下手だろうが上手かろうがモズライト

昨日、Mosriteについての話を書いたら反応があったのでもう少し。

Mosriteというギターはやはり一般的には弾きやすいギターではないだろう。何よりも、ネックが極端に細く、薄く、フェンダーやギブソンのギターを弾き慣れている方ははじめは戸惑ってしまう。また、バスウッドボディの割にはサスティーンが短いこともあり、弾き手の腕がバレてしまう。ビブラミュートやモズレーユニットと呼ばれるトレモロユニットも決して使いやすいものでもない。

それでも私がモズライトに惹かれるのは、その楽器としての完成度の高さかもしれない。ここで、完成度と呼んだのは、楽器の造りの良さも含めてなのだが、むしろ、エレキギターとしての個性の強さである。

フェンダーやギブソンといったメジャーなメーカーの楽器はともかくとして、モズライトというカリフォルニアのローカルなギターメーカーのギターを、たくさんのメーカーがコピーしている。その多くはヴェンチャーズ人気にあやかり日本のメーカーがコピーしたものだが、本家のモズライトとは比べるべくもない。モズライトに比べると、どれも大概造りが悪いのである。中には、モズライトにかなり迫っているものもあるが。

一度、御茶ノ水の楽器屋で、70年代のモズライトのフルアコを弾かせてもらったことがある。値段は50万円ぐらいだったから、70年代のモズライトの中としては結構高価なモデルだ。そのフルアコについていたネックも、通常のモズライトのように細く薄く、独特のグリップだった。搭載されていたピックアップもソリッドボディの通常のモデルと同じもので、アンプに繋ぐと、まさにモズライトの音がした。これでは、フルアコの意味がないではないか、と思うぐらいだった。

1963年モデルが一番高価で、作りも良いとされている。セットネックでボディーバインディングもついて、ラッカー塗装で、ヴィブラミュートユニットが付いている。さすがに、1963年製のモズライトは弾いたことはないのだけれど(100万円ぐらいしてしまうから)見ているだけで惚れ惚れしてしまう。エレキギターの世界で息をのむほど美しく、個性的な楽器は他にあるまいと思わせるぐらいの迫力がある。

しかし、悲しいかな、モズライトのギターを使うミュージシャンは少ない。モズライト使いといえばヴェンチャーズぐらいしか名前が挙がってこないのではないだろうか。モズライトのモデルで定番なのはヴェンチャーズモデルで、他のモデルはほとんど人気がない。したがって、ヴェンチャーズ世代の方々にしかモズライトのニーズはなく、ヴィンテージギター市場でもかなり値段が下がってきているのは確かだ。

ヴェンチャーズ以前にはJoe Maphisというカントリーの超速弾きギタリストがモズライトを愛用していて、ヴェンチャーズモデルは彼のモデルが元になっている。私もJoe Maphisモデルの60年代後期のものは触ったことがあるが、少し大ぶりなボディーで、やはりネックは細く、薄く、かなり個性的なギターだった。

Joe Maphis本人は、ほとんど自分のシグネチャーモデルを使うことなく、ほぼ9割方ダブルネックのカスタムモデルを弾いていた。彼の演奏を聴いていると、サスティーンが短いギターの特徴で、速いフレーズがキビキビと速く聞こえる。モズライトであのぐらい音符が揃って聞こえるように弾くのは至難の技だろう。モズライトはちょっとでもリズム感が悪いと、それがバレてしまう。

私は、腕がバレるような楽器ほど良い楽器だと思う。腕がバレるというのは、逆に言うとピッキングのニュアンスや節回しがはっきりと出るからである。初めのうちは弾いていても決して気持ちの良い楽器ではないかもしれないが、上手い人が弾くと、その人の表現が素直に聴こえてくる。まあ、私は、モズライトを自由自在に操れるほどの腕はないのだが。

そういう難しい楽器ではあるが、Joe Maphisやヴェンチャーズの弾くモズライトの音を聴いていると、なんだかギターというものがいかにカッコイイ楽器であるかを再認識できる。モズライトはそういう音のする楽器なのだ。

