2020年に東京でオリンピックを開催するのをやめてほしい。

2020年に東京でオリンピックを開催するのをやめてほしい。

観光客が来てくれるのはありがたいが、オリンピックのおかげできてくれる人たちなんて限られていると思うし、むしろオリンピック開催を返上して、他の観光資源に予算を割けばいいと思う。

新しいものを増やすのでは無く、今あるものを残し、震災なんかでダメになってしまったものを修復したりしてほしい。そっちの方が長い目で見て、私には嬉しい。

オリンピックなんかやらなくても、新しいものは生まれるし、無理に新しいものが生まれる土台を作ったところでいいものが遺るとは限らない。それより、今あるものを大切にした方が、新しいよいものが生まれる土台が固まるのではないだろうか。

私は、急激な変化が嫌いだ。オリンピック開催のために急速に変化する東京を見たくない。新しい建物ができるのも嫌だ。そういったことで、一時的に地価が高騰したり、不動産価値が上がってみたところで、長い目で見るとたいして意味はないと思う。

新しい大規模な商業施設が出来たり、新しい公園ができるのは真っ平御免だ。そういうものができると、一時的に街は賑わい、公園は人であふれるかもしれない。そういうこと自体が嫌だ。

不景気がいやなのはわかるけれど、一過性の好景気は、躁鬱病の躁状態のようなもので、その後必ず深く沈む時が来る。

そういう、大きな波を呼び込むのでは無く、低く安定していても暮らしていける社会づくりをしていった方が結果として住みよい世界が生まれるのではないかと思っている。なんの根拠もないけれど。

私には、どうしても、戦争ができない代わりにオリンピックを開催しよう、と偉い人たちが考えているとしか思えない。

社会の潮流というのに逆らうのはなんと厳しいことなのだろうか。

社会の潮流というのに逆らうのはなんと厳しいことなのだろうか。今の時代を生きるということは、社会の潮流に逆らってはいけないことなのだろうか。社会の潮流こそが差別の源流なのに。

例えば、喫煙者。これは、現代社会で蔑まれすぎているのではないだろうか。タバコを吸っているけで入社できない企業なんかもあるという。それならまだ理解できる範疇なのだが、受動喫煙防止条例なんかはどんなもんなのかと思う。

タバコは確かに体に有害であると言われている。医学的根拠もあるらしい。そこまではわかる。

けれども、医学的根拠がどうだろうがそんなことは、いい口実なだけであってなんの意味もないと思う。例えば、近親相姦が遺伝的に良くなかったとしても、それは性愛の一つの形である以上、この世界には当然に存在する。当事者がいる。その存在を、医学的見地によって、社会から消滅させようとしても無駄だ。

それに、医学的見地から体に有害であるものは、タバコやら近親相姦よりももっと重大なものがあると思う。例えば、自動車。私は、あんなものは排気ガスを撒き散らしているだけだから、なくなればいいと思う。あんなものは、医学的見地だけではなく、自動車事故で犠牲になっている人たちのことを思えば、無くなった方がいいと思う。電車も、危ないからなくなってほしい。アメ車とかマツダのかっこいい車だけ残して、あとはなくなればいいと思う。

これは、時代の潮流で、仕方ないと言われ、なかば強制的に従わせられるいるかどうかの問題なんだと思う。ちょっと前までは電車の席に灰皿があったり、飛行機でもタバコが吸えた。そういう中で喫煙者は当然のごとく生まれ住んできた。自動車は、便利だからといって、日本の基幹産業だからといって、未だに無くならない。

昔っからタバコ嫌いな人はいただろうけれども、それは自動車が嫌いな人や、不細工な女性が嫌いな人や、同性愛者が嫌いな人と同じように存在した。今の時代に、同性愛者同士がキスをしているところを子供に見せるのが嫌だからって、あれはやめてほしいと叫んでも、そっちの方が差別だからといって嫌がられる。

これは、いじめの問題だって同じことで、社会としては良くないということになっているし、私も無くなった方がいいとは思うのだが、一方で絶対に無くならないと願いたい。いじめの問題がなくなった社会に住みたいとは思わない。そんなことまで無くしようとする、セセッコマしい社会は嫌だ。なんと住みづらい世の中なんだろう。

論理が矛盾しているといえば、そうだ。そんななかから、差別される側の実感を書きたいのである。

例えば、タバコを吸う権利なんてない。と思われている人に聞きたい。では、あなたは生きている権利はあるのか?法律上守られている権利はともかくとして、社会の中で生きている権利はあるのか。多くの人たちがこの権利については後ろめたさがあるのではないか。

あなたは、小児性愛者かもしれない。同性愛者かもしれない。自動車に乗っているかもしれない。犬猫を愛玩し、あまつさえ飼っているかもしれない。ロクデモナイ文章を SNSやブログで社会に拡散しているかもしれない。戦争を助長し、人殺しを勧奨しているかもしれない。人をいじめているかもしれない。タバコを吸っているかもしれない。

