60年代のスタイルの写真作品からの橋渡し Mitch Epstein「Recreation」

70年代に入ってから、写真家の多くはカラーの作品を発表するようになった。正確には1969年にWilliam Egglestonがジョン・シャーカフスキーに出会い、1976年にニューヨーク近代美術館で個展を開くまで、美術館でカラー写真をアート作品として取り上げられることはほとんどなかったと言える。

カラーフィルム自体は30年代にはすでに開発されていて、1941年にはコダックがカラーフィルムの現像サービスを開始している。そのあと、60年代に入って世間一般ではカラー写真を撮ることは普及していたのだが、アート作品としてカラー写真が取り扱われることはごく数例を除いてなかった。

1964年にGarry Winograndがグッゲンハイムの援助を受けアメリカ中を旅した際の写真がTrudy Wilner Stackによって「Winogrand 1964」という書籍になって2002年に発行されたのだが、その中にはカラーの写真がたくさん掲載されているから、ウィノグランドは60年代には既にカラー写真で作品を制作していたということだ。その書籍の表紙になっている写真もカラー写真である。それでも、60年代にはアート写真の分野でカラー作品は一般的ではなかった。

70年代のカラー写真作品が纏められて「The New Color Photography」という展示になり紹介されたのが1981年である。この展示によって、1970年代はカラー作品の勃興の時代(いわゆるニューカラーと呼ばれる時代)と定義されたと言えるだろう。「The New Color Photography」ではエグルストンを始めとする70年代を代表する多く(40人ぐらいか)の写真家の作品が紹介された。

カラー写真作品の歴史については、他にもっと詳しいサイトがあるので割愛するが、Mitch Epsteinも1981年の「The New Color Photography」で紹介された写真家の一人で、カラー写真の作品を70年代に制作していた。

Steidlから発行されているミッチ・エプスタインの「Recreation」という写真集には、彼の初期のカラー作品66点が纏められている。

この作品集がちょうど60年代の写真と70年代の写真をつなぐ写真で構成されていて面白いのだ。写真が撮影されているのは1973年から1988年ということだから、70年代と80年代に作成された写真なのだが、それらの写真には60年代の写真の潮流が残っている。そして、同時に確かにそこには70年代のニューカラーの時代性も見えてくるのだ。

彼はウィノグランドに師事したというし、この写真集からはウィノグランドの写真に影響を受けていることは見て取れる。ウィノグランドの60年代の作品のようなスナップショットの手法が用いられ、行楽に興じる人々が撮られているのだが、これらの写真はそれだけの枠に収まってはいない。

同じくニューカラーの時代の写真家Joel Sternfeldの写真のような傍観する視点も飛び出してくるのだ。スタンフェルドは大判カメラを用いて撮影していたので、いわゆるスナップショットではなく、画面の中で写真が構成され、整っている。写真の中で「何かが起きている」のだが、スタンフェルドはそれを淡々とカメラに収める。

エプスタインの写真には、ウィノグランドのスナップショットの要素とスタンフェルドのような淡々とした視線の両方の要素が織り混ざる。そして、そこにエプスタインの写真の持つ精緻さも加わる。

この写真集に掲載されている作品は35ミリカメラで撮影されたものと人から聞いたが、とても35ミリとは思えないぐらい緻密な写真も多い。6×9だという話も聞いたことはあるが、正確にはわからない。

私は、しばらくこれらの写真は5×7インチかそれ以上大きなフィルムで撮られた写真だと思っていた(スナップショットだからそれは無理なんだが)。それほどまでに、整頓されていて、どっしりした写真が多いのだ。もしかしたら、大判カメラで撮られた写真も混ざっているのではないかとも思う。

しかし、ここで重要なのは、使用されたカメラではなく、その作品のあり方だと思う。写真作品のあり方が確かに移り変わっていくその時代が、ここでは示されている。かすめ取られたようなスナップショットから、整頓された画面へと転換されているその間がこの写真集には収められているのだ。

似合わないとわかっているロマンチズムに浸れる曲 Bill Withers「Hello like before」

Bill Withersの名前を初めて私に教えてくれたのは高校の同級生だった。彼は、従兄弟からビル・ウィザースのベスト盤を借りたと言って私に見せてくれた。その数日後、彼はそのCDを私に貸してくれた。

