ブルースの泥臭さ、粘っこさをほんのり感じる Lou Rawls 「Live」

ブルースの香りが強いアルバムはどうも暑苦しいアルバムが多い気がする。爽やかなブルースのアルバムというのもないわけではないけれど、たいていは暑苦しい。

戦前のブルースの一部や、ラグタイムなんかはそうでもないけれど、シカゴブルース、テキサスブルースの50年代以降のやつなんかは熱演が多いせいか、爽やかという類の音楽ではない。

ブルースというジャンルに入っていなくても、ジャズやソウルのアルバムでもブルースの香りが強いと、だんだん爽やかという世界から遠ざかる。どちらかというと、泥臭く、粘っこい音楽になりがちだ。

そんなことをLou Rawlsのアルバム「Live」を聴いていて思った。

このアルバムは、ジャズ専門のレコード屋で購入した。Lou  Rawlsはジャズシンガーというよりも、 R&Bやソウルシンガーとして知られているのかもしれないけれども、このアルバムはジャズのバンドをバックに歌っている。それでも、内容は泥臭いブルースのアルバムに仕上がっている。

ギターのHerb Ellisがブルージーなフレーズをバッキングで入れていて、あれ、ハーブエリスってこんなにブルース臭いギター弾く人だったっけ、と思ったりする。

それでも、ジャズのスタンダード「The shadow of your smile」や「The girl from Ipanema」なんかもやっているので、一応ジャズのアルバムと分類されているのだろう。けれども、それらの曲でも、ブルースを思わせる節回しが出てきたり、ノリもジャズというよりもブルースに近い。

そのせいもあり、かなり暑苦しくなりそうなところではあるけれど、不思議とそこまで暑苦しくもない。まあまあ、程よい暑苦しさである。だからこそ、ブルース独特の泥臭さや粘っこさを再確認した。

十分熱いアルバムではあるんだけれど。けれど、そこにジャズのちょっとモダンな響きが加わり、ブルースとしては暑苦しい部類ではない。ジャズとしては、ちょっと泥臭い部類だけれど、いわゆるハードバップの暑苦しさではない。

こういうアルバムを、どういうタイミングで聴こうかと、ちょっと扱いに困っていたのだけれど、改めて聴いてみると。そこまで聴くシチュエーションを選ぶようなアルバムではなかった。

どんな時にでも聴いて心地いいとか、聴いてリラックスできるという類のアルバムではないけれど、ジャズを聞き飽きた時や、本気の「どブルース」アルバムを聴こうという気分になれない時なんて聴いてみると新たな発見があると思う。ブルースとはもしかして本来結構楽しいもんなんじゃないか、とか、ジャズのフォーマットでブルースをやると、こんなに雰囲気が変わるんだなあ、とか思いながら聴いている。

それと、このルーラウルズというおっさんは物凄く強いビートを感じる。ジャズの人たちがいう「スイングする」という言葉があっているかもしれない。バックのバンドも物凄くスイングする。

そういうこともあって、このアルバムは「ジャズ」のアルバムとして扱われているのだろう。

そういう、どっちつかずのアルバムは、扱いに困ることもあるが、案外このアルバムのような名盤も多い。

贅沢な癒しを提供してくれるBobby Darinの I won’t last a day without you

音楽に癒しを求めることは悪いことじゃない。

音楽を一生懸命にやっている人の中には、「俺の音楽は癒しなんかじゃない」という方もいるかもしれないけれど、それはやっている側の意見で、受け止める側にはそれぞれの受け止め方があっていい。

「これは、絶望を表現した音楽です」なんて言われたって、その中に希望を見出せるリスナーだっていてもおかしくない。むしろ、プレーヤーやプロヂューサーなんかが意図した形とは違う受け取り方がしやすいのは音楽のいいところの一つだと思う。

例えば、フリージャズなんかは、はっきり言って普段聴かない人には何が何だかわからない。ノイズなんかもそうだろう。ああいう音楽は、受け止める側に委ねられている場合も多いので、より一層、自由に自分の感受性の思うままに音楽を感じればいいと思う。

だから、疲れた時に聴く音楽と一言で言っても、様々な音楽でありうる。人によっては、ヒーリングミュージックとしてそれ専門に出ている音楽を聴く方もいるだろうし、クラシック音楽だったり、ジャズだったり、場合によってはヘビメタを聴いて落ち着くというのもあるだろう。そういう私も、疲れた時だからこんな音楽を聴くと決めているものはない。

逆に、これを聴くと必ず癒されるという音楽もない。いくらヒーリングミュージックとして売られている音楽でも、聴いていて嫌になってしまうことはあるし、時にはゴリゴリのジャズ、ハードバップなんかを聴いて癒されることもある。松田聖子を聴いて癒されることもある。