私は、そうゆう皆さんも、そうやって生きている権利を認める社会になってほしいと思う。さすがに、法律や条例で禁止されたら、社会ではいけないこととなるのは致し方ない。しかしながら、だからといって、そういう人たちを忌み嫌うのはまた別の問題だと思う。

差別ということが嫌いな人は、忌み嫌うことから差別が生まれることに思いを馳せてほしい。また、差別という言葉が嫌いな方は、相互理解により、それぞれの人たちが住みよい社会をつくるという考え自体が差別を助長しているということに気づいて欲しい。

私は、みんなに理解されて、社会によって形造られた私の器の範囲内だけで生きていきたいとは思わない。それこそが差別されているということだと思う。反社会的になりたいという意味では無くて、差別が私を社会から疎外していることが嫌なのだ。

それでも、タバコがなくなればいい、自動車に乗りたい、いじめがなくなればいい、と思っている方は、そういう社会を目指して生きていればいい。それこそが、この社会に生きていることなのだから否定まではしない。そういう連中だって生きている権利はあると言いたい。一方で、わたしは、時代の潮流による差別というものが無くならない世界を忌み嫌いながら生きている。

音楽への再入門 安全地帯 「I Love Youからはじめよう」

ここ三日ぐらい何も音楽を聴く気が起きなくて、ほとんど何も聞かなかった。

このままでは、ステレオ一式を処分してもいいのではないかなどと考えていた。きっとパワー切れになっていたんだろう。そうでなければ、音楽を聴かないで一日をすごすようなことは滅多にない。

楽器をいじろうという気分も起きなかった。音楽を聴く気も起きないとうことは、何か音楽を練習しようという気分も起こらない。音楽そのものから興味が失われたのだ。

しかし一方で、音楽のない日常はまことに味気ない。音楽というのが、この世界にいつから存在しているのかは知らないけれど、音楽がなかった時代はさぞつまらなかっただろう。私は、二、三日そういう時代を懐古し、戻ろうとしていたのかもしれない。

そんな中で、今朝方突然チョーヨンピルの「釜山港へ帰れ」を聴きたくなりYouTubeで検索し、聴いた。

ああ、音楽に戻ってきた。という感覚がわたしにおとずれた。チョーヨンピルは偉大だ。音楽へ再び誘っていただいた。

それで、今日は安全地帯のベストアルバムを聴いている。「I Love Youからはじめよう」というやつだ。安全地帯も偉大だ。音楽の入り口から、音楽のディープな世界にだんだん馴染ませてくれる。

器用にありふれた言葉で表現できないから、本を読む

本を読む体力が出てきて、最近少しづつ読んでいる。いきなり余りヘビーな文体の本も読めないので、とりあえず吉行淳之介のエッセイ「不作法の進め」と玉井幸助の「堤中納言物語精講」の現代語訳の部分と校注だけを読んでいる。

どちらも、今の私には毒にも薬にもならないような本である。「堤中納言物語精講」はタイトルや装丁から、一見とっつきにくそうなイメージがある本だが、それはこの原典が古文で書かれていることと、当時のインテリ層向けの読み物であるということによるものである。この本に書かれている現代語訳と校注は、できるだけ読みやすい表現で書かれており、実際は単なる読み物としても読むことができる。古文を解さなくても、インテリ層でなくても物語を楽しめるようにできている。

ただ読み物として面白い。字をただ追っていくだけで、頭に入ってくる。その感覚が面白いのだ。本を読むことの一番初歩的な楽しみ方だと思う。

本を読むことは、私にとっては本との取っ組み合いだと思う。体力や技術がないときに、その取っ組み合いの相手があまりにも強すぎると初めから相手にならない。逆に、体力や技術がついてきたら、いつも張り合いのない相手と取っ組み合っていても面白くない。だからと言って、強くなったからといっていつも強敵と戦っていては疲れてしまう。そういうわけで、元気な時も、どんな時でも相手になる本が8割、残りの2割を少々手強い本にするようにしている。

まあ、その8割、2割の比率もあまりあてにならない。体力がついてくるとどうしても強敵に立ち向かいたくなる。生きているうちに読める本は限られている。だから、どうしても強敵を倒しておきたいのだ。

その強敵は、イタロ・カルビーノの「見えない都市」のような難解な小説だったり(これは小説じゃないか)、簡単な哲学についての本だったりする。

だけれど、たいていの場合そういう本には到底敵わなくて、倒れてしまう。そして、しばらく本から遠ざかってしまう。とても勝てる相手ではないものを目の前にすると、つい臆することになってしまう。体力や技術がついていると思い込んでいるだけで、その実、体力も技術もそれらに敵うほどのものではないのだということを、思い知らされる。多くの場合、その事実にも気づかない。

それで、結果として、私の本棚の9割は、毒にも薬にもならないような軽いタッチの本ばかりになっている。自分の本棚を見てがっかりする。俺は、何も実のある本を読んでいないではないか。と思ってしまう。

