のどかで豊かなジャズのライブ Bobby Hackett 「Live at Roosevelt Grill Vol.2」

私はどうもBobby Hackettというコルネット奏者が好きである。昔(1940年代)グレンミラーのバンドでギターを弾いたりコルネットを吹いていた人だ。弾いていたらしいのだが、その頃の演奏はあんまり聴いたことがない。エディー・コンドンの名盤「Bixieland」でコルネットを吹いている。

ボビー・ハケットのキャリアについて、詳しいことはわからないので、詳しくは Wikipediaを見ていただければわかりやすいかと思う。実にシンプルにまとめられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ボビー・ハケット

この人のコルネットの音は絶品である。どちらかというとソフトな音色でまさに私の好みである。Columbiaからリリースされていた、「The Most Beautiful Horn In The World」なんかは、ストリングスもので、ムード音楽に分類されかねないサウンドであるけれど、そういうジャンルにとどまらず、ジャズのアルバムとして楽しめる。彼のコルネットの音色がとても「ジャズ」だからである。まあ、なんとも雄弁なラッパである。

ボビー・ハケットといえば「Coast Concert」が名盤として名高いけれど、あのレコードだけでなく素晴らしい演奏を聴かせているアルバムは多い。

「Live at the Roosevelt Grill」もそんなアルバムの一枚である。手元に「Live at the Roosevelt Grill Vol.2」しか見当たらなかったので、「 Vol.2」を聴いてみた。

なんともリラックスした、アットホームな雰囲気のライブである。Live盤としては音質もまずまずだ。CDだとボーナストラックで5曲追加されているのだが、それらのトラックも追加されてよかったと思える内容だ。

選曲もいい。ジャズの古いスタンダード中心の選曲の中にボビー・ハケットの名を一躍有名にした「A string of peals」なんかも入っている。ファンとしては嬉しい。

メンバーも豪華である。スイング時代の有名どころが一緒に演奏している。こんな豪華なメンバーのライブを生で聴けた方々がとても羨ましい。これはおそらく、ライブ録音をするから特別に揃えたのだろう。トロンボーンのヴィック・ディッケンソンもピアノのデイブ・マッケンナも堂々と安定したソロをとっている。アンサンブルも息が合っていて、付け焼き刃でやったジャムセッションという感じではない。

こういう、アルバムは聴いていて安心できる。騒がしすぎず、退屈でもない。まあ、こんなアルバムばっかりでもジャズはつまらないのだろうけれど、夜に独りゆっくり聴くにはちょうどいい。まあ、騙されたと思って聴いてみることをお勧めする。ジャズって、せせこましくなく、こんなに豊かだったんだなあと思わせられるアルバムだ。

1970年の録音なのだが、70年代といえば、ジャズもフュージョンの波が押し寄せていたのだから、こんな音楽は時代遅れだったのだろう。それから40年以上経った今聴いてみると、70年代のフュージョンだって時代遅れなわけだから、全然時代遅れな感じはしない。今だからこそ、素直にこのアルバムの音楽に耳を傾けることができるのかもしれない。

一方で、いまの時代にはなかなかこういう、のどかな演奏をしてもいられないんだろうな。いまのジャズミュージシャンもちょっと気の毒だ。

出会いと別れの季節に 「Arrivals & Departures The airport pictures of Garry Winogrand」

もう桜の咲く季節になってしまった。

毎年この時期になるとなんだか知らんがウキウキした気分と同時に憂鬱になる。また、一年が過ぎてしまったのだ。桜が咲いてしまうと、一年が経ったことを確かに感じさせられる。また、春が来たのだ。

春のウキウキ感はなんら根拠のない高揚感である。ただ春だからムズムズ、ウキウキする。もしかしたらこれは季節に対する動物的な反応なのかもしれない。人間も動物だとしたらまあ、長い冬眠から覚めなければならない時期なのかもしれない。もし植物にも共通した感覚なのだとしたら新芽が芽生える時期なのかもしれない。まさか私の心身が植物にまで共通しているところがあるとは考えにくいが。

それに対して、春の憂鬱には根拠がある。

何もできなかった一年間。達成感のない一年間。ムダに歳をとってしまった一年間。そういったものを一気に思い起こさせられる。そういう、敗北に対する憂鬱なのだ。春は憂鬱で然るべきものなのだ。

これはどんなに充実した一年を過ごしたとしても感じてしまう敗北感なのかもしれない。私が社会人の1年目を終えた歳の春も、同じように憂鬱だった。花が咲いて、また訳も分からず一年が過ぎてしまったと思った覚えがある。ただガムシャラに過ごした一年を振り返って、サラリーマンという因果な身分になった自分を呪うと共に、自分を支配する仕事というものへの敗北感と、その仕事も満足に身についていない無力感があった。

まあ、あんまりネガティブなことばかり書くのはよそう。暗い気分になってしまう。

そういえば、春は、出会いと別れの季節ということになっている。世間一般では。

確かに、私も、最初に入った会社では4月1日に人事異動とか入社式とかがあって、「出会いと別れ」があった気がする。それより前に遡ると、学校に通っていたわけだが、3月は卒業式、4月になると新学期である。新学期はクラス替えやら、授業の履修登録、入学式なんかもあってまさに出会いと別れがあった。

