各トラックの演奏時間が短いハードバップの名盤 Jimmy Smith 「Crazy! Baby」

医者に通っているのだが、病院というのはずいぶん待たされる。診察までにゆうに45分は待たされる。診察の予約時間の10分前ぐらいまでには受付手続きをしに行かなければならないので、必然的に1時間ぐらいは待たされる。

仕方がないので、本を読んだりして待っているのだが、いつ呼ばれるかもわからないので、なかなか本にも集中できない。そもそも医者の待合室というのはどうも落ち着かない。あれじゃあ、いかがわしい店の待合所にいるのと変わらないんじゃないか。なんとか改善して欲しいところである。

もとより私は待ったり、長時間おとなしく座っているというのが苦手である。クラシックのコンサートなどで、静かに座って聞いているのも苦手だが、おとなしく待つ、という時間はもっと苦手だ。ロックのコンサートでさえ、なんだか立たされているのが耐えられなくて、よく途中で抜け出す。ジャズのライブなんかも狭い店が多いので、狭い席に座っているというのが苦手だ。満員電車はいうまでもなく、ありゃ誰だって苦手だろう。

そういう、せっかちな私は、 小説なんかも長いやつは苦手である。おのずから短編ばかりを読んでいる。新書なんかも、一冊読み通せるかどうかの瀬戸際である。とにかく短いに限る。まあ、短ければなんでもいいっていうわけではないけれど。

川端康成の掌編小説を集めた文庫「掌の小説」というのがある。長くても10ページ短いやつは2ページ(原稿用紙5枚ぐらいか)ぐらいの、優れた掌編小説が100編以上収められているのだが、あれなんかも読み通せるやつと、途中で投げ出してしまうやつがあるくらいだ。

3ヶ月ぐらい前にちくま新書だったかの「カント入門」という、一見お手軽にカントの哲学を勉強できそうな本に挑戦したが、敗れた。最後まで一応字は読んだが、全く頭に入らなかった。あれなんかも、落ち着いてじっくりゆっくり読み進めて、わからないところは調べながらやっていけばある程度はカントの哲学に入門できたのかもしれないが、私はそういう忍耐を持ち合わせていないので、全くわからないまま、ただ字を追いかけて、耐えて耐えて最後のページにたどり着いた。

サラーっと三日ぐらいでああいう本を読んだところで、もとよりカントなんかを理解できるはずはないのだけれども、それでも、もっとしっかり読み込めば、わからないなりにも何かを得ることはできよう。私には何もわからなかった。カント以前に、「カント入門」を読めなかったということがわかった。「カント入門」の門の敷居は高いということだけはわかった。それをわかるための本としては良かった。

そういったことは、ジャズやロックのアルバムでも同じことが言えて、長いトラックは苦手である。特にジャズなんかは10分を超す演奏が1トラックに収められているのはざらである。LPレコードなら、片面2曲とか、そういったけしからんことが平気に行われている。10分間の演奏ならば、ソロ回しが8分ぐらいある。ライブでも8分のソロ回しは長く感じるだろう。演奏にもよるけれど。

例えば、マイルス・デイヴィスの「In a silent way」なんかはA面に1トラックだけ、18分16秒である。18分を通して聴くのはなかなかパワーがいる。A面の1曲目くらいは、短くてさらっとしたのを入れて欲しいところだ。まあ、「In a silent way」はとても素晴らしいアルバムだから、このA面も何とか頑張って聴き通すことはできるし、楽しめるのだが。それでも、体力がいることには変わりない。

その点、一曲ごとの演奏時間が短いアルバムは良い。何より手軽に楽しめる。手軽でいて、決して演奏そのものが軽いわけではない。短いトラックの名演奏も当たり前だけれど存在する。

Jimmy Smithの「Crazy! Baby」は各トラックが短くて簡潔でヨロシイ。1曲目の「When Johnny comes marching home」は約9分と長いのでなかなかしんどいのだが、この際聴き飛ばして仕舞えばいい(とても熱い素晴らしい演奏なのですが)。その他は各曲5分前後の演奏なのでスルスルと聴くことができる。

何よりもスタンダード曲を何のてらいもなく、かつジミー・スミスらしく演奏しているのが良い。凝ったアレンジではなく、キメも定番のやつで、ジャムセッションのようにシンプルに仕上げている。

ジミー・スミスのトリオが端整で良い。息が合っているし、Donald Baileyのドラムがきっちりとビートを刻む上で、オルガンのジミー・スミスが結構のびのびと、濃い味付けで、クドイぐらいに演奏していて良い。ギターの Quentin  Warrenもバッキングは控えめながらも、ソロになるとソウルフルで良い。あんまりギターのソロとっていないのだけれど。短いソロの中でやりたいことを存分に表現しているようで良い。