けれども、癒される確率が高い音楽は存在する。

Bobby Darinが歌う「I won’t last a day without you」がそうだ。

この曲はオリジナルの、カーペンターズの歌ったバージョンが有名だ。名ソングライターのロジャーニコルスとポールウィリアムスの共作だ。

毎日毎日たくさんの見知らぬ人に会わなければならない。私と関わりのない人たちと。それに、耐えられるほど強くはないんだ。

だから、この世界にいつも私のことを想ってくれて頼りになる人がいると思えることはとても嬉しい。そして、あなたはいつもそこにいてくれる。

という歌い出しの歌詞からして、都会の暮らしに疲れた私を励ましてくれるかのようでいい。

カーペンターズのバージョンもいいけれど、ボビーダーリンのバージョンはちょっとけだるくて、レイドバックしていて、優しくつぶやくようで気に入っている。ボビーダーリンはどんな曲を歌わせても上手いシンガーだけれど、この曲のアレンジは特に彼の歌のスタイルに合っているのだと思う。バックバンドにホーンもストリングスも入っていて、バックコーラスも入ってとても豪華なアレンジメントだ。

ジャズのスタンダードや、ミュージカルの曲、ポップスやフォークのカバー、何を歌わせてもボビーダーリンは上手い。レイチャールズのようにソウルフルに歌えるし、フォークソングの素朴さも出せる。ビッグバンドをバックに歌っても映える。こんな器用なシンガーはなかなかいない。そんなに器用でいながら、彼にはスタイルがある。

そういう、素晴らしいミュージシャンが提供する「癒し」は安定感がある。「いつでもどこでも癒しに行きます!」というような力強さすらある。

「I won’t last a day without you」は「Darin 1936-1973」という彼の死後リリースされたアルバムの1曲目に入っている。このアルバムでは、ボビーダーリンの様々な側面を聴くことができる。入っている曲も様々なスタイルの曲で、カーペンターズのカバーだけでなく、ランディーニューマンやボブディランの曲もカバーしているし、彼の代表曲にもなったジャズのスタンダード「 Moritat」も入っている。所謂コンピレーションアルバムの位置付けでありながら、一枚のアルバムとして通して楽しめる。

「I won’t last a day without you」を聴いて、余力があるときはアルバムを最後まで聴いている。

「Grant Greenのオルガントリオ」の魅力が詰まったクインテット作 「Am I Blue」

Grant Green、John Patton、 Ben Dixon、のトリオやこの3人がリズムセクションをやっているアルバムは、間違いない。グラントグリーンの ハードバップ時代のサウンドの一つの完成形がこのトリオでの録音だと思う。

グラントグリーンは様々なオルガンプレーヤーと共演しているギタリストだ。John Pattonの他にもBaby Face Willette、Jack McDuff、Larry Young。彼らと演っているアルバムも良い。それぞれが個性派ぞろいのオルガンプレーヤーである。名盤も多い。その中でもJohn Pattonと共演しているアルバムを推す。

グラントグリーンがお好きな人は、「Live at Lighthouse」なんかのもっとファンク色の強いアルバムの方が良いというかもしれない。確かにあれもすごい。すごいけれども、聴いていてちょっと疲れる。熱い演奏は聴いていて疲れるもんだ。

その点、ジョンパットン、ベンディクソンとグラントグリーンは熱くなっても、騒がしくない。おそらく、グラントグリーンが音数の少ないプレーヤーであるというのに併せ、ジョンパットンがノリはいいけどやや控えめなオルガンがいいんだろう。ソロも、不器用な感じがするぐらいあんまり派手なことはやらない。というよりも、ジョンパットンのソロは、ほぼシンプルな単音フレーズと、それらのフレーズの繰り返しによって成り立っている。けれども、絶妙なところで入ってくるバッキングも不器用な彼のソロも、オルガンジャズの魅力に溢れている。

そこに、ベンディクソンのドラムが絡む。ベンディクソンはきちんと盛り上げるドラマーである。すごく派手なドラマーじゃないけれども、曲にきちんとアクセントをつける。タメの効かせ方なんかは、もの凄いものがある。

グラントグリーンの寡黙でありながら雄弁なギター、ジョンパットンの不器用でありながら美味しいところを押さえているオルガン、絶妙なアクセントをつけてくるベンディクソンのドラムのバランスが、聴いている者を心地よくしてくれる。

このメンバーでの演奏をとりあえず、一枚聴いてみたいという方にオススメのアルバムはGrant Greenの「Am I Blue」。トランペットにJohnny Coles、テナーサックスにJoe Hendersonが入っています。フロントの二人ももちろんソロをとりますが、ソロの尺も短めで、管楽器がバリバリいう感じのジャズではなくて、ブルージーで、ゴスペル調の曲もあり、ほのぼのした感じがしてきます。