あれはあれでよかった。なんとなく体系的に一年という期間を心や体が把握できた。

出会いと別れというのは、生きているにおいて必要な要素だと思う。出会いも別れもないような生活を1年ぐらい続けていると心が鈍ってしまう。

Garry Winograndの撮影した空港の写真を集めた「Arrivals & Departures」という写真集がある。この本は編集者のAlex Harrisと写真家のLee Friedlanderがウィノグランドの残した空港で撮影されたスナップ写真(ほとんどが未発表作品)を選び集めて本にしたものである。2004年、ウィノグランドの死後約20年後に出版された。

空港といえば、まさに「出会いと別れ」の場であるので、こういう季節に空港でのスナップ写真を見るのにはちょうどいいかなあなどと思い、本棚から出してきた。タイトルの「Arrivals & Departures」も、まさに「出会いと別れ」という感じがした。

写真集を開いてみて、掲載されている約90点の作品を見た。確かに出会いと別れの舞台は確かにそこでは展開されている。出会いは、多くの場合が笑顔で、別れは多くの場合寂しい顔をしている。

しかし、まあ、この本を見て印象に残ることはそういうものではない。むしろ、空港にいる人々の虚ろな表情、そして、空港という施設そのものの曖昧で雑多な空間の風景が心に残る。

空港っていうのは、出会いや別れだけでなく、待ったり、手続きしたり、移動したり様々なことが同じ空間で行われている。そこに集まる人々は皆大抵は虚ろな表情をしている。出迎える時と、見送りの時にはニコニコ、シクシクしたりするけれども、あとはただ機械的に移動しているか、列に並んだり、椅子に座ったりして待っている。そういういろいろなことが同時進行的に行われているのが空港という場所なのだ。

空港はそういう意味では街中よりも特殊な空間である。街中ではこれほどたくさんの出会いと別れはないし、待つということもこれほど多くはない。そのような特殊な環境での人々の様子が写真にどう写るのかがここでは示されている。

私の印象としては、街中で撮られたウィノグランドのスナップ写真に写る人たちのほうが表情に多様性がある。空港の人たちはみんな似たような顔をしている。ニコニコ、シクシクしている人たち以外は皆同じような虚ろで黄昏たような表情をしている。街中の路上はもっといろんな人が写っている。街頭には、怒りとか、侮蔑とか、苛立ちとかそう言った攻撃的な表情も登場する。この本における空港の写真ではそう言った表情はほとんど見られない。

これは、写真を選んだハリスとフリードランダーが意図したことなのかもしれない。ウィノグランドの写真の中ではかなりドライで、どちらかというと知的な写真群である。乱暴に分類してしまえば、感覚で捉えられるような写真ではなく、見て考える写真である。見てすぐに驚いたり、恐れたりする類の写真ではなく、観察してから感じる写真である。瞬間で感じるのではなく、見る側の心の中でドラマがある写真とも言える。

ウィノグランド自身が同じく100枚弱の空港の写真を選んで本にしていたら、一体どんな写真集になっていただろう。そこに写る人たちはどんな表情をしていて、空港はどんな空間として写っていただろう。もっと感情に訴える写真集になっただろうか。それとももっと冷たい印象の写真集になっただろうか。

おそらく、彼が作ったとしても、こんな空港のシーンが繰り広げられると思う。彼の死後20年が経過してセレクトされた写真であっても、空港というのはもとよりこういう場所だから、これがウィノグランドが見た空港の風景だったのではないだろうか。

ただ、写真集というのは二、三枚でも違う写真が入ってくるだけで印象が変わるものだから、是非ウィノグランド自身のセレクションの空港を見てみたい。

音楽の閻魔様 Tony Rice 「The David Grisman Quintet」

趣味でギターを弾くのだが、20年以上弾いているのにとても腕は拙い。とても人に聴かせられるようなもんじゃない。これは、もとよりあまり熱心に練習していないので仕方がない。練習なんぞしなくても、20年も手元に楽器があれば、ある程度弾けるようになりそうなもんだが、楽器というのはどうもそういうもんではなさそうだ。

練習はしているのだ。「熱心に」練習していないのである。

この「熱心に」というのは説明するのが難しいのだが、例えば、一つのフレーズが弾けるようになりたくて、弾けるまで何度も繰り返し練習する。初めはゆっくりのテンポで弾けるよう、出来るようになったらだんだんテンポを上げて練習する。そういうのが熱心な練習の一例だ。

私は、そういうことができない。せっかちなのである。「だいたい」弾ければそれでいいのである。この「だいたい」とはどれぐらいだいたいかというと、人が聞いてそれと分かるほどしっかりとした程度まで弾けなくても、自分さえ弾けた気分になればそれでいいのである。

そういうことだからいつまでたっても上達しない。

まあ、それでも、程度の差こそあれ、世の中のギターを趣味としている人たちの6割ぐらいが私のように、「だいたい」弾ければ良しとしているのではないだろうか。だいたいでも自分が気分良くなればそれでいいのである。その拙い演奏を聞かされている家族や身の回りの人間には気の毒だが、楽器なんていうものは、もともと出てくる音色の9割9分は拙い演奏なのだ。それからだんだん練習して上達して、一部の上手い演奏が生み出される。それでいいのだ。

