フリオ・イグレシアス!

今日、明日と仕事のお休みをいただいた。

お休みは割とちゃんといただいているのだけれど、家にいても落ち着かないので、休みの日も仕事場につい行ってしまったりすることもここ最近あったのだけれど、今日ばかりはゆっくり家で休んだ。ちょっと御茶ノ水に1時間ほど行ってきたけれど、それ以外は特に外出らしい外出もせず、酒も飲まず、昼寝もせず、一日中音楽を聴いていた。

ここ最近、暑い日が続いたせいか、夜の寝つきが悪く、昨日は寝るために銭湯に行って汗を流したのだけれど、結局CDラックにあるAORを片っ端から聴いて夜1:30になってしまった。AORなんて、あんまり聴かないのに、職場の友人とAOR談義で盛り上がり、それで急に聴きたくなり、夜中まで聴いてしまったのだ。

AORの話は、さておいて、今日も日がな一日音楽を聴いていた。

今日は、朝から、妻のパソコンでジャズのYouTubeを聴いていたりしたら、止まらなくなってしまい、書斎にこもって爆音でオトナの香りがするビッグバンドもののジャズバラード、それも歌ものばかりを聴いて1日を過ごした。お仕事をされている方もいるというのに、誠に呑気な休日を過ごしてしまい、世間様に申し訳ない。

私は、普段あまりビッグバンドもののジャズは聴かない。暑苦しいからだ。この残暑の中ビッグバンドやラテンものは暑苦しくてつらいと感じてしまう。ところが今日だけは違って、ラテンものなんかも聴いた。フリオグ・イレシアスなんかも聴いてしまった。

大学6年生の夏の記憶

私はその頃、毎晩のように大学のゼミの後輩の女の子が住む寮の部屋に居座っていた。

私は、大学を2年も留年してしまっていて、大学6年生の夏を迎えていた。5年間付き添ってきた私の交際相手は、清く正しく4年生で卒業し、卒業したのちも1年間は勉強と私との時間を過ごすために東京に残っていてくれたのだが、一年が経過したところで、九州の実家に帰ってしまっていた。

独り東京に取り残された私は、誰とつるむこともできず、寂しい毎日を送っていた。それまでは、毎日朝から晩まで一緒にいてくれた交際相手を失ってしまったことで心が空っぽになりそうになっていた。本当に空っぽになっていたわけではないが、写真の撮影と現像を繰り返す毎日にも虚しいものを感じていた。大学の授業には参加せず、独り部屋にこもったり、街へ出て街行く人々を写真に収めていた。

そんな中で、親しくなったのは、大学でのアクティビティーのうち唯一参加していたゼミナールのメンバーの女の子だった。彼女の大学のゼミでの研究テーマは文学とセックスについてだった。そのせいもあり、彼女は性に開放的で、ゼミナールのメンバーと酒を呑みに行った際も、開けっぴろげに性についての論議をぶちかましていた。

そんな彼女と親しくなったのは、大学6年生の夏のことだった。

大学の夏学期の終わりのテスト期間を控えた頃、講義には出ていなかった私は、単位取得のためのテスト勉強のストレスもあり、たびたびゼミナールのメンバー数人で居酒屋で夜遅くまで激論を交わしていた。

そんなある夜、結局居酒屋も閉店の時間まで飲んでしまい、やるかたなしに私たち数名は彼女の寮の部屋に転がり込んだ。私を含めた男3名が、女子寮の部屋にころがりこめたということも、今となっては不思議なのであるが、彼女の部屋に缶チューハイやワインを持ち込み朝方まで話し込んだり、中平卓馬のビデオを鑑賞したりしていた。

夜も更けて、朝方になりだすと、私以外の男連中は彼女の部屋の中の想い想いの所に横になった。酒の酔いが覚めてしまった私と、彼女は、二人彼女のベッドに横たわりながら眠ることもできず明けていく朝日を眺めていた。もちろん、着衣のままなので、いかがわしいことはなかったが、時折体が触れ合うと、当時25歳だった私は、何とも気まずい思いをしたことを覚えている。朝日を見ていることしかすることがなかった私たちは、仕方がないので、そのまま抱き合い、ささやき声で世の中の不合理について話を始めた。