Mosrite The Nokie

私は、実をいうとVenturesが好きでCDもたくさん持っている。

Venturesも色々とメンバーが入れ替わっているので、どの時代が好きかと言われると、ちょっと迷うのだけれど、やはりノーキーエドワーズがいた頃が好きかもしれない。

Venturesといえば、モズライトというイメージがあるのだけれど、60年代にモズライトを実際に使っていた期間はそれほど長くはない。後になって、モズライトを使っている頃もあるのだろうけれど、そのあたりはあまり詳しくない。

けれど、やっぱりモズライトを使っているベンチャーズが一番かっこいいと思う。何と言ってもあの、鋭いエレキらしい音色が良い。フェンダーのジャズマスターとかを使っている時期も長いようなのだけれど、やはりあのモズライト独特のデケデケした音にはしびれてしまう。

それで、モズライトを持っている。65年代のマークVと、66年のマークI通称ヴェンチャーズモデル。それと、ノーキーエドワーズモデルのThe Nokieである。このノーキーエドワーズモデルは、日本製もたくさん出ているのだけれど、私のはどうやらアメリカ製のモデルらしい。ヘッド裏にセミーモズレーのサインが入っている。

そもそも、セミーモズレーは何年頃までギターを作っていたのかは知らないが、このThe Nokieがまたド派手ながら、弾きやすくて良いギターである。弾いているといつまででも弾いていたくなるような、弾き心地である。

さすがはノーキーモデルというギターである。

指板がメイプルなのだけれど、ネック材と指板材の間にローズウッドが挟まっている、珍しい造りだ。これは、ノーキーエドワーズの好みなのか、はたまたただ奇をてらっただけなのかはわからないけれど、その辺も凝った造りでなかなか、物欲をくすぐる出来上がりになっている。

砂をつかんで立ち上がれ

世間はすっかり2021年になった。年を越したので当たり前であるが、何だかこういう風に急に変わられると実感がわかない。できることなら、少しづつ、緩やかに新年を迎えて欲しいものだが、世の中そういうわけにはいかないのだろう。

仕方がないので、私も2021年に合わせて、人並みに元旦を過ごした。コロナ禍のこともあるので、できるだけ人混みのあるようなところにはいかずに過ごした。一日中本を読んだりゴロゴロしたりして過ごした。

一年の計は元旦にありなどという言葉もあるから、元旦こそ充実した一日を過ごさなければならないのだろうけれど、なかなかそういう風に身体はできていないので、急に元旦だからといって体がキビキビ動くようなものではない。それでも、あまりゴロゴロしてばかりではダメだろうと思い、本を読んだり、家族と過ごしたりして一日を過ごした。

特にクリエイティブなことはできない一日ではあったが、それでも、為になる本を読めただけでも良しとしよう。(まだ、読み終わったわけではないけれど)

もう、10年も前に出版された楠木建の「ストーリーとしての競争戦略」を読んでいる。なかなか面白い本で、どんどん読み進めてしまう。面白いだけで何も身につかなそうなところは怖いけれど、それでも、何も読まないよりは仕事に役立つのではないかと思って読んでいる。「競争戦略」というとそれこそ色々な本が出ており、どれもなかなかこむづかしいことが書かれている印象を受けるのだが(読んだわけではないので、正直わからない)、この本は平易な言葉で書かれているので、誰にでもわかる。

競争戦略を立てる為には、強く、太く、長いストーリーを考えなくてはいけない、そしてそれをスラスラと語れなくてはいけないというような内容である。いや、その逆か。優れた競争戦略は強く、太く、長いストーリーがあり、もっともっとそのストーリーを聞きたいと思わせるものである。といったほうがいいか。

「強く」というのは、そのストーリーが帰結する成功に向かう必然性の強さであり、「太く」というのはそのストーリー展開を支える要素の広がりと、まとまりであり、「長い」というのは、そのストーリーの語るべき内容の深さとも言い換えることができる。と、今は、そこの部分までしか読んではいないのだが、この続きが楽しみである。

