしかないのも良い。

わからないものはわからないで良い。演奏者もわかるようなわからないような名前なのが良い。コンドラシン、ムラヴィンスキー、ザンデルリングくらいしかわからない。あとは、何を書いてあるのか判読不可能。オケの名前すらわからない。ソリストの名前もわかるようなわからないような。

それだからこそ、音楽に集中できる。変な先入観なく、それが「ロシア盤」であるという先入観のみを頼りに音楽を聴く。

これが良い。

針を落とすと、やけにオケのクオリティーが高いのも好感が持てる。管楽器だけ、別に録音しているのではないかと思われるほど力強いのも良い。

良いことづくし、なように上記からは思われるだろうけれども、実際聴いてみると、これがまた癖があって、全然好きになれないと言う方も多いだろう。

それが一層好感が持てる。

誰もが好きな味付けではない。苦手な人は大っ嫌い。

それが良い。

メロディア盤が怖ければ、まずは、ムラヴィンスキーがレニングラードフィルとグラモフォンに吹き込んだチャイコフスキーを聴いていただくのが良いだろう。

ロシアオケ入門盤にして、最高傑作の一枚。

Chicagoのベスト盤を聴いて「いい演奏」とは何なのか考えてしまった。

いい演奏って、なんなんだろう。

楽器屋をやっていて、つくづく思う。いい演奏って一体なんなんだろう。

かつて、ギター屋で働いていた時は、いい演奏なんてことはちっとも考えなかった。そこにはただ、カッコイイか、カッコ悪いか、その二つだけだった。

カッコ悪いのが良い、というようなひねくれ者も存在した。それで、カッコ悪良い〜、とか言ってもてはやしていた。あれはあれでなんとなくわかる気がした。カッコ悪いのが良いとか、カッコイイのが良いとか、そういう価値判断なんて結局どうでも良いのだと、思っていた。

良いものは良い、という方もいるけれども、私はそう思わない。万人ウケするものが良いわけではないし、上手いから良いわけではない。ハードコアだから良いっていうわけでもない。自分にとってかけがいがないものかどうか、それだけがある気がする。

かけがいのないもの、って何なんだろうと考えるとキリがなくなってしまうけれども、私がカッコイイと思うものは憧れの対象である。私は、カッコイイのが好きなのである。カッコイイ贔屓。

かっこよく映るもの、その時その時に憧れるもの、その瞬間瞬間に反芻し、「うーん、イイ!」と思ってしまうもの、これがかけがえのないものだ。だから、かけがえのないもの、という表現がはたしてあっているのかどうかもわからないけれども、その時その時に、他に変え難いものである。それが、私にとってかけがえのないもの。

昨日、Chicagoのベスト盤を買った。

突然、シカゴが聴きたくなったのだ。私はすでに「ハートオブシカゴ」は持っていたのだけれども、あれには、「Saturday in the  park」が入っていない。私は無性にあの曲を聴きたくなったのだ。

じゃあ、あの「Saturday in the park」が入っているアルバムを火炎ば良いのだろうけれども、シカゴはアルバムの枚数が多すぎて、どのアルバムにあの曲が入っていたか覚えていなかった。

それに、せっかくなら、初期の名曲の数々も一緒に聴きたい。

それなら、まあ、2枚目だがベスト盤を買おうということにした。シカゴは、期待通りに良かった。難しいことを考えないで聴けるバンドだ。いつも間違えがない。

それで、「Saturday in the park」のイントロを聴いていてふと思ったのだ。

「なんて乱暴なピアノの演奏なんだ!!」

「ケシカラン!!」

 

私は、曲がりなりにもピアノ屋なのである。

まだ、ピアノ屋に勤めて日が浅いが、近頃ピアノの演奏にちとうるさい。

ピアノ屋になってから、突然「いい演奏」について考えるようになった。

「一音一音が、表現したい音を表現する演奏」

を、いい演奏とピアノ屋で刷り込まれている。たしかに、楽器屋としてはそのスタンスは間違っていないだろう。それもアリだと思う。確かに、一部のクラシック音楽、特にピアノ音楽を聴くと、一音ごとを大切にしている演奏は、それを感じる。逆に、勢いだけで弾いている演奏もある。いや、正確に言うと、ないこともない。