その1分の割合の上手い演奏が録音として残っていて、レコードプレーヤーなんかで鑑賞できるというのは、とてもありがたいことなのだと思う。

今日、The Tony Rice Unitの「Devlin」というアルバムを聴いていて、そんなことを思った。

まあ、このThe Tony Rice Unitの演奏はギターのトニー・ライスをはじめとして、名人揃いである。技巧的にも音楽的にも一分の隙間もない演奏である。どうだ、マイッタかこのやろう。というような完璧な音楽である。それを好きかどうかは別として。

この演奏が退屈だと思う人もいるかとは思うけれど、これを聞いて「拙い演奏だなー」と思う人はまずいないだろう。完璧主義ともまた違った、完成形がある。バンドの編成自体が少人数なので、音に隙間ができそうなもんなのに、そういう隙はなく音が詰まっている。それでいて、リラックスしている雰囲気すらある。こういうのが名人芸と呼ばれるもんなんだろう。

トニー・ライスはミュージシャンとしてはもう超一流で、素晴らしい音楽を繰り広げている。ブルーグラスの伝統にとらわれることなく、ブルーグラスの文脈を引き継ぎながらもジャズ・フュージョンの要素その他、色々な音楽の要素を取り入れ新しい音楽を発表し続けている。こう言う土壌からこっち方面のムーブメントが湧いてくるというのはすごいことだと思う。そのムーブメントはThe David Grisman Quintetの同名アルバムに端を発しているのだろうけれど、超一流の楽器プレーヤーが新しい音楽を奏でると、一気に音楽が完成するのだろうか。

The David Grisman Quintetはデビューアルバムから凄い。このアルバムの音楽がなければ今のブルーグラスはもっと狭っ苦しい音楽になっていただろう。ギターはトニー・ライスが弾いている。自信に満ち溢れた、説得力のあるギターである。

どこで、どれだけ練習したらこんな上手いギター弾けるようになるのか全くわからん。きっと日々「熱心に」練習していたのであろうな。これからなんぼ練習してもこういう世界にたどり着くのは絶対に無理だ。感覚自体が違う。ブルーグラスの基礎を押さえた上で、こういう他の音楽に幅を広げなければならないなんて、想像を絶する。

まあ、一方で、こういう素晴らしい音楽をやってくれて、アルバムを残してくれているんだから、リスナーとしては安泰だな。もっと突き進んだ演奏を聴きたければ、トニー・ライスが自身のアルバムでやっているから心配ない。

突き進んだ演奏を聴こうとすると、必ず泥沼にはまる。このThe David Grisman Quintetまさに、泥沼にはまる寸前の音楽だ。泥沼への入りぐちあたりがこの世の最高の音楽を聴けるのかもしれない。泥沼にはまって、どっぷり浸かっちゃったような音楽より、危険なところに足を踏み入れているところの音楽がスリリングで良い。本当の意味で、そのような音楽に出会えることは死ぬまでないかもしれないし、それは死ぬときなのかもしれない。

そして、演奏者としても、そのような泥沼の入り口あたりが、演奏がこの世の最高の音楽を奏でられるところなのかもしれない。トニー・ライスはこのアルバムを前後して新しい音楽の世界に飛び込んでいった。彼の音楽はその後どんどん発展して行ったけれども、この「The David Grisman  Quintet」での演奏が、一つの頂点と言えるかもしれない。

楽器が上手い方々はそれでも、楽器一台席抱えて、その世界に飛び込めるか?

ぜひ、飛び込んで欲しい。後に何も残らなくても別にそれで構わない。

各トラックの演奏時間が短いハードバップの名盤 Jimmy Smith 「Crazy! Baby」

医者に通っているのだが、病院というのはずいぶん待たされる。診察までにゆうに45分は待たされる。診察の予約時間の10分前ぐらいまでには受付手続きをしに行かなければならないので、必然的に1時間ぐらいは待たされる。

仕方がないので、本を読んだりして待っているのだが、いつ呼ばれるかもわからないので、なかなか本にも集中できない。そもそも医者の待合室というのはどうも落ち着かない。あれじゃあ、いかがわしい店の待合所にいるのと変わらないんじゃないか。なんとか改善して欲しいところである。

もとより私は待ったり、長時間おとなしく座っているというのが苦手である。クラシックのコンサートなどで、静かに座って聞いているのも苦手だが、おとなしく待つ、という時間はもっと苦手だ。ロックのコンサートでさえ、なんだか立たされているのが耐えられなくて、よく途中で抜け出す。ジャズのライブなんかも狭い店が多いので、狭い席に座っているというのが苦手だ。満員電車はいうまでもなく、ありゃ誰だって苦手だろう。

そういう、せっかちな私は、 小説なんかも長いやつは苦手である。おのずから短編ばかりを読んでいる。新書なんかも、一冊読み通せるかどうかの瀬戸際である。とにかく短いに限る。まあ、短ければなんでもいいっていうわけではないけれど。

