よっぽどワルなんじゃないか?Freddie Hubbard

私の本棚に古いGQのバックナンバーがあり、それの特集がJazzなのだが、見出しに「トランペッター不良論」と書かれている。

トランペッター、それも特にジャズのトランペッターには不良の印象を受ける人たちが多い。実のところはわからないけれど。

例えば、リーモーガンなんかは射殺された最期もなかなかドスが効いているけれど、若い頃から品行方正な雰囲気ではない。リーモーガンは17歳ぐらいでもう既にメッセンジャーズの花形だったわけだから、まあ、普通の一般人ではないから仕方ないかもしれないが、10代の頃からなんだかわけがわからんぐらいカッコイイ出で立ちで、スーツなんかの着こなしもピカイチである。専属のドレッサーが付いていたのかなと思うほど洒落ている。

洒落ていたらイコール不良というわけではないけれど、リーモーガンのスタイリッシュさはただのお洒落さんのセンスではない。ただならぬものを感じる。楽器も、初期こそはガレスピーのビッグバンドでみんなお揃いで吹いていたであろうマーチンのコミッティーを吹いているけれど、途中からコーンだとか、ホルトンだとか、まあ、吹奏楽部ではまず登場しないような楽器を手にしている。

あれが、カッコイイ。

リーモーガンの演奏についてはいろいろな好き嫌いもあるだろうからまあ、別の機会にするとしても、トランペッターにはそういうちょっと普通の雰囲気ではない方々が多いのは事実である。

その中の代表格といえば、私は何と言ってもフレディーハバードであると思っている。フレディーは、私の最も好きなトランペッターの一人なのだけれど、見た目とか格好とかはもちろん、そのアグレッシブでパワフルなトランペットのサウンドそのものから、品行方正なスクエアな人たちとは一線を画している。

まあ、フレディーハバードの私生活については私もよくは知らないのだけれど、体格は大柄で、ずんぐりしていて、リーモーガンのようなキリッとした感じとはちょっと違う。それでも、フレディーハバードがいつも、ジャズトサイズのスーツをパリッと着こなして、ステージにたつ姿は確かにカッコイイ。ノッチドラペルのダブルのスーツという、その辺に吊るしでは売っていないであろう背広、あれがまたなんだかただならぬ貫禄がある。ピークドラペルのダブルのジャケットであれば、40年代からジャズミュージシャンが着こなしているイメージがあるけれど(50年代はピチピチのラペルの細いスリーピースのシングルが多い)ノッチのダブルの背広を着ているのはフレディーぐらいだろうか。

使っている楽器もカリキオだとか、コーンだとか、ビッグバンドのセクションでは浮いてしまいそうな個性的な「明るい」音がするトランペットを吹いている。

その、カリキオとかコーンとかで、ダークなサウンドを出したり、パリッとしていて煌びやかなハイノートを吹いたりしている。フレディーハバードはオープンで吹いていてもすぐにフレディーだとわかる独自の音を持っている。その、存在感たるやなかなかのものである。私は、トランペットについてそこまで詳しいことはわからないけれど、おそらく、彼の音はクラシック音楽とかのトランペッターに言わせるととんでもない流儀なのではないかと思われているだろう。ハイドンとかバッハとかを吹いているモーリスアンドレのトランペットとかとは別の楽器のようである。

彼の、ミュートプレイもまた味わい深い。フリューゲルホルンの図太い音も素敵だ。世の中に、カッコイイジャズのサウンドというもののスタンダードがあるとしたら、それはフレディーのトランペットのサウンドだと思う。(ちなみに、ビリージョエルの「ザンジバル」のトランペットソロはフレディーハバードだ)フリューゲルホルンは、いろいろと持ち替えているようなので、詳しいことはわからないのだけれど、YouTubeでよく見かけるのはゲッツェンのエテルナ、「First Light」のジャケットに写っているのはケノンの楽器であるようだ。

フレディーは生前、インタビューでディジーガレスピーやら、チャーリーパーカー、コルトレーンなんかを引合いに出されて、そういうジャズジャイアンツの一員としてどうですか?みたいな質問をされた時に、「私は、そんな大物と一緒に肩を並べられるのは照れ臭い、自分はただラウドにトランペットを吹いてきただけだよ。」と答えたらしいが、そういう謙虚さも含めてなんだか私の理想のトランペッターなのである。ただの出しゃばりではないトランペッター。よっぽど自信があったのだろう。

フレディーのひたすらビッグでラウドなトランペットを聴いていると、なんだか少しホッとするのも事実である。

私は、学校に行っていた頃、進学校に通っていたのだが、とにかく学校の成績が良くなくて先生だけでなく、同級生にも馬鹿にされていた。馬鹿だったのだから仕方ないのだが。あの頃、よくフレディーのオープンセサミを聴いて、気分を紛らわせていた。

