見えてなかった東京の貌

昼過ぎに銀座に出てぶらぶらした。銀ぶらである。今日は折しも3月11日だった。

東日本大震災から6年目を迎える今日、銀座はいつもの週末のように混んでいた。海外からの観光客が半数ぐらいいた。中央通りは歩行者天国になっていたのだが警察官が各交差点に4〜5人づつ立っていた。通りすがりのお兄さんが、警官に「今日何かあるんですか?」と聞いていた。

確かに、あれだけたくさん警官が目を光らせていたら「何かある」と思うのが普通だ。天皇陛下や、マイケルジャクソン、トランプさんみたいな有名人が来るだとか、社会的にもインパクトが大きいパレードやデモがあるだとかじゃなければ、あんなに警官はいないだろう。

2時45分過ぎに三越と和光の前の交差点を横断していたら、和光の時計塔の時計の鐘が何度か鳴り響いいた。それに合わせて交差点の周りにいた人だかりがピタッと立ち止まり黙祷を捧げていた。きっと地震の起こった時間だったんだろう。

あの黙祷のために銀座に集まった人たちのことを思うと、いったいどういう気持ちでここへ来たのか、イマイチよくわからなかった。黙祷を捧げるなら自宅の仏壇の前でもいいだろうし、わざわざ銀座に来なくてもいいような気がする。

それでも、確かに彼らは銀座に「集まった」人たちだった。偶然居合わせたという感じではなかった。だから、きっと和光の時計塔には何かいわくがあるのだろう。

私自身は、あの震災に何の思い入れもなかった。東京も揺れはしたが、その後何事もなかったかのように戻るまでに1月もかからなかった。ただ、地下鉄の駅の電気がちょっとだけ暗くなったというだけだった。暗くなったと言われても、元からあの明るさでも誰も文句は言わないであろう明るさだった。それで、勤めていた会社も、地震の1週間後ぐらいからは何事もなかったのように普段の仕事に戻った。

地震のあった当日は、新宿でで人に会う約束をしていた。会社は日本橋にあったのだが、5時を過ぎた頃、会社の同僚に「俺、ちょっと新宿で待ち合わせしてるもんで、今日は早くあがります」というと、「きっと今日は会えないと思うよ、この状態じゃ」と言われた。

会社を出ると確かに、新宿に行くのは無理そうだった。地下鉄は止まっているし、何より歩道が人波で満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになっている。100メートル歩くのに10分はかかりそうな程だった。

2時間強で自宅にたどり着いた。

それが私の震災の記憶だ。それ以降はほぼ通常の日常に戻った。2週間ぐらい停電の可能性をほのめかされたり、スーパーの棚が空っぽだったりしたが、食べるものに困ったり、飲み水に困ったりすることはなかったし、ほぼ不自由も感じなかった。

それよりも、その頃、せっせとギターアンプを直していた。真空管アンプが発振するようになっていたのだ。震災を挟んで、そのアンプの修繕をしていたのだが、程なくして修理が完了したのを覚えている。本当に良かった。

東京はそんなもんだったから、被災したという実感はなかった。東京近郊でも地面の液状化で大変だったところもあるようだったが。

そういう震災があった最中、ワイワイやっていたら不謹慎だというようなことをいう方々がいたが、そういう人たちの気持ちがわからなかった。そんなことを言っていたら、毎日のように戦争や、自然災害、凶悪犯罪は起こっているのだから、年がら年中喪に服してなきゃいけない。そんなことをやるよりも、ワイワイやったり、エネルギーを消費して景気をよくしてやった方がどれだけ世のため人のためになるか。

原発だって、震災の後ずいぶん騒いでいた人がいたけれど、どうもピンとこなくて一部のアーティストやジャーナリスト、文化人の話題のネタの為だけに存在しているもんだと思っていた。まあ、ありがたく電気を使わせてもらっているという事実は厳然とあるわけだが、それ以上の感慨はなかった。原発で騒ぐ気持ちはわかるけれど、それよりも私は通りを埋め尽くしている凶器である自動車について、どうにかした方がいいと思う。私の自宅のすぐ横を幹線道路が走っているので、私にとっては交通事故の脅威の方が原発の脅威よりも切実だ。

あと、地下鉄も満員のホーム危ないし、ホームに傾斜ついてたりしていて車椅子の人ホームから落っこちる危険性高いから、ホームドアつけたほうがいいと思う。私には結構切実な問題だ。

しかし今日、銀座に行ってみて、黙祷を捧げる人たち(被災者と呼んだ方がいいのか)を見て、ああ、東京にも被災した実感を持っている人たちがこんなにいるんだなあと、その「量」を目にすることができた。

きっとあの中には、福島や東北地方から避難してきた人たちもいたんだろう。そういう意味では、東京も被災したのかもしれない。私がそれを見えていなかっただけで。

街には、普段見えない貌が潜んでいて、こういう時に垣間見えるんだな。

ミニマリストになれる日は来るのだろうか

身の回りが物で溢れている。CD、レコード、もう読まないであろう本、大して弾かない楽器、使っていないカメラなんかだ。

ミニマリストというのにちょっと憧れる。必要最低限のものを持つ生活。それ以外のものは持たない生活。そういうのが一時期流行ったことがある。家もシンプルな内装で、家具も少なく暮らす。