しかし、正直なところ、どっちがいいのか、という問題ではないと思う。

例えば、ジャズでは、グラントグリーンなんかは、一音一音を大事に弾いている時もあれば、もう、勢いだけで押すこともある。クラシックだって、ルービンシュタインなんかは、あれだけの大家だからちゃんと弾いているかのように思われるかもしれないが、まあ、何も考えないで弾いてるんだろうな、と思わせられるところもある。

じゃあ、何も考えないから悪いか、と言うと、そういうわけでもない。

「よく考え抜かれた演奏がいい」という考え方はある意味宗教のようなもんで、あれは一つの信仰だと思う。

なんにも考えないで弾いている奴でもカッコイイ奴はいる。いや、練習の時は、考えて、考えて、考え抜いて練習しているのかもしれないけれども、ステージの上ではただただトリップして弾いてしまうという演奏でもカッコイイやつはある。

例えば、ウイリーネルソンなんかは、ステージ上で何も考えていないんじゃないか。

そりゃ、いい音楽作りたいっていう気持ちは、ウイリーネルソンは誰にも負けないぐらいの努力と執念でやっていると思う。けれども、ステージの上のウイリーは、多分そんなこと忘れている。「ただただ、音楽のために生きる男!」とサンボマスターは叫んだけれどもウィリーこそ、そういう感じだろう。だから彼の音楽は良い。

すごい時のウィントンマルサリス、あれもきっと何も考えていない。ウィントンは、いつも考えすぎているとか言われているけれど、感覚だけで何でもできちゃう人だから、そう言われてしまうのだろう。普通の人は、感覚だけで大したものを作ることはできない。ウィントンは感覚だけでできちゃうところを、もちょっと頑張ってなんか、「それっぽい」ものを演奏しようとして吹くから、「つまらん」とか言われてしまうのだろう。彼の本当にすごい時は、そんな小難しいことを言っている聞き手の方が無粋だと思うぐらいカッコイイ。

本当に、感覚だけでやっている人、本当に、何も考えていないでやっているんだろうなと思えるのはチェットベーカー。彼は、本当はきっとステージの上では色々考えているのだろう。「どうやったらここをもっとダークに、吹けるか」とか、「どうやったら、もっと動きのないフレーズでバンドを引っ張れるか」とか駆け引きをやっているのだと思う。

それでも、チェットの演奏からはそんな感じはしない。さらりと、なんでもやってしまう。だから、私は彼の演奏が好きだ。カッコイイと思う。

 

はて、「いい演奏」って何なんだろうか。

新しい職場で、なんとか働くぞ。 図太く働くぞ。

明後日から新しい仕事に就く。

明日もその関係でちょっと会社の人に会うことになる。これが、結構不安である。不安ではあるけれども、不安は具体的な不安ではないから、ちょっと横に置いておいて、そのかわり行動しようと思う。行動していないと、どうしても余計なことを考えてしまい、不安になる。ただ、そんな気持ちになっているだけでは不毛である。だから、とりあえず明日から行動することを目標に一日一日をこなしていくしかない。

あたらしい仕事場というのは6年ぶりである。思えば、6年前初出社した職場は、営業の方々や社長が出張中で誰もいなかった。誰もいなくて、アドミニストレーターだけポツンと座っていた。もう一人、お客さんの窓口役の人がせっせと電話を取っていた。それだけだった。

それから、数ヶ月間、いや、数年間、これといった担当業務もなく毎日が過ぎていった。

この先俺はどうなるんだろう?どんな仕事をすれば良いのだろう、と考えながらも、毎日が過ぎていった。憧れの職場だったから、それで3年ぐらいは持ちこたえた。けれど、3年を過ぎたぐらいから体調を崩してしまった。初めは、月に一度休むぐらい、それからだんだんと朝出社できなくなった。朝、遅刻する毎日が続いた。

もう、次の仕事ではあんなふうにはなりたくない。おもえば、今までの過去8年ぐらいはそんな調子で、ゴロゴロと坂を転がり落ちるような働き方しかできなかった。病気を言い訳にして、甘えていたところも少なからずある。