川端康成の掌編小説を集めた文庫「掌の小説」というのがある。長くても10ページ短いやつは2ページ(原稿用紙5枚ぐらいか)ぐらいの、優れた掌編小説が100編以上収められているのだが、あれなんかも読み通せるやつと、途中で投げ出してしまうやつがあるくらいだ。

3ヶ月ぐらい前にちくま新書だったかの「カント入門」という、一見お手軽にカントの哲学を勉強できそうな本に挑戦したが、敗れた。最後まで一応字は読んだが、全く頭に入らなかった。あれなんかも、落ち着いてじっくりゆっくり読み進めて、わからないところは調べながらやっていけばある程度はカントの哲学に入門できたのかもしれないが、私はそういう忍耐を持ち合わせていないので、全くわからないまま、ただ字を追いかけて、耐えて耐えて最後のページにたどり着いた。

サラーっと三日ぐらいでああいう本を読んだところで、もとよりカントなんかを理解できるはずはないのだけれども、それでも、もっとしっかり読み込めば、わからないなりにも何かを得ることはできよう。私には何もわからなかった。カント以前に、「カント入門」を読めなかったということがわかった。「カント入門」の門の敷居は高いということだけはわかった。それをわかるための本としては良かった。

そういったことは、ジャズやロックのアルバムでも同じことが言えて、長いトラックは苦手である。特にジャズなんかは10分を超す演奏が1トラックに収められているのはざらである。LPレコードなら、片面2曲とか、そういったけしからんことが平気に行われている。10分間の演奏ならば、ソロ回しが8分ぐらいある。ライブでも8分のソロ回しは長く感じるだろう。演奏にもよるけれど。

例えば、マイルス・デイヴィスの「In a silent way」なんかはA面に1トラックだけ、18分16秒である。18分を通して聴くのはなかなかパワーがいる。A面の1曲目くらいは、短くてさらっとしたのを入れて欲しいところだ。まあ、「In a silent way」はとても素晴らしいアルバムだから、このA面も何とか頑張って聴き通すことはできるし、楽しめるのだが。それでも、体力がいることには変わりない。

その点、一曲ごとの演奏時間が短いアルバムは良い。何より手軽に楽しめる。手軽でいて、決して演奏そのものが軽いわけではない。短いトラックの名演奏も当たり前だけれど存在する。

Jimmy Smithの「Crazy! Baby」は各トラックが短くて簡潔でヨロシイ。1曲目の「When Johnny comes marching home」は約9分と長いのでなかなかしんどいのだが、この際聴き飛ばして仕舞えばいい(とても熱い素晴らしい演奏なのですが)。その他は各曲5分前後の演奏なのでスルスルと聴くことができる。

何よりもスタンダード曲を何のてらいもなく、かつジミー・スミスらしく演奏しているのが良い。凝ったアレンジではなく、キメも定番のやつで、ジャムセッションのようにシンプルに仕上げている。

ジミー・スミスのトリオが端整で良い。息が合っているし、Donald Baileyのドラムがきっちりとビートを刻む上で、オルガンのジミー・スミスが結構のびのびと、濃い味付けで、クドイぐらいに演奏していて良い。ギターの Quentin  Warrenもバッキングは控えめながらも、ソロになるとソウルフルで良い。あんまりギターのソロとっていないのだけれど。短いソロの中でやりたいことを存分に表現しているようで良い。

ジミー・スミスがあんまり小難しいことをやっていないのも、ここではよく出ている。ジミースミスって、デビューした頃の演奏聴くとちょっと騒がしくてイマイチ好きになれないのだけれど、このアルバムとかVerveでケニー・バレルとグラディー・テイトとトリオでやっているアルバムは好きだ。特にVerveのやつオルガントリオの一つの完成形だと思う。

ハードバップのアルバムは、ダラダラと長くソロをとるレコードが結構あるんだけれど、このぐらいの演奏時間のトラックでいい演奏もたくさんある。

名盤が多いジミー・スミスのアルバムの中でも「Crazy! Baby」は各トラックが短いジャズの名演奏が詰まっている。

Tom Harrell入門盤  Bill Evans 「We will meet again」

好きなトランペッターはたくさんいるけれど、中でもチェット・ベーカーとトム・ハレルは特別だ。

チェット・ベーカーについては別に機会に書くとして、トム・ハレルについて今日は書きたい。

とは言っても、書くべきことがはっきりと思いつかない。彼について、何を語るべきなのか、自分の言葉で表現できるのかがわからない。トム・ハレルのトランペットは個性はあるけれど、派手ではないので書きづらいのだ。

まず、彼のトレンペットの魅力はその音だ。暗く、さっぱりとしていて、枯れたような音色。けっして煌びやかな音色ではないんだけれど、トランペットという楽器の魅力を十分に伝える音色だ。一言で言うと、いぶし銀のような音色だ(曖昧すぎるか)。

トムハレルのソロはあまり高音は使わないで中低音を中心に展開されるのだが、ハイノートを吹いても、それがキラキラピカピカしない。シブいという表現がぴったりなハイノートである。中低音も、一音一音が、霧の中から紡ぎ出されるような音である。