不良にも、品行方正な優等生にもなれない中途半端な自分の悩みを、フレディーのラウドなトランペットの音がぶっ飛ばしてくれた。あの頃憧れた、フレディーハバードには、少しも近づけてはいないけれど、今夜も聴いている。

Giardinelliのマウスピースを「新品」で購入した。

私は普段、トランペットのマウスピースはBachの3C相当を使っている。

メインのマウスピースはKanstulのCG3というかなり内径の大きなモデルだ。内径が大きい方がアンブシュアが崩れづらいのでこれを使っている。内径が小さいと、ちょっとずれただけで唇に負担がかかってしまう。気がする。

けれども、つい最近まではジャルディネリの7Cというモデルを使っていた。Bachの7よりもすこし内径が小さいような気がする。これは、先ほど書いたことと矛盾するようだけれど、ハイトーンが出しやすくて重宝していた。その点、低音を綺麗に出すのには息の使い方に気をつけなければならないのだけれど。

ジャルディネリの7Bというのも持っている。正確には、こちらはジャルディネリではなく、ジャルディネリのコピーのNY Classicのものだけれど、ほぼジャルディネリと一緒である。こちらも、内径が小さいけれど、深さはあるので低音が出しやすい。

ここ最近先ほどのカンスタルのマウスピース(CG3)を手に入れて、吹いていた。CGはクラウド・ゴードン先生のイニシャルから取られている。クラウド・ゴードンのシグネチャーモデルのような位置づけなのだろう。

クラウド・ゴードン先生はさすがに良いものをお使いになられている。誠にバランスの良いマウスピースである。下から上まで楽に出せる。アンブシュアも崩れないという優れものである。

それに倣い、フリューゲルホルンのマウスピースはBACHの3FLを使っていた。

しかし、先週末ある街のハードオフに行ったら、フリューゲルホルン用のGiardinelliのマウスピースのデッドストック品が売られていたのである。それも、古い刻印、古いパッケージのやつである。それだけでない。なんと、大特価だったのである。

10FLが二つと7FLが一つ店には出ていた。その中から、私は7FLを購入して帰宅した。

帰ってきて早速その7FLでケノン(私のケノンはバックシャンクなのである)を吹いたのだが、これがまたなかなか悪くない。むしろ、良い。とても具合が良いのである。

バックの3FLもアンブシュアの安定からかんがえると、なかなか安心のマウスピースだったのだけれど、高音を吹く際にちょっと音が硬くなりがちであった。きっと頑張って吹いていたのだろう。それが、ジャルディネリにしたら高音が少しやわらかく太くなった。理屈では、音が細くなりそうなもんなのだが、おそらくマウスピースのせいというよりは息の使い方が楽になったせいだろう。

早速私は、フリューゲルのためのメインのマウスピースをジャルディネリにすることにした。めでたしめでたし。

それで、どれぐらい大特価だったかといえば、相場の1/3ぐらいか。

ジャルディネリ、NY Classicでも良いのだけれど、なかなか良いマウスピースです。魔法のマウスピースだと、個人的には思っています。

別れと出会い、Kanstul Committee

今日、1981年製のFender Telecasterを売却した。 Black and Gold Telecasterという、なんともゴージャスでデラックスなギターであった。バンドのライブでも何度か使い(私の持っているギターの中から、娘がライブで使うならこれが良いと言って選んでくれた)、苦楽を共にしたギターであった。

もう、コロナでライブもやらなくなってしまったことと、持っているテレキャスターの中でも一番登場頻度が低いので、売却した。楽器を売却するのはとても辛いのであるが、それをお店が高く評価してくれて、高く売れてくれると正直言って嬉しい。私のギターも高く評価してもらったので、嬉しかった。

別れ際に、「ありがとう」とギターに呟いたら、なんとなく感傷的になってしまった。本当にありがとう。良いギターでした。ありがとう。

それで、その足で別の楽器店に行って、トランペットを買った。

売却して手に入ったお金は、一文残らずトランペットに変わった。すこし、追加でお金を払い、トランペットを手にいれた。

Kanstulの1603というモデルである。ラージボアのMartin Committeeの忠実な復刻版といったところの楽器だ。オリジナルのラージボアのCommitteeは今いくらぐらいだろう?50万円以上になってしまうか。復刻版のCommitteeのラージボアでも35万円ぐらいはするだろうか。復刻版も、もう20年ぐらい前に絶版になってしまった。

今回手にいれたKanstulというメーカーも、今はもう無くなってしまった。とても真面目に楽器を作る会社で、1603モデルは、その中でも上級機種であった。つい5年前ぐらいまでは新品で手に入れることができたのに、惜しいことに無くなってしまった。