彼女にはイギリスに住むイギリス人の交際相手がいるということだったが、なかなか会いに行けるわけでもないし、退屈と孤独を持て余しているということだった。折良く、私も似たような境遇であったので、私たち二人は馬があった。その孤独を補うために、私たち二人は着衣のまま抱き合い、いつしか眠りに落ちた。

その翌日から、私は独り毎晩彼女の部屋を訪れるようになった。6月の終わりだった。私たち二人は、特に言葉をかわすこともなく当然のように同居し、部屋のテレビを見ながら、毎晩遅くまで呑んでいた。一通り飲んでしまうと、私たち二人は、彼女のシングルのベッドに横たわり、そのまま眠りに落ちた。

なぜだか、そういう生活が当たり前のように感じていた。夕方に居酒屋か彼女の部屋で落ち合い、彼女がイギリス人の彼氏と電話をする横で私はテレビを見て、缶チューハイを飲んだ。電話が終わると、彼女は私の横にぴったりと腰掛け、缶チューハイを空けた。

そんな生活が、3週間ぐらい続いただろうか。テスト期間も終盤に差し掛かり、東京の夜は暑くなり、お互いに気兼ねしなくなった私たちは下着になって、毎晩抱き合い眠りに落ちた。彼女とはそれ以上の関係を持ったことはなかったが、それは、性に開放的でアグレッシブな彼女に気後れして、そういった行為が苦手な私のほうがそういう事態になることを意図的に避けていたのかもしれない。

最後のテストが終わった雨の晩、私は、お祝いに花屋で買ってきた小さな花束と、缶チューハイ数本とシャブリのボトルを持って、彼女の部屋に戻った。その夜も同じように私たちは下着姿で抱き合って眠りに落ちた。

朝起きてみると、空は快晴で、朝日が眩しかった。まだ寝息を立てている彼女の横で私はピースライトに火をつけ、朝を眺めていた。

朝の8時頃まで彼女は眠っていただろうか。寮の裏のグラウンドから、野球のれんしゅうの音が聞こえてきていた。私は彼女の肩をゆさぶり、

「おい、夏休みが来たぞ! 起きて、何かを食べに行こうよ」と声をかけた。彼女はやっと起床し、服を着て、私のピースに火をつけ2〜3腹吸ったのち、灰皿にのこちのタバコを押し付けて、

「よし、カレーを食べにいくぞ」

と私に宣言して寮の近くの欧州カレー専門店に私を連れ出した。

みせの席に座った際、私はかのじょの部屋にピースの箱を置いてきたことをわすれた。彼女はさぞ当然のように、少し離れたタバコ屋まで、私にタバコを買わせに行かせた。

カレー屋に戻り、ピースに火をつけて、彼女にも一本差し出すと、彼女は遠慮なくその一本を吸い始めた。

「これ、ずいぶんきついタバコね。それにタバコの葉派が口に残るでしょう?私には、もう少し軽いやつを買ってきてちょうだい。」

と頼むので、近くのコンビニまで走り、彼女になんのタバコだったかは忘れたけれど、5ミリぐらいのタバコを買ってきた。

カレー屋には私たち二人と、ゲイのマスターとアルバイトしかいなかった。マスターとアルバイトはなんだか楽しそうに話していた。食べ終えた私たちはなんの気兼ねもなくいつまでも話し込んだ。

結局、彼女は私が買ってきた5ミリのタバコを吸うことなく、私のショートピースをふかした。二人で一本のピースを、いつまでも吸い続けた。ゼミナールのメンバーの噂話や、その時好きだったウディアレンの映画なんかについて話し合いながら。

ショートピースの箱がなくなり、私たちは店の前で別れた。

その日は、彼女のイギリスのボーイフレンドが彼女に会いにくる日だった。彼が成田に着くのは私たちがカレー屋を出た頃だった。

私は、また独りになり、到来した夏休みをどのように過ごすべきか考えていた。また函館に一週間ほど旅行に行こうか。それとも京都に行こうか。その両方ができなかった。ゼミナールの彼女と過ごした時間の残り香が、私についていたから、それはできなかった。その代わり、私の交際相手が九州から私に会いに来てくれた。それは、偶然のことではなく、もうかれこれひと月前から予定されていたことだった。