「実のある本」という言葉も、適切ではないのだが、ここではとりあえずこの言葉を使う。

実のある本を読むことは必要だ。それは、自分の言葉の幅を広げるためだ。言葉を広げないと、私の場合、世の中のことがよくわからない。器用な人たちは、言葉に頼らなくてもこの世の中を渡っていけるのだろうが、そういう人たちはそれでいい。

言葉なんて豊かでなくても、思考は豊かでありうる。思考とは五感からくるものであり、いちいちそれを言語化する必要はないからだ。

「これっていいよね」、「ああいいよね」。

で通じるのであれば、それでいい。

「この、緻密で芳醇な口当たりが、望郷の念を抱かせる」

などと、ソムリエみたいな表現をいちいちしていると疲れるし、そういうことはこの世の中で求められる場面はほとんどない。

ほとんどの場合は

「これっていいよね」、「ああいいよね」

で伝わってしまう。

しかし、そういうありふれた表現が上手く口に出てこない人間には、言葉が必要なのである。そうでなければ、何でわかりあえるのかすら、わからないまま人とすれ違っていくこととなる。器用でない人間は、「これっていいよね」すら言えないのだ。

そこで、言葉が必要になる。

その、言葉というのも、できるだけ平易な表現でいて、誰とでも共有し得て、かつ豊かでなくてはいけない。豊かであるというのは、単に語彙が豊富であるとか、そういう問題でなく、その場で表現すべきものを、ある程度適切に表現できることを指している。

その言葉を探すために、本を読むことになる。平易な表現は、毒にも薬にもならない本にいくらでも載ってそうでいて、実のところそうではない。平易な表現こそ、ある程度手強い相手が教えてくれる。

ああ、この言葉はこういう時に使うのかという場面に出会うことはなかなかできない体験である。だから、手強い相手と戦えるように私もなりたい。

その体験のために、少しづつでも本を読めたらいいと思っている。

 

似合わないとわかっているロマンチズムに浸れる曲 Bill Withers「Hello like before」

Bill Withersの名前を初めて私に教えてくれたのは高校の同級生だった。彼は、従兄弟からビル・ウィザースのベスト盤を借りたと言って私に見せてくれた。その数日後、彼はそのCDを私に貸してくれた。

一曲目に「Just the two of us」が入っていて、私はCDプレーヤーをオールリピートにして、繰り返し何度も何度もそのCDを聴いた。その頃は「Just the two of us」、「Lovely day」、「Soul shadows」が好きで、それらの曲を繰り返し聴いたりもした。

大学に入り上京し、友人と二人で明け方にドライブをしていた時に、かけていたFMから「Lovely Day」がかかったことがあった。私は助手席でのんきに座りながら、この歌に耳を傾けた。この曲こそ、まさにこんな朝の幕開けにちょうどいい曲はないな、などと悦に入っていた。東京のFMは洗練されてるなあと感じたものだ。

あの頃はビル・ウィザースの歌に洗練を求めていたんだろうな。ラジオの「Lovely day」はフェイドアウトして道路交通情報が流れた。そんなところまで洒落ていた。男同士の暑苦しい真夏の朝のドライブ、軽自動車の車内に心地よい風が吹き抜けた。

今夜、改めてこのベスト盤を聴いてみると、「Hello like before」が特に心に響いた。おっさんになると、こういう夢想の世界のような曲が心にしみるのだ。

若い頃はお互いに解りあえなかった二人が再会する。二人はおそらくティーンエイジャー(もっと前か?)の頃に恋仲だったこともあるだろう。本当だったら気恥ずかしくて会おうとは思わなかったけれども、ふとしたきっかけで出会う。

きっとどこかで再会すると思っていたんだ。今だったら、お互いのことわかりあえるかもしれないね。

などと、独り心の中でつぶやくおっさんの気持ち。なんだかわかるような気がする。この曲をリリースした時、ビル・ウィザースは30代後半だと思う。そういう年代の人にぜひ聴いてほしい曲だ。

あの頃はお互い子供だったんだ。

気まずいからって、この場をつくろうために「ああ、あなたのこと覚えてるわ」なんて野暮な会話をするのはよそうか。

ちょっとロマンチストすぎる歌詞の内容も脂がのっていていい。人間、40代にさしかかるとあつかましくなって、似合わないとわかっているロマンチックな世界にも酔えるんだ。さだまさしもいいけれど、あれはちょっとリアリティがありすぎる。

この曲で、ビル・ウィザースは含みをもたせながら、全てを語らない。全てを語らないから、こっちは色々想像してしまう。まあ、この後の展開は大体想像つくんだけれども。

その、想像ついちゃうところがまたおっさんになった証拠だな。どんな想像してしまうかは、是非聴いて確かめてみてください。

出会いと別れの季節に 「Arrivals & Departures The airport pictures of Garry Winogrand」

もう桜の咲く季節になってしまった。

毎年この時期になるとなんだか知らんがウキウキした気分と同時に憂鬱になる。また、一年が過ぎてしまったのだ。桜が咲いてしまうと、一年が経ったことを確かに感じさせられる。また、春が来たのだ。