願わくば、この本を読み終えた時、単なる成功事例の俯瞰に終始せず、自分のやり方の幅を広げる手助けとしていきたいと思っている。この手の本を読む際に、「ああ、そういう成功譚があるのね」という風に感じて終わってしまう、ということがままある。もしくは、単に「目から鱗」で終わってしまうこととか。

それでは意味がない。それは、学問の一番役に立たない形ではないか。私は、この本に学問は求めていない。実戦への転用を求めているのだ。この本にという書き方は受け身でよくなかった。この本を読んで私がしなくてはならないことは、この本から何か小さなことでも掴み取り、実践に生かすことなのだ。中島らもの言うところの「砂をつかんで立ち上がれ」ということだ。(本当にそんなこと言ってたかしら)

読むだけで満足してはいけない。今は、まだそんな齢ではないはずだ。

今年こそ、砂をつかんで立ち上がるのだ。

想い出の夏Toots Thielemans

今年の夏は短かった。

いや、今年は短かった。短くて、辛い一年だった。時ばかりが過ぎ、先に進めない一年だった。そんな一年を思い出し、レコードを聴いている。

今年40歳になった私は、転職し、生活も変わった。他にも色々あったのだけれど、よくは覚えていない。何となく、一年が過ぎていった。

本を読まない一年だった。もっと読めばよかった。体を動かさない一年だった。当然太った。携帯電話をいじってばかりの一年だった。目が悪くなった。楽器の練習をしない一年だった。バンドの練習もできなかった。ブログの更新をサボった一年だった。つまらないことすら書き残せなかった。

来年はどんな一年になるのだろうか。

これはToots Thielemansというハーモニカ吹きで、想い出の夏という曲。私が最も好きなバラードの一つ。ジャズのバラードで好きな曲はたくさんあるけれど、ミシェルルグランの書いた曲が好きだ。

ミシェルルグランの曲でHow do you keep the music playingという曲があるけれど、あれも美しい。フランクシナトラがクインシージョーンズのビッグバンドを従えて、歌っているのがとても好きだ。

私は、布団から出て、ボーとしている。時が過ぎていくのを感じながら、服を着て、

明日が来てもなにも変わらないのが常というものだ。明日が変わるのは、一年のうち今日ぐらい。今日から生まれ変わったように努力しなくては、明日も同じ自分でいてしまう。

末詣

空は晴れ渡っていたが、寒い日だった。家族で浅草寺にお参りに行ってきた。何も考えず、無心に祈った。何も願かけることなく、無心に。

私は、宗教というものを殆ど信仰していない。信仰がないというのとも違うが、かといって、何処かの寺の檀家ではないし、教会に通っているわけでもない。結婚式もしなかったので、自分が葬式を迎える時、どこのなんの宗教で葬式をするのかもわからない。きっと、別れの会のようなもので済ますのだろう。

これは、私に限ったことではなく、私の家族は誰も、特定の信仰がない。それでも、寺社仏閣にお参りに行ったり、教会でクリスマスを祝ったことすらある。もしかすると、日本国内の世間一般の家庭は私の家のように宗教と付き合っている方が多いのかもしれない。

私が、慶応の法学部を受けた時、面接というのがあった。その面接で、私は、高校時代の留学経験について話した。留学経験と言っても、2年に満たない短い留学ではあったが、私はオーストラリアの高校に通っていたことがある。オーストラリアで何か特別な勉強をしたわけではないので、正確には留学ではないが、その短い滞在で、私は大きな経験をしたと思っている。それは、自分が日本人であるということを強く感じたことだ。

日本人のアイデンティティーという表現をその面接で使ったのは少し大げさだったかと今では思うけれど、高校時代の私にとってはそれは日本人としてのアイデンティティーと呼べるぐらいの一大事だった。自分は、オーストラリア人ではない。移民でもないし、一時的にここに間を借りて住んでいるだけの日本人である。という思いを強くした。