一曲目に「Just the two of us」が入っていて、私はCDプレーヤーをオールリピートにして、繰り返し何度も何度もそのCDを聴いた。その頃は「Just the two of us」、「Lovely day」、「Soul shadows」が好きで、それらの曲を繰り返し聴いたりもした。

大学に入り上京し、友人と二人で明け方にドライブをしていた時に、かけていたFMから「Lovely Day」がかかったことがあった。私は助手席でのんきに座りながら、この歌に耳を傾けた。この曲こそ、まさにこんな朝の幕開けにちょうどいい曲はないな、などと悦に入っていた。東京のFMは洗練されてるなあと感じたものだ。

あの頃はビル・ウィザースの歌に洗練を求めていたんだろうな。ラジオの「Lovely day」はフェイドアウトして道路交通情報が流れた。そんなところまで洒落ていた。男同士の暑苦しい真夏の朝のドライブ、軽自動車の車内に心地よい風が吹き抜けた。

今夜、改めてこのベスト盤を聴いてみると、「Hello like before」が特に心に響いた。おっさんになると、こういう夢想の世界のような曲が心にしみるのだ。

若い頃はお互いに解りあえなかった二人が再会する。二人はおそらくティーンエイジャー(もっと前か?)の頃に恋仲だったこともあるだろう。本当だったら気恥ずかしくて会おうとは思わなかったけれども、ふとしたきっかけで出会う。

きっとどこかで再会すると思っていたんだ。今だったら、お互いのことわかりあえるかもしれないね。

などと、独り心の中でつぶやくおっさんの気持ち。なんだかわかるような気がする。この曲をリリースした時、ビル・ウィザースは30代後半だと思う。そういう年代の人にぜひ聴いてほしい曲だ。

あの頃はお互い子供だったんだ。

気まずいからって、この場をつくろうために「ああ、あなたのこと覚えてるわ」なんて野暮な会話をするのはよそうか。

ちょっとロマンチストすぎる歌詞の内容も脂がのっていていい。人間、40代にさしかかるとあつかましくなって、似合わないとわかっているロマンチックな世界にも酔えるんだ。さだまさしもいいけれど、あれはちょっとリアリティがありすぎる。

この曲で、ビル・ウィザースは含みをもたせながら、全てを語らない。全てを語らないから、こっちは色々想像してしまう。まあ、この後の展開は大体想像つくんだけれども。

その、想像ついちゃうところがまたおっさんになった証拠だな。どんな想像してしまうかは、是非聴いて確かめてみてください。

デートというよりもライブを聴いたような気分になる「A Jazz Date with Chris Connor」

クリス・コナーがジャズデートしようって言うので、これは光栄だと思い楽屋についていったら、楽屋は随分狭くって、そこらじゅうに楽器がゴロゴロ転がっていた。清潔とは懸け離れた世界で、クリス・コナーが置いていったと思われる化粧道具が乱雑に鏡の前に置いてあって、その鏡っていうのも、鏡台なんて立派なものじゃなくって、ただ壁に鏡がかけてあるだけで、その下に化粧道具やひげそりなんかを置けるように小さな盆のようなものが壁から突き出ている。

そんな楽屋の中で、私は、どうしたものかと佇んでいた。どう考えても、これはデートなんていう感じの雰囲気ではない。どちらかというと、彼女に汚い楽屋を掃除するように言われた掃除夫のような立場である。

そうしているうちに、楽屋の入り口の垂れ幕のようなものがゴソゴソ動いて、ジョー・ピューマが入ってきた。なんだか知らないけれども、随分改造された古いギターを持っている。

「お前、部外者だろ。こんなところで何してる!」

とジョー・ピューマが言うので、私は何してるとも言えないで、とりあえず口に出た言葉、すみません、と一言つぶやいた。

素直にすみませんとだけつぶやいたので、こいつは大したやつじゃない、クリス・コナーの取り巻きの一人だろうと思い、ジョー・ピューマはすぐに私に関心がなくなったのか、ギターでアーティ・ショーの古い曲のイントロを弾きだした。