春のウキウキ感はなんら根拠のない高揚感である。ただ春だからムズムズ、ウキウキする。もしかしたらこれは季節に対する動物的な反応なのかもしれない。人間も動物だとしたらまあ、長い冬眠から覚めなければならない時期なのかもしれない。もし植物にも共通した感覚なのだとしたら新芽が芽生える時期なのかもしれない。まさか私の心身が植物にまで共通しているところがあるとは考えにくいが。

それに対して、春の憂鬱には根拠がある。

何もできなかった一年間。達成感のない一年間。ムダに歳をとってしまった一年間。そういったものを一気に思い起こさせられる。そういう、敗北に対する憂鬱なのだ。春は憂鬱で然るべきものなのだ。

これはどんなに充実した一年を過ごしたとしても感じてしまう敗北感なのかもしれない。私が社会人の1年目を終えた歳の春も、同じように憂鬱だった。花が咲いて、また訳も分からず一年が過ぎてしまったと思った覚えがある。ただガムシャラに過ごした一年を振り返って、サラリーマンという因果な身分になった自分を呪うと共に、自分を支配する仕事というものへの敗北感と、その仕事も満足に身についていない無力感があった。

まあ、あんまりネガティブなことばかり書くのはよそう。暗い気分になってしまう。

そういえば、春は、出会いと別れの季節ということになっている。世間一般では。

確かに、私も、最初に入った会社では4月1日に人事異動とか入社式とかがあって、「出会いと別れ」があった気がする。それより前に遡ると、学校に通っていたわけだが、3月は卒業式、4月になると新学期である。新学期はクラス替えやら、授業の履修登録、入学式なんかもあってまさに出会いと別れがあった。

あれはあれでよかった。なんとなく体系的に一年という期間を心や体が把握できた。

出会いと別れというのは、生きているにおいて必要な要素だと思う。出会いも別れもないような生活を1年ぐらい続けていると心が鈍ってしまう。

Garry Winograndの撮影した空港の写真を集めた「Arrivals & Departures」という写真集がある。この本は編集者のAlex Harrisと写真家のLee Friedlanderがウィノグランドの残した空港で撮影されたスナップ写真(ほとんどが未発表作品)を選び集めて本にしたものである。2004年、ウィノグランドの死後約20年後に出版された。

空港といえば、まさに「出会いと別れ」の場であるので、こういう季節に空港でのスナップ写真を見るのにはちょうどいいかなあなどと思い、本棚から出してきた。タイトルの「Arrivals & Departures」も、まさに「出会いと別れ」という感じがした。

写真集を開いてみて、掲載されている約90点の作品を見た。確かに出会いと別れの舞台は確かにそこでは展開されている。出会いは、多くの場合が笑顔で、別れは多くの場合寂しい顔をしている。

しかし、まあ、この本を見て印象に残ることはそういうものではない。むしろ、空港にいる人々の虚ろな表情、そして、空港という施設そのものの曖昧で雑多な空間の風景が心に残る。

空港っていうのは、出会いや別れだけでなく、待ったり、手続きしたり、移動したり様々なことが同じ空間で行われている。そこに集まる人々は皆大抵は虚ろな表情をしている。出迎える時と、見送りの時にはニコニコ、シクシクしたりするけれども、あとはただ機械的に移動しているか、列に並んだり、椅子に座ったりして待っている。そういういろいろなことが同時進行的に行われているのが空港という場所なのだ。

空港はそういう意味では街中よりも特殊な空間である。街中ではこれほどたくさんの出会いと別れはないし、待つということもこれほど多くはない。そのような特殊な環境での人々の様子が写真にどう写るのかがここでは示されている。

私の印象としては、街中で撮られたウィノグランドのスナップ写真に写る人たちのほうが表情に多様性がある。空港の人たちはみんな似たような顔をしている。ニコニコ、シクシクしている人たち以外は皆同じような虚ろで黄昏たような表情をしている。街中の路上はもっといろんな人が写っている。街頭には、怒りとか、侮蔑とか、苛立ちとかそう言った攻撃的な表情も登場する。この本における空港の写真ではそう言った表情はほとんど見られない。

これは、写真を選んだハリスとフリードランダーが意図したことなのかもしれない。ウィノグランドの写真の中ではかなりドライで、どちらかというと知的な写真群である。乱暴に分類してしまえば、感覚で捉えられるような写真ではなく、見て考える写真である。見てすぐに驚いたり、恐れたりする類の写真ではなく、観察してから感じる写真である。瞬間で感じるのではなく、見る側の心の中でドラマがある写真とも言える。

ウィノグランド自身が同じく100枚弱の空港の写真を選んで本にしていたら、一体どんな写真集になっていただろう。そこに写る人たちはどんな表情をしていて、空港はどんな空間として写っていただろう。もっと感情に訴える写真集になっただろうか。それとももっと冷たい印象の写真集になっただろうか。