今度の仕事からは、ダメになる前に、自分で軌道修正しよう。頑張りすぎない。頑張りすぎて、自分が崩れてしまったら、結果として会社に迷惑をかけてしまう。会社でいくら一生懸命働いても、いきなり自分が倒れてしまうと全てが帳消しになってしまう。帳消しどころか、マイナスになってしまう。

それでは、結果としてだれもハッピーにならないではないか。だから、今度からストレスとうまく付き合いながら、随時自分にブレーキをかけながら働いていきたい。

仕事以外のことは、とりあえず仕事が落ち着くまでは我慢しよう。無理はしない。あんまり欲張らない。また体調を崩してしまうと、結局自分の好きなこともできない。やる気が起きなくなってしまう。結局、少しずつでも継続していくのが一番の近道なのだ。

だから、これからの働き方の目標は下記の通りだ。

・不安を感じても、不安に押しつぶされない。不安が何に起因しているか定式化してみる習慣をつける。

・病気を言い訳に仕事の手を抜かない。病気を言い訳に使わない。

・無理はしない。仕事でいっぱいいっぱいの時は、息抜きも頑張りすぎない。

・辛くなった時はマインドフルネスを思い出す。実践する。

・できないことは、都度勉強する。勉強をやめない。勉強も無理しない。

以上、の目標で頑張っていきたい。

読書のウォーミングアップの友 河合隼雄 「大人の友情」

河合隼雄の「大人の友情」を読んだ。

このところ、ずいぶん調子が戻ってきて、やっと本を読めるようになった。療養中ということでいくらでも時間はあるのだけれども、時間があるからといって読書ができるというわけではないらしい。時間がいくらあっても、読書をするためには気力と体力が必要だ。気力と体力がなければいくら活字を追いかけても何も頭に入ってこない。

2ヶ月に渡る入院生活の中で、本は読んでいたけれども、一部の小説を除いてほとんど読書ができなかった。三島由紀夫の「豊饒の海」は全巻読破できたが、読んで心に残ったのはそのぐらいで、あとは途中で投げ出したり、読んでもちっとも頭に入ってこなかった。

退院して、前田専学の「インド思想入門」と、「中村元の仏教入門」を買って読んではみたけれども、どうも最後までは読めなかった。読んでいても何も頭に入ってこないのだ。それでも、まあまあ楽めはしたのだけれど、けれどもやっぱり何も頭に残らなかった。どちらもとても良い本なのだが。

ひと月前ぐらいから徐々に体力が戻ってきて、旅行に行ったり、求職活動を始めたりした。求職活動をするうちに、今までの寡読を反省し、できるだけ本を読むようにした。それも、いままであまり読んでこなかった類の本を。

はじめは、家にあった学生時代の講義の副読本を読んだ。ブランドマーケティングについての本だ。石井淳蔵の「ブランド 価値の創造」を読んだ。面白かったので、つづいて同じく石井淳蔵の「営業が変わる」を読んだ。

内容を咀嚼しきれてはいないけれども、どうやら現代の企業の営業は営業マンの個人の力にたよる営業スタイルではダメで、大きな営業プロセス(潜在顧客の発掘から、クロージング、アフターサービスまで)で営業活動を段階別に図式化し、そのプロセスの中にショールームや技術者を活用しながら営業を行い、営業マンにはその中でサービスとお客様のニーズの関係づくりをする役割を果たすということが求められているというようなことだった。これは、どんなに小さな規模の営業体制でも応用できると思う。うちの会社には管理部門と営業部門しか在りません。技術部門は在りません。と言うことであれば、その会社は技術部門の作り出す商品やサービスとお客さんの「必要なもの」との関係づくりを商品としているので、おのずから、営業部門の役割は定義される。そして、営業活動の何を管理すれば良いかがわかる。

上記の事項は、私が読んでみて感じたことであるので、実際に書かれている内容と相違はあるのだろうけれども、営業マン個人の「売り込むスキル」に頼っている会社をどうにかしたいと思っているマネージャーさん、営業マンの方であれば、読んでみる価値はある本だった。

営業マンをほとんど経験していない私は、営業という業務の基礎を勉強できた。

同時進行的に、守屋洋の「孫子の兵法」を読んでいる。一度読み終わったのだが、この類の本は一度読んだだけでは、読んだつもりになるだけなので、もう一度初めからサラサラと読み直している最中である。すぐに使える知識ではないけれども、役に立つ知識である。