そういえば、高校で習った漢文の教科書にミニマリストの話が出てきた。誰のなんていう話だったかは忘れたが、あるおじさんが川辺で生活していて、ほとんど持ち物がない。ミニマリストを追求していてもう本当に何にも持たないって決めていて、いらないものはことごとく捨てる。いりそうなものすら持たない。そういう生活を送っていた。ある時、そのおじさんが水を柄杓で汲もうとして、ああ、いかん、ワシは断捨離できとらん、この柄杓をまだ持っていたではないか!水なんて手で汲めばいいじゃないか、と言って柄杓も捨ててしまうという話であったと記憶する。だからそのおじさん、結局スマホと予備のガラケーと電気シェーバーだけ持って荒川の河川敷で生活していた。

こういう生活、なんだかしがらみがなさそうで気持ち良さそうだ。そういうのも良さそうだ。

どうせ死んでしまえば、この世界から何も持って出ることはできないのだから、今のうちにも余計な財産は処分しておく方がいいのかもしれない。私が死んでしまった後残された家族が、遺品を整理するときに処分に困るのも気の毒だ。あの世へ行く時には、すべてを捨てていくのだ。

私の祖父は北海道の名寄という町に住んでいたのだが、身の回りじゅう物で溢れかえりながら暮らしていた。家の敷地もある程度広かったのだが、そこには壊れた自動車が数台と、無数の壊れたテレビ、壊れたステレオやラジオが転がっていた。家の中にも壊れた機械関係のものがたくさん置いてあって、元々商店をやっていたスペースいっぱいにガラクタがぶちまけられていた。

祖父が80代に差し掛かった時、祖父の痴呆も進んでいたので、うちの父が祖父母を札幌の家に呼び寄せた。もう心配だから、札幌で一緒に暮らそうというわけである。

ほんの1月だけという嘘をついて、祖父を名寄から札幌の家に来させた。祖母は、これから一生名寄には戻らないとわかっていたが、何も知らない祖父は着の身着のままと言っても過言ではないくらい少ない荷物で札幌に越してきた。財産の全てを残してである。

結局、祖父母が名寄に戻ることは二度となかった。二人とも死を迎えるまで札幌で過ごした。祖父は札幌に引っ越してきてからすぐに、痴呆老人を面倒見てくれる病院に入院したので、身の回りにガラクタを集めることもできなくなった。名寄を出た日から究極のミニマリスト生活にシフトチェンジしたのだ。

ある意味、祖父は札幌に引っ越してきた時点で既に「死んだ」のかもしれない。すべての持ち物を捨てて、痴呆でわけのわからなくなりかけた体だけを持って移住してきたのだ。ほとんど死ぬためだけに。

そういう祖父を見ているので、ミニマリストにシフトチェンジすることがなんだか怖い。そもそも、捨てることができない。自分が薄っぺらいから、捨ててしまうことによって何も無くなってしまうのではないかとも思う。そして、おそらく本当にそうなるだろう。持ち物を失うと何もできなくなってしまいそうだ。

しかし、その一方で、今持っているものは、火事や津波なんかに見舞われればひとたまりもないわけで、一気に全てを失う。生きているうちに、そういうこともないとは言い切れないので、やはりいつもどこかで身の回りにあるガラクタに依存しないで生きていく方法を考えていなくてはいけない。

今は幸い、クラウドサービスなんかが便利なので、写真なんかはすべてクラウドストレージに突っ込んどけばいいわけなんだが、どうもこう、現物がないと安心できない私は、フィルムで写真を撮影し保管したりしている。

私はいつになったら物から自由になれるんだろう。

スローに写真を撮れるって今の時代だからこそ見直されてもいいよな Leica Standard

写真集を見るようになったのは、写真への興味っていうのもあるけれど、元々カメラとかそういう写真撮影に用いる道具みたいのがどうも妙にかっこいいなあということになって、じゃあ、そういう色々なカメラで撮られた写真っていうのは一体どういう風に見えるのかっていう興味もあった。平たく言えばカメラ小僧ということになるか。カメラってSLとかと似ていて、なんだか黒くて機械が組み合わさってできていて、少年の心をくすぐるもんだ。

とは言っても、初めて自分で買ったカメラはデジカメだった。買ったのは2002年ぐらいだったと思う。確かオリンパスの CAMEDIAっていう210万画素ぐらいのカメラで、しばらくはそれで満足していたから、カメラへの興味という意味では機械というよりも、写るっていう方に重点があったのかもしれない。そのデジカメは、気付いたらどこかに無くなっていた。結構いい値段したんだけれど。