その、日本人のアイデンティティーとは何ですか?私に面接官は聞いた。私は、それをすぐに言語化できずに、言葉に詰まりそうになった。例えば、英語ができないとか、そういうことであれば、日本人のアイデンティティーとは言わない。例えば、ひたすらお辞儀をしてしまうのも、日本人のアイデンティティーとは言えない。けれども、そういうことが重なり、自分は確かにここに住むだけの、異国の人間だと強く感じたのだ。

その一つの側面は、自分は信仰というものを殆ど持たないということであろうか。もしくは、宗教というものに囚われずにものを考えることができるということだろうか。それが、日本人のアイデンティティーという言葉を使ったことの象徴的な一面です。と、その面接で、何だか日本語らしくない表現をしてしまった。

例えば、向こうの人たちは、キリスト教徒であればキリスト教徒の習慣があり、仏教徒と自分を表現する人に対しては、異色な存在として扱う。ちょうど、私の友人が、自分を仏教徒だと表現していた。日本から数珠さえ持ってきていた。単身高校に通うためにオーストラリアに来たのに数珠を持ってくるぐらいだから、確かに仏教徒である。彼は、私の滞在中は仏教徒らしいことはなにもしていた様子ではなかったが、確かに自分のことをそう表現していた。

私は、そのとき信仰を持たなかったというよりも、ホストファミリーに合わせていた。私のホストファミリーは、一応キリスト教徒だったのかもしれないが、教会には通っておらず、全くそれらしいそぶりも見せなかった。けれども、何かの機会に祈る時には十字を切っていたし、イースターを祝ったりと、キリスト教徒の習慣をこなしていた。私は、それに合わせ、イースターを祝ったり、ホストファミリーの祖父にあたる人が亡くなった際には、十字を切って祈った。

そのように、習慣を合わせていたことは、その時の自分にとってなにも意味があったわけではないが、十字を切りながらも、キリストの救いなどについては信じてはいなかったし、自ら教会に行こうとも思わなかった。

以前にも書いたが、私の実家は両親がキリスト教徒である。父の方は、洗礼は受けているらしいが殆ど信仰していないのと同義なぐらいなにもしないが、母は毎週一応教会には通っているようだ。だから一応キリスト教徒ということになる。

しかし、その一方で、家に坊さんを招いて、般若心経を唱えさせたりしている。数年前に他界した祖母のためとは言え、家には仏壇があり、坊さんが年に一度や二度やってくるのは滑稽だ。実家の人間も、私と同程度に宗教に無頓着なのかもしれない。ことによっては私以上に。

それで、私である。

浅草が近所なので、時々浅草に行くのだが、その際は必ず浅草寺にいきお参りをする。妻などは、うちのホームテンプルは浅草寺だと言っている。そうか、私はもしかすると仏教徒なのかもしれないなどと思うのだけれど、実のところ、浅草寺が何宗の寺なのかなど考えたことはない。

ただ、人にその話をすると、宗教を冒涜しているように聞こえるのが嫌なので、私は普段、祖母の宗派であった浄土宗であるということにしている。

年の暮れで、とりとめもない話になってしまったが、浅草寺を詣りそんなことを考えた。

明日は仕事納め

明日は仕事納めである。仕事納めがあるというのはサラリーマンのありがたいところで、自営の方の話などを聞くと、仕事納めどころか、とっくに今年の仕事はなくなってしまった方やら、正月も休んでいる場合ではないという方やら、いろいろいらっしゃるようだ。

今年やらなければならない仕事等、まだまだたくさんあるのだけれど、明日は無事に仕事を納められるのだろうか。不安である。

今年の春転職したわたしにとって初めての年の瀬である。この正月休みに、何かちゃんと頭を休めて、必要な本でも読んで、来年に備えたい。

思えば今年は何もできなかった。去年も何もできなかったけれど、今年も何もできなかった。このまま何もできない時間を過ごしてしまってはいけない。明日、1日で、来年の仕事につながる何かを築けるのが一番なのだが、なかなかそういうわけにもいくまい。