それで、ちょっと疲れてしまい、カンフル剤として河合隼雄の「大人の友情」を読んだ。

大人の友情、それこそ私に欠けていたものなのだ。大人の友情関係が構築できなくて、人間関係でトラブルを起こしてしまう。

河合隼雄は、じゃあ、どうしなさい、とかこうしなさいとは言わない。そうではなくて、「人間関係・友達関係でこういうことあるでしょう?」「それは、こういう心理に起因する感情なんですよ」というアドバイスをくれる。もちろん、紹介されている様々な友人関係での悩みのケーススタディーには、「結局こうなりました」というところも紹介はされている。しかし、それがあなたにとっての正解ですとは言わない。

「そうですか、そうですか。そういう悩みありますよね」「それはとても難しいもんだいですねえ」と読者の話を聞いてくれるのだ。そして、河合隼雄のほうからその問題に結論を出さない。いろいろなケースを紹介し、それぞれのケースの解説はしてくれるのだけれど、それらのケースの解決案は、あなたの問題の解決策ではないかもしれない。それで良いんだ。というのが作者のメッセージなんだと思う。

この本も、一度読んだだけでは頭に入ってこないので、時間をおいて、もう一度読んでみたい。

それぞれの、章も長くなくさらりと読めてしまう。文庫ということもあり、パラグラフが短いので電車で読んだりするのに丁度良い。忙しくて、友達関係の悩みにいちいち向き合っていられない人、忙しくなくても、どのように友人関係との悩みと向き合えば良いのかわからない人(みんなそうか)、ぜひ、この本を読んでほしい。

そして、読んだら感想を聞かせてほしい。

物語のおしまいまででは聴いてはいけない

上海の街で、ほかに遊ぶところもしらず、またJz Clubに行った。

今夜も美味しいマティーニを2杯も飲んでしまった。バーテンダーは一昨日とは違う方だったけれど、2杯目には美味しいマティーニを飲ませてくれた。マティーニは好みが分かれるから、バーテンダーとの探り合いが必要なんだろうけれど、本当は2杯も飲むようなカクテルではないから、一杯目でどうなのかで決まると思う。

ファーストステージは渋いジャズの演奏だった。

渋い、というのも渋すぎるぐらい渋かった。とても純粋なジャズを聞けたようで、嬉しかった。

10時半からのセカンドステージは打って変わってファンクバンドがホーンセクションを加えて演奏した。おそらく、土曜日だからちょっとサービスして、ノリの良い音楽をチョイスしているのだろう。のっけから、Bill wihtersの曲やら、ドゥビービブラザーズのファンクナンバーが飛び出して、お客さんをのせていた。

ここに至ると、私も知らない街の住民ではなくなる。おなじみの曲に誘われつい乗ってしまう。

銀座のケントスで遊んでいた時代のことを思い出し、憂鬱な気分になり店を出た。

クリス・クリストファーソンの歌に、物語の終わりまで聞かせないでくれという曲がある。このまま、上海のJz Clubを思い出の場所にしておきたかった。そして、それは、店を出た時にかなったと思う。

言葉の通じない街の居心地の良さ

言葉の通じない街の方が居心地が良いのではないか。

上海に旅行に来て三日目、街を歩いていても、何を書いてあるのかさっぱりわからず、店に入ってもさっぱりわからず。地下鉄に乗ってもさっぱりわからず。土地勘がなく仕方がないから、タクシーに乗ってもさっぱりわからず。さっぱりわからないまま3日間が過ぎた。

まだ、繁華街しか行っていないけれども、これが住宅街とかになるとさっぱりわからず具合がさらにますのではないだろうか。

店に入って、値段がわからないというのも困ったものだ。こっちの人たちは商品に値札をつける習慣がないのか、それとも、客を見て値段をつけているのか、さっぱりわからないけれども、値札が付いていない店が多い。逆に、値札が付いている店は外国人向きの高い店と、飲食店ぐらいか。タクシーはメーターが付いているから、値段が分かって大変よろしいが、そう贅沢にタクシーばかり乗ってもいられないし、タクシーに乗ったところで、どこに行けば良いのかさっぱりわからない。