ジミー・スミスがあんまり小難しいことをやっていないのも、ここではよく出ている。ジミースミスって、デビューした頃の演奏聴くとちょっと騒がしくてイマイチ好きになれないのだけれど、このアルバムとかVerveでケニー・バレルとグラディー・テイトとトリオでやっているアルバムは好きだ。特にVerveのやつオルガントリオの一つの完成形だと思う。

ハードバップのアルバムは、ダラダラと長くソロをとるレコードが結構あるんだけれど、このぐらいの演奏時間のトラックでいい演奏もたくさんある。

名盤が多いジミー・スミスのアルバムの中でも「Crazy! Baby」は各トラックが短いジャズの名演奏が詰まっている。

Tom Harrell入門盤  Bill Evans 「We will meet again」

好きなトランペッターはたくさんいるけれど、中でもチェット・ベーカーとトム・ハレルは特別だ。

チェット・ベーカーについては別に機会に書くとして、トム・ハレルについて今日は書きたい。

とは言っても、書くべきことがはっきりと思いつかない。彼について、何を語るべきなのか、自分の言葉で表現できるのかがわからない。トム・ハレルのトランペットは個性はあるけれど、派手ではないので書きづらいのだ。

まず、彼のトレンペットの魅力はその音だ。暗く、さっぱりとしていて、枯れたような音色。けっして煌びやかな音色ではないんだけれど、トランペットという楽器の魅力を十分に伝える音色だ。一言で言うと、いぶし銀のような音色だ(曖昧すぎるか)。

トムハレルのソロはあまり高音は使わないで中低音を中心に展開されるのだが、ハイノートを吹いても、それがキラキラピカピカしない。シブいという表現がぴったりなハイノートである。中低音も、一音一音が、霧の中から紡ぎ出されるような音である。

テクニックは物凄くあるだろうし、音の数自体は少ないわけではないのだけれども、彼のトランペットは寡黙である。時につぶやくように、熱くなっても声高にならない。不要なひけらかしはない。ソロの時も盛り上がりはあるのだけれども、その盛り上がりは派手さやガジェットによるものではない。あくまでも彼の言葉の文脈上の盛り上がりである。

これは、音楽的にはとても高度なことなのだろうけれど、聴いている私にとっては、難解だという印象は受けない。彼の音楽を理解しようというよりも、彼の音楽を感じようという気分にさせられる。難解という印象よりも先に、彼の出す音色、フレーズに聴き入ってしまうのだ。

ビル・エヴァンスか彼のアルバム「We will meet again」でトム・ハレルをトランペッターに起用しているが、このトランペットが、アルバムのムードを作り上げている。もちろん、リーダーのビル・エヴァンスが音楽を構築しているのだけれど、彼を筆頭とした極上のリズムセクションの中でラリー・シュナイダーのサックスと、トム・ハレルのトランペットがほどよく絡みあい語り合う。

このアルバムは4曲目の、スタンダード曲の「For all we know」を除いては、全曲ビル・エバンスのオリジナル曲で構成されている。50年代のビル・エヴァンストリオがよく演奏していた曲と、70年代に入っての曲が混ざっている。

ここでのトムハレルは、比較的饒舌である。饒舌とは言っても、リー・モーガンのような熱く、明るく、パリパリ、シャキシャキした感じではなく、クールに曲を盛り上げる。ラリー・シュナイダーのサックスがしなやかにイキイキとソロをとるのに合わせて、トムハレルも華があるソロをとる。それでいても、彼のトランペットは暗く、枯れたような響きだ。ビル・エヴァンスの曲自体が暗いということもあるけれど。

トム・ハレルのリーダーアルバムを何枚か持っているけれども、彼のアルバムはだいたい全曲彼自身のオリジナル曲で構成されている。とてもコンセプトが決まっていて、よく作り上げられたアルバムが多い。その点、少しこむづかしい音楽になっていて、するっと聞き流せるようなものは少ない。どのアルバムも魅力的なのだが、聴くのにこっちも覚悟がいる。

彼のアルバムの中にもとっつきやすいやつが幾つかあるので、それは後日紹介しよう。トム・ハレルを初めて聴くのには、この「We will meet again」がお勧めだ。