あくまでも、グラントグリーンがリーダーで、管楽器の二人はホーンセクションのような立ち回りをしているけれども、そのアレンジがまたこのアルバムのリラックスした雰囲気を作っている。グラントグリーンが弾くリードギターっていうのもとてもシンプルで自信に満ち溢れていていい。

このトリオで、もっとアルバム作ってくれたらよかったのに。

まあ、いつまでもこのサウンドばっかりもやってられなかったのだろうけど、Blue Noteレーベルの宝石のようなトリオです。騒がしくも、静寂でもないジャズ、これがジャズのある意味最も美味しいところなんじゃないかと近頃は思うのです。

見えてなかった東京の貌

昼過ぎに銀座に出てぶらぶらした。銀ぶらである。今日は折しも3月11日だった。

東日本大震災から6年目を迎える今日、銀座はいつもの週末のように混んでいた。海外からの観光客が半数ぐらいいた。中央通りは歩行者天国になっていたのだが警察官が各交差点に4〜5人づつ立っていた。通りすがりのお兄さんが、警官に「今日何かあるんですか?」と聞いていた。

確かに、あれだけたくさん警官が目を光らせていたら「何かある」と思うのが普通だ。天皇陛下や、マイケルジャクソン、トランプさんみたいな有名人が来るだとか、社会的にもインパクトが大きいパレードやデモがあるだとかじゃなければ、あんなに警官はいないだろう。

2時45分過ぎに三越と和光の前の交差点を横断していたら、和光の時計塔の時計の鐘が何度か鳴り響いいた。それに合わせて交差点の周りにいた人だかりがピタッと立ち止まり黙祷を捧げていた。きっと地震の起こった時間だったんだろう。

あの黙祷のために銀座に集まった人たちのことを思うと、いったいどういう気持ちでここへ来たのか、イマイチよくわからなかった。黙祷を捧げるなら自宅の仏壇の前でもいいだろうし、わざわざ銀座に来なくてもいいような気がする。

それでも、確かに彼らは銀座に「集まった」人たちだった。偶然居合わせたという感じではなかった。だから、きっと和光の時計塔には何かいわくがあるのだろう。

私自身は、あの震災に何の思い入れもなかった。東京も揺れはしたが、その後何事もなかったかのように戻るまでに1月もかからなかった。ただ、地下鉄の駅の電気がちょっとだけ暗くなったというだけだった。暗くなったと言われても、元からあの明るさでも誰も文句は言わないであろう明るさだった。それで、勤めていた会社も、地震の1週間後ぐらいからは何事もなかったのように普段の仕事に戻った。

地震のあった当日は、新宿でで人に会う約束をしていた。会社は日本橋にあったのだが、5時を過ぎた頃、会社の同僚に「俺、ちょっと新宿で待ち合わせしてるもんで、今日は早くあがります」というと、「きっと今日は会えないと思うよ、この状態じゃ」と言われた。

会社を出ると確かに、新宿に行くのは無理そうだった。地下鉄は止まっているし、何より歩道が人波で満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになっている。100メートル歩くのに10分はかかりそうな程だった。

2時間強で自宅にたどり着いた。

それが私の震災の記憶だ。それ以降はほぼ通常の日常に戻った。2週間ぐらい停電の可能性をほのめかされたり、スーパーの棚が空っぽだったりしたが、食べるものに困ったり、飲み水に困ったりすることはなかったし、ほぼ不自由も感じなかった。

それよりも、その頃、せっせとギターアンプを直していた。真空管アンプが発振するようになっていたのだ。震災を挟んで、そのアンプの修繕をしていたのだが、程なくして修理が完了したのを覚えている。本当に良かった。

東京はそんなもんだったから、被災したという実感はなかった。東京近郊でも地面の液状化で大変だったところもあるようだったが。

そういう震災があった最中、ワイワイやっていたら不謹慎だというようなことをいう方々がいたが、そういう人たちの気持ちがわからなかった。そんなことを言っていたら、毎日のように戦争や、自然災害、凶悪犯罪は起こっているのだから、年がら年中喪に服してなきゃいけない。そんなことをやるよりも、ワイワイやったり、エネルギーを消費して景気をよくしてやった方がどれだけ世のため人のためになるか。

原発だって、震災の後ずいぶん騒いでいた人がいたけれど、どうもピンとこなくて一部のアーティストやジャーナリスト、文化人の話題のネタの為だけに存在しているもんだと思っていた。まあ、ありがたく電気を使わせてもらっているという事実は厳然とあるわけだが、それ以上の感慨はなかった。原発で騒ぐ気持ちはわかるけれど、それよりも私は通りを埋め尽くしている凶器である自動車について、どうにかした方がいいと思う。私の自宅のすぐ横を幹線道路が走っているので、私にとっては交通事故の脅威の方が原発の脅威よりも切実だ。

