ベヒシュタインで録音されたピアノ音楽

何度かこのブログにも書いたけれど、私の自宅には1896年製のベヒシュタインのグランドピアノがある。庶民の私が、この貴重なピアノを所有するようになったのには、ちょっとしたストーリーがある。

その話は、長くなるから、今日は割愛して、一枚の素敵なアルバムを紹介したい。

「川岸秀樹ピアノソロ曲集 PIANOWORKS- 11 songs」と題されたこのアルバムは、ピアノの詩人 川岸秀樹さんが作曲したピアノ曲が11曲収められている。演奏するのは3人のピアニスト。川岸さんは北海道の調律師で、作曲もされる。いや、調律もする作曲家と呼んだ方がいいだろうか。

川岸さんの曲は、どれも優しく、朗らかで、切ない。初夏の札幌の日差しの中からポロポロと聞こえてくるピアノの音色のような、素敵な音楽だ。それは、ポップスでも、ジャズでも、はたまたクラシックとも少し違った、川岸さん流の「ピアノ音楽」だ。どの曲も、聴いていると心が休まってくる。

ピアノ音楽、というものが私は苦手だった。

ピアノ音楽の音は、どれも同じように濁っていて、ドカドカしていて、どうもハシタナイ、と思っていた。ピアノ屋で勤めるようになってからも、仕事で聴くピアノのコンサートも少しだけ苦手だった。中には本当に素晴らしいピアニストの方々も多くいたけれど、それでも、ピアノだけで奏でられる音楽というのは、どうも強迫観念のようなものを抱かされるぐらい、窮屈で、音が詰まりすぎていて、甘美すぎて、好きではなかった。まるで、甘すぎる果物のような。

いろいろなコンサートの現場で調律する川岸さんのことだから、様々なピアノ音楽に触れているだろう。きっと、私の苦手だった「ピアノ音楽」の方が、川岸さんの専門分野なのかもしれない。

けれども、このアルバムから聞こえてくる川岸さん流のピアノ音楽は、ピアノの音色が甘美すぎず、ダイナミック過ぎず、むしろ地味でいて、懐かしい。そして、そこに、ピアノという楽器が持つ、美しさのひとつの完成形があるような気がする。私は、このアルバムを聴いた時に「ああ、やっと見つけた」と感じた。

私の好きなピアノの音色とは、重なり合う時の濁り方と、単音で聴かせる時の澄み渡った感じが程よく混ざったものなのだ。それは、たとえどのような音楽を奏でていても共通することなのだけれど、そういう音を出せるピアニストと出せないピアニストがこの世の中にはどうも存在するらしい。そして、私の好みの音色を出せるピアニストは、どうもそう多くはないらしい。そして、そのような音を奏でる楽器もそう多くはないのだろう。

もちろん、ピアニストという商売は常に自分が弾く楽器を選べるわけではないので、どんな楽器でもその時のベストを引き出せないといけない。だから、使っている楽器云々を語るべきではないのかもしれないのだけれども、このアルバムに関しては、どうか楽器についても語らせて欲しい。

このアルバムは、私の自宅のピアノで録音された世界で唯一のアルバムだからである。

自宅のピアノを弾くたびに、このCDのことを思い出し、「どうやったらあんなに美しい音を作り出せるんだろう」と首を傾げたりする。そして、時々このアルバムを聴いている時に、どこか懐かしいものに出会ったような感覚にもなる。ペダルの軋む音、鍵盤から指を離してから音が消えるまでの少し物悲しいような響き、低音弦のゴロッとしていながらすこしナイーブな響き、そこには紛れもなく、私の自宅のベヒシュタインの音色がある。

よくぞこのピアノに合う曲をこんなに書いてくれた!!