もちろん、リーダーのビル・エヴァンスも素晴らしい。フェンダーローズピアノなんかも顔を出して、ビル・エヴァンスの安定した魅力を発揮してくれる。

エレアコのピックアップのサウンドについて考えてしまった Carole King 「The Living Room Tour」

昨日は Carole Kingの「The Living Room Tour」というライブアルバムを聴いていて、あまりにも圧倒されてしまい、ブログを更新できなかった。全ての曲が心地よく、リラックスしているのに、力強く心に残る。キャロルキングって優れたソングライターであると同時にものすごいシンガーなんだなぁ、とあらためて感心した。

この「The Living Room Tour」は先日ふと読んだブログで紹介されていたのだが、そこでもこのライブアルバムのリラックスしていてアットホームな雰囲気が素晴らしいと書かれていた。その通りだった。シンプルなピアノやギターの伴奏で歌われる曲の数々が、リラックスしているといっても、程よい緊張感を持ちながらイキイキしている。こんなライブができるキャロルキングってすごい。

このアルバムは2005年に録音されているのだが、その時点でキャロルキングは62歳(と彼女は歌の中で言っている)らしい。彼女の長いキャリアの中でたくさんある名曲がこのアルバムではじっくり聴ける。

もちろん、このアルバムに入っていない曲でも、このリラックスした雰囲気で聴きたい曲はたくさんあるけれど、それでも、全部聴いてしまうとお腹いっぱいになるから、このぐらいのボリュームがちょうどいいのかもしれない。2枚組だから、実際のところ結構長いアルバムなのだけれど、するっと聴きとおせた。

 

アルバムの音楽そのものから話は変わるけれど、このCDを聴いていて気づいたことなのだが、ピエゾピックアップのエレアコの音って、2005年からあんまり変わっていないんだな。

特に低音弦の音は10年以上経った今もこの当時と同じくツブツブした音がする。アコースティックギターの生の低音弦の音のような隙間のある太い音ではなくて、なんだか人工的な倍音が強調された音がする。

結局この頃から10年以上が経って今でもこの音でエレアコの音が定着しているっていうことは、こういう音がギター弾きの中でギターの音として浸透したということなんだろうな。こういう「ピエゾの音」っていう音がギターの音色の一つとして確立されたということなんだろうな。

もっとも、今はピエゾ以外のピックアップがエレアコのピックアップの選択肢としてたくさん出ている。マグネティックのピックアップも進化したし、コンデンサーマイクだとかL.R Baggs、FISHMANをはじめとしていろいろ新しいシステムを作っている。

そういうピックアップの選択により、エレキギターに近いサウンドも出せるし、もっと生のアコースティックギターに近い音も出せる。2005年当時よりも今の方がきっとずっとアコースティックギター用のピックアップの音は多様化している。

けれども、このピエゾピックアップのツブツブした音は変わらずに生き続けている。ピエゾピックアップは結構古いから(一般的には70年代から使われている)40年以上の歴史がある。その間にこの音が定着したのだろう。

私もピエゾのギターを持っているけれども、あまり使わないので今は人に借している。けれど、時々ピエゾのギターを弾くとそのコンプレッションのかかった音の気持ち良さもわかる気がする。弾いていてなんだかちょっと気分がいい。きっとピエゾの音は聞き手(リスナー)に浸透する前に弾き手(プレーヤー)にウケけたんだろう。新しいギターの音として。

キャロルキングの凄いアルバムを聴いて、こういうどうでもいいことを考えてしまった。

アルバム自体は、すごくオススメです。

名曲を残すという偉業  Jimmy Webb 「Ten Easy Pieces」

世の中に名曲をかける人というのが確かに存在していて、シューベルト、松任谷由実、バートバカラック、武満徹、コールポーター、山口隆などと枚挙にいとまがない。彼らは一体どういう感覚であんな名曲を作っているのだろう。全くわからない。

名曲を残せる能力というのは、本当に素晴らしいと思う。羨ましい。エジソンみたいに目に見える形で社会に貢献しているわけではないかもしれないけれど、だからこそ羨ましい。

電球なんかを発明されると、こりゃもう万人の認める偉業で、一部の未開の地を除く地球全体の人類がその恩恵にあずかっている(いた)。ベルが発明した電話なんかもみんな恩恵にあずかっている(いた)。その一方で、それらの発明は今の社会では発光ダイオードやら、iPhoneに取って代わられていて今の子供にエジソンの発明したものの凄さを説明してもイマイチピンとこないかもしれない。

目に見える形で社会に貢献すると、時代という波に押し流されるのが早い。貢献自体の息の長さは長くても、消えゆくのも早い。新しい時代がやってくるのだ。

その点、名曲の社会的貢献の息は長い。ユーミンの「 Hello My Friend」はおそらく、4万年後にも歌い継がれているだろう。彼女の曲は4万年は通用する名曲だからだ。何の根拠もないが。