あと、地下鉄も満員のホーム危ないし、ホームに傾斜ついてたりしていて車椅子の人ホームから落っこちる危険性高いから、ホームドアつけたほうがいいと思う。私には結構切実な問題だ。

しかし今日、銀座に行ってみて、黙祷を捧げる人たち(被災者と呼んだ方がいいのか)を見て、ああ、東京にも被災した実感を持っている人たちがこんなにいるんだなあと、その「量」を目にすることができた。

きっとあの中には、福島や東北地方から避難してきた人たちもいたんだろう。そういう意味では、東京も被災したのかもしれない。私がそれを見えていなかっただけで。

街には、普段見えない貌が潜んでいて、こういう時に垣間見えるんだな。

普段カントリーを聴かない人でも楽しめそうなアルバム Vince Gill 「Guitar Slinger」

カントリーのギタリストのアルバムはバカテクのギターが前面に押し出されているものが多くて、ギターが好きな人間でもアルバム一枚を通して聴いて楽しめるというものは少ない。大抵は、その凄さに参ってしまうのだ。ヘビメタの早弾きギター中心のアルバムを聴いているのと変わらない。

世の中には朝から晩までああいうバカテクものを聴いていて楽しめるという方もいるということはうかがっているが、私にはキツい。かつて、朝から晩までバンヘイレンをかけている店で短期間働いたことがあったが、あれは音楽を無視して過ごしていたからなんとかなった。仕事だからBGMは無視できたのだ。

しかし、無視するような音楽をわざわざ聴くことはない。お店ならともかく、自宅では音楽をできれば楽しみたいし、せっかくかけるならある程度耳を傾けるような音楽をかけたい。

一方で、カントリーのバカテクギターを聴いていると、なんだかハッピーな気持ちになれることは確かで、興奮する。興奮した高揚感を味わうには、Brad Paisley、Scotty Anderson、Johnny Hiland、Brent Masonとかのモダンなものから、Roy Clark、Jerry Reedたち大御所など、その他大勢素晴らしいプレーヤーはたくさんいる。それぞれに持ち味があって、一言にバカテクカントリープレーヤーと言っても味わいは異なる。彼らのアルバムの中には、あまり体力を消耗しないでもじっくり何度も聴けるようなアルバムがある。

Vince Gillもバカテクのカントリーギターを弾けるギタリストの一人だ。YouTubeで検索するとAlbert LeeやDanny Gattonと共演しギターを弾きまくっている映像が出てくる。実際、クラプトンのクロスロード・ギター・フェスティバルなんかにも出演していて、いわゆる「ギターヒーロー」の一人として数えられている。

けれども、Vince Gillの本当の魅力はその一度聴いたら心に残る透き通った歌声と、曲の良さ、アルバムとしての完成度だと思う。特に、彼の曲にはいかにもカントリーのような曲もあるが、時としてカントリーのアルバムに入っているにしてはずいぶん都会的で垢抜けたものがある。そういう曲を、彼の声で聴いているととても落ち着く。バラードもカントリーにありがちなベタベタする感じにならずに、さらっとしていて新鮮である。

彼の「Guitar Slinger」というアルバムは、タイトル通りヴィンス・ギルのギタープレイもそこそそ聴けるのだが、それよりも、ギターだけでない彼の音楽の魅力がたくさん詰まっている。一曲目はギターのイントロから始まるのだけれど、アルバムを聞き進むにつれて、なぜこのタイトルなのかちょっとわからなくなるくらい、ギタープレイではなく曲そのものの魅力に耳が惹きつけられる。曲が彼の澄んだハイトーンボイスにとても合っている。ギターがギンギンの一曲目から始まり、洗練されたポップな曲、ちょっとカントリーテイストの曲、リラックスした優しいバラードなんかが散りばめられており、くつろぎながらアルバム一枚聴きとおせる(54分)。

特に5曲目の「Who wouldn’t fall in love with you」が良い。少しけだるい感じのスローテンポの曲。ラブソングで、祈るような切なさがあるのに、熱すぎない。熱唱というのではなく、ため息のような歌だ。4曲目のちょっと泥臭いロックな感じの曲の次に、雰囲気を変えたスローでけだるい曲がくるので、アルバムの前半でとても大きなアクセントとなっている。そして、そのアクセントのおかげで、このアルバムに引き込まれるのだ。

この曲で聴ける彼のギターは、ちょっと控えめだがとても存在感がある。短いギターソロも、歌のバックのオブリガードも、静かで、レイドバックしていて、それがこの曲の雰囲気を作っている。やっぱり、ヴィンス・ギルはすごいギタープレーヤーでもあるんだなあと再確認させられる。

