社会の潮流というのに逆らうのはなんと厳しいことなのだろうか。

社会の潮流というのに逆らうのはなんと厳しいことなのだろうか。今の時代を生きるということは、社会の潮流に逆らってはいけないことなのだろうか。社会の潮流こそが差別の源流なのに。

例えば、喫煙者。これは、現代社会で蔑まれすぎているのではないだろうか。タバコを吸っているけで入社できない企業なんかもあるという。それならまだ理解できる範疇なのだが、受動喫煙防止条例なんかはどんなもんなのかと思う。

タバコは確かに体に有害であると言われている。医学的根拠もあるらしい。そこまではわかる。

けれども、医学的根拠がどうだろうがそんなことは、いい口実なだけであってなんの意味もないと思う。例えば、近親相姦が遺伝的に良くなかったとしても、それは性愛の一つの形である以上、この世界には当然に存在する。当事者がいる。その存在を、医学的見地によって、社会から消滅させようとしても無駄だ。

それに、医学的見地から体に有害であるものは、タバコやら近親相姦よりももっと重大なものがあると思う。例えば、自動車。私は、あんなものは排気ガスを撒き散らしているだけだから、なくなればいいと思う。あんなものは、医学的見地だけではなく、自動車事故で犠牲になっている人たちのことを思えば、無くなった方がいいと思う。電車も、危ないからなくなってほしい。アメ車とかマツダのかっこいい車だけ残して、あとはなくなればいいと思う。

これは、時代の潮流で、仕方ないと言われ、なかば強制的に従わせられるいるかどうかの問題なんだと思う。ちょっと前までは電車の席に灰皿があったり、飛行機でもタバコが吸えた。そういう中で喫煙者は当然のごとく生まれ住んできた。自動車は、便利だからといって、日本の基幹産業だからといって、未だに無くならない。

昔っからタバコ嫌いな人はいただろうけれども、それは自動車が嫌いな人や、不細工な女性が嫌いな人や、同性愛者が嫌いな人と同じように存在した。今の時代に、同性愛者同士がキスをしているところを子供に見せるのが嫌だからって、あれはやめてほしいと叫んでも、そっちの方が差別だからといって嫌がられる。

これは、いじめの問題だって同じことで、社会としては良くないということになっているし、私も無くなった方がいいとは思うのだが、一方で絶対に無くならないと願いたい。いじめの問題がなくなった社会に住みたいとは思わない。そんなことまで無くしようとする、セセッコマしい社会は嫌だ。なんと住みづらい世の中なんだろう。

論理が矛盾しているといえば、そうだ。そんななかから、差別される側の実感を書きたいのである。

例えば、タバコを吸う権利なんてない。と思われている人に聞きたい。では、あなたは生きている権利はあるのか?法律上守られている権利はともかくとして、社会の中で生きている権利はあるのか。多くの人たちがこの権利については後ろめたさがあるのではないか。

あなたは、小児性愛者かもしれない。同性愛者かもしれない。自動車に乗っているかもしれない。犬猫を愛玩し、あまつさえ飼っているかもしれない。ロクデモナイ文章を SNSやブログで社会に拡散しているかもしれない。戦争を助長し、人殺しを勧奨しているかもしれない。人をいじめているかもしれない。タバコを吸っているかもしれない。

私は、そうゆう皆さんも、そうやって生きている権利を認める社会になってほしいと思う。さすがに、法律や条例で禁止されたら、社会ではいけないこととなるのは致し方ない。しかしながら、だからといって、そういう人たちを忌み嫌うのはまた別の問題だと思う。

差別ということが嫌いな人は、忌み嫌うことから差別が生まれることに思いを馳せてほしい。また、差別という言葉が嫌いな方は、相互理解により、それぞれの人たちが住みよい社会をつくるという考え自体が差別を助長しているということに気づいて欲しい。

私は、みんなに理解されて、社会によって形造られた私の器の範囲内だけで生きていきたいとは思わない。それこそが差別されているということだと思う。反社会的になりたいという意味では無くて、差別が私を社会から疎外していることが嫌なのだ。

それでも、タバコがなくなればいい、自動車に乗りたい、いじめがなくなればいい、と思っている方は、そういう社会を目指して生きていればいい。それこそが、この社会に生きていることなのだから否定まではしない。そういう連中だって生きている権利はあると言いたい。一方で、わたしは、時代の潮流による差別というものが無くならない世界を忌み嫌いながら生きている。