テクニックは物凄くあるだろうし、音の数自体は少ないわけではないのだけれども、彼のトランペットは寡黙である。時につぶやくように、熱くなっても声高にならない。不要なひけらかしはない。ソロの時も盛り上がりはあるのだけれども、その盛り上がりは派手さやガジェットによるものではない。あくまでも彼の言葉の文脈上の盛り上がりである。

これは、音楽的にはとても高度なことなのだろうけれど、聴いている私にとっては、難解だという印象は受けない。彼の音楽を理解しようというよりも、彼の音楽を感じようという気分にさせられる。難解という印象よりも先に、彼の出す音色、フレーズに聴き入ってしまうのだ。

ビル・エヴァンスか彼のアルバム「We will meet again」でトム・ハレルをトランペッターに起用しているが、このトランペットが、アルバムのムードを作り上げている。もちろん、リーダーのビル・エヴァンスが音楽を構築しているのだけれど、彼を筆頭とした極上のリズムセクションの中でラリー・シュナイダーのサックスと、トム・ハレルのトランペットがほどよく絡みあい語り合う。

このアルバムは4曲目の、スタンダード曲の「For all we know」を除いては、全曲ビル・エバンスのオリジナル曲で構成されている。50年代のビル・エヴァンストリオがよく演奏していた曲と、70年代に入っての曲が混ざっている。

ここでのトムハレルは、比較的饒舌である。饒舌とは言っても、リー・モーガンのような熱く、明るく、パリパリ、シャキシャキした感じではなく、クールに曲を盛り上げる。ラリー・シュナイダーのサックスがしなやかにイキイキとソロをとるのに合わせて、トムハレルも華があるソロをとる。それでいても、彼のトランペットは暗く、枯れたような響きだ。ビル・エヴァンスの曲自体が暗いということもあるけれど。

トム・ハレルのリーダーアルバムを何枚か持っているけれども、彼のアルバムはだいたい全曲彼自身のオリジナル曲で構成されている。とてもコンセプトが決まっていて、よく作り上げられたアルバムが多い。その点、少しこむづかしい音楽になっていて、するっと聞き流せるようなものは少ない。どのアルバムも魅力的なのだが、聴くのにこっちも覚悟がいる。

彼のアルバムの中にもとっつきやすいやつが幾つかあるので、それは後日紹介しよう。トム・ハレルを初めて聴くのには、この「We will meet again」がお勧めだ。

もちろん、リーダーのビル・エヴァンスも素晴らしい。フェンダーローズピアノなんかも顔を出して、ビル・エヴァンスの安定した魅力を発揮してくれる。

エレアコのピックアップのサウンドについて考えてしまった Carole King 「The Living Room Tour」

昨日は Carole Kingの「The Living Room Tour」というライブアルバムを聴いていて、あまりにも圧倒されてしまい、ブログを更新できなかった。全ての曲が心地よく、リラックスしているのに、力強く心に残る。キャロルキングって優れたソングライターであると同時にものすごいシンガーなんだなぁ、とあらためて感心した。

この「The Living Room Tour」は先日ふと読んだブログで紹介されていたのだが、そこでもこのライブアルバムのリラックスしていてアットホームな雰囲気が素晴らしいと書かれていた。その通りだった。シンプルなピアノやギターの伴奏で歌われる曲の数々が、リラックスしているといっても、程よい緊張感を持ちながらイキイキしている。こんなライブができるキャロルキングってすごい。

このアルバムは2005年に録音されているのだが、その時点でキャロルキングは62歳(と彼女は歌の中で言っている)らしい。彼女の長いキャリアの中でたくさんある名曲がこのアルバムではじっくり聴ける。

もちろん、このアルバムに入っていない曲でも、このリラックスした雰囲気で聴きたい曲はたくさんあるけれど、それでも、全部聴いてしまうとお腹いっぱいになるから、このぐらいのボリュームがちょうどいいのかもしれない。2枚組だから、実際のところ結構長いアルバムなのだけれど、するっと聴きとおせた。

 

アルバムの音楽そのものから話は変わるけれど、このCDを聴いていて気づいたことなのだが、ピエゾピックアップのエレアコの音って、2005年からあんまり変わっていないんだな。

特に低音弦の音は10年以上経った今もこの当時と同じくツブツブした音がする。アコースティックギターの生の低音弦の音のような隙間のある太い音ではなくて、なんだか人工的な倍音が強調された音がする。

結局この頃から10年以上が経って今でもこの音でエレアコの音が定着しているっていうことは、こういう音がギター弾きの中でギターの音として浸透したということなんだろうな。こういう「ピエゾの音」っていう音がギターの音色の一つとして確立されたということなんだろうな。

もっとも、今はピエゾ以外のピックアップがエレアコのピックアップの選択肢としてたくさん出ている。マグネティックのピックアップも進化したし、コンデンサーマイクだとかL.R Baggs、FISHMANをはじめとしていろいろ新しいシステムを作っている。

そういうピックアップの選択により、エレキギターに近いサウンドも出せるし、もっと生のアコースティックギターに近い音も出せる。2005年当時よりも今の方がきっとずっとアコースティックギター用のピックアップの音は多様化している。