Kanstulの楽器を買うのは2本目か。一本目は学生時代に、コミッティーを手放して買った、フォンティーヌ・ベッソンの復刻モデルだった。なんであの時、コミッティーを手放してしまったのか、今でも後悔しているのだが(そのあと長いコミッティー探しの旅が続いている)フォンティーヌ・ベッソンは15年ぐらい所有していた。ピストンの調子がイマイチだったことを除けば、音は素晴らしい楽器だった。カンスタルらしい、丁寧な音がした。銀メッキが真っ黒に錆びて、ものすごく貫禄が出ている状態で手放した。

今回のカンスタルは、それよりもずいぶん最近作られたモデルだ。ラージボアなので、なかなか鳴らしきれないが、先日知人に貸してもらったSchilkeのように、どんどん息が入っていく感じで、シルキーのようにド派手ではない音色も気に入った。

オリジナルの、状態の良いコミッティーはもうなかなか手に入らなくなってしまった。私も一台、ボロボロなルックスだが状態は良い個体を持っているが、プロのトランペッターに貸している。とても素晴らしい楽器なのだが、音が素直に出すぎて、私には扱いきれないのだ。彼は、大切に使ってくれているようだが、楽器なのだから、もっとバリバリ使ってもらって構わない。

トランペットという楽器は、どこか消耗品のような側面があって、エレキギターほどは長持ちしない。けれども、その短い命の火花が散っているうちに大切に演奏してあげるのが、楽器に対するせめてものリスペクトだと思う。

カンスタルのコミッティー、これからどのように美しい音をならせるようにできるか模索中である。

Big Sound! Schilke B5!

Schilkeと書いてあるのを見て、すぐに「シルキー!」と読めてしまうのはトランペッターぐらいでしょうか。トランペットについての文献以外でSchilkeという名前に出会ったことがない。

Schilkeといえばトランペットの世界では「高級品」「一級品の1ランク上」というようなイメージがあるのは、私だけではないでしょう。この写真のシルキーは、私のものではないのですが、まさに一級品の上の「特級品」というような楽器です。

シルキーの何が凄いかって、

まず、値段。高いです。新品はもちろん高いですが、中古ですらおいそれとは手が出せません。高いです。

そして、勢いよく遠くへ飛んでいくようなビッグで遠鳴りするサウンド。これも凄まじいです。下手な私なんかが吹いたら、下手なままビッグなサウンドで前にぶっ飛んで行きます。優しく吹いても、それがどんな優しさなのかはっきりと出ます。嘘偽りのない優しさなのか、上辺だけの優しさなのか。そういうのがはっきりと出てしまいます。

つくりの良さ。これも、個体によるでしょうが、やけにちゃんとしてます。ヤマハのつくりの良さのような、あそこまでのアレではないですが、アレとはまた別の、細かいところまでのトータルプロデュースの力強さというようなものを感じます。ヤマハは細かく見て作りがよく、シルキーはパッと見た時の作りが良い。誠に上品な風格でありながら、どっしりとしている。

なんだか、凄い楽器を貸していただきました。

早速吹いてみました。「おお、音がでかい」「おお、音がスーッと出て行く」「おお、息がどんどん入っていく」。バックの楽器と吹き比べてみましたが、バックの方は、楽器が音をつくってくれる感じ。なんと言いますか、音楽の工場に素材を運び入れたら、それを職人さん達がちょっとづつ、しっかり良いものを作ってくれている感じ。それに比べて、シルキーは、工場に素材を運び入れるや否や、どんどん出荷してくる感じ。もう、素材の味をそのままに、それもとびっきり活きの良いやつをたくさん出荷してくる感じ。

なんだか、バックのトランペットの「抵抗感がある」っていう感覚を今までよくわからないでいたのですが、確かにバックの方が「抵抗感があって良い音が出やすい」。それに比べて、シルキーは抵抗感があまりなくて、息が効率よく音に変わってくれる感じ。

これは、何に近いのだろうか。

Martin Committeeも、息がそのまま音になる感じの楽器ですが(その分、扱いが難しい)Schilkeはそれよりも、息の効率が良い気がします。

兎にも角にも、これでうまくならなかったらもう楽器は言い訳にはできない。頑張って練習するのみです。せめて、この楽器を貸していただいている間に、もっと自分の音を聴いて、音を綺麗にしたいと強く感じております。

まあ、楽器本体はとてもじゃないけれどおいそれとは買えないから、まずはマウスピースだけでも試してみてください。

姉の仇のように聴いていた「Hot House Flowers」

姉が中学の時にブラスバンド部でトロンボーンを吹いていた。いや、正確にはトロンボーンを吹こうとしていた、といったほうが良いかもしれない。私は、姉がトロンボーンを吹いているところを一度も見たことがない。