そのポロポロという音色があんまりにも素晴らしかったので、ああ、これはいいレコードになるなと直感した。ツヤのある、美しい短いイントロを弾いたら、初めのコードをストロークした。

クリスコナーが歌い出したら、どっからともなくオスカー・ペティフォードがベースで伴奏をつけはじめた。しばらくしたら、ビブラフォンだのフルートだのが入ってきて、静かにオブリガートを入れてきた。おお、これこそ、アルバムの一曲目にぴったりな曲調だ。一曲目から爽やかに騒がしい演奏が多い昨今のレコードの中で、こういうスローテンポの曲から入ったら、素晴らしいではないか。と思っているうちに、曲が終わった。

クリス・コナーは二度ほど咳払いをして、またマイクの前に立って、何もなかったかのように二曲目に入った。その時、すでに私は観客席に座っていた。観客席から彼女を眺める方が気分が高揚した。彼女は天性のエンターテイナーなのだろう。

二曲目はジョー・ワイルダーのトランペットと、アル・コーンのサックスのイントロから始まった。やけにノリのいい曲である。ジョー・ワイルダーが、随分しっかりしたフカフカしたサウンドで吹いていて、アル・コーンのサックスも機嫌がいい。ああ、これがスイングかしら、などと思いながら聴いていたら、アルコーンが短いソロを吹いた。

三曲目、四曲目と進むうちに、ジョー・ワイルダーが引っ込んだりラッキー・トンプソンが出てきたりしたけれど、彼女のバックを支えるバンドは、相変わらず安定している。それほど大人数の編成ではないのに、まるでビッグバンドをバックに歌っているように感じることもある。何より、リズムが締まっていて、小気味良いのだ。

「Fancy Free」というあんまり聞きなれない曲があったけれど、何だか可愛らしいアレンジで、これはそもそもデートだったんじゃなかったか、こんなにお客さんとして楽しんでたらデートじゃないなと思い始めたけれど、まあ、この際いいことにしよう。

6曲目のミドルテンポの曲、これも誰の曲だったか知らない「 All I need is you」をやったところで休憩。短いながらもソロ回しも良かった。ジャズを聴きに来たっていう気分がした。

ああ、続きを続きを聴きたいけれど、今夜は母ちゃんが肉じゃが作ってくれてるってさっきメール来てたから、私は、帰ろうということにした。本当はジョー・ワイルダーのトランペットもっと聴きたかったし、B面になったらまたジョーワイルダーが出てきて、安定したソロを聴かせてくれるんだろうけれど、また、今度聴けばいいか、とA面だけ聞いてターンテーブルからレコードを取り上げた。

裏ジャケを見ると、どうもB面には「Lonely Town」なんかが入っているみたいだ。

そうだ、思い出した、このアルバム前も聴いたことあったぞ。前回も、クリス・コナーにジャズデートしましょうって言われて、ヒョコヒョコついていった。その時は、母ちゃん、あんた外でご飯食べてきなさいって言ってたから、そのまま最後まで聴いたんだった。その時はCDで聴いたから、ボーナストラックなんて入っていて、エロル・ガーナーの「Misty」なんかも聴いたっけ。このアルバムはライブ盤じゃないのに、ライブを2セットとアンコールを聞いたような気分になったんだった。

「Misty」はちょっとムード音楽みたいなサウンドで、ジャズデートっていうのとは趣が違ったからレコードでは外されていたんだろうな。

クリス・コナーの「A Jazz Date with Chris Connor」、ボーナストラックはなくてもいいかもな。

CTIレーベルからこういうアルバムが出てきて本当に良かった Gerry Mulligan Chet baker 「Carnegie Hall Concert」

私は今まで勢いだけで生きてきたようなところがあるから、勢いを失うと何にも残らなくなってしまう。

半年ほど前からパワーが減退し、何もする気が起きなくなってしまった。正確には、何もする気が起きないというのではなく、する気が起きても、できない日々が続いている。

世の中の大勢の人たちも、する気が起きてもできない中で何とか頑張っているんだから、私も何とか頑張るべきなのだろうけれども、ついつい自分に甘えてしまい、何もやっていない。そのこと自体が、自分をさらにダメにしてしまっている。外にも出ない仕事もしないで毎日を過ごしている。