残念ながら、このCDは一般流通はしていないようなのですが、アマゾンではストリーミング配信で売られているようです。

川岸さんにお願いして、家宝として、もう一枚買っておこうかな。

 

こういうアルバム、好きだなぁ Chet Baker & Paul Bley “Diane”

私の最も好きなトランペッターはChet Bakerなのだけれど、このブログではあまり彼のアルバムについてとりあげてこなかった気がする。

Chet Bakerは語られていることが多すぎて、今更私がここで書くほどのこともないのだけれど、彼の生涯についてはいろいろと言われているが、彼の音楽についてはその陰に隠れてしまいがちなので、少しだけ書かせていただこうと思う。

今日はChet BakerがPaul Bleyとデュオで吹き込んだアルバム「Diane」について。

そもそも、ポール・ブレイというピアニストについて私は詳しいことは知らない。参加作もこのアルバムぐらいしか持っていないかもしれない。しかし、このアルバムを聴く限り、ポール・ブレイのピアノはとても静かで、美しい。寡黙でいて、無駄がない。それでいて、語りかけてくるような、暗さと温かさがある。

70年代にカムバックしてからのチェットは、50年代のマイルスデイヴィスよりもさらにスペースのあるジャズを奏でる。このアルバムでも、その姿勢は変わらず、フレーズとフレーズの間隔が広く空いているのもそうだし、奏でられる歌もとても言葉少ない。Chet Bakerのトランペットも歌もそのようだから、そこにPaul Bleyのピアノが重なると、トランペットと伴奏という役割を越して、無口な二人の中年男性がなんとか会話の糸口を探りながら、音楽を進めているかのような感覚で聞こえてくる。

その会話は、いつまでも平行線のようにも聞こえるし、その一方で二人が語りたいことは十分語り尽くしているかのようにも聞こえる。まるで、音楽という表現に、音の数は関係ないかのようだ。実際、この二人には、音の数の多さなんていうものは音楽を形成するためにはさして重要なことではないのかもしれない、もしくは、音を絞ることによってそこから紡ぎ出される会話の内容を大切にしているのかもしれない。

チェットベイカーは、あまり譜面に強いトランペッターではなかったと聞いたことがある。コード譜というものにもそれほど強くなく、すべては耳で感じた感覚でアドリブを繰り広げていたと聞いた。そのような音楽家だから、これだけ寡黙なピアニストと組むと、会話が成り立たなくなってしまうのではないかという不安もあるのだけれど、幸いにしてこのアルバムは、そのような不安は微塵も感じさせない演奏に仕上がっている。

それは、収録されている曲がほぼジャズのスタンダード曲、それもチェットベイカーの得意なレパートリーばかりだということも、良い方向に働いているのだろう。無駄のない音使いの中からは、リラックスした二人の音楽家の会話が聞こえ、その音と音の隙間からは、次にどんな音楽ができあがるのだろうかというスリルが感じられる。

音使いの少なさばかりについて、書いてしまったが、もちろんこのアルバムはそれだけでは語れない。この、アルバムの音楽を作り出しているのは、チェットの柔らかく、ダークで深く、それでいて華奢な音色と、ポールブレイのキリリとしたピアノの音色とも言える。

特に、ポールブレイのピアノは、空気の澄んだ日にどこか遠くから聞こえてくる汽笛のようなキリリと澄んだ音色である。チェットのトランペットに寄り添うように弾いてみたり、時には独白調になってみたりしながらも、その澄んだ音色は変わらずにそこにある。ジャズのピアノの名手は数多いれど、このような音色で聴かせるピアノを弾ける名手はなかなかいないのではないだろうか。

チェットのトランペットはこの時ブッシャーのアリストクラートモデルを吹いているはずだ。アルバムのジャケットに写っているのもそのモデル。彼が、質屋で手に入れたと言われている、スチューデントモデルのトランペットである。私も、同じモデルを持っているので吹いたことがあるけれど、特にキャラクターの強い楽器ではない。

ポールブレイのピアノは、ハンブルクスタインウェイだろうか。それともヤマハだろうか、はっきりとしたことはわからないけれど、楽器のキャラクターが前面に出てくるような感じではないが、どのような楽器であれ、このような澄んだ音色を作り出せるのは凄い事だと思う。

二人は、このアルバムをたったの1日で録音している。チェットとポールブレイはアルバムこそこの一枚しかないかもしれないが、何度も共演していたとどこかで読んだ。このアルバムを聴く限り、ポールブレイは、晩年のチェットベイカーの音楽を実現するために理想的な共演者だったのだろう。

このアルバムで奏でられる音楽は、力強くなく、本当に儚い。しかし、そのはかなさの中に、本来音楽を奏でるということのために求められる大切な要素と、音楽を鑑賞するということの不思議な喜びが詰まっていることは確からしい。

五十嵐一生と辛島文雄の共演盤「I wish I knew」に並ぶ、愛聴盤である。