けれども、このピエゾピックアップのツブツブした音は変わらずに生き続けている。ピエゾピックアップは結構古いから(一般的には70年代から使われている)40年以上の歴史がある。その間にこの音が定着したのだろう。

私もピエゾのギターを持っているけれども、あまり使わないので今は人に借している。けれど、時々ピエゾのギターを弾くとそのコンプレッションのかかった音の気持ち良さもわかる気がする。弾いていてなんだかちょっと気分がいい。きっとピエゾの音は聞き手(リスナー)に浸透する前に弾き手(プレーヤー)にウケけたんだろう。新しいギターの音として。

キャロルキングの凄いアルバムを聴いて、こういうどうでもいいことを考えてしまった。

アルバム自体は、すごくオススメです。

名曲を残すという偉業  Jimmy Webb 「Ten Easy Pieces」

世の中に名曲をかける人というのが確かに存在していて、シューベルト、松任谷由実、バートバカラック、武満徹、コールポーター、山口隆などと枚挙にいとまがない。彼らは一体どういう感覚であんな名曲を作っているのだろう。全くわからない。

名曲を残せる能力というのは、本当に素晴らしいと思う。羨ましい。エジソンみたいに目に見える形で社会に貢献しているわけではないかもしれないけれど、だからこそ羨ましい。

電球なんかを発明されると、こりゃもう万人の認める偉業で、一部の未開の地を除く地球全体の人類がその恩恵にあずかっている(いた)。ベルが発明した電話なんかもみんな恩恵にあずかっている(いた)。その一方で、それらの発明は今の社会では発光ダイオードやら、iPhoneに取って代わられていて今の子供にエジソンの発明したものの凄さを説明してもイマイチピンとこないかもしれない。

目に見える形で社会に貢献すると、時代という波に押し流されるのが早い。貢献自体の息の長さは長くても、消えゆくのも早い。新しい時代がやってくるのだ。

その点、名曲の社会的貢献の息は長い。ユーミンの「 Hello My Friend」はおそらく、4万年後にも歌い継がれているだろう。彼女の曲は4万年は通用する名曲だからだ。何の根拠もないが。

けれども、名曲というのは「新しいものに取って代わられる」ということがあまりない。スカルラッティよりも新しい音楽理論で作曲された名曲は数多あるけれど、それだからって彼の名曲が新しい名曲に「取って代わられる」ことはない。何度も引き合いに出して恐縮だが、ユーミンの曲だって、多少歌詞が時代遅れになった所で、名曲であることに変わりはない。

同じことは文学にも言えるし、美術作品にも、工芸品、一部の工業製品にすら言える。1965年式フォードマスタングの素晴らしさは、4万年後も語り継がれているかもしれない(いや、そんなことはないか)。

Jimmy Webbも名曲をたくさん残している。カントリーのシンガーGlen Campbellが歌った「By the time I get to Phoenix」「Wichita Lineman」などは、過去百年に書かれた名曲5000選の一曲に数えられるだろう。それぐらい、彼の書いた曲は素晴らしい。

「Ten Easy Pieces」はそんな彼のヒット曲(10曲)を彼自身がピアノ弾き語りで歌ったセルフカバー集である。

自身も何枚かアルバムを発表していて、バリトンボイスを聞かせる優れたシンガーでもあるのだが、このアルバムを聴いてみると、改めて彼の歌の良さが伝わってくる。

JD Southerのセルフカバー集「Natural History」を聴いた時も感じたが、人に曲を提供しているソングライターのセルフカバーを聴くと、曲の原型を見たような気分になる。「Ten Easy Pieces」も「Natural History」もアレンジがシンプルなので、そういう面が際立つ。

彼の代表曲の多くが1960年代から70年代に書かれたものであるけれど、今このアルバムを聴いていても、その曲の素晴らしさは少しも損なわれてはいない。むしろ、時を経て曲の良さが際立ってくるかのような勢いすらある。彼のような、澄んだ楽曲をかける人はどの時代にも多くはない。

100年後に、エジソンとジミー・ウェッブの偉業のどちらがこの世界に残っているか、負けを覚悟でかけてもいい。ジミー・ウェッブだろう。

語彙の豊かさの正しい表し方 Al Kooperの「Naked Songs(赤心の歌)」

語彙の豊富さというのはとても重要なもんだとつくづく思う。

私は、はっきり言って語彙が貧しい。貧しい言葉の中から何かを書くというのはとても苦しい。

そういったことを夏目漱石の「草枕」を読みながら思った。夏目漱石は色々な言葉を自由自在に使いこの小説を書いている。ちょっと嫌味なぐらい豊かな言葉が溢れている。この本を読んでいると、言葉は知識であり思考そのものをつかさどっているんだと思わせられる。

夏目漱石の言葉の背後には膨大な知識があり、それぞれの言葉がそれぞれの世界観を持っている。

例えば、「軽侮」なんて、一見、結構使われてそうな言葉も、私は使わない。そういった言葉で表現するものがないからだ。けれども、そういうありふれていそうであまり使わない言葉が、この本の中ではその言葉があるべきところに収まっている。