けれども、名曲というのは「新しいものに取って代わられる」ということがあまりない。スカルラッティよりも新しい音楽理論で作曲された名曲は数多あるけれど、それだからって彼の名曲が新しい名曲に「取って代わられる」ことはない。何度も引き合いに出して恐縮だが、ユーミンの曲だって、多少歌詞が時代遅れになった所で、名曲であることに変わりはない。

同じことは文学にも言えるし、美術作品にも、工芸品、一部の工業製品にすら言える。1965年式フォードマスタングの素晴らしさは、4万年後も語り継がれているかもしれない(いや、そんなことはないか)。

Jimmy Webbも名曲をたくさん残している。カントリーのシンガーGlen Campbellが歌った「By the time I get to Phoenix」「Wichita Lineman」などは、過去百年に書かれた名曲5000選の一曲に数えられるだろう。それぐらい、彼の書いた曲は素晴らしい。

「Ten Easy Pieces」はそんな彼のヒット曲(10曲)を彼自身がピアノ弾き語りで歌ったセルフカバー集である。

自身も何枚かアルバムを発表していて、バリトンボイスを聞かせる優れたシンガーでもあるのだが、このアルバムを聴いてみると、改めて彼の歌の良さが伝わってくる。

JD Southerのセルフカバー集「Natural History」を聴いた時も感じたが、人に曲を提供しているソングライターのセルフカバーを聴くと、曲の原型を見たような気分になる。「Ten Easy Pieces」も「Natural History」もアレンジがシンプルなので、そういう面が際立つ。

彼の代表曲の多くが1960年代から70年代に書かれたものであるけれど、今このアルバムを聴いていても、その曲の素晴らしさは少しも損なわれてはいない。むしろ、時を経て曲の良さが際立ってくるかのような勢いすらある。彼のような、澄んだ楽曲をかける人はどの時代にも多くはない。

100年後に、エジソンとジミー・ウェッブの偉業のどちらがこの世界に残っているか、負けを覚悟でかけてもいい。ジミー・ウェッブだろう。

語彙の豊かさの正しい表し方 Al Kooperの「Naked Songs(赤心の歌)」

語彙の豊富さというのはとても重要なもんだとつくづく思う。

私は、はっきり言って語彙が貧しい。貧しい言葉の中から何かを書くというのはとても苦しい。

そういったことを夏目漱石の「草枕」を読みながら思った。夏目漱石は色々な言葉を自由自在に使いこの小説を書いている。ちょっと嫌味なぐらい豊かな言葉が溢れている。この本を読んでいると、言葉は知識であり思考そのものをつかさどっているんだと思わせられる。

夏目漱石の言葉の背後には膨大な知識があり、それぞれの言葉がそれぞれの世界観を持っている。

例えば、「軽侮」なんて、一見、結構使われてそうな言葉も、私は使わない。そういった言葉で表現するものがないからだ。けれども、そういうありふれていそうであまり使わない言葉が、この本の中ではその言葉があるべきところに収まっている。

そういうものに接すると、改めて自分の語彙の貧しさに直面する。

これは、音楽にも同じことが言えて、ボキャブラリーは重要である。

例えば、ジャズなんかを聴くと、ロックではあまり使われない音使いがたくさん出てくる。音楽理論で言うと、オルタードスケールだったり、ディミニッシュだとか、いろいろあるらしいけれど、詳しいことはわからない。ただ言えることは、ロックではあまり使われないボキャブラリーがジャズの世界で使われていることだ。逆に、ロックの世界ではまかり通っている言葉(フレーズやビート)がジャズではあまり用いられていなかったりする。

フォークやブルースなんて一見シンプルで、ボキャブラリーが貧困そうに思われるが、そんなことはない。フレーズや音楽理論ではシンプルな言葉たちも、それぞれが複雑に絡まり、様々なバリエーションを持ち存在する。ブルースで使われるスケールは少ないかもしれないけれど、そのスケールの中で様々なフレーズが交差する。そして、それぞれの言葉が、適切な場所に収まって音楽が成立している。音楽の世界でも、古くから残っているものは語彙が豊かである。

文学にも、音楽にも引き出しの広さが求められる。

引き出しが広いっていうのは、音楽をやるにあたってとっても大切なことの一つなんだなと、Al Kooperの「Naked Songs(赤心の歌)」を聴いていて思った。