確かにこのアルバムに入っている曲の節々でそういう風に曲のテイストを構築するさりげないギターが入っているから、「 Guitar Slinger」というタイトルなのかなあ、などと改めて考えてみたが、どうなんだろう。

典型的なカントリーのアルバムではないけれど、カントリーを普段聞かない方が初めて聴くカントリーのアルバムに選んでもいいと思う。とっても素敵な曲がたくさん入っているし、カントリーテイストの曲ですらあっさりしているから、「よし、カントリーを聴くぞ!」という気分じゃなくても聴ける。

とは言っても、バックバンドにはフィドルもペダルスチールギターも入っているので普段カントリーを聞かない方には十分カントリーのテイストを味わってもらえるかと思います。

ピアノ伴奏の理想形(私の中で) Randy Newman 「 Live」

ピアノ弾き語りというのにすごく憧れる。

ピアノ弾き語りといえば、Billy JoelとかElton Johnが有名。ああいう風に自分の歌をピアノ弾き語りで歌えたらどんなに素敵だろう。あの、ピアノという持ち歩けなくて、嵩張る、不自由な楽器を選ぶのもなかなか素敵なことだと思うけれど、なんといってもピアノのあの現代ではありふれた音色で伴奏をして歌を歌うというのがいい。

もともと私はピアノの音が嫌いだった。幼少の頃ピアノのレッスンを受けたが、今は全く弾けない。そのことがコンプレックスになって、ピアノの音を聞くと嫌な気分にすらなっていたのだ。そもそも、ピアノのレッスンというのが忍耐を強いるものであり、嫌だった。テキストみたいのがあって、その通りに弾かなければいけない。「間違え」というものが歴然と存在していて、その音符ではない音を弾いたり、異なったリズムで弾けば間違えである。そして、その間違いを起こさないために延々と練習しなくてはいけない。間違えると、教官に怒られたりする。

ピアノのレッスンについて覚えているのは、音楽というのは辛く苦しいもので、練習をしなければ絶対に上手くならないということを、間違えるたびに再確認したことだ。そのこともあって、中学校に入るまで音楽はどちらかというと嫌いだった。

中学に入り、エレキギターを買った。今度は、誰にも習わずに、エレキギターを弄った。練習したのではなく弄った。コードの押さえ方とかについては、きちんと音がなるように我流で何度も練習したが、その他についてはほとんど真面目に練習しなかった。そのために、それから25年が経った今でも、まともにギターは弾けない。ギターソロというものが弾けない。ヘビメタの早弾きももちろんできない。ジャズやクラシックは弾けない。しかし、自分が楽しめる程度には引くことができる。誰にも聴かせることのできるクオリティーではないけれども、ギター弾き語りで歌を歌うことはできる。

ギターに慣れ親しんだら、音楽コンプレックスが軽減してピアノの音も嫌いではなくなった。二十歳頃のことである。それでも、ジャズのピアノトリオなんかを聴けるようになったのは30歳をこえた頃からである。20代の時に遅ればせながらビリージョエルなんかを聴きだして、ピアノ弾き語りに憧れをもった。いつかピアノを買っていじってみたいと思った。

その夢が叶って、35歳の時に自宅にピアノを買った。電子ピアノの音だとすぐに飽きて弾かなくなると思ったので、アップライトピアノを買った。生ピアノは音量の調整とかができないのでいい。誠にピアノらしい。ピアノは「小さな音も大きな音も出る」という意味でその楽器の名前がついたそうだが、今日、東京都内の住宅街でピアノを弾くとかなりうるさい。小さい音で弾こうとしてもうるさい。幸い、自宅が高架線沿いなので、多少のうるささは許される環境なのだが、うちの中にいる家族には十分うるさい。

そのうるさいピアノを、弾けもしないのにいじっているのである。誰に習うこともなく、気が向いたときに、歌詞カードとコード表だけを頼りに弾き語りの、伴奏の部分だけ我流で練習している。もう少し慣れたら、弾き語りの伴奏の仕方の教則本でも買ってこようかと思ったりもするが、きっといつまでもそこまで上達する日は来ないだろう。

理想のピアノ弾き語りはRandy Newmanである。Randy Newmanの「Live」というアルバムの弾き語りのスタイルがいい。ピアノが必要最低限の伴奏を行い、小難しいことはせず(実際のテクニック的には難しいのかは知らんが)、ソロは殆んど弾かず、歌の伴奏に徹している。元ピアノ嫌いとしてはピアノ伴奏の入り口であり、理想像である。