5年ぐらい前から、こんなダメ人間はまずいだろうと思っていたのだけれども、ついに、そのダメ人間にも決定打が打ち放たれ、本当のダメな毎日を送っている。

こんな時だから、本を読んだり音楽を聴いたりするべきなのだけれど、それもできていない。無気力である。

それで、一日中過ごしていると、やはりどこか体の中でストレスを感じてしまい、夜な夜なブログを書いたりしている。ストレスというのは本来なら、外からの刺激があってそれに対する反応として発現するものなのだろうけれど、私の場合、自分の何もやっていなさが、過去や未来の自分像に跳ね返り、自分を責めることによってストレスとなる。

そんな状態でも、今夜はGerry MulliganとChet Balerが1974年にCarnegie Hallで行ったコンサートのライブ盤(CTIレーベルから出ている)Gerry Mulligan Chet baker 「Carnegie Hall Concert」を聴いている。こんな状態でも聴ける音楽があるというのは素晴らしいことだと思う。ジェリー・マリガンとチェット・ベイカーには感謝せにゃいかん。

このアルバムのいいところは、50年代に人気ユニットを組んでいた二人の再会コンサートであることもそうだが、バックのメンバーが当時の CTIの誇る凄腕ミュージシャン勢ぞろいというところだろう。

当時フュージョン界をリードしていた凄腕ミュージシャン、ピアノ Bob James、ギター John Scofield、ベース Ron Carter、ドラム Harvey Mason、という豪華なリズム陣がバックを固めている。

そのせいもあり、アレンジがモダンで、サウンドもいわゆる50年代のジェリー・マリガンとチェット・ベイカーのユニットとは異なっている。Dave Samuelsのヴィブラフォンもいい味を出していて、思いっきり70年代の  CTIのサウンドになっている。

そのことには、賛否両論があると思うけれども、ジェリー・マリガンも、チェット・ベイカーも70年代以降に素晴らしい音楽キャリアを残しているし、もともと、どんなフォーマットでやっても素晴らしいサウンドを作れる二人なので、私はこういうレコードができたことを感謝している。ぜひ、この二人を、こういうバンドの中で聴いてみたかった。

CTIのスタジオアルバムはやけにストリングスが入ったアレンジが目立つので、そっちの方に耳が行ってしまうのだが、Jazzとして完成度の高いアルバムも多い。それらについては、後日紹介するとして、このアルバムを聴いていただければ、CTIのジャズの美味しいところを楽しんでいただけると思う。

何よりもボブ・ジェームスのピアノ(エレクトリックピアノ)のサウンドが印象的なのだが、ここにジェリー・マリガンのバリトンサックス、チェット・ベイカーのトランペットが絶妙に絡んでくるところは筆舌に尽くしがたい。

50年代のズンズン前に進み続けていたジャズもいいけれども、こうして、一旦ジャズシーンが落ち着いて、もっぱらフュージョンサウンドが流行るようになってきた頃に、50年代スタイルのジャズを再演したら50年代のアルバムでは出し切れていなかったモダンジャズの魅力が見えてくる。

このアルバムが、フュージョンアルバムになっていないこと、 CTIの名盤の多くもどちらかというとフュージョンサウンドよりももっと古いスタイルのジャズの良さが聴こえてくるものが多い。その辺がプロデューサーのクリード・テイラーのセンスなんだろう。

クリード・テイラーこそ、70年代になって50年代のジャズの魅力を再発見したプロデューサーなんだと思う。そして、その50年代のジャズを50年代のメンバーと演奏させるのではなくて、バックは腕利きのフュージョンシーンで活躍しているミユージシャンで固めるというのも、成功しているアルバムが多い。

50年代のバリバリのハードバップサウンドではない、70年代の元気だったフュージョンの音でもない。それらをミックスして出来上がったちょっと中途半端な音楽だ。だからこそ、肩肘張らずにゆっくり音楽を楽しめる音楽に仕上がっているんだろう。

