年の瀬に焦ること

先日、キッチンに置いてあったフェンダーの6弦のスティールギターを片付け、代わりにフェンダーの8弦のペダルスティールギターを出してきた。

今まで、そのペダルスティールギターはE9チューニングにしていた。E9であれば他にも幾つか10弦のペダルスティールギターをそのセッティングで持っており、わざわざ2本弦が少ないフェンダーのギターを出してきて弾くこともないだろうと思い、もう半年ほどしまったままにしていた。それを、もう一度出してきたのは、このペダルスティールギターをC6チューニングにしてみれば、C6のノンペダルスティールギターの練習にもなるし、ペダルも4つ付いているので、ペダルスティールの練習にもなり一石二鳥と考えたからである。

なぜ今更C6チューニングのスティールギターが弾きたくなったのかはよくわからない。最近スピーディーウェストのCDを聴いてジャジーなコードも弾いてみたくなったためかもしれないし、いままでC6というチューニングが全くわからなかったのが悔しかったからかもしれない。何れにしても、ほとんど気まぐれでC6のペダルスティールを嗜むこととなった。

2020年ももう終わろうとしている。一年の終わりに、何か焦りのようなものも感じているのだろう。今年も何もせずに終わっていくというのはあまりにも悲しい。それであれば、せめてC6チューニングのペダルスティールギターで一曲ぐらい弾けるようになれるのであれば、御の字と考えたのかもしれない。

思えば、今年は変な一年であった。春に私は転職し、ほどなくしてコロナの大流行があり、世の中の多くの人達は、自宅勤務だとか、テレワークに移行し、学生の多くも学校が休みになってしまったり、配信授業を受けたりと、私も含め世界中の人たちが今までの世界とまるで違う世界で生きてきた一年だった。来年もどうなるのかは誰もわからない。もしかしたら早期に解決するかもしれないし、永遠にもとには戻らないかもしれない。

世界というのは、一度変わってしまうともう完璧にはもとに戻らないものなのだ。それは、世界を、自分の世界と言い換えることもできるし、人間関係と言い換えることもできる。私の場合、今年の春に転職してから、どうも自分のペースをつかめないでいる。私は、会社に貢献できていないという思いが強く、貢献したいという思いも強く、それでいて、なにもせずに毎日を過ごしている。

自分の怠惰さ、無力さを思い知った一年だった。

いや、むしろ、振り返ってみると、私は前の会社に対しても何も貢献できないまま辞めてしまったではないか。前の会社だって、私がいた間に少しも良くはならなかったではないか。売り上げは下がる一方で、それに対して私は何もできなかったではないか。

結局私には、成功体験がない。

当たり前である。私は成功体験を勝ち得るような努力を怠ってきたではないか。

向上心とは、努力とともにあるべきもので、努力ないところに向上心は不要である。私は、そういうトレーニングを怠ってきた。甘えっぱなしできたのである。それで、ヤドカリのように自分のまわりの器だけ大きくしたり、小さくしたりして自分を大きく見せようとしてきただけなのだ。

年末になり、C6チューニングのペダルスティールギターを出してきたのも、それと同じことなのかもしれない。結局、器だけ変えたところで、トレーニング=練習をしなければ、自分はちっとも良くはならない。

努力しなければならない。それが私に今更課されたことなのだ。一年の終わりに、努力を怠ってきた自分を恥じているのである。

「年の瀬に焦ること」への1件のフィードバック

  1. 逸る気持ち、焦る気持ちが僕にもあります。
    介護事業所を何年もやってきて未だ安定した売上が上がられない。
    このコロナで尚更そのことが明らかに曝け出された感じ。

    資格をいくつも取り、働きながら学校にも通い、
    福祉施設としては国内でも指折りの規模を誇る職場で腕を磨き、
    自分でもまんざらではない、といい気になっていたのもただの思い込みか?。

    専門書を読み、論文を読み、同時に、論文やショートノートを書き、
    講義をしてまわっていたのも同じく過去の栄光か?。

    還暦を前にして、身体は見事に太り、筋力は衰え、老眼は進み、
    忘れっぽくなった。

    戦うのか?

    まあ、そんなものだろう。
    それはそれで受け入れよう。
    付き合おう。

    それを楽しもう。
    いつでも笑っててやろう。

    と、言いながら、やっぱり残念だし、悔しいし、
    戦わないとね!

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