このアルバムで、アル・クーパーは自身の音楽の引き出しをいっぱいに広げ、色彩豊かに仕上げている。ロックあり、ブルースあり、ソウルあり、ゴスペルありのアルバムである。

そして、その豊かな言葉たちがアルバムの中で適切なところで顔を出し、そこにぴったりと収まるとともに、全体の大きな世界観を作り上げている。それぞれの言葉は聴いていて難解な印象は受けないし、むしろわかりやすい。この辺が夏目漱石の「草枕」よりも胃に優しい。飲み込み、消化しやすいのだ。

いろいろな知識、世界観が無理なく一つのアルバムに収まり、それを過剰にひけらかすことなく、嫌味でなく、それでいて刺激的で、バラエティーに富んでいて、楽しませてくれる。語彙の用い方の一つの理想型である。

「赤心の歌」という邦題をつけた人もすごいと思う。「赤心」なんて言葉、普段はあまり使わない。というより、このアルバムのタイトルでしか使っているところを見たことがない。見たことがないけれど、「Naked Songs」の邦訳として、とてもぴったりだ。こういうところで語彙が試される。

夏目漱石がアル・クーパーを聴いたらどう思うだろう。「草枕」を書き直すとかもしれない。いや、そんなことはないか。語彙の豊富さでは夏目漱石に軍杯が上がるからな。

Jim Campilongoとテレキャスターのギラギラ、ビリビリした関係

私の好きなギタリストにはテレキャスターというギターを愛用している人が多い。

ジェームスバートンやジェリードナヒュー、ヴィンスギル、ブラッドペイズリー、ジムメッシーナなんかのカントリー系の音楽をやる人たちの多くはテレキャスターをメインに使っているし、ロック寄りのギタリストでロイブキャナン、ダニーガットン、エイモスギャレットもメインで使っている。ブルースではアルバートコリンズ有名だ。今はアコースティックギター一辺倒になったトミーエマニュエルもかつてはテレキャスターをメインで愛用していた。

上記に挙げたギタリストのアルバムをよく聴く。きっとテレキャスターのサウンドが好きなんだろう。

私は特に、カントリー系の音楽が好きなので、そういうサウンドに偏る傾向にあるのだと思う。今のカントリーのギタリストの間ではテレキャスターをメインに使うことがかなりの割合で定着しているのだろう。

1950年代の初頭にテレキャスターが出てきた頃はまだ、 GibsonのフルアコやGuildのフルアコを始めとするギターをメインとしていたギタリストも多かった。マールトラヴィスなんかはGibson Super 400やGuildの特別オーダーのフルアコを使っていた。ドンギブソンもGibsonのSuper 400を使っていた。チェットアトキンスはずっと Gretschとエンドース契約をしていたのでGretschを使っていた。他にも、ジョーメイフィスなんかはMosriteのダブルネックを使っていた。Mosriteのヴェンチャーズモデルの元となったギターはジョーメイフィスのために作られたモデルだったと言っていいだろう。

マールトラヴィスの粒が揃った暖かくて甘いGibsonのサウンドも、チェットアトキンスの使う芯がくっきりしていながら太いGretschのサウンドも好きだ。テレキャスターではなかなかああいうサウンドは作れないだろう。

けれど、トレブリーで、サスティンが短くて、ジャキジャキしたテレキャスターの音はなかなか他のギターでは再現できないのも確かだ。

ジムカンピロンゴというギタリストは、ノラジョーンズがボーカルをやっていたバンドのThe Little Williesのメンバーとしてその名を知られている。彼はテレキャスターのそういうジャキジャキ、ギラギラ、ビリビリしたサウンドを前面に押し出している人なのだ。

The Little Williesではベンドやスイープピッキングなんかを駆使して、軽快なカントリーのギターを聴かせてくれるのだが、彼のトリオのアルバム「heaven is creepy」では、もっと泥臭く、生々しいギターサウンドを聴かせてくれる。The Little Williesの曲を聴いて、ギターの音が気に入った方には、是非聴いてほしいアルバムだ。

2012年12月号のギターマガジンの特集でジムカンピロンゴ直伝のカントリーギターフレーズのレクチャーが掲載されていたので、ギターを演奏される方は見てみると面白いと思う。

かなり目立つギターのサウンドでありながら、バンドの中にうまくとけ込む不思議なところがある。The Little Williesの曲を聴いていても、ギターがうるさいという印象はないのだが、確かに存在感のあるリードギターである。