そういうものに接すると、改めて自分の語彙の貧しさに直面する。

これは、音楽にも同じことが言えて、ボキャブラリーは重要である。

例えば、ジャズなんかを聴くと、ロックではあまり使われない音使いがたくさん出てくる。音楽理論で言うと、オルタードスケールだったり、ディミニッシュだとか、いろいろあるらしいけれど、詳しいことはわからない。ただ言えることは、ロックではあまり使われないボキャブラリーがジャズの世界で使われていることだ。逆に、ロックの世界ではまかり通っている言葉(フレーズやビート)がジャズではあまり用いられていなかったりする。

フォークやブルースなんて一見シンプルで、ボキャブラリーが貧困そうに思われるが、そんなことはない。フレーズや音楽理論ではシンプルな言葉たちも、それぞれが複雑に絡まり、様々なバリエーションを持ち存在する。ブルースで使われるスケールは少ないかもしれないけれど、そのスケールの中で様々なフレーズが交差する。そして、それぞれの言葉が、適切な場所に収まって音楽が成立している。音楽の世界でも、古くから残っているものは語彙が豊かである。

文学にも、音楽にも引き出しの広さが求められる。

引き出しが広いっていうのは、音楽をやるにあたってとっても大切なことの一つなんだなと、Al Kooperの「Naked Songs(赤心の歌)」を聴いていて思った。

このアルバムで、アル・クーパーは自身の音楽の引き出しをいっぱいに広げ、色彩豊かに仕上げている。ロックあり、ブルースあり、ソウルあり、ゴスペルありのアルバムである。

そして、その豊かな言葉たちがアルバムの中で適切なところで顔を出し、そこにぴったりと収まるとともに、全体の大きな世界観を作り上げている。それぞれの言葉は聴いていて難解な印象は受けないし、むしろわかりやすい。この辺が夏目漱石の「草枕」よりも胃に優しい。飲み込み、消化しやすいのだ。

いろいろな知識、世界観が無理なく一つのアルバムに収まり、それを過剰にひけらかすことなく、嫌味でなく、それでいて刺激的で、バラエティーに富んでいて、楽しませてくれる。語彙の用い方の一つの理想型である。

「赤心の歌」という邦題をつけた人もすごいと思う。「赤心」なんて言葉、普段はあまり使わない。というより、このアルバムのタイトルでしか使っているところを見たことがない。見たことがないけれど、「Naked Songs」の邦訳として、とてもぴったりだ。こういうところで語彙が試される。

夏目漱石がアル・クーパーを聴いたらどう思うだろう。「草枕」を書き直すとかもしれない。いや、そんなことはないか。語彙の豊富さでは夏目漱石に軍杯が上がるからな。

Jim Campilongoとテレキャスターのギラギラ、ビリビリした関係

私の好きなギタリストにはテレキャスターというギターを愛用している人が多い。

ジェームスバートンやジェリードナヒュー、ヴィンスギル、ブラッドペイズリー、ジムメッシーナなんかのカントリー系の音楽をやる人たちの多くはテレキャスターをメインに使っているし、ロック寄りのギタリストでロイブキャナン、ダニーガットン、エイモスギャレットもメインで使っている。ブルースではアルバートコリンズ有名だ。今はアコースティックギター一辺倒になったトミーエマニュエルもかつてはテレキャスターをメインで愛用していた。

上記に挙げたギタリストのアルバムをよく聴く。きっとテレキャスターのサウンドが好きなんだろう。

私は特に、カントリー系の音楽が好きなので、そういうサウンドに偏る傾向にあるのだと思う。今のカントリーのギタリストの間ではテレキャスターをメインに使うことがかなりの割合で定着しているのだろう。

1950年代の初頭にテレキャスターが出てきた頃はまだ、 GibsonのフルアコやGuildのフルアコを始めとするギターをメインとしていたギタリストも多かった。マールトラヴィスなんかはGibson Super 400やGuildの特別オーダーのフルアコを使っていた。ドンギブソンもGibsonのSuper 400を使っていた。チェットアトキンスはずっと Gretschとエンドース契約をしていたのでGretschを使っていた。他にも、ジョーメイフィスなんかはMosriteのダブルネックを使っていた。Mosriteのヴェンチャーズモデルの元となったギターはジョーメイフィスのために作られたモデルだったと言っていいだろう。

マールトラヴィスの粒が揃った暖かくて甘いGibsonのサウンドも、チェットアトキンスの使う芯がくっきりしていながら太いGretschのサウンドも好きだ。テレキャスターではなかなかああいうサウンドは作れないだろう。

けれど、トレブリーで、サスティンが短くて、ジャキジャキしたテレキャスターの音はなかなか他のギターでは再現できないのも確かだ。

ジムカンピロンゴというギタリストは、ノラジョーンズがボーカルをやっていたバンドのThe Little Williesのメンバーとしてその名を知られている。彼はテレキャスターのそういうジャキジャキ、ギラギラ、ビリビリしたサウンドを前面に押し出している人なのだ。

The Little Williesではベンドやスイープピッキングなんかを駆使して、軽快なカントリーのギターを聴かせてくれるのだが、彼のトリオのアルバム「heaven is creepy」では、もっと泥臭く、生々しいギターサウンドを聴かせてくれる。The Little Williesの曲を聴いて、ギターの音が気に入った方には、是非聴いてほしいアルバムだ。