ランディニューマンの唄も歌詞もとっても良い。英語の歌詞の内容は正確にはわからないが、聞き取れるだけでユーモアと皮肉に富んでいて、それが結構差別的だったりするのだが、ランディニューマンの力の抜けた歌い方がそれをすんなりと歌い上げている。社会にメッセージをぶつけてやろう!という感じではなく、静かに嘲笑い哀しむというような歌だ。実際、彼の代表曲は政治的にも、社会的にもかなりヤバい内容の歌詞だったりするのだが、そんな曲が差別の対象とされている人さえもつい口ずさんでしまうような、不思議な魅力がある。

彼みたいに自然なピアノ弾き語りができるのであれば、別に彼の歌が歌えるようにならなくても構わない。

ビリージョエルのようにキリッとはしていないし、レイチャールズのようにソウルフルでもない、ジェリーリールイスのように乱暴でもないが、そういうトレードマークのようなものや、スタイルというものともまた違ったところで、ピアノというものの一つの魅力を最大限に発揮しているピアノプレーヤーだと思う。

ピアノを買って2年が経ち、未だ全く上達していない私は、今夜もRandy Newmanの「Live」を聴く。

 

良くできすぎているドキュメント 「エルスケン 巴里時代」

YouTubeでContemporary photography in the USAという80年代のドキュメンタリーを見ていた。10分弱のシリーズでいくつかあるようなのだが、Garry Winogrand、Mark Cohen、Joel Meyerowitzのストリートフォトグラフィーを解説しているすごく面白く、実際の撮影現場に密着していて何だか知らんが感心してしまった。まあ、偉大な写真家直々の言葉が聞けるんだから、感心したなんていうのもおこがましいのだが。

それで、インターネット上でWinograndやらMark Cohenの写真を何枚か見たりしていたのだが、どうもその写真の力強さに負けてしまい、本棚にある写真集までは見る気がしなかった。ウィノグランドとメイロウィッツの写真集はいくつか本棚に入っていて、結構好きで何度も開いているのだが、特にウィノグランドは写真に強いインパクトがあり、そういつでも見れない。

それで、もう少し親密な感じがする写真を見たくなり、たまたま本棚で目に付いたEd van del Elskenの「エルスケン 巴里時代」という写真集を手に取った。エルスケンが1949年にアムステルダムからヒッチハイクでパリに出てきた当初から「セーヌ左岸の恋」時代までの写真が収められている。そして、エルスケン自身によるものだろうと思われる(違うのかな)説明文がそれぞれの写真につけられている。エルスケンの写真家になっていく過程がこの説明文から窺い知れる。

初めの頃は路上で寝ている酔っ払いや浮浪者なんかを撮っているのだけれど、写真の距離感が近い。ただ傍観している写真ではなく写っている人たちに歩み寄ろうとしている。道行く人々や群衆を撮った写真の中でも、そういう親密さのようなものを感じさせるものがある。

ポスターを撮った写真がいくつか載っているのだが、ポスターを撮る時もエルスケンの眼差しはポスターの前を通る人、座る人たちに向けられている。本人は貧乏で大変だったらしいが、なんだか微笑ましいぐらい幸せそうな写真である。「セーヌ左岸の恋」が退廃的で仄暗い感じすら持っている中でも、この暖かい眼差しは変わらずにある。もし、この暖かい眼差しがなければ「セーヌ左岸の恋」はもっと悲惨な印象を受ける写真集になっていただろう。

この写真集の後半に「セーヌ左岸の恋」の写真も収められている。

それらの程よくドラマ仕立ての写真と説明文を読んでいると、印象的な構図も手伝ってエルスケンの視点に立っているかのような錯覚をおぼえる。というよりも、彼が作り出した「エルスケン」という登場人物の視点だ。写真だけでも十分ドラマチックであるとともに、説明文を読むとそれぞれの写真がつながる。写真一枚一枚が、写真家と写っている人物との親密さを感じさせる。そして、その一方で、こう言っては失礼だがちょっと良くできすぎている感がある。

その、ちょっと良くできすぎている感は、映画やテレビドラマのそれとも少し違って、歌謡曲のそれのような感じがする。

写真集の冒頭に戻り、酔っ払いや浮浪者の写真を見返しても、実際のエルスケンが何を感じ、何を見たのかについては、はっきりとはわからない。私が感じることは、この偉大な写真家が一貫して被写体との「近さ」を持っていたということと、日常でありながらも非日常的で非現実的な世界が垣間見られるということだ。

面白い写真集は数多あるけれど、古臭さも含めて、こういう写真集を作れるのはエルスケンだけなんじゃないか。

今ほどエモーショナルではないPatti Austin 「End of Rainbow」

Patti Austinという名前を初めて知ったのはArturo Sandovalのアルバムで「Only you(No Se Tu)」というArmando Manzaneroの曲を聴いた時だ。