彼女が東京に来るまでどのように過ごすか、それが私に課された問題だった。私は、一番簡単な答え、昼寝をして夕刻から酒を飲みに行くことを選んだ。だから、その日、家に帰って昼寝をして、夕方を待ちいつも通っていた「とむ」という居酒屋で酒を飲んだ。ひとりで飲むのはあまりにも辛かったので、所属していたサークルの後輩と二人で飲んだ。

酒に弱い私も、その日だけはなぜだか酔うことができなく、7時には店を出た。店を出て、まっすぐ家に帰れば良いものを、私とサークルの後輩は二人で、ゼミナールの彼女の住む寮の方向へ続く道を歩いた。その夜、道の脇の空き地ではすこし早い盆踊りが行われていた。私たち二人はその盆踊りで生ビールを買い、なんとなしに飲みながら、盆踊りの輪を眺めていた。

ふと、その輪の中にゼミナールの彼女の姿があった、彼女の横には似合わない浴衣を着たボーイフレンドの姿もあった。二人を眺めていた私を彼女が見とめ、こちらに歩いてきた。ボーイフレンドと二人で。

彼女は、私にボーイフレンドを紹介した。彼はイギリス英語で私に話しかけてきた。極めて紳士的に。

「君がいつも世話になっているリョーか、面倒をかけてるみたいだね」

「いえ、めんどうをかけているのはこちらの方です」

そのまま、わたしたち4人は盛り上がり、盆踊りの輪に入り、最後の曲が終わるまでビールを飲みながら踊った。

夏の始まりだった。

ほんとうに秋になった日

朝からの曇り空は、すぐに雨に変わり、雨の後には蒸し暑さが残った。その蒸し暑さもすぐに引き、あとはなんということのない涼しい1日だった。

私は、東京の夏が苦手である。夏の到来は、人のこころを上気させるし、それに簡単に乗っかってしまう自分もなんとも情けなく嫌なもんだ。短いような長いような梅雨が明けた日は、一時なんとも清々しい気持ちにはなるけれど、その気持ちもそれほど長く持つことはない。すぐに、いやに蒸し暑い夏がやってくる。

北海道に生まれ育った私には、この梅雨の後にほんの少しだけの清々しさが運んでくる、短くて蒸し暑い本当の夏が身体にこたえる。北海道ではこんなことはなかった。まず、梅雨というものはないし、その後にくる蒸し暑いだけの夏もない。あそこでは、長い春が終わったと思うと、ほんとうに少しだけ暑い夏がやってくる。ほんとうに1週間にも満たない夏は、暑いけれども、その暑さはどこか心地よく、べったりしていない。

こんなことを書いているけれど、もうすでに東京に暮らすようになりかれこれ20年を迎えようとしている。私の今までの生きてきた半分近くは東京での暮らしだというのに、こんなことを今更書いている。

いや、本当は、東京のこの蒸し暑くて、暮らしづらい夏も嫌いではないのかもしれない。ほんとうに夏を楽しめるようになったのは、東京に来て、大人になってからだとすら思っている。一時だけ気分を盛り上げて、その後直ぐにメラメラと燃焼していくというこの東京の夏のスタイルも悪くないとすら思っているのかもしれない。

その証拠に、今年の短かった夏も悪くなかった。

梅雨明けとともに過ぎていったメラメラとそしてじっとりと暑い夜。私たちは、暑い夜の中をどこまでも歩いたり、時々涼しいバーで呑んだり、タクシーに乗ったり、ピアノバーで酒を交わしたりして、それなりに楽しく過ごした。

それが、既に終わったかのような、秋空と、少しだけ蒸し暑さを残した秋の日がほんとうにやってきた。昨日、私たちは夏の最後の日をすごしたの。短かった夏を。

もう、完全燃焼するような歳ではなくなったことに気がつき、そのことにハッとして涙すら溢れてきた。東京に来て、もしかしたら初めて「夏が恋しい」と思ったぐらいかもしれない。

もし、今年の夏をもう一度やり直せるとしても、まあやり直すことはしないかもしれないけれど、去年のまでのいやな感じの夏の終わりとは違った、ゆっくりと、そして突然訪れる秋を感じることができた。こんなことは、生まれてこのかた初めてだったかもしれない。