「教育熱心」だった両親は、姉が勉学ではなく部活動に精を出すのが気に入らなかったようで、ブラスバンド部にも反対していた。今考えてみると、なんの取り柄もない、勉強だけできる人間を育てたところで、なんの良いこともないのに、両親は、姉の学校の成績のことばかりに文句をつけ、しまいにはブラスバンド部をやめさせてしまった。

姉だって、もしかしたら少しは悪いところはあったかもしれない。私の姉は、聖人ではないし、その頃どんな人間だったかなんてすっかり忘れてしまった。

姉が、トロンボーンのマウスピースでバジングをしているところを2度ほど見たことがある。中学のブラスバンド部に入部したての頃だ。姉は、ジャズを吹きたいと言っていた。吹奏楽の退屈なCDを何枚か持っていたのも覚えている。私も、姉がいない時にこっそり聴いたからだ。

4歳ぐらい離れた弟の私は、高校に入る頃、ジャズばかり聴いていた。それも、トランペットもののジャズを。

きっと、ジャズを吹きたかった姉の憧れていたものが、どんなものなのか知りたかったということもその理由にあったのだろうけれど、ちっとも良さがわからないジャズのCDを4枚ほど持っていて、それを何度も繰り返し聴いていた。結局、ジャズの魅力なんて、ちっともわからなかった。ジャズのレコードから流れてくるトランペットの音は、私のイメージするトランペットの音とはかけ離れていた。私の中では、ニニロッソのような甘ったるい音色がトランペットだと思っていたからだ。

それでも、トランペットには憧れがあって、高校の同級生がどうやらトランペットを持っていて、使っていないというので、借りてきて、吹いてみようとしたりもした。

マウスピースは、街の楽器屋で2,500円で売っていたDoc Severinsenと書かれた箱に入っていた7Cを使っていた。その頃はDoc Severinsenが誰なのかも知らなかった。彼の世界最高の音色については、何も知らなかったけれど、とにかく、安かったので、そのマウスピースを買った。

両親は、私の学校の勉強のことにしか興味がなく、私も、ずいぶん前にヤマハ音楽教室を嫌で嫌で辞めたこともあり、誰にもトランペットを習うこともせずに、時々、借りた楽器を口に当てて、ひどいアンブシュアだけが身についた。のちのち、そのアンブシュアを治すのにずいぶん大変な思いをした。

高校時代に、家が嫌になってしまい、日本の学校も嫌になってしまい。オーストラリアの高校に通った。そこでも、人種差別で大変な目にあい、ろくに友達はできなかった。それで、仕方なく、また、音楽を聴いてばかりの生活になった。

そのころも、まだジャズと、トランペットへの憧れは変わらずに、わかりもしないジャズを何度も繰り返し聴いていた。今考えてみると、当時私が聴いていたジャズは複雑すぎた。だから、それだけ何度聞いてもちっとも体に入ってこなかったのかもしれない。ただ、音楽のセンスがなかっただけかもしれないけれど。

それでも、何度も何度もウィントンマルサリスの「Hot House Flowers」というアルバムを繰り返し聴いた。なぜか、そのわからない音楽のこのCDが好きだった。ウィントンの音楽は、今聴いても、どうもインテリ的で、テクニカルで複雑なのだけれど、さすがはトランペットの天才、音色は素晴らしい。その、音色の素晴らしさだけでも、感じるところはあったのかもしれない。

オーケストラアレンジなので、どうも、ストレートアヘッドなジャズとも違うのだけれど、これはこれで、今聴いてみるとなかなか良い。ウイントンのトランペットは、どうも味気ないという先入観があったけれど、味気ない中にも、なにか説得力のようなものがある。味気なさは、巧すぎるところからきているのかもしれない。実際、ソロも、優等生的なだけにおさまらないで、自由に吹きまくっている。この自由さは、若い頃のウィントンマルサリスのアルバムでは存分に発揮されているのだけれど、その自由さがどうも気に食わなかったのだけれど、このアルバムの自由さは私が聞き慣れているせいもあるけれど、どこか心地よい。

この頃のウィントンはBACHのヴィンドボナを吹いていたと思う。どう考えてもクラシック野郎の吹くようなこのおぼっちゃま楽器から、ダークでリリカルなジャズを紡ぎ出していたんだから、さすがウィントンである。

特に、個人的には5曲目の Djangoが好きで、何度も聴いた。

お勉強ばっかりやっていても、ロクな人間にならないだろうと冒頭に書いたけれど、楽器の練習と音楽のお勉強ばかりやっていたであろうウィントンであるが、19歳にしてこのような素晴らしい演奏ができるのだから、天才はやっぱり違う。

ウィントンは、これからどうやって枯れていくんだろう。それが、本当のかれの音楽的勝負だと思いながら「Hot House Flowers」をあらためて聴いている。