2012年12月号のギターマガジンの特集でジムカンピロンゴ直伝のカントリーギターフレーズのレクチャーが掲載されていたので、ギターを演奏される方は見てみると面白いと思う。

かなり目立つギターのサウンドでありながら、バンドの中にうまくとけ込む不思議なところがある。The Little Williesの曲を聴いていても、ギターがうるさいという印象はないのだが、確かに存在感のあるリードギターである。

今、一番ギラギラ、ビリビリしたカントリーリックを弾けるギタリストの一人である。一度、生で聴いてみたいが、まだ聴いていない。

安定してまとまっているGibson L-50 と 暴れん坊な Chaki P-1

ピックアップの付いていないアーチトップギターが好きで、今までに何台か所有してきた。いわゆるピックギターと呼ばれるギターだ。

ピックギターは、フラットトップのアコースティックギターと違って、ちょっと詰まったような鳴りがする。詰まったところからパーンと音が弾け出るような感覚だ。

この弾け出る感覚が気持ちよくて、GibsonのL−50という、1950年代に作られた廉価版のギターをいつも手元に置いてある。これを爪弾くと、ピッキングの強さによって丸い音になったり、ジャキジャキした音になったりするので、その感触に魅せられる。ネックグリップが程よく太くて弾きやすいのも良い。

L−50は年代によって色々と仕様が違って、一度30年代製のものを触ったことがあるけれど、バックがフラットなせいもあってか、まっすぐ前に出てくるような音がしてとても良かった。値段も20万円しないくらいだったので、もしもお金があったらきっと買っていた。ネックグリップも、もっと太いかと思っていたのだが、50年代のものとさほど変わらず、ネックヒールに近い部分が若干太めかというぐらいだった。本当にいいギターだった。Gibsonは廉価モデルでもあれだけいいギターを作れるんだからすごいと思う。

40年代製のシルクスクリーンのスクリプトロゴのやつを弾かせてもらったこともあるけれど、あれも良かった。値段は30万円近くしたらしいけれど、音に個性があって魅力的な楽器だった。音がジャキジャキしてくるまでのキャパシティーが広い楽器で、単音で普通にピッキングすると丸い音がするのだが、強くストロークするとジャキジャキ鳴った。トラスロッドは入っていたが、ネックは50年代よりもちょっと太めで、握りごたえがあった。

50年代のモデルは、今の所どれもハズレがない個体に当たっている。その中で一番気に入った一台を買った。私が持っているのは確か58年製だったと思うが、シリアルが消えかかっていてよく分からない。トップが単板プレス成形のモデルだ。

もう一台ピックギターでよく使っているのが ChakiのP-1という日本(京都)製のギターだ。ギブソンのコピーのヘッドシェイプなのだが、ボディーサイズは17インチでL−50よりも大きめだ。

私が持っているChakiにはどこにも品番らしいものは記載されておらず、仕様からおそらくP−1だと推定している。

総ラミネイトボディー、つまりベニヤ板で作られているギターだ。ネックはメイプルでエボニー指板。この、P−1というギターは憂歌団の内田勘太郎さんが使っていたから有名になった。決して高級なギターではないし、値段もそんなに高価ではないのだが、少量生産のため、あまり市場に出回らない。

Chakiは人気があるらしくて、ヤフオクなんかでもそこそこいい値段が付いているけれど、当たりハズレが多いのは確かだ。いや、ピックギターそのものがかなり当たりハズレがあっていいのを見つけるのは難しい。実際に買ってしばらく弾いてみないと判らない箇所もあるけれども、実際に一度手にとってみれば良し悪しは大体わかる。

今まで7〜8台のChakiを試奏してきたけれど、どれも全然鳴らなかった。ならないうえに、ジャキジャキだけはしているので、どうも低音が物足りなかった。それか、音がこもりすぎの個体が多かった。

私が持っている個体も、ちょっと個性が強くて、うまく鳴らすにはコツがいる。弱いピッキングで鳴らすのが難しい。強くピッキングするとバーンと鳴るのだが、音がものすごく暴れる。ギブソンのような上品なまとまりはない。

けれども、この暴れる感じと、弱いピッキングでチープになる感じが好きで、手元に置いている。きっと、メイプルネックにエボニー指板という組み合わせと、総ベニヤ板のボディーがこの音の大きなファクターなんだと思う。こう言うギターはテキトーに作ってもなかなか作れない。チャキの老舗ながらのノウハウが詰まっているんだろう。

プロとして現場で使うわけでなく、自宅で爪弾く程度なので、こう言うギターはとても良い。持っていて本当に良かったと感じる。できることならいつまでも手元に置いておきたいギターだ。これだけ、自分の好みにあった暴れ方のするギターは見つからない。

あと、 チャキは製造の年代によって造りやパーツのクオリティーがまちまちで、70年代ぐらいのチープなやつが好きだというファンが多いらしいのだが、私個人としてはもっと新しいグローバーペグが付いて、エボニー指板の仕様のモデルが好きだ。フレットの仕上げが全然違うので、70年代のモデルはリフレットしたほうがいいかもしれない。