30代の終焉によせて

昨年の夏の初めに、私は体と心を壊してしまい、3週間ばかり入院をした。

その引き金になったものが何なのかはよく分からない。仕事に打ち込みすぎたせいか、酒を飲みすぎたせいか、女性にうつつをぬかしすぎてしまったせいか、とにかく何もかもがストレスで、生きていくのが嫌になった。たった数日前までは、情熱をもってやっていたことが、突然つまらなくなり、死のうとすら考えた。

死のうとすら考えた。

という言葉を使うような人間は本当に信用できないやつだと常日頃考えていたのだけれど、その言葉をまさか自分が使うときが来るとは思ってもいなかった。

けれども、正確な話をすると、私はその前年の冬にも同じような状態になり入院をしてしまったわけだし、本当のところ何がどうなっているのか、自分でもわからないでいる。自分のことは自分が一番わかっているのだし、一番わからないとも言えるかもしれない。

とにかく、その長く暗いトンネルから抜け出すために約一月の休みをもらった。会社の方々や、家族には多大な迷惑をかけてしまった。そして、自分を深く傷つけてしまった。2年も連続で同じ過ちを繰り返している私は、そこから何を学んだのかというと、全く何も学んでいないのかもしれない。

砂漠をさまよう人間が、ただただ水を求めるように私は周りが見えない中で、ただ何かを追い求めていたのかもしれない。30代の終わりが到来し、焦りもあったのかもしれない。焦ったところで仕方がないのに。

30代の終わりは、感情の死なのかもしれない。もし、感情の死であるならば、私はこれからどのような人間になれるのだろうか。感情が死んでしまっても、私たちは生きることを求め、ただ前を向いて生きていくしかない。そのことを認めるのが嫌で体と心を壊してしまったのだろうか。

もうすぐ40代を迎える私は、幸せに生きることの辛さを、これから少しずつ受け入れて、鈍く、図太く生きていくしかないのかもしれない。

やめてしまいたいことだらけ

このブログには、ずっと正直な言葉を書いてこなかった気がする。

誰に遠慮しているのか。私の近親者もこのブログを読んでいるからなのか、はたまた、このブログにテーマのようなものを作ってしまったためなのか。もしくは、そもそもこのブログにはテーマがないためなのか。

どうも、綺麗事ばかりを並べてしまい、全く自由に書けなくなってしまった。それは、自分に娘ができたためなのか。綺麗事以外のことをさらけ出したところに、やっとものを書くことの意味があるような気がする。

私は、美しいことを書きたいわけではなく、真実を書きたい。それが、誰かを傷つけているとしても、実感を書きたい。本当に生きている自分を書きたい。誰にとっても心地よい文章なんてもんは書きたいとは思わない。

そう思って、10年ほど前に別のブログを書いていたのだけれども、こっちのブログでは綺麗事ばかりをばかりを書いてきた。だから、自分で読んでいても全くつまらないことばかりを書いてきた。ラジオ体操のように健全で、だれにも刺さらない文章ばかりを書いてきた。

もう、そんなことは終わりにしたい。これからは自分の書きたいことを書いていきたい

と、言ってみたものの、書くべきことがないのだ。

昨年の夏を過ぎたあたりからか、いや、もうずっと前からだろうか、私の心には何も残らなくなってしまった。

本を読む習慣をやめてしまったせいかもしれない。酒を飲む習慣をやめたせいかもしれない。薬が変わったせいかもしれない。なぜなのかはわからないが、とにかく私の心に穴があいてしまって、もう何も蓄積されなくなってしまった。

かつて私は、もっとおおらかに人を愛することができる人間だった気もする。気のせいだけかもしれないけれど、このところ数年間、私にはほとんど感情というものがない。何かに打ち込んだり、何かに心を奪われたり、そういう感情をどこかに捨ててしまっていたのかもしれない。

自信を失い、情熱を失い、好きだった仕事も失った。

今の生活も決して嫌なわけではないけれど、黙っているだけでは何も生きている実感がない。駄文を書くことにも面白さを感じなくなってしまった。かつてはあんなに本を読んだり、文章を書くことが好きだったのに。

今の仕事はそこそこ情熱をもってやっている。少なくともそのつもりではあるけれども、ここにいるべきなのかと常に自問自答をする毎日。

ひとまず、一度立ち止まり、

本を読み、

酒を飲み、

今の薬を飲むのをやめてしまいたい。