今、一番ギラギラ、ビリビリしたカントリーリックを弾けるギタリストの一人である。一度、生で聴いてみたいが、まだ聴いていない。

安定してまとまっているGibson L-50 と 暴れん坊な Chaki P-1

ピックアップの付いていないアーチトップギターが好きで、今までに何台か所有してきた。いわゆるピックギターと呼ばれるギターだ。

ピックギターは、フラットトップのアコースティックギターと違って、ちょっと詰まったような鳴りがする。詰まったところからパーンと音が弾け出るような感覚だ。

この弾け出る感覚が気持ちよくて、GibsonのL−50という、1950年代に作られた廉価版のギターをいつも手元に置いてある。これを爪弾くと、ピッキングの強さによって丸い音になったり、ジャキジャキした音になったりするので、その感触に魅せられる。ネックグリップが程よく太くて弾きやすいのも良い。

L−50は年代によって色々と仕様が違って、一度30年代製のものを触ったことがあるけれど、バックがフラットなせいもあってか、まっすぐ前に出てくるような音がしてとても良かった。値段も20万円しないくらいだったので、もしもお金があったらきっと買っていた。ネックグリップも、もっと太いかと思っていたのだが、50年代のものとさほど変わらず、ネックヒールに近い部分が若干太めかというぐらいだった。本当にいいギターだった。Gibsonは廉価モデルでもあれだけいいギターを作れるんだからすごいと思う。

40年代製のシルクスクリーンのスクリプトロゴのやつを弾かせてもらったこともあるけれど、あれも良かった。値段は30万円近くしたらしいけれど、音に個性があって魅力的な楽器だった。音がジャキジャキしてくるまでのキャパシティーが広い楽器で、単音で普通にピッキングすると丸い音がするのだが、強くストロークするとジャキジャキ鳴った。トラスロッドは入っていたが、ネックは50年代よりもちょっと太めで、握りごたえがあった。

50年代のモデルは、今の所どれもハズレがない個体に当たっている。その中で一番気に入った一台を買った。私が持っているのは確か58年製だったと思うが、シリアルが消えかかっていてよく分からない。トップが単板プレス成形のモデルだ。

もう一台ピックギターでよく使っているのが ChakiのP-1という日本(京都)製のギターだ。ギブソンのコピーのヘッドシェイプなのだが、ボディーサイズは17インチでL−50よりも大きめだ。

私が持っているChakiにはどこにも品番らしいものは記載されておらず、仕様からおそらくP−1だと推定している。

総ラミネイトボディー、つまりベニヤ板で作られているギターだ。ネックはメイプルでエボニー指板。この、P−1というギターは憂歌団の内田勘太郎さんが使っていたから有名になった。決して高級なギターではないし、値段もそんなに高価ではないのだが、少量生産のため、あまり市場に出回らない。

Chakiは人気があるらしくて、ヤフオクなんかでもそこそこいい値段が付いているけれど、当たりハズレが多いのは確かだ。いや、ピックギターそのものがかなり当たりハズレがあっていいのを見つけるのは難しい。実際に買ってしばらく弾いてみないと判らない箇所もあるけれども、実際に一度手にとってみれば良し悪しは大体わかる。

今まで7〜8台のChakiを試奏してきたけれど、どれも全然鳴らなかった。ならないうえに、ジャキジャキだけはしているので、どうも低音が物足りなかった。それか、音がこもりすぎの個体が多かった。

私が持っている個体も、ちょっと個性が強くて、うまく鳴らすにはコツがいる。弱いピッキングで鳴らすのが難しい。強くピッキングするとバーンと鳴るのだが、音がものすごく暴れる。ギブソンのような上品なまとまりはない。

けれども、この暴れる感じと、弱いピッキングでチープになる感じが好きで、手元に置いている。きっと、メイプルネックにエボニー指板という組み合わせと、総ベニヤ板のボディーがこの音の大きなファクターなんだと思う。こう言うギターはテキトーに作ってもなかなか作れない。チャキの老舗ながらのノウハウが詰まっているんだろう。

プロとして現場で使うわけでなく、自宅で爪弾く程度なので、こう言うギターはとても良い。持っていて本当に良かったと感じる。できることならいつまでも手元に置いておきたいギターだ。これだけ、自分の好みにあった暴れ方のするギターは見つからない。

あと、 チャキは製造の年代によって造りやパーツのクオリティーがまちまちで、70年代ぐらいのチープなやつが好きだというファンが多いらしいのだが、私個人としてはもっと新しいグローバーペグが付いて、エボニー指板の仕様のモデルが好きだ。フレットの仕上げが全然違うので、70年代のモデルはリフレットしたほうがいいかもしれない。