おそらく、彼が作ったとしても、こんな空港のシーンが繰り広げられると思う。彼の死後20年が経過してセレクトされた写真であっても、空港というのはもとよりこういう場所だから、これがウィノグランドが見た空港の風景だったのではないだろうか。

ただ、写真集というのは二、三枚でも違う写真が入ってくるだけで印象が変わるものだから、是非ウィノグランド自身のセレクションの空港を見てみたい。

安定してまとまっているGibson L-50 と 暴れん坊な Chaki P-1

ピックアップの付いていないアーチトップギターが好きで、今までに何台か所有してきた。いわゆるピックギターと呼ばれるギターだ。

ピックギターは、フラットトップのアコースティックギターと違って、ちょっと詰まったような鳴りがする。詰まったところからパーンと音が弾け出るような感覚だ。

この弾け出る感覚が気持ちよくて、GibsonのL−50という、1950年代に作られた廉価版のギターをいつも手元に置いてある。これを爪弾くと、ピッキングの強さによって丸い音になったり、ジャキジャキした音になったりするので、その感触に魅せられる。ネックグリップが程よく太くて弾きやすいのも良い。

L−50は年代によって色々と仕様が違って、一度30年代製のものを触ったことがあるけれど、バックがフラットなせいもあってか、まっすぐ前に出てくるような音がしてとても良かった。値段も20万円しないくらいだったので、もしもお金があったらきっと買っていた。ネックグリップも、もっと太いかと思っていたのだが、50年代のものとさほど変わらず、ネックヒールに近い部分が若干太めかというぐらいだった。本当にいいギターだった。Gibsonは廉価モデルでもあれだけいいギターを作れるんだからすごいと思う。

40年代製のシルクスクリーンのスクリプトロゴのやつを弾かせてもらったこともあるけれど、あれも良かった。値段は30万円近くしたらしいけれど、音に個性があって魅力的な楽器だった。音がジャキジャキしてくるまでのキャパシティーが広い楽器で、単音で普通にピッキングすると丸い音がするのだが、強くストロークするとジャキジャキ鳴った。トラスロッドは入っていたが、ネックは50年代よりもちょっと太めで、握りごたえがあった。

50年代のモデルは、今の所どれもハズレがない個体に当たっている。その中で一番気に入った一台を買った。私が持っているのは確か58年製だったと思うが、シリアルが消えかかっていてよく分からない。トップが単板プレス成形のモデルだ。

もう一台ピックギターでよく使っているのが ChakiのP-1という日本(京都)製のギターだ。ギブソンのコピーのヘッドシェイプなのだが、ボディーサイズは17インチでL−50よりも大きめだ。

私が持っているChakiにはどこにも品番らしいものは記載されておらず、仕様からおそらくP−1だと推定している。

総ラミネイトボディー、つまりベニヤ板で作られているギターだ。ネックはメイプルでエボニー指板。この、P−1というギターは憂歌団の内田勘太郎さんが使っていたから有名になった。決して高級なギターではないし、値段もそんなに高価ではないのだが、少量生産のため、あまり市場に出回らない。

Chakiは人気があるらしくて、ヤフオクなんかでもそこそこいい値段が付いているけれど、当たりハズレが多いのは確かだ。いや、ピックギターそのものがかなり当たりハズレがあっていいのを見つけるのは難しい。実際に買ってしばらく弾いてみないと判らない箇所もあるけれども、実際に一度手にとってみれば良し悪しは大体わかる。

今まで7〜8台のChakiを試奏してきたけれど、どれも全然鳴らなかった。ならないうえに、ジャキジャキだけはしているので、どうも低音が物足りなかった。それか、音がこもりすぎの個体が多かった。

私が持っている個体も、ちょっと個性が強くて、うまく鳴らすにはコツがいる。弱いピッキングで鳴らすのが難しい。強くピッキングするとバーンと鳴るのだが、音がものすごく暴れる。ギブソンのような上品なまとまりはない。

けれども、この暴れる感じと、弱いピッキングでチープになる感じが好きで、手元に置いている。きっと、メイプルネックにエボニー指板という組み合わせと、総ベニヤ板のボディーがこの音の大きなファクターなんだと思う。こう言うギターはテキトーに作ってもなかなか作れない。チャキの老舗ながらのノウハウが詰まっているんだろう。

プロとして現場で使うわけでなく、自宅で爪弾く程度なので、こう言うギターはとても良い。持っていて本当に良かったと感じる。できることならいつまでも手元に置いておきたいギターだ。これだけ、自分の好みにあった暴れ方のするギターは見つからない。

あと、 チャキは製造の年代によって造りやパーツのクオリティーがまちまちで、70年代ぐらいのチープなやつが好きだというファンが多いらしいのだが、私個人としてはもっと新しいグローバーペグが付いて、エボニー指板の仕様のモデルが好きだ。フレットの仕上げが全然違うので、70年代のモデルはリフレットしたほうがいいかもしれない。