この、さっぱりわからなさ加減が海外旅行の良さなのか。

わからんが、確かに周りの人が何を話しているのかわからないのは心地いい。ほとんど買い物もしないので、こっちから何か話しかける機会もないし、会話をしなくても不自由はしない。むしろ、会話をしなくて良いから、独りになれるようでとても助かる。

東京の暮らしに居心地の悪さを感じていた私には良い刺激になっているのではないかと思う。

泊まっている宿が、もうすこしマシなところだったら、もっとゆっくり滞在したいのだが。

写真よりも言葉の方が強いんじゃないか

上海の星光撮影機材城にある写真書籍店で、上海の写真家と思われる路汀の「尋常」という写真集を買った。

名前も、写真集の題名も漢字変換で出てこなかったので、正しい題名はなんという漢字なのかはわからないけれども、店にあった上海の写真集で一番気に入ったので買った。

この、路汀という写真家は、詩人のような人なのかわからないけれども、写真のキャプションとして詩のようなのが書かれている。

こういう時に、中国語を勉強しておけば良かったと後悔するのだ。

良い写真集を見つけても、いったいこの写真家が誰なのか、書かれているキャプションが何を語っているのか、まったくわからない。わかるのは、掲載されている写真が好きかどうかだ。

この写真集に載っている写真はどれも、日常のスナップだ。そのスナップがさりげなくて良い。写真は言語化できないからこそ、中国語を介さずとも見ることができる。これは、とても便利なことなのだが、便利なだけではダメだということがこの写真集を買ってわかった。結局は、言葉が一番大事なんじゃないか。

Jz Club 上海で素晴らしいマティーニを飲んだ

上海のJz Clubに行ってきた。

夜10時からテナーチームのライブがあって、それを聴いてきた。

何よりも、素晴らしかったのは、Jz Clubのマティーニが美味しかったこと。今まで飲んだマティーニのなかで一番素晴らしかった。マティーニ一杯で1600円ぐらいしたけれども、まあ、旅先での出費だから、お財布には痛いけれど、その価値はあった。素晴らしいバーテンダーがいる。黒いシャツに、黒のダブルのベストを着た、素晴らしいバーテンダー。

演奏も良かった。テナーサックス二人がリーダーで、特にピアノが良かった。上海のジャズシーンは六本木のジャズクラブぐらいレベルが高い。聴いているこっちが圧倒されてしまう。こんなに圧倒されたのは、いつか御茶ノ水  Naruで五十嵐一生のライブを聴いた以来か、そのあと、森田珠美のライブを聴いて以来か。

とにかく、Jz Clubは良かった。

明日から、マティーニの上手いバーテンは日本に行くというから、残念だけれど、また滞在中に行きたい、

東京に居心地の悪さを感じたので上海に来た

昨日から、上海に来ている。

数週間前から東京の街を歩いていると、なぜだか気まずい思いをするようになった。特に、いつも足を運ぶ、上野や銀座はにいると息苦しい。元気だった頃は上野、銀座にいると心地よかった。なぜ心地よかったのかはわからないけれども、なんだか自分の居場所があるような気がした。

体調を崩して、仕事も辞めてしまうと、そういう街を歩いていると、なんだか気分が落ち着かない。その街での、自分の役割を失ってしまったかのような気分がする。

それで、いっその事、役割も何もないような、あえて言うと「旅行者」との立場で街を歩くと少し気分が良いのではないかと思い、上海に来た。場所を上海にしたのは、航空券が22,000円と安く、移動時間も3時間半、時差も1時間だったからだ。

昨夜遅くに、宿について荷物を降ろした。宿は、Vintage Shanghai Lane Houseというところで、古いアパートの一室のような場所で、フロントもなく、エレベーターもなく、結構ゴチャゴチャしたところにあるのだけれども、宿泊費にそんなにお金をかけていられなかったので、これは仕方ない。ドミトリーというわけでもなく、個室だし、ダブルベッドもシャワーもついている。一泊7000円は少々高い気もするけれども、仕方ない。幸い、Wi-Fiがついているので、インターネットは出来る。