本当の凄腕は、その腕の活かしどころを知っていて、ジェリー・マリガンとチェット・ベーカーはそういう時代の波を超越しているところで音楽を奏でることができるミュージシャンなんだろう。

とにかく、意気消沈している時に、オススメのアルバムです。

ジャズに新しい古いを求めなくなったからこそ楽しめるアルバム「Ruby Braff Goes “Girl Crazy!”」

ジャズにスリリングなものを求める方にはあまりウケが良くないかもしれないけれど、私はRuby Braffというトランペッター(コルネット)が好きだ。何ら新しいことをやっていたわけでもないので、ジャズの歴史を書いた文献の中ではなかなか登場しないけれど、ディキシーランドやスイングジャズがお好きな方ならよくご存知かもしれない。

代表作の多くが50年代中盤以降にリリースされているので、時代としてはハードバップなんかが盛んに演奏されていた頃なのだが、ルビー・ブラフは古いスタイルを継承しジャズを奏で続けた。

70年代に入ってリードギターのGeorge Barnesと双頭カルテット(コルネット、リードギター、リズムギター、ベースという編成)で人気を博した。このカルテットでの演奏もなかなかいいのだけれど、一番脂がのっていたのは50年代だったと思う。

脂がのっていたとは言っても、熱いソロをバリバリ吹くイメージではなく、古き良きディキシーランドからスイングスタイルのジャズに少し新しい要素を加え、肩肘張らないアルバムを残していた。当時のことをリアルタイムで知らないから、実際どういう風に受け止められていたかはわからないけれども、1955年のダウンビート誌の賞をもらっているくらいだから、結構人気はあったのだろう。

1959年の彼のリーダー作で「Ruby Braff Goes “Girl Crazy!”」というアルバムがある。このアルバムなんかは彼の真骨頂で、当時バリバリのハードバップをやっていたメンバー( Jim Hall, Hank Jones, Al  Cohn等)と一緒に、ガーシュウィンのミュージカルの曲を演奏し、ルビー・ブラフなりの「新しい」味付けのジャズをやっている。

このアルバムでも、ルビー・ブラフはいつもの調子でのびのびとオールドスクールなトランペットを吹いている。当時としてはかなり古臭いアレンジを施しているせいか、他のメンバーも、それに合わせてかやや控えめなソロを繰り広げている。

まず、ソロよりもアンサンブルに重きを置いたアレンジである。ディキシーランドスタイルのアレンジはアンサンブルもアドリブのようなもんなのだが、各プレーヤーのソロが短めである。その短めのソロの中で、各プレーヤーの魅力があふれている。

特に、ジム・ホールのソロは、短い中にも新しい(当時の)ジャズの香りが漂う演奏になっている。このアルバムで初めてジム・ホールを聴くという人はそんなにいないかもしれないけれど、ジム・ホールって小洒落たギタリストなんだな、もうちょっと聴いてみたいな、という気分にさせられるソロである。

ハンク・ジョーンズはスタイルに縛られない、いつもながらの安定したピアノを聞かせる。このアルバムの完成度の高さは、この人のピアノによるところが大きいだろう。所々で、ハンク・ジョーンズのピアノがいいアクセントになっている。ハンク・ジョーンズのおかげで、このアルバムはモダンなサウンドに仕上がっているとも言えるだろう。

そして、何より、このアルバムのいいところは、音楽そのもののリラックスしたムードだ。ルビー・ブラフはハイノートもヒットするし、結構自由自在に彼のスタイルでソロをとる。他のメンバーは、やや控えめだけれど、各々のスタイルでアドリブを繰り広げるのだけれど、そういうところも含めても音楽のバランスが絶妙にとれていて、聴いていて楽しいアルバムである。

ルビー・ブラフだって時代の波に逆らうことはなかなか大変だったと思うけれど、このアルバムではそういう時代の波の中でのルビー・ブラフなりの漂い方を出せていると思う。ジャズは、新しい古いで良し悪しを決められるもんじゃないということを改めて考えさせられる。

