夏が過ぎ行く The Randy Newman Songbook Vol.1

このところ暑い毎日が続いたせいか、思考能力がずいぶん低下しており、何かを書こうと思っても、何も思いつかない。思考能力については、もともとそんなに高くはないのかもしれないけれど、それでも、以前なら、パソコンの前に座ると、何かしら書くことを思いついて、いろいろくだらないことを書けたもんだが。

仕方がないので、とにかく、ダラダラとキーボードに向かって、思いついたことをつらつらと書いているのだけれど、書きながら何もアイディアが浮かんでこない。これはきっと暑さのせいだということにしている。北海道で生まれ育った私は暑いのが得意ではないのだ。まあ、寒いのも得意ではないけれど。

今日は、隅田川花火大会の日だったようだ。花火大会の雰囲気は昼頃から街にあふれていた。

昨夜の台風が過ぎ、蒼く晴れわたった街には浴衣を着た浮かれた若い男女が歩いていた。暑さなど彼等にはどうでもよいのだと言わんばかりに涼しげに、からりとした笑顔で談笑している。
私は、その姿を横目に、玄関先に腰掛けエコーに火をつけ、暑いアチいと呻いていた。おろしたてのアロハシャツが汗だくになるのを、胸をはだけて、シャツをバタバタとフイゴのようにして風を取り込み、なんとか灼熱に耐えていた。側から見たら本当に暑苦しいだろう。

私だって、あの涼しげな若者の仲間に入ってはしゃいでいれば、それなりに気分もすっとするだろうけれど、どうも今はそんな気力もない。夏だから、海だ、山だ、やれサッカー、やれ野球、ハイキング、おおブレネリ、なんていうのもまっぴらだ。そういうことをやるほど元気が出ないのだ。全ては、この暑さのせいだということを言い訳にして。本当は、ただ、もうそういうことが似合わなくなってしまっただけなのかもしれない。若者に交じってはしゃぐようなのは、とっくに卒業せにゃならん年頃である。

こうして、だんだんおじさんになっていくのを、なんとなく受け入れながら、夏が過ぎ行くのにただ任せている。季節が巡るのに抗うことは出来ない。

仕方がないから、できるだけ涼しげな音楽でも聴こうと思い立ち、御茶ノ水に行き、ランディニューマンのセルフカバーアルバムを買ってきた。 The Randy Newman Songbook Vol.1というアルバム。リリースされたのは2003年とのことだから、かなり古いアルバムの類になってしまった。2003年などというと、そんなに昔でもないような気もするけれど、よく考えたら、もう15年も前の作品だ。古い。
ランディニューマンのピアノ弾き語りをかけながら、少しずつ歳をとりひねくれていく自分を憂いている。ここに収められている曲は、どれもが、ランディーニューマンがデビューして数年間の間にリリースした曲ばかり。彼のディスコグラフィについては、なにも知識がないのだけれど、このアルバムに入っている曲のオリジナルアルバムは、だいたい持っている(そんなに好きだっていうわけではないのだけれど)。2003年にセルフカバーアルバムで歌う彼は、既に還暦を過ぎていただろうか。訥々としたピアノの音は変わらないけれど(このアルバムではスタインウェイを弾いている)声はすこししゃがれていて、若い頃もこんな声なのだけれど、それでも齢を感じさせられる。

このアルバムを聴いていて、感じるのはそんなことだけではないのだけど。ここには彼のフレッシュな感性が再現されているし、ちょっと皮肉めいた彼独特の歌詞を(英語は聞き取れなくても)なんとなく楽しむことができる。インストナンバーも収められているが、本当に控えめで、シンプルで聴いていて暑苦しくない。もし、ピアノ弾き語りで彼の曲を一曲弾けるようになれるなら、このアルバムに収められているような雰囲気でSail Awayを歌えるようになりたい。オリジナルのオルガンのイントロから入るバージョンも良いけれど、ピアノ弾き語りというシンプルなアレンジがこの曲には良くあっている。こういうアルバムこそ、今の私には必要だったのかもしれない。モノクロームな中にトロピカルな雰囲気のジャケットも涼しげだ。

陽が傾き、薄暗くなっていく書斎で独り聴くNonesuchのCDのカバーは、日に焼けて、黴と埃の匂いがする。

もう返らない青春という言い回しがあるが、青春なんてところに戻りたくはないから、この蒸し暑くて陰鬱な休日の夕暮れをとりあえずなんとかして欲しいなどと考え、私は横になった。