なぜだかわからないけれど、30代最後の夏を過ごして、ここに来ていまさら、本当の意味で一つ大人になった夏だったと思う。

秋が静かで、厳しすぎない残暑を連れてきてくれることを願って。

アーメン。

 

30代の終焉によせて

昨年の夏の初めに、私は体と心を壊してしまい、3週間ばかり入院をした。

その引き金になったものが何なのかはよく分からない。仕事に打ち込みすぎたせいか、酒を飲みすぎたせいか、女性にうつつをぬかしすぎてしまったせいか、とにかく何もかもがストレスで、生きていくのが嫌になった。たった数日前までは、情熱をもってやっていたことが、突然つまらなくなり、死のうとすら考えた。

死のうとすら考えた。

という言葉を使うような人間は本当に信用できないやつだと常日頃考えていたのだけれど、その言葉をまさか自分が使うときが来るとは思ってもいなかった。

けれども、正確な話をすると、私はその前年の冬にも同じような状態になり入院をしてしまったわけだし、本当のところ何がどうなっているのか、自分でもわからないでいる。自分のことは自分が一番わかっているのだし、一番わからないとも言えるかもしれない。

とにかく、その長く暗いトンネルから抜け出すために約一月の休みをもらった。会社の方々や、家族には多大な迷惑をかけてしまった。そして、自分を深く傷つけてしまった。2年も連続で同じ過ちを繰り返している私は、そこから何を学んだのかというと、全く何も学んでいないのかもしれない。

砂漠をさまよう人間が、ただただ水を求めるように私は周りが見えない中で、ただ何かを追い求めていたのかもしれない。30代の終わりが到来し、焦りもあったのかもしれない。焦ったところで仕方がないのに。

30代の終わりは、感情の死なのかもしれない。もし、感情の死であるならば、私はこれからどのような人間になれるのだろうか。感情が死んでしまっても、私たちは生きることを求め、ただ前を向いて生きていくしかない。そのことを認めるのが嫌で体と心を壊してしまったのだろうか。

もうすぐ40代を迎える私は、幸せに生きることの辛さを、これから少しずつ受け入れて、鈍く、図太く生きていくしかないのかもしれない。

やめてしまいたいことだらけ

このブログには、ずっと正直な言葉を書いてこなかった気がする。

誰に遠慮しているのか。私の近親者もこのブログを読んでいるからなのか、はたまた、このブログにテーマのようなものを作ってしまったためなのか。もしくは、そもそもこのブログにはテーマがないためなのか。

どうも、綺麗事ばかりを並べてしまい、全く自由に書けなくなってしまった。それは、自分に娘ができたためなのか。綺麗事以外のことをさらけ出したところに、やっとものを書くことの意味があるような気がする。

私は、美しいことを書きたいわけではなく、真実を書きたい。それが、誰かを傷つけているとしても、実感を書きたい。本当に生きている自分を書きたい。誰にとっても心地よい文章なんてもんは書きたいとは思わない。

そう思って、10年ほど前に別のブログを書いていたのだけれども、こっちのブログでは綺麗事ばかりをばかりを書いてきた。だから、自分で読んでいても全くつまらないことばかりを書いてきた。ラジオ体操のように健全で、だれにも刺さらない文章ばかりを書いてきた。

もう、そんなことは終わりにしたい。これからは自分の書きたいことを書いていきたい

と、言ってみたものの、書くべきことがないのだ。

昨年の夏を過ぎたあたりからか、いや、もうずっと前からだろうか、私の心には何も残らなくなってしまった。

本を読む習慣をやめてしまったせいかもしれない。酒を飲む習慣をやめたせいかもしれない。薬が変わったせいかもしれない。なぜなのかはわからないが、とにかく私の心に穴があいてしまって、もう何も蓄積されなくなってしまった。

かつて私は、もっとおおらかに人を愛することができる人間だった気もする。気のせいだけかもしれないけれど、このところ数年間、私にはほとんど感情というものがない。何かに打ち込んだり、何かに心を奪われたり、そういう感情をどこかに捨ててしまっていたのかもしれない。

自信を失い、情熱を失い、好きだった仕事も失った。

今の生活も決して嫌なわけではないけれど、黙っているだけでは何も生きている実感がない。駄文を書くことにも面白さを感じなくなってしまった。かつてはあんなに本を読んだり、文章を書くことが好きだったのに。