見えてなかった東京の貌

昼過ぎに銀座に出てぶらぶらした。銀ぶらである。今日は折しも3月11日だった。

東日本大震災から6年目を迎える今日、銀座はいつもの週末のように混んでいた。海外からの観光客が半数ぐらいいた。中央通りは歩行者天国になっていたのだが警察官が各交差点に4〜5人づつ立っていた。通りすがりのお兄さんが、警官に「今日何かあるんですか?」と聞いていた。

確かに、あれだけたくさん警官が目を光らせていたら「何かある」と思うのが普通だ。天皇陛下や、マイケルジャクソン、トランプさんみたいな有名人が来るだとか、社会的にもインパクトが大きいパレードやデモがあるだとかじゃなければ、あんなに警官はいないだろう。

2時45分過ぎに三越と和光の前の交差点を横断していたら、和光の時計塔の時計の鐘が何度か鳴り響いいた。それに合わせて交差点の周りにいた人だかりがピタッと立ち止まり黙祷を捧げていた。きっと地震の起こった時間だったんだろう。

あの黙祷のために銀座に集まった人たちのことを思うと、いったいどういう気持ちでここへ来たのか、イマイチよくわからなかった。黙祷を捧げるなら自宅の仏壇の前でもいいだろうし、わざわざ銀座に来なくてもいいような気がする。

それでも、確かに彼らは銀座に「集まった」人たちだった。偶然居合わせたという感じではなかった。だから、きっと和光の時計塔には何かいわくがあるのだろう。

私自身は、あの震災に何の思い入れもなかった。東京も揺れはしたが、その後何事もなかったかのように戻るまでに1月もかからなかった。ただ、地下鉄の駅の電気がちょっとだけ暗くなったというだけだった。暗くなったと言われても、元からあの明るさでも誰も文句は言わないであろう明るさだった。それで、勤めていた会社も、地震の1週間後ぐらいからは何事もなかったのように普段の仕事に戻った。

地震のあった当日は、新宿でで人に会う約束をしていた。会社は日本橋にあったのだが、5時を過ぎた頃、会社の同僚に「俺、ちょっと新宿で待ち合わせしてるもんで、今日は早くあがります」というと、「きっと今日は会えないと思うよ、この状態じゃ」と言われた。

会社を出ると確かに、新宿に行くのは無理そうだった。地下鉄は止まっているし、何より歩道が人波で満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになっている。100メートル歩くのに10分はかかりそうな程だった。

2時間強で自宅にたどり着いた。

それが私の震災の記憶だ。それ以降はほぼ通常の日常に戻った。2週間ぐらい停電の可能性をほのめかされたり、スーパーの棚が空っぽだったりしたが、食べるものに困ったり、飲み水に困ったりすることはなかったし、ほぼ不自由も感じなかった。

それよりも、その頃、せっせとギターアンプを直していた。真空管アンプが発振するようになっていたのだ。震災を挟んで、そのアンプの修繕をしていたのだが、程なくして修理が完了したのを覚えている。本当に良かった。

東京はそんなもんだったから、被災したという実感はなかった。東京近郊でも地面の液状化で大変だったところもあるようだったが。

そういう震災があった最中、ワイワイやっていたら不謹慎だというようなことをいう方々がいたが、そういう人たちの気持ちがわからなかった。そんなことを言っていたら、毎日のように戦争や、自然災害、凶悪犯罪は起こっているのだから、年がら年中喪に服してなきゃいけない。そんなことをやるよりも、ワイワイやったり、エネルギーを消費して景気をよくしてやった方がどれだけ世のため人のためになるか。

原発だって、震災の後ずいぶん騒いでいた人がいたけれど、どうもピンとこなくて一部のアーティストやジャーナリスト、文化人の話題のネタの為だけに存在しているもんだと思っていた。まあ、ありがたく電気を使わせてもらっているという事実は厳然とあるわけだが、それ以上の感慨はなかった。原発で騒ぐ気持ちはわかるけれど、それよりも私は通りを埋め尽くしている凶器である自動車について、どうにかした方がいいと思う。私の自宅のすぐ横を幹線道路が走っているので、私にとっては交通事故の脅威の方が原発の脅威よりも切実だ。

あと、地下鉄も満員のホーム危ないし、ホームに傾斜ついてたりしていて車椅子の人ホームから落っこちる危険性高いから、ホームドアつけたほうがいいと思う。私には結構切実な問題だ。

しかし今日、銀座に行ってみて、黙祷を捧げる人たち(被災者と呼んだ方がいいのか)を見て、ああ、東京にも被災した実感を持っている人たちがこんなにいるんだなあと、その「量」を目にすることができた。

きっとあの中には、福島や東北地方から避難してきた人たちもいたんだろう。そういう意味では、東京も被災したのかもしれない。私がそれを見えていなかっただけで。

街には、普段見えない貌が潜んでいて、こういう時に垣間見えるんだな。

ミニマリストになれる日は来るのだろうか

身の回りが物で溢れている。CD、レコード、もう読まないであろう本、大して弾かない楽器、使っていないカメラなんかだ。

ミニマリストというのにちょっと憧れる。必要最低限のものを持つ生活。それ以外のものは持たない生活。そういうのが一時期流行ったことがある。家もシンプルな内装で、家具も少なく暮らす。