ピアノ伴奏の理想形(私の中で) Randy Newman 「 Live」

ピアノ弾き語りというのにすごく憧れる。

ピアノ弾き語りといえば、Billy JoelとかElton Johnが有名。ああいう風に自分の歌をピアノ弾き語りで歌えたらどんなに素敵だろう。あの、ピアノという持ち歩けなくて、嵩張る、不自由な楽器を選ぶのもなかなか素敵なことだと思うけれど、なんといってもピアノのあの現代ではありふれた音色で伴奏をして歌を歌うというのがいい。

もともと私はピアノの音が嫌いだった。幼少の頃ピアノのレッスンを受けたが、今は全く弾けない。そのことがコンプレックスになって、ピアノの音を聞くと嫌な気分にすらなっていたのだ。そもそも、ピアノのレッスンというのが忍耐を強いるものであり、嫌だった。テキストみたいのがあって、その通りに弾かなければいけない。「間違え」というものが歴然と存在していて、その音符ではない音を弾いたり、異なったリズムで弾けば間違えである。そして、その間違いを起こさないために延々と練習しなくてはいけない。間違えると、教官に怒られたりする。

ピアノのレッスンについて覚えているのは、音楽というのは辛く苦しいもので、練習をしなければ絶対に上手くならないということを、間違えるたびに再確認したことだ。そのこともあって、中学校に入るまで音楽はどちらかというと嫌いだった。

中学に入り、エレキギターを買った。今度は、誰にも習わずに、エレキギターを弄った。練習したのではなく弄った。コードの押さえ方とかについては、きちんと音がなるように我流で何度も練習したが、その他についてはほとんど真面目に練習しなかった。そのために、それから25年が経った今でも、まともにギターは弾けない。ギターソロというものが弾けない。ヘビメタの早弾きももちろんできない。ジャズやクラシックは弾けない。しかし、自分が楽しめる程度には引くことができる。誰にも聴かせることのできるクオリティーではないけれども、ギター弾き語りで歌を歌うことはできる。

ギターに慣れ親しんだら、音楽コンプレックスが軽減してピアノの音も嫌いではなくなった。二十歳頃のことである。それでも、ジャズのピアノトリオなんかを聴けるようになったのは30歳をこえた頃からである。20代の時に遅ればせながらビリージョエルなんかを聴きだして、ピアノ弾き語りに憧れをもった。いつかピアノを買っていじってみたいと思った。

その夢が叶って、35歳の時に自宅にピアノを買った。電子ピアノの音だとすぐに飽きて弾かなくなると思ったので、アップライトピアノを買った。生ピアノは音量の調整とかができないのでいい。誠にピアノらしい。ピアノは「小さな音も大きな音も出る」という意味でその楽器の名前がついたそうだが、今日、東京都内の住宅街でピアノを弾くとかなりうるさい。小さい音で弾こうとしてもうるさい。幸い、自宅が高架線沿いなので、多少のうるささは許される環境なのだが、うちの中にいる家族には十分うるさい。

そのうるさいピアノを、弾けもしないのにいじっているのである。誰に習うこともなく、気が向いたときに、歌詞カードとコード表だけを頼りに弾き語りの、伴奏の部分だけ我流で練習している。もう少し慣れたら、弾き語りの伴奏の仕方の教則本でも買ってこようかと思ったりもするが、きっといつまでもそこまで上達する日は来ないだろう。

理想のピアノ弾き語りはRandy Newmanである。Randy Newmanの「Live」というアルバムの弾き語りのスタイルがいい。ピアノが必要最低限の伴奏を行い、小難しいことはせず(実際のテクニック的には難しいのかは知らんが)、ソロは殆んど弾かず、歌の伴奏に徹している。元ピアノ嫌いとしてはピアノ伴奏の入り口であり、理想像である。

ランディニューマンの唄も歌詞もとっても良い。英語の歌詞の内容は正確にはわからないが、聞き取れるだけでユーモアと皮肉に富んでいて、それが結構差別的だったりするのだが、ランディニューマンの力の抜けた歌い方がそれをすんなりと歌い上げている。社会にメッセージをぶつけてやろう!という感じではなく、静かに嘲笑い哀しむというような歌だ。実際、彼の代表曲は政治的にも、社会的にもかなりヤバい内容の歌詞だったりするのだが、そんな曲が差別の対象とされている人さえもつい口ずさんでしまうような、不思議な魅力がある。

彼みたいに自然なピアノ弾き語りができるのであれば、別に彼の歌が歌えるようにならなくても構わない。

ビリージョエルのようにキリッとはしていないし、レイチャールズのようにソウルフルでもない、ジェリーリールイスのように乱暴でもないが、そういうトレードマークのようなものや、スタイルというものともまた違ったところで、ピアノというものの一つの魅力を最大限に発揮しているピアノプレーヤーだと思う。

ピアノを買って2年が経ち、未だ全く上達していない私は、今夜もRandy Newmanの「Live」を聴く。