70年代に入って、50年代のジャズのスタイルが時代遅れになった時に、ルビー・ブラフの人気が再燃したのもわかる気がする。こういうもともと時代遅れと思われるような音楽の本当の良さは、時代に縛られることがないくらい時間が経たないとなかなか見えてこないのかもしれない。

ジャズに新しさを求めなくなった今だからこそより一層魅力が伝わってくるアルバムであり、良いものはいつの時代も良いということの一つの証だと思う。

 

煌びやかでいて耳に心地良いギターのサウンド Les Paul and Mary Ford 「Fabulous Les Paul and Mary Ford」

楽器というのは不思議なもので、同じ機材を使っても同じ音が出せるというわけではない。そもそも、同じ楽器を使っても奏者によってセッティングや調律が違ったりもする。たとえ、同じセッティングにしても、二人の違う奏者に弾いてもらったら違う音がなるということはよくある。

電子ピアノとかの場合は同じ音がなるのかもしれないけれども、アコースティックな楽器だとこういうことが起こる。アコースティックな楽器に限らずともエレキギターなんかもそうである。

何が違うのかは専門家に聞かないと詳しいことはわからないけれども、奏者によって鍵盤の叩き方(押し方という方が正確か)、弦の弾き方、息の吹き込み方が違うからそうなる。逆に言うと、そういう弾き方を近づけることによって、憧れの音に限りなく近づけることはできるとも言えるだろう。

ギターの場合、ミュージシャンの使用している楽器やセッティングについて、雑誌や書籍でWebサイトなんかでかなり詳しく紹介されていることがあるので、憧れのギタリストの使用機材とほとんど同じものを手にすることも可能だ。厳密には個体差もあるだろうけれども、そういう努力で、憧れのギタリストの音にかなり近づけることはできる。

一方で、ギタリストのタッチを真似するというのはすごくむづかしい。今はYouTubeなんかがあるから、憧れのギタリスト本人が奏法について懇切丁寧に解説してくれたりするチャンスもあるけれども、そんな映像を見ても、実際のところどんな強さで弦を押さえているのか、弾いているのかはなかなかわからない。そういうことは、本人じゃない以上、いくら真似しようと思っても結局習得できないことなのと同時にミュージシャンの企業秘密でもあるのだろう。

Gibson Les Paulというおそらく世界一売れているアーティストのシグネチャーモデルのエレキギターがある。エレキギターにあまり興味がない人もご存知のギターだ。平たく言うとLes Paul氏の使用していたギターのレプリカモデルとその派生モデルだ。レス・ポールさんは相当このギターが気に入っていたか、義理堅い人だったのか、生涯ずっとこのシグネチャーモデルを使っていた。

Gibson Les Paulといえば今や色々なジャンルの音楽奏者に愛用されている。ジャズではかつてジム・ホールがレスポールカスタムを愛用していたし、アル・ディメオラが自身のリーダーアルバムのジャケット写真で持っていたりもしていた。ロックではランディー・ローズをはじめとするヘビーメタルギタリストの多くが愛用しているし、ジミー・ペイジ、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックのいわゆる「3大ギタリスト」全員が愛用していた。クラプトンなんかは今でこそストラトをメインで使っているけれど、かつてレスポールをマーシャルのコンボアンプに繋いで程よく歪んだサウンドでブルースギターの新しいスタイルを確立した。

そういう色々な音楽で使われて、いろいろなサウンドを生み出している楽器だけれど「レスポールらしい音」のイメージというのがある。太くて、どっしりしていて、力強い音だ。そういう音だから、歪ませた時にも芯がくっきり出るという利点もあり、特にロックギタリストに愛用者が多いのだろう。

それでは、レス・ポール氏ご本人のギターの音はどんなんだったかというのが気になるところだ。

何枚かのレス・ポール氏のアルバムを持っているのでCDやレコードで聴いたことはあるのだが、これが意外に「レスポールらしい音」というイメージとはちょっと違う。艶やかで、キラキラしていて、はじけるような音がする。高音も耳にうるさくなく、粒が揃った煌びやかな音色だ。低音は太めながら、アタックがしっかりした音がする。