だから、少しでも、明日は前に進める1日を過ごしたい。焦っても仕方ないのだが、急がなければ何事も成し遂げられずに年月ばかりが過ぎていく。

Please come home for Christmas

今日はクリスマスイブだという。

私は、独り。書斎でパソコンに向かっている。JBLからはハモンドオルガンのジャズが流れていて、平穏な時間を過ごしている。家族も元気で、幸せな毎日を送っている。

昨夜、クリスマスイブの思い出を書いた。私の記憶の中のクリスマスである。世の中でクリスマスというのがどのような位置付けなのかわからないけれど、私のような浄土宗の人間もクリスマスイブとなるとどこか心が浮き立つ。それは、古い思い出に引っ張られてのことなのかもしれない。

もう、しばらく故郷には帰っていない。故郷の町でクリスマスを過ごしたのは何年前だろうか。もう20年ぐらい前になるだろうか。

私は北国の町で生まれ育った。一年のうちの半分近くが冬の町。

二十歳の頃は、函館が好きだった。大学の休みに入ると、帰省のたびに函館に寄って、何泊かして函館の街を堪能した。駅前の安宿に泊まり、昼頃まで寝て、昼ごはんを食べる前に、谷地頭の公衆浴場で汗を流し、それから、街を散策した。

当時私はカメラが好きで、函館中のカメラ屋をハシゴしてまわった。その途中にパチリパチリと写真を撮った。函館は、港町だから舶来品や宝飾品を扱う店が多かった。かつては日銀の支店があったというぐらいだから相当栄えていたのだろう。

そんな函館も、私が二十歳の頃は寂れた町であった。青函トンネルが、今から30年以上前に開通してからというもの、青函連絡船を使う人はいなくなり、函館という町に立ち寄る人が激減してしまった。それでも、一応観光地としての生き残りをかけて、再開発したようで、倉庫街がショッピングモールに変わっていたり、メモリアルシップと銘打って青函連絡船が往時の面影を残しながら函館港に停泊されていたりして、私は飽きもせず何度も函館港に足を運んだ。

駅前にあったホテルはかなりガタがきていて、一泊3,600円だった。だから、学生の私でも、そこに4〜5泊することはできた。湯の川と谷地頭という、二つの温泉を持つ函館という町にありながら、私の宿は温泉宿などではなく、単なるビジネスホテルであったというのも、そのホテルが安価だった理由の一つであった。

しかし、その宿は駅前で、便利であった。青春18切符を使い、函館駅に降り立ち、駅前のコンビニエンスストアに寄って食べ物を買ってチェックインするまで5分とかからない立地であった。函館には市電が走っており、市電に乗ってすぐに函館山のロープウェイ駅まで行くこともできたし、十字街にもすぐに出ることができた。

函館の十字街には、カトリック、プロテスタント、正教の3つの教会があって、私は飽きもせず、十字街を徘徊した。とくに冬の十字街は美しかった。元町の坂からは港が一望でき、夕方になると街灯が灯り始め、雪に覆われた函館の町が青白く輝き始める。かつて東洋の3大夜景と呼ばれただけのことはあった。夜になると函館山にのぼり、独りで夜景を見て写真を撮って降りてきて、市電に揺られ駅前に戻り、立ち飲みで酒を飲んだ。

函館の駅前には立ち飲み屋があった。立ち飲み屋というよりも、酒屋の一角が立ち飲みスペースになっており、そこに函館駅前会館というパチンコ屋から出てきた方々が杯を酌み交わしていた。私は、その中に混ざり、独り酒を飲んだ。

下戸だった私も、函館の夜の寒さが身体に染み込み、1杯や2杯飲んだところで大して酔いはまわらなかった。そこで、独り静かに飲んでいると、時々常連客が話しかけてきたりした。

そんな函館滞在を5日間ほど楽しみ、私は故郷の町へと向かった。故郷の町の駅に降り立った時、町は大晦日を迎えていた。寒い町の、小さな大晦日だった。

ベルが鳴り、町にはクリスマスが溢れている。こんなクリスマスに、沈んだ気持ちになるなんて。恋人は私のもとを去り、友人もいない。一緒にクリスマスを祝う人もいない。

あんた、今年の冬は帰ってくるのかい?もし、クリスマスに間に合わなかったら、大晦日までには帰っておいで。

そう言ってくれる、故郷に帰ろうか。

キリストのミサの夜

明日はクリスマスイブである。クリスマスイブとは「キリストのミサの夜」という意味であると幼少のころ、教会で聞いた。教会で聞いたのだからおそらく本当であろう。教会の神父さんが嘘をつくとは思えない。