Take me out to Bethlehem ハワードマギー 「チェリー味の人生」

ベツレヘムというジャズのレーベルのレコードは20代半ばにあるまであまり聴かないできた。

どちらかといえば、 ジャズといえばPrestigeやBlue Note、 Savoyなんかのアルバムを中心に聴いてきた。いわゆるジャムセッション的な内容のアルバムが好きだったのもあるけれども、CD化されているアルバムの量がPrestige、 Blue Noteは圧倒的に多かったのもその理由だ。  VerveもCD化されているアルバムが多い。

CD化されているアルバムは、いわゆる名盤や定番が多いからあまりハズレがない。だから安心して聴いてきた。

数年前から、ベツレヘムのアルバムの廉価版のCDがたくさん出てきた。それに乗っかって、試しにベツレヘムのアルバムを買って聴いてみた。Howard McGhee、Ruby Braff、Jonah Jones、Charlie Shaversを聴いてみた。トランペットのリーダ作ばかり何枚か買って聴いてみた。ギターものも何枚かは買ってみたけれど、とりあえずトランペットのリーダ作を重点的に聴いてみた。

結論として、ベツレヘムは内容がよくまとまっているアルバムが多い。いわゆるジャムセッションものではなくて、ちゃんとアレンジされているものが多い。編成も比較的大人数なものが多い。ストリングスものも多い。

私が持っているものもがストリングスものに偏っているというせいもあるけれど、どのアルバムも、よくできていて結構聴かせる。アルバムを一枚通してなかなか聴かせる。

特に、Howard McGheeの「Life is just a bowl of cherries(チェリー味の人生)」なんかは、吹きまくるバップトランペッターのイメージがあったハワードマギーがストリングスをバックに静かに聴かせる。決してトンがることなくメロディーを朗々と唄う。

彼の別のアルバムで、Blue Noteの「Nobody knows you when you’re down and out」でも彼の朗々としたトランペットを味わえるけれど、この「Life is just a bowl of cherries」の方がソフトでファットでダークなトランペットをじっくりと聴かせてくれる。大人のアルバムに仕上がっている。ハワードマギーのトランペットのダンディーな一面を十分に味わうことができる。

けれども、一方でちょっとわざとらしさというか、作り物くささがあるアルバムなんだよな。確かに、いいアルバムなんだけれど。ここまでアルバムが良く出来上がっていて、ハワードマギーが危なげなく吹いているのを聴くとちょっと興ざめであることは否めない。ハワードマギーのアルバムには一曲ぐらい攻めの曲が入っていてほしい。テクニック的にどうこう言うような曲というよりは、もっと毒のある曲があっても良い。

今まで買ったベツレヘムのアルバムの中では結構多くに、この作り物くささがある。

けれども、そういうアルバムも持っていて損はないということも、一方では確かで、時々聴きたくなる。こういう危なげないよくできたアルバムを。そして、気がついたら愛聴盤になっていたりするんだよな。

ジェリーリードとランブリンジャック

フィンガースタイルのギタリストが近年、とは言ってももう15年ほど前からだけれど再評価されてきて、トミーエマニュエルやらマーティンテイラーやらをはじめとしてすごい上手い人がたくさんいる。日本にでも打田十紀夫さんとか大御所の名前を頻繁に目にするようになった。

そういう人たちのアルバムも好きで聴くけれど、どちらかというと、もっとフォーク寄り、カントリー寄りのアルバムを好きで聴いている。

カントリーではマールトラヴィスとかチェットアトキンスをはじめとして、いろいろすごい人がいる。やっぱり、この二人のパイオニアがカントリーのフィンガーピッキングではすごいと思うけれども、個人的にはジェリーリードのギターが好きだ。特に、彼が弾き語りで弾く時のちょっと凝った運指のコードやベースラインとかがかっこいいと思う。

ジェリーリードは、曲もたくさん書いていてアルバム曲の大半はオリジナル曲だ。たまにカバーもやるのだが、そのカバーがすごくいい。ジェリーリード節に再調理されているカバー曲なのである。アルバムもたくさん出しているけれど、今すぐにCDで手に入るのはあまり多くない。中でも「Nashville Underground」というアルバムの最後から2曲目に入っている「Hallelujah I love her so」が好きでよく聴いている。

ギターと歌だけでここまで表現豊かに歌えるっていうのがすごい。ジェリーリードの歌声っていうのは、比較的素朴な歌なのだけれど、ギター伴奏と一緒に聴くとジェリーリードの音楽の世界の広さが伝わってくる。