サンドバルの朗々と歌い上げるトランペットもすごかったが、パティーオースティンのなんだかしっかりした歌唱がぐっと胸にしみた。彼女の声がすごく生々しくて、歌い出しはちょっと控えめで、曲の後半に向けてドサッとそのパワーをぶつけてきて、エンディングではしっとりと聴かせる。その迫力と展開の見事さに一気に引き込まれてしまった。オブリガードを入れるサンドバルが彼女の歌にぴったりくっついてきて、トランペットソロでぐっと盛り上げると、パティーオースティンも勢いづいてきてエンドコーラスでフルスロットルまで持ってきて、その後さらりとしたエンディングに落ち着く。曲の展開としてはオーソドックスだが、だからこそシンプルに心に響く一曲だ。

YouTubeでQuincy Jonesの何かの記念コンサートで彼女が「How do you keep the music playing」を歌うのを見たことがあるけれど、ちょっとハスキーになった声でミッシェルルグランの名曲を歌い上げる姿はカッコよかった。クインシージョーンズのプロデュースしたジェイムスイングラムとのデュエット版(スタジオ録音)でもパティーオースティンは、ジェイムスイングラムが熱くなっている横でクールに歌っていて、その対比もまたいいのだが、ライブでもスタジオでも、声量を存分に使って歌っている時も常に先の展開を考えて冷静にコントロールしているようで、単なる熱い音楽にならない。とは言っても、その一方で、とてもエモーショナルでとても興奮させられる。巧妙につくられた音楽でありながら、エキサイティングである。

今日はパティーオースティンのEnd of Rainbowというアルバムを聴いていた。1976年に録音されたアルバムだから、彼女が20代の頃のアルバムだ。

一曲目の「Say you love me」を聴いて、ずいぶん透き通った彼女の歌声に驚かされる。今のパティーオースティンの歌声はどちらかというともうちょっとこってりしていてハスキーだ。このスッキリとした印象はアルバムを通して聴かれる。

そして、このアルバムは全曲彼女のオリジナル曲で構成されているのだが、どの曲もクセがなくあっさりしている。CTIレーベルから出ているアルバムだから爽やかなフュージョンアレンジになっているということもあるかもしれないけれど、なんだかJames Taylorのアルバムを聴いているんじゃないかっていうような気分になる。日曜の朝から聴けるアルバムだ。

こういうスッキリ・アッサリしたアルバムは、いつでも聴けるかわりに印象に残りづらくて、かえってあまり聴かなくなってしまうものだ。実際、私も一年以上このアルバムを聴かなかった。

しかし、実際聴いてみると、 CTIならではの、ストリングスが入ってくるアレンジなんかがちょっと特徴的だが、サイドプレーヤーも豪華でこの時代のフュージョンのベストメンバーと言える安定したプレイだし、全体としてはサラーっと聴けてしまうアルバムなので、気分がのっていないときでも聴ける。

ちょっと今のPatti Austinのイメージで聴くと拍子抜けするかもしれないけれど、彼女のクールで制御されたような歌唱は、こういう時代から続いているんだなあ、と再確認させられる。

アルバムは一枚ずつ買って聴くに如くは無し Spinners 「New and Improved」

無理やり前向きにならなくてもいいのだけれど、あんまり内にこもった考え方や、後ろ向きにしか考えられなくなってしまったら、何もする気が起きなくなってしまう。今の私がまさにそうで、思考が内にこもってしまい、あれもダメだったこれもダメだったと色々後悔ばかりだったり、外に向かっていく気力が湧かないでいる。

世の中にはそんな気分でもちゃんと働いたり、学校へ通ったりして頑張っている人もいるのだから感心する。そういう人も、あー俺はダメだ、とか考えているのかもしれないけれど、考えながらでもできていることそのことがすごいと思う。

そういう人のことを考えていて、ああ、これではいかんと思い、前向きになれそうな音楽を聴くことにした。Spinners の「New and Improved」。まあ、前向きになれそうな、とはいっても所謂「元気出る」系の音楽の中では結構ソフトな部類なんだけれど。

そもそも、「元気出る」系の音楽は聴くのに体力がいる。元気がなければ聴けないような音楽が多い。だから、本当に元気がないときにはかなりソフトな音楽を聴くのだ。

Spinnersのこのアルバムは、ポジティブでハッピーな曲ばかりが入っている。どの曲もさすが名プロデューサーThom Bellのアレンジだけあって、とってもポップでSpinnersを初めて聴く人にも優しい。聴きやすい。特段ブラックミュージックに興味がない方だって、ソウルなんか聴いたことがなくたってアルバム一枚聴きとおせる。聴き通して、なんとなく明るい気分になれる。