そういえば、高校で習った漢文の教科書にミニマリストの話が出てきた。誰のなんていう話だったかは忘れたが、あるおじさんが川辺で生活していて、ほとんど持ち物がない。ミニマリストを追求していてもう本当に何にも持たないって決めていて、いらないものはことごとく捨てる。いりそうなものすら持たない。そういう生活を送っていた。ある時、そのおじさんが水を柄杓で汲もうとして、ああ、いかん、ワシは断捨離できとらん、この柄杓をまだ持っていたではないか!水なんて手で汲めばいいじゃないか、と言って柄杓も捨ててしまうという話であったと記憶する。だからそのおじさん、結局スマホと予備のガラケーと電気シェーバーだけ持って荒川の河川敷で生活していた。

こういう生活、なんだかしがらみがなさそうで気持ち良さそうだ。そういうのも良さそうだ。

どうせ死んでしまえば、この世界から何も持って出ることはできないのだから、今のうちにも余計な財産は処分しておく方がいいのかもしれない。私が死んでしまった後残された家族が、遺品を整理するときに処分に困るのも気の毒だ。あの世へ行く時には、すべてを捨てていくのだ。

私の祖父は北海道の名寄という町に住んでいたのだが、身の回りじゅう物で溢れかえりながら暮らしていた。家の敷地もある程度広かったのだが、そこには壊れた自動車が数台と、無数の壊れたテレビ、壊れたステレオやラジオが転がっていた。家の中にも壊れた機械関係のものがたくさん置いてあって、元々商店をやっていたスペースいっぱいにガラクタがぶちまけられていた。

祖父が80代に差し掛かった時、祖父の痴呆も進んでいたので、うちの父が祖父母を札幌の家に呼び寄せた。もう心配だから、札幌で一緒に暮らそうというわけである。

ほんの1月だけという嘘をついて、祖父を名寄から札幌の家に来させた。祖母は、これから一生名寄には戻らないとわかっていたが、何も知らない祖父は着の身着のままと言っても過言ではないくらい少ない荷物で札幌に越してきた。財産の全てを残してである。

結局、祖父母が名寄に戻ることは二度となかった。二人とも死を迎えるまで札幌で過ごした。祖父は札幌に引っ越してきてからすぐに、痴呆老人を面倒見てくれる病院に入院したので、身の回りにガラクタを集めることもできなくなった。名寄を出た日から究極のミニマリスト生活にシフトチェンジしたのだ。

ある意味、祖父は札幌に引っ越してきた時点で既に「死んだ」のかもしれない。すべての持ち物を捨てて、痴呆でわけのわからなくなりかけた体だけを持って移住してきたのだ。ほとんど死ぬためだけに。

そういう祖父を見ているので、ミニマリストにシフトチェンジすることがなんだか怖い。そもそも、捨てることができない。自分が薄っぺらいから、捨ててしまうことによって何も無くなってしまうのではないかとも思う。そして、おそらく本当にそうなるだろう。持ち物を失うと何もできなくなってしまいそうだ。

しかし、その一方で、今持っているものは、火事や津波なんかに見舞われればひとたまりもないわけで、一気に全てを失う。生きているうちに、そういうこともないとは言い切れないので、やはりいつもどこかで身の回りにあるガラクタに依存しないで生きていく方法を考えていなくてはいけない。

今は幸い、クラウドサービスなんかが便利なので、写真なんかはすべてクラウドストレージに突っ込んどけばいいわけなんだが、どうもこう、現物がないと安心できない私は、フィルムで写真を撮影し保管したりしている。

私はいつになったら物から自由になれるんだろう。

スローに写真を撮れるって今の時代だからこそ見直されてもいいよな Leica Standard

写真集を見るようになったのは、写真への興味っていうのもあるけれど、元々カメラとかそういう写真撮影に用いる道具みたいのがどうも妙にかっこいいなあということになって、じゃあ、そういう色々なカメラで撮られた写真っていうのは一体どういう風に見えるのかっていう興味もあった。平たく言えばカメラ小僧ということになるか。カメラってSLとかと似ていて、なんだか黒くて機械が組み合わさってできていて、少年の心をくすぐるもんだ。

とは言っても、初めて自分で買ったカメラはデジカメだった。買ったのは2002年ぐらいだったと思う。確かオリンパスの CAMEDIAっていう210万画素ぐらいのカメラで、しばらくはそれで満足していたから、カメラへの興味という意味では機械というよりも、写るっていう方に重点があったのかもしれない。そのデジカメは、気付いたらどこかに無くなっていた。結構いい値段したんだけれど。

そのデジカメを買ってから、写真を撮ったりすることが面白いと思うようになり、半年後くらいには中古でニコンの安いマニュアルフォーカスの一眼レフを買って、なんだかわけのわからないレンズをつけて、アマチュアカメラマンの定番で花とかを撮っていた。その頃は写真愛好家の多くはカラースライドフィルム(カラーポジ)で撮影していたから、私も多分にもれず35ミリのカラーポジで撮影していた。フィルム代が1本1000円ぐらいして、現像も1本700円ぐらいしていたから、コスト的には今のカラーポジと変わらない。