今の仕事はそこそこ情熱をもってやっている。少なくともそのつもりではあるけれども、ここにいるべきなのかと常に自問自答をする毎日。

ひとまず、一度立ち止まり、

本を読み、

酒を飲み、

今の薬を飲むのをやめてしまいたい。

 

心移りについての追想

もうかれこれ13年ほど前に私は、二十歳の春につきあい始めた女性と6年あまりの交際ののち結婚した。

二十歳。高校を1年留年したのち、大学を一年で中退し、東京の国立市にある大学に再入学したのがその歳だ。

2,000年の3月の末、私は弾けもしないヴァイオリンを一挺肩にかけ、国立の駅に降り立った。ヴァイオリン一挺の他はほとんど着の身着のまま上京した。国立駅前の大学通りは満開の桜に彩られ、春の香りに包まれながら私は父親が借りてくれた、国立音楽大学付属高校の近くにあった、比較的住みやすいオートロックのかかる6畳のワンルームマンションに向かった。音楽を志すわけでもない学生の私がなぜ、ヴァイオリンなんかを持ってきたのかはよく覚えてはいないけれど、手許にあった楽器を何か持っていこうと思い、札幌の家を出発したのは覚えている。

そのヴァイオリンはほぼ一度も演奏されることなく、今でも私の書斎に転がっているのだけれど、産まれてこのかたつい先日までヴァイオリンを演奏できるようになろうなどとは考えたことはない。先般、私は一台のエレクトリックヴァイオリンを格安で手に入れ、時折気まぐれにそのエレクトリックヴァイオリンでデタラメな音階を鳴らしたりしている。そのことに伴い、私が20年近く全く触れていなかった上京時に持参したヴァイオリンを、物珍しさに手に取ることも少なくはなくなった。

こう考えてみると、20年ほぼほったらかしにしてきたヴァイオリンとほぼ同じ時間を私の妻とともに過ごしてきたことになる。

ヴァイオリンと妻を引き合いに出して、何を語ろうというほど大それた考えはないけれど、二十歳の頃の記憶といえば、それぐらいしかないというところが実のところである。

私は現在、楽器屋の端くれであるけれど、楽器というものをとても好いている。自宅には約40台のエレキギターがところせしとひしめいているし、書斎には2台のエレクトリックピアノとオルガン、アップライトピアノを置いている。書斎の物置の中にはトランペットも7台入っている。そこに、つい先日一台のマンドリンも加わった。

楽器をそれほどまでにたくさん所有しているにもかかわらず、私は楽器の練習というものを好かぬ所為か、演奏の方はからきしダメである。いくつ楽器を手に入れたところで一向に楽器の腕は上がらないのである。それでも時折それらのうちの一台を取り出してきて、気まぐれにかき鳴らしたりしてお茶を濁している。

先ほどエレキギターを約40台持っていると書いたが、エレキギターというのは時折鳴らしたり、弦を交換しなくてはどんどん楽器のコンディションが落ちてしまうものなのである。仕方がないので、書斎の文机の横にギターが7本収まるラックを用意し、だいたい月替わりでそれらを交換するようにしている。そのことによって、40台のギターは数ヶ月ごとに一巡し楽器のコンディションをかろうじて保っているのである。

楽器というものは、真面目におつきあいをしようと思うと、メンテナンスにとても手間がかかるもので、本来40台以上所有することを前提には作られていない。一台一台を大切に演奏し続けることが前提で作られているのだ。

それにもかかわらず、私は約20年にわたり「楽器心移り」の持病を抱え、現在このような体たらくである。「楽器心移り」の病は、ここ数日は小康状態を保っているのだけれど、いつ何時また再燃するかはわかったものでない。わかったものでない、ことが萬の病の恐ろしいところである。それに加え、この「楽器心移り」の病は心の病であるにもかかわらず、特効薬がない。

現在、医療がとても進んだこともあり、心の病の多くにはそれぞれの症状に対しての薬が揃っており、持病があっても、薬さえ飲み続けていればほぼ日常生活に支障はない。私自身も、10年以上持病を抱えているのだけれど、社会生活にほぼ支障なく日常を過ごしている。何度かの入院も経て、薬は何度も変わりその度に手探りの治療が続いてはいるのだけれど、幸いにして命には別状ないし、サラリーマン生活に全く支障はないとまでは言えないが、世の中では平均ぐらいの社会人生活を送れている。