そのデジカメを買ってから、写真を撮ったりすることが面白いと思うようになり、半年後くらいには中古でニコンの安いマニュアルフォーカスの一眼レフを買って、なんだかわけのわからないレンズをつけて、アマチュアカメラマンの定番で花とかを撮っていた。その頃は写真愛好家の多くはカラースライドフィルム(カラーポジ)で撮影していたから、私も多分にもれず35ミリのカラーポジで撮影していた。フィルム代が1本1000円ぐらいして、現像も1本700円ぐらいしていたから、コスト的には今のカラーポジと変わらない。

写真愛好家の多くがカラーポジで撮っていたし、アサヒカメラとかを立ち読みすると、「一番偉い」のはカラーポジみたいな風潮があったので、私も「一番偉い」部類に入りたかったからカラーポジで撮影していた。

そのあと、大学の写真部に所属する友達(先輩か)ができて、その人が「お前、馬鹿野郎、初めはモノクロフィルムで修行しなさい!」と仰ったので素直にモノクロフィルムに切り替えた。富士フィルムのNeopan Presto 400というフィルムを使った。本当はコダックのトライエックスが使いたかったが、一本あたり100円ぐらい違ったから富士にした。長巻も当時一缶で富士が2700円ぐらいのところコダックは3700円ぐらいだった。どうも変なところをケチってしまう自分は富士にした。

社会人になってしばらく写真撮影の趣味から遠ざかったりして、携帯電話のカメラすらほとんど使わなかった。何年かに一度写真熱が再燃するのだが、ごく短期間で燃え尽きてしまう。暗室作業をするだけの気力が続かないのだ。

それで、一昨年また写真熱が再燃した際に、思い切って一台コンパクトデジカメを買って、それで撮ることにした。

コンパクトデジカメにすると、撮れる撮れる、1日に300枚ぐらいシャッターを押してしまう時もあった。フィルムで撮ってた頃は多くても1日150カットぐらいしか撮らなかったから、一気に倍である。それも、現像しなくてもいいものだから、撮る頻度も増え、写真がパソコンの中でいっぱいになった。

その写真熱も2ヶ月ぐらいで収まってしまい、半年を置いて、また2ヶ月再燃するというのを繰り返した。

合計で半年も撮っていないのだが、わけのわからない写真のデータでパソコンがいっぱいになった。デジカメで撮れる時は同時進行でモノクロフィルムでも撮っていたのだが、あまりにもたくさん撮ってしまい現像が追いつかない。それでパソコンが写真だらけになり、未現像フィルムがたまり、嫌になってしまうのだ。

そういうことが続き、写真を撮ること自体がストレスになった。誰に頼まれたわけでもなく、道楽で写真を撮っているわけなのだが、負担になるのである。情けない。

そこで、写真を撮る枚数を減らすことにした。

デジカメでは、取ろうと思えばほぼ無限に撮影できてしまうのだが、どうせ無限に撮っても自分が気にいる写真はその中のほんの数枚だけだから、欲張らないのである。

プロのカメラマンや、写真家の方だとこういうわけにはいかないのかもしれないが、こちらは写真愛好家なんだから別に撮影枚数を減らしたところで誰が困るわけじゃない。

コンパクトデジカメも使っているが、それで撮影する回数を減らした。そして、普段持ち歩くカメラはLeica Standardというなんともシンプルな、「カメラ原理主義」みたいなカメラにした。これにカラーネガを入れて撮影するのだ。カラーネガにしたのは、現像が外注できるのと、フィルム代が高いので「ケチる」本能を働かせるためだ。そして、カラーネガはラチュードが広いので多少の(結構ヤバくても)露出ミスもカバーしてくれる。そして、何より、カラーネガこそ私にとって「一番普通」なフィルムなのだ。私は「写ルンです」の世代だから。

Leica Standardにはピント合わせの指標となるものが付いていないので、レンズの付け根に書いてある距離表示を元に目測でピントを合わせる。露出計も付いていないので、フィルムの箱に書いてある(今使っているフィルムには書いてなかったけど)露出の基準を使う。フィルムの巻き上げも、ノブ式だからやけに手間がかかる。巻き戻しも同じくノブだからやけに時間がかかる。いや、これでもLeica Standard発売当時はすごくスピーディーに写真撮影できる画期的なカメラだったんだろうけれども、今の時代にしては時間がかかる。コンパクトデジカメの5~6倍時間がかかる。

撮る枚数を減らすことにしてみても、まだ慣れないので、つい撮ってしまう。しかし、「撮らない撮影」もだいぶ上達したようで、最近は外に出歩いて36枚撮り1本で満足して帰ってこれる。この調子だと、週に1日だけカメラを持ち出すようにしたら、一週間に1本で済んでしまう。写真道楽のミニマリストである。

素晴らしい写真を撮る写真家が何カット撮っているかは知らない。話によると一月に50〜100本撮るなんていうのも普通らしい。デジカメだときっと5000コマ以上撮っていたりするんだろうか。とにかくたくさん撮れと、かつてなんかのカメラ雑誌で読んだ。そういう風に、たくさん撮るのは大いに結構なことだと思う。けれども、私はそのペースでは撮影できない。写真の整理や現像が追いつかないし、時間的にも経済的にもキツイからだ。

そういう風にしてでも、写真道楽は続けられるかどうか、それが目下私の研究テーマである。