このクオリティーでアルバムを何枚も作れるっていうのもすごい。まあ、ビートルズとかああいう方々は別扱いするとしても、アルバムのどの曲も印象的で、あるべきところに収まっているというのはすごいことだ。試しに、Spinnersの曲を20曲聴かされて、10曲選んでちょうど上手いこと並べてみろと言われたって、こんなに上手いこと並べられない。さすがThom BellとSpinnersである。

音楽は、こういう風にパッケージとして楽しめる側面もあるから、アルバムは一枚ずつ買って聴くべきである。

こんなことを思ったのは、実は私はこのアルバムを「Detroit Spinners original album series」というアルバム5枚詰め合わせで買って持っているからである。Spinnersのアルバムはどれもとても良くできているのだが、5枚も一緒に買ってしまうと、一枚一枚じっくり聴けない。大抵は、5枚の中のヒット曲や、好きな曲だけピックアップして聞いてしまう。これではベスト盤を買って聴いたほうが金も時間も手間もかからない。

幸運なことにこのアルバムは、何かの際にアルバム一枚通して聴いたことがあって、そのアルバムとしての完成度の高さに惹かれたのだ。どの曲も、いい曲だし、それでいて主張しすぎないし、ヒットした曲ですらアルバムの中に自然とおさまっている。単なるシングル曲の羅列になっていない。

元気がないときに聴ける数少ない「元気が出る」アルバム。まあ、効果は人によって異なるかとは思いますが、たとえ元気が出なくたって、いい音楽であることは間違いないですから。

ファインプリントの大家には申し訳ないが The Aperture history of photography series 「Wynn Bullock」

こう言ってしまえばミもフタもないんだけれど、写真集というものでみる写真と、展示のプリントで見る写真は大きく異なる。当然、見た時の印象も異なる。写真集で見た時はいまいちピンとこなかった写真も、展示プリントで見てみるとなんだか結構インパクトのある写真だったなんていうこともある。逆のこともある。まあ、いい写真は写真集で見ても展示で見ても大抵はいいんだけれど。

これは、写真集というのが印刷で、プリントは印画紙に焼いているという違いもあるのかもしれないけれども、最近は展示プリントも印刷のことが多いし、写真集の印刷の質も上がってはきている。

だから、この印象の違いは、本というフォーマットで自宅や本屋で見るのと、ギャラリーや美術館での展示というシチュエーションの違いと、一枚のプリントにかかっている手間(クオリティーか)の違いからくるのかもしれない。

こんなことを考えたのは、今手元にApertureから出ている「The Aperture history of photography series」という写真誌に残る有名な写真家の作品を写真家ごとに一冊づつの本にまとめたシリーズの「Wynn Bullock」の刊があり、それをめくっていてふと思ったのだ。

Wynn Bullockはモノクロの美しいプリントを作ることで有名な人で、この写真集も、その美しいプリントを印刷で再現しようとしている。濃く引き締まった黒と、なめらかなグラデーションを再現するグレーと、スーっと浮き出るような白を再現するのに、結構頑張っている。そして、印刷にしてはなかなか善戦している。印刷のコントラストも高めで、本の値段の割によく再現されていると思う。

Wynn Bullockのオリジナルプリントを一度どこかの美術館で見たのだが、本物のプリントはやはりこの本の印刷とは次元の違う凄さがあった。黒の深さが思っていた以上で、写真はここまで豊かに黒を表現できるのかと驚いた。個人的にはアンセルアダムスのプリントよりもインパクトが強く、圧倒された。

かといって、この写真集「The Aperture history of photography series」ではWynn Bullockの写真を楽しめないかというと、そういうわけでもない。この本でも十分彼の写真を見て楽しむことはできる。この写真集のページをめくるだけで、いかに彼がこの世の質感や風景の中のコントラストにこだわったかが伝わってくる。それだけではない、彼の写真の世界は、まるでこの写真世界が本当は私たちの見ている世界と全く別の場所に存在しているのではないかというような感覚になる。写っているものそのものが何かという問題よりも、どう写っているかに目がいく。彼が写しているのは、確かに現実の世界なのだろうが、この世には存在しない架空の世界になっているのだ。

この写真集でも、そういう世界を感じることができる。一点一点のインパクトという意味ではオリジナルプリントの方が強いかもしれないけれど。むしろ写真集の方が、まとまった数点を繰り返し見ることができるという意味では、彼の写真世界に浸ることが容易にできるというメリットがあるとも言える。印刷で、プリントの凄さを見せつけられないが為に、写真のテーマの方に目が向くというか。いや、Wynn Bullockの作品は美しいプリントも含めて作品のテーマなんだろうけれど。

この際、一度、印刷のクオリティーの低い本で Wynn Bullockの作品をじっくり見てみたい。その時、今まで見えなかった Wynn  Bullockが見えてくるかもしれない。