この人、すごいギターソロも弾けちゃう人なんだけれど「Hallelujah I love her so」のソロは、控えめだ、まるで余興で弾いているんじゃないかっていうほどの力が抜けている。

アルバム一枚聴いてしまうと、結構ギターはうるさいアルバムに仕上がっているのが、よく言えばジェリーリードのいろいろな面が詰まっている、チェトアトキンスなんかと共演版を何枚も出しているので、それを聞いてみるのもいいかもしれん。

フォークの世界じゃ、断然ランブリンジャックエリオット。このおじさんがまちがえないギター弾き語りを提供しくれる。ギターの腕は天下一品であるが、アルバムでは、あくまでもシンガーとして「フォースソングを」歌っている、

この人も、ギター一台と歌で、飯を食っているだけあって、安定して聴くことできる。

どうやら、私はこういうフィンガーピッキングの音楽が好きなようだ。

カーターファミリースタイルのピッキングから、ギャロッピングもなんでもこなしながら歌を歌う。実に器用なシンガーなのだが、歌も素朴でいい。

ギターもこのくらい弾けたら、きっと楽しいだろうな。

私の思っている東京の姿ではない 内堀晶夫「街  Tokyo 1976−2001」

東京に住むようになって17年になる。最初の6年間は国立市に住んでいた。23区内ではなかったけれど、私のような田舎者にとっては十分東京である。札幌に住んでいた頃は、茨城、群馬あたりまでは東京という認識だった。その認識は今でもあまり変わらない。

上京してきた頃と、この街の印象はあまり変わらない。新宿、渋谷、池袋、銀座、六本木どこもここ17年間でさほど変わったという印象は受けない。もちろん、東京スカイツリーや、六本木ヒルズを始めとする新しいランドマークは建ったけれども、そんなものは人波、繁華街、住宅街に埋め尽くされた東京という大きなイメージをほとんど変えることはない。

東京は大きな繁華街が数珠つなぎにいくつもあり、その周りにどこまでも果てることのない住宅街が連なっている。駅と駅の間で家並みは途絶えることなく、山手線、中央線、京王線、小田急線その他ほとんどの電車が、家並みの隙間を切り裂くように走っている。これほど電車・地下鉄網が発達した街も珍しいだろう。

そんな東京を写した写真集を紹介したい。

内堀晶夫の「街  Tokyo 1976−2001」という写真集を見た。

20cm角ぐらいの、比較的小ぶりな写真集だ。見開き両ページに1点ずつ掲載されているので、写真の点数は多い(70枚ぐらいか)。小さな写真集のわりに見ごたえのある本である。

東京の街角でのスナップ写真が載っている。街で人物を撮った写真である。一枚一枚の写真の説明はとくについていないので、いつどこで撮られた写真なのかは、写真から推し量るしかない。だいたいどのあたりで撮られたのかがわかる写真もあるのだが、どの写真も私の知っているような東京の姿ではない。

この本の「街  Tokyo 1976−2001」というタイトルから、写真はおそらく1976年から2001年の間に撮られたものだと思う。私が東京に来たのは2000年のことだから、ほとんどの写真は私の知らない時代の東京だ。そういう前提で見ても、ここに写っている街はどれも違和感がある。妙に古い感じがするうえに、どこか異国の街の日常を垣間見ているような気がする。私の住んできた東京はこんな風な違和感のある「生活感」はない。こんなではない、もっとなんでもない日常、一言で言うとつまらない街である。この写真集に登場する街も、あんまり楽しい街ではなさそうだけれど。

巻末に添えられている文章によると、この写真家は東京都国分寺市に住むサラリーマンとのことだ。そう言われると、立川の写真が何点か載っていた。

こういう写真を見ると、東京っていう街は人によってずいぶん見え方が違うんだと思う。ここに住む人にとって、それぞれ街の見え方は大きく変わるんだろう。私の東京の見え方は地方出身者の視点からのものなのかもしれない。泉谷しげるが

ものめずらしい見世物はすぐ飽きて、自分だけが珍しくなってく

と歌っていたけれど、確かに、東京に住むようになって17年目でも、未だに自分はこの街から浮いてしまっているのではないかと恐れることがよくある。自分だけが特別というのとも違う、自分が「遅れている」というような感覚か。

巻末に内堀晶夫さんは長野のご出身だと書かれているけれど、同じく東京の出身ではない自分に、東京はこんな風には見えない。

まあ、この写真集で提示されている東京は、この写真家に東京がどう映っているかではなくて、写真が東京をどう捉えたかであるということは言えるんだけれど。それでも、ここに写っている東京は異国の街のようだ。