私の両親はクリスチャンだったから、クリスマスイブぐらいは教会に一緒に行った。両親とも仕事熱心で、土日も仕事に行っていたからなかなか家族で一緒に時間を過ごすことはなかったけれど、クリスマスイブは特別だった。

クリスマスイブの日、母はいつもより早く保育園に迎えに来て、姉たちと私は母のカローラに乗せられて帰宅する。姉はいつもよりも上機嫌で、普段なら私をからかったりしていじめるのだが、クリスマスイブの日は特別だった。

あんた、今日が何の日か知ってる?クリスマスイブって何の日か知ってる?イエスキリスト様が生まれた日よ。今日を境に、世の中は変わったのよ。もう、もとには戻らないの。

なんて話を姉と車の中で話しながら家に帰って、いつもよりも少しだけ暖かい服に着替えて、また母の車に乗り込む。父を職場に迎えに行き、その足で教会に行くのだ。

教会の駐車場は教会の裏にあり、駐車場から教会の正面に入るためにはチャペルの横を通らなくてはいけない。雪深く、チャペルの高い屋根からは大きなつららが垂れ下がっている。その雪の中をゴム長靴を履いて歩いている時、僕は確かにクリスマスイブの時間を過ごしているんだと感じていた。そして、このクリスマスイブがいつまでも続けばいいのにと思っていた。クリスマスの朝なんて来なくてもいいのだ。

そして、教会の正面玄関を入ると、シスターにろうそくを渡される。ろうそくに灯を灯して礼拝堂に入るのだ。礼拝堂には、オルガン演奏で聖しこの夜が流れていて、私たちは混んでいる礼拝堂の2階席に上がり、隅っこの方でミサを聞く。私たち家族は、めったに教会に来ないから、つつましく端っこの方で静かにミサに参加するのだ。

ミサは永遠のように長く、神父さんはよくわからないキリストの生まれた夜の話をする。そして、時々賛美歌を唄い、アーメンを唱え、ミサは粛々と進む。私は、集中力がない方だったから、この長いミサが苦手ではあったが、決して嫌ではなかった。家族皆で賛美歌を口ずさみ、わけのわからないパンはパスして、ひたすら祈る。それだけで何となくいい気持ちになれた。

ミサが終われば、ささやかなパーティーが教会のホールで開かれている。私たち家族は、教会の常連ではないから、少し挨拶をするだけで、そそくさとまた母のカローラに乗る。母は教会に知り合いが多いから、少し挨拶をするだけで20分ぐらい掛かってしまうのだが、父も私たちきょうだいもとくに知り合いはいないから、早く帰宅したいのだ。

そして、教会から家への帰り道にあるファミリーレストランに入り、ささやかな宴を開催する。

それで、私たち家族のクリスマスイブはしめやかに終わるのだ。

私の、クリスマスイブの思いではそこまでである。

その、思い出がいつまでも保育園時代のままなのは、何故なのか自分でもわからない。まだ、家族が一緒だった頃のちいさな思い出である。

健康なのはいいけれど、

先日、人間ドックというのを受けてきた。

メタボリックシンドロームという診断以外は、特筆するほど大きな問題はなく、再検査も一項目だけで、日頃の不摂生にしては案外悪くない結果であった。20代の頃は40までこうして元気に生きているとは思ってはいたけれど、まさか本当に40歳になるとは思っていなかった。そして、私はもうすぐ41歳になる。

30代の後半は体調を崩したりしてボロボロであった。一時期はもう社会復帰すらできないのではないかと自分では思っていた。こうして、社会人としてまともにというほどではないけれど、働いていられることが奇跡のようである。