写真愛好家の多くがカラーポジで撮っていたし、アサヒカメラとかを立ち読みすると、「一番偉い」のはカラーポジみたいな風潮があったので、私も「一番偉い」部類に入りたかったからカラーポジで撮影していた。

そのあと、大学の写真部に所属する友達(先輩か)ができて、その人が「お前、馬鹿野郎、初めはモノクロフィルムで修行しなさい!」と仰ったので素直にモノクロフィルムに切り替えた。富士フィルムのNeopan Presto 400というフィルムを使った。本当はコダックのトライエックスが使いたかったが、一本あたり100円ぐらい違ったから富士にした。長巻も当時一缶で富士が2700円ぐらいのところコダックは3700円ぐらいだった。どうも変なところをケチってしまう自分は富士にした。

社会人になってしばらく写真撮影の趣味から遠ざかったりして、携帯電話のカメラすらほとんど使わなかった。何年かに一度写真熱が再燃するのだが、ごく短期間で燃え尽きてしまう。暗室作業をするだけの気力が続かないのだ。

それで、一昨年また写真熱が再燃した際に、思い切って一台コンパクトデジカメを買って、それで撮ることにした。

コンパクトデジカメにすると、撮れる撮れる、1日に300枚ぐらいシャッターを押してしまう時もあった。フィルムで撮ってた頃は多くても1日150カットぐらいしか撮らなかったから、一気に倍である。それも、現像しなくてもいいものだから、撮る頻度も増え、写真がパソコンの中でいっぱいになった。

その写真熱も2ヶ月ぐらいで収まってしまい、半年を置いて、また2ヶ月再燃するというのを繰り返した。

合計で半年も撮っていないのだが、わけのわからない写真のデータでパソコンがいっぱいになった。デジカメで撮れる時は同時進行でモノクロフィルムでも撮っていたのだが、あまりにもたくさん撮ってしまい現像が追いつかない。それでパソコンが写真だらけになり、未現像フィルムがたまり、嫌になってしまうのだ。

そういうことが続き、写真を撮ること自体がストレスになった。誰に頼まれたわけでもなく、道楽で写真を撮っているわけなのだが、負担になるのである。情けない。

そこで、写真を撮る枚数を減らすことにした。

デジカメでは、取ろうと思えばほぼ無限に撮影できてしまうのだが、どうせ無限に撮っても自分が気にいる写真はその中のほんの数枚だけだから、欲張らないのである。

プロのカメラマンや、写真家の方だとこういうわけにはいかないのかもしれないが、こちらは写真愛好家なんだから別に撮影枚数を減らしたところで誰が困るわけじゃない。

コンパクトデジカメも使っているが、それで撮影する回数を減らした。そして、普段持ち歩くカメラはLeica Standardというなんともシンプルな、「カメラ原理主義」みたいなカメラにした。これにカラーネガを入れて撮影するのだ。カラーネガにしたのは、現像が外注できるのと、フィルム代が高いので「ケチる」本能を働かせるためだ。そして、カラーネガはラチュードが広いので多少の(結構ヤバくても)露出ミスもカバーしてくれる。そして、何より、カラーネガこそ私にとって「一番普通」なフィルムなのだ。私は「写ルンです」の世代だから。

Leica Standardにはピント合わせの指標となるものが付いていないので、レンズの付け根に書いてある距離表示を元に目測でピントを合わせる。露出計も付いていないので、フィルムの箱に書いてある(今使っているフィルムには書いてなかったけど)露出の基準を使う。フィルムの巻き上げも、ノブ式だからやけに手間がかかる。巻き戻しも同じくノブだからやけに時間がかかる。いや、これでもLeica Standard発売当時はすごくスピーディーに写真撮影できる画期的なカメラだったんだろうけれども、今の時代にしては時間がかかる。コンパクトデジカメの5~6倍時間がかかる。

撮る枚数を減らすことにしてみても、まだ慣れないので、つい撮ってしまう。しかし、「撮らない撮影」もだいぶ上達したようで、最近は外に出歩いて36枚撮り1本で満足して帰ってこれる。この調子だと、週に1日だけカメラを持ち出すようにしたら、一週間に1本で済んでしまう。写真道楽のミニマリストである。

素晴らしい写真を撮る写真家が何カット撮っているかは知らない。話によると一月に50〜100本撮るなんていうのも普通らしい。デジカメだときっと5000コマ以上撮っていたりするんだろうか。とにかくたくさん撮れと、かつてなんかのカメラ雑誌で読んだ。そういう風に、たくさん撮るのは大いに結構なことだと思う。けれども、私はそのペースでは撮影できない。写真の整理や現像が追いつかないし、時間的にも経済的にもキツイからだ。

そういう風にしてでも、写真道楽は続けられるかどうか、それが目下私の研究テーマである。