それにもかかわらず「楽器心移り」の病にはつける薬がない。この病は、特段命に関わることはないにしろ、多額の資金を要し、家計を圧迫し、居住空間の多くを奪い、家族の生活を脅かすという側面がある。まあ、悪い反面、愛おしい楽器たちに囲まれ幸せな暮らしができるという面もかなり大きいということは確かなのだけれど。

私が楽器屋でやっていく以上、この「楽器心移り」の病とは離れることはできないのかもしれない。まして「断捨離」ということは今までに一度も考えたことはない。

 

話は戻り、妻である。私の妻は私が産まれて以来初めて交際した女性である。私は初めて交際した女性と結婚したのだ。

世の中の人は、やれ「元カノ」だの「元カレ」だの、「今カノ」だの「今カレ」という言葉を使うが、私にはそのような方々は存在しない。いわゆる「今カノ」しか私の人生には存在しなかったし、これから先もそのようであることを祈っている。

その意味で、私はとても一途な人間である。世の中に稀に見る一途である。

それでは、今まで女性に心移りをしたことがないのか、と問われると、それは。そのことについては全く潔白というわけでもない。

人生というものは、人が思っているよりもずっと複雑なもので、世の中で通常流通している尺度が、ほとんどの場合用をなさないものなのである。また、世の中の線引きというものも、多くの場合全く用をなさない。

浮世には数多の美しい女性がおり、「心移り」してしまうのは人の常。

来し方を振り返ると、「心移り」の連続とも言えなくはない。それもまた、心の病といえるのかもしれない。それでまた、この病が発症したのも、約20年前に上京してからのものである。私は、発症が遅かった方なのかもしれない。

なぜ、今日ここでこのようなことを書いているかというと、最近お酒の席で、とある女性と対話をしている中で、この「心移り」の病について打ち明けたからである。

どうも、私は困った病を抱えているようだ。そしてこの病は、程度の差こそあれ継続的に発症するもののようである。と打ち明けた。

 

彼女は、少し考え、グラスに注がれた白ワインを口にし、また少し考え、ポツリポツリと言葉に換えていった。

心移りは人の常、誰しもが多かれ少なかれ持つ病である。しかし、今までに大事に至らなかったのであれば、それはそれでいいのではないか。

という、言葉を期待していたのだが、彼女の口から出てきた言葉はそれとは随分と異なったものであった。

私は、彼女の言葉をうまく飲み込めずに、ただただ飲めない酒を呷った。酒は一時答えを保留にはしてくれたが、未だに彼女の言わんとしたことを私の言葉にすることができていない。もしかすると、彼女の言葉こそ、この心移りの病への特効薬であるかもしれないのに、それが何なのか、わからずにここ半月を過ごしている。

いつもオシャレで粋なTerry Gibbs

テリーギブスが好きだ。あの、せわしなくコロコロと転がるようなヴィブラフォン。衒いなく、と言うのも違う、どちらかというとひけらかし系の演奏なのだが、それが気持ち良いぐらいの見事さ。

テリーギブスは、人気プレーヤーだったので、ビッグバンドの編成のレコードが多いけれど、じつのところ少人数編成のコンボでの演奏の方が好きだ。もちろん、テリーギブスのビッグバンドは大物ぞろいのオールスタービッグバンドなのだから、聴いていても痛快なのだけれど、そういう豪華絢爛なバックを従えての演奏よりも、コンボでの演奏の方が彼の本領が発揮されると思う。

すこし短めのマレットで叩きまくる彼の演奏を見ているのも好きだ。シャツの大きな襟をジャケットの襟の外に出す彼のステージ衣装も、いつも洗練されているようで、粋でかっこいい。

テリーギブスのようにオシャレにヴィブラフォンを演奏できる奏者は他にいないのではないだろうか。

久しぶりにCDラックから取り出して聴いている「My Buddy」というアルバム。このアルバムには彼の魅力が詰まっている。こむづかしいジャズではなくて、聴いていて素直に楽しめるジャズといえば、この一枚。