しかし、人の欲というのは限りない。

私は今、社会人としていくばくかの成功体験を持ちたいとすら思っている。過去十年間何の努力もしてこなかったのにもかかわらず、少しでもこれから成功したいと思っている。

人間は欲を持ち始めると、憂鬱になるものなのか。己のだらしなさ、己の無力さを痛感して気が滅入るものなのか。私はいまものすごく落ち込んでいる。初めから低かった思考能力は、更に減退し、行動力も衰え、齢四十にしてもはや斜陽であるかのような気分になってしまっている。

せっかく、人間ドックで健康だと言われたのに。

思えば、かつてほど本を読まなくなった。音楽も聴かなくなった。文章を書く機会も減った。

このままではいけないと思いながらも、今日も夕日は沈んでいく。

年の瀬に焦ること

先日、キッチンに置いてあったフェンダーの6弦のスティールギターを片付け、代わりにフェンダーの8弦のペダルスティールギターを出してきた。

今まで、そのペダルスティールギターはE9チューニングにしていた。E9であれば他にも幾つか10弦のペダルスティールギターをそのセッティングで持っており、わざわざ2本弦が少ないフェンダーのギターを出してきて弾くこともないだろうと思い、もう半年ほどしまったままにしていた。それを、もう一度出してきたのは、このペダルスティールギターをC6チューニングにしてみれば、C6のノンペダルスティールギターの練習にもなるし、ペダルも4つ付いているので、ペダルスティールの練習にもなり一石二鳥と考えたからである。

なぜ今更C6チューニングのスティールギターが弾きたくなったのかはよくわからない。最近スピーディーウェストのCDを聴いてジャジーなコードも弾いてみたくなったためかもしれないし、いままでC6というチューニングが全くわからなかったのが悔しかったからかもしれない。何れにしても、ほとんど気まぐれでC6のペダルスティールを嗜むこととなった。

2020年ももう終わろうとしている。一年の終わりに、何か焦りのようなものも感じているのだろう。今年も何もせずに終わっていくというのはあまりにも悲しい。それであれば、せめてC6チューニングのペダルスティールギターで一曲ぐらい弾けるようになれるのであれば、御の字と考えたのかもしれない。

思えば、今年は変な一年であった。春に私は転職し、ほどなくしてコロナの大流行があり、世の中の多くの人達は、自宅勤務だとか、テレワークに移行し、学生の多くも学校が休みになってしまったり、配信授業を受けたりと、私も含め世界中の人たちが今までの世界とまるで違う世界で生きてきた一年だった。来年もどうなるのかは誰もわからない。もしかしたら早期に解決するかもしれないし、永遠にもとには戻らないかもしれない。

世界というのは、一度変わってしまうともう完璧にはもとに戻らないものなのだ。それは、世界を、自分の世界と言い換えることもできるし、人間関係と言い換えることもできる。私の場合、今年の春に転職してから、どうも自分のペースをつかめないでいる。私は、会社に貢献できていないという思いが強く、貢献したいという思いも強く、それでいて、なにもせずに毎日を過ごしている。

自分の怠惰さ、無力さを思い知った一年だった。

いや、むしろ、振り返ってみると、私は前の会社に対しても何も貢献できないまま辞めてしまったではないか。前の会社だって、私がいた間に少しも良くはならなかったではないか。売り上げは下がる一方で、それに対して私は何もできなかったではないか。

結局私には、成功体験がない。

当たり前である。私は成功体験を勝ち得るような努力を怠ってきたではないか。

向上心とは、努力とともにあるべきもので、努力ないところに向上心は不要である。私は、そういうトレーニングを怠ってきた。甘えっぱなしできたのである。それで、ヤドカリのように自分のまわりの器だけ大きくしたり、小さくしたりして自分を大きく見せようとしてきただけなのだ。

年末になり、C6チューニングのペダルスティールギターを出してきたのも、それと同じことなのかもしれない。結局、器だけ変えたところで、トレーニング=練習をしなければ、自分はちっとも良くはならない。

努力しなければならない。それが私に今更課されたことなのだ。一年の終わりに、努力を怠ってきた自分を恥じているのである。