フィルム40本を持ってきて、予備のためコンパクトデジタルカメラも持ってきた。やることがないから、写真でも撮りながら、ゆっくり過ごそうかと思っている。

フィルムは、行き帰りの飛行機の荷物チェックでX線のチェックでかぶったりしないか心配だが、まあ、かぶった時はかぶったで仕方ない。なにより、長尺フィルムを詰め替えてもってきたから、税関で怪しまれないかが多少心配ではあるけれども、今までだって、長尺フィルムを持ってきている人はいるだろうから、まあ、大丈夫なんじゃないかと勝手に思っている。

上海は土地勘もないし、何より中国語はできない。

昨夜、飲み物と食べ物を買いに宿の近所の商店に行ったけれども、英語はまったく通じなかった。ミネラルウォーターだと思って買ったペットボトルは、サイダーだった。ビールを買ったら、栓抜きが必要だったので、仕方なく近所の別の酒屋に栓抜きを譲ってもらった。食べ物は、パック入りのホルモンの串焼きみたいのをかった。栓抜きも入れて20元だった。400円弱ぐらいか。まあ、悪くない。

とりあえず今日は、上海の街がどんなところなのか、歩いてみようと思う。

今更ながら、自分にとっての社会での自分の役割について考えている。 不毛である。

半年以上前から体調を崩してしまい、その後、少しずつは回復してきているのだが、まだ調子が悪い。幸いにして、命に関わる病ではないので、その点は恵まれているのだが、仕事は失ってしまった。これ以上会社に迷惑をかけるわけにもいかず職場復帰をあきらめてしまったのだ。

まったくだらしないもので、37歳にして住宅ローンも30年ほど残っているというのに無職である。これは、思いのほか、いや、思った通りつらい。金銭的につらいというのもあるけれど、働いていないと社会に属していないようでつらい。

仕事はなくても、家庭があるからいいではないか、家の中でやるべき役割を果たせばいいではないか、とおっしゃる方もいる。信じられないことに、そういうことを平気な顔をしていう。奥さんに働いてもらって、専業主婦になればいいではないか、などといわれたりする。

家庭の中で、専業主夫をするということがいかにストレスフルかを想像してみてほしい。専業主夫なんて私にできるわけがない。わたしは、仕事を通して社会と繋がっていたいのだ。そして、現金を稼ぎながら社会と繋がっていたい。現金を稼がない仕事に社会的役割を見出すことができない。

そういうわけで、はやく新しい仕事を探して働きたい。なまじっか前職に愛着がありプライドを持って働いていたので、次の仕事がどうなるか今後自分に何ができるのか不安である。何れにしても、前職ほどいい仕事に巡り会えるとは今は思えない。半ば失恋のあとのようなやぶれかぶれな気分である。

そうしているうちに、街を歩くことに臆病になった。街を歩いていると、自分がいかに自分にとって無意味な存在になってきているかを痛感させられるのだ。自分はなんの役にも立てないということを強く感じ、なんの役割を持たない自分の定義を自分自身ができなくなり、虚しくなるのだ。もはや、社会にとっての自分の存在意義なんてこの際どうでもいい。どうでもよくはないけれど、とりあえず置いておいて、自分にとって、社会での自分の存在意義を問えなくなってしまっているのだ。

とくに、東京のように住み慣れた街を歩いていると、その虚しさが身に染み渡ってくる。社会が様々な作用によって有機的に機能しているのを感じて、そこから外れてしまった自分を恥じてしまうのだ。これは、純粋な意味での恥の感覚だと思う。このような存在になってしまい恥ずかしい、消えてしまいたいと思うのだ。

だから、この際、自分の存在なんて元からない街に身を置きたい。かつて、役柄を与えられていた舞台に、役柄をなくして突っ立ているのはつらい。恥ずかしい自分が目立ってしまう。むしろ、よそ者としての役柄を演じれる場所に身を置くか、役割なんかに無頓着になれるところに突っ立っていたい。

この欲求が無責任で、わがままであることは承知している。そんなことを言う前に、はやく仕事を探して働け、と自分に言いたい。しかし、社会の中で、役柄を持たなくなってはじめて、社会での役割なんかについて考えたりしている。できることならもうすこし、このことについて考えていたい。ぐずぐずと考えていたい。あと二週間ぐらい考えていたい。

一旦働き始めてしまえば、そんなことはなんの意味も持たなくなるのかもしれないけれど。近頃は、そういう不毛なことで悩んでいる。