ご本人が使っていたレスポールモデルも時代により変遷があるので、どのアルバムでどれを使っていたかはわからないけれど、50年代から晩年までレス・ポール氏のギターサウンドはそういう音である。

「Fabulous Les Paul and Mary Ford」という1965年発表のアルバムがある。ジャズのスタンダードや、カントリーのスタンダード曲を演奏し、レス・ポールがギターソロを存分に披露し、何曲かでは奥さんだったMary Fordが歌も歌っている。あまり有名なアルバムではないけれど、とても楽しめるアルバムだ。

1965年だからGibsonから出ていたいわゆるレスポールモデルはなかったわけだが(1961年からレスポールのボディーシェイプが変更になったことを受けレス・ポールのシグネチャーモデルとしてのギターはこの年代にはGibsonからは出ていない)、おそらく彼はLes Paulモデルを使っている。ジャケットの写真ではうまいことギターのボディーシェイプが見えないようになっているけれど、Les Paul Customと思われるギターを持っている。

そして、このアルバムの彼のギターの音もやはり、艶やかで、キラキラしていて、はじけるようで、耳に心地良いサウンドなのだ。このレスポールのサウンドを出しているギタリストを他に聴いたことがない。唯一無二のサウンドなのだ。

同じ、レスポールというエレキギターを使ってもこうも違うサウンドが出せるのかと驚いてしまう。エレキギターがお好きな方には是非レス・ポールのギターサウンドを聴いてほしい。初めて聴いたら、おそらくその意外なレスポールサウンドに驚くだろうから。

とっつきやすいジャズ・ソロギターのアルバム Martin Taylor 「Solo」

テクニックがあるミュージシャンはあれはあれで大変なんだと思う。ついテクニックひけらかし系の音楽を期待される。せっかく素晴らしい音楽をやっていても、そっちまで注目されていないミュージシャンも多いんじゃないか。

例えば、早弾きの凄いギタリストなんかは、つい早弾きの方に耳が行ってしまって、肝心の音楽そのものがどうかまでよく聴き込むことができなくなることがある。素晴らしい音楽なんだけれど、ついその技術に注目しがちになってしまい、その凄さがわかっただけでお腹いっぱいになる。

私のレコード( CDも含めて)ラックには、そういう凄いテクニックを誇るミュージシャンのアルバムがたくさんあるけれど、その中で聴きこんでいるものは比較的少ない。大抵はすぐに飽きてしまって、あまり聴いていないものばかりだ。テクニックがすごくて、かつ素晴らしい音楽を作り出しているミュージシャンはたくさんいるし、そういうアルバムも多いのだが。

Martin Taylorは一台のギターでまるでトリオのような演奏の出来る凄腕ミュージシャンだ。リードメロディーを弾きながら、ベース、コード伴奏を同時にやってのける。一人でバンドのようなサウンドを出せる。すごく速いテンポでも、そういう演奏ができる。

チェット・アトキンスもそういうことができるギタリストだったけれど、マーティン・テイラーはそういうことをジャズの文法の中でやってのける。ジャズのソロギターはジョー・パスの「Virtuoso」が有名だけれど、あれをもっと進化させたかのようなテクニックだ。

初めてジョー・パスのソロギターを聴いた時もびっくりしたが、マーティン・テイラーのソロギターを聴いた時も驚いた。ジョー・パスで少々ソロギターのテクニックについては聴き手として免疫がついていたのだけれども、その免疫も吹っ飛ぶくらい驚いた。

何が驚いたって、マーティン・テイラーのソロギターはすごく聴きやすいことだ。ジョー・パスよりもリスナーを選ばない「ポップな」音楽に仕上がっている。ポップという言葉が適当かどうかはわからないけれど、ジャズに明るくない人が聴いたって、なんだかウキウキするような音楽に仕上がっている。

ジャズのフォーマットの中で、ポピュラー音楽やカントリーの曲をカバーしたりもしているのだが、それもすごく聴きやすい。原曲を知っている人にはおなじみのメロディーがマーティン・テイラーなりにアレンジされて演奏される。

彼ほどの天才的なテクニックがあったら、その技術の方ばかり注目されてしまいそうだけれども、実際に彼の音楽を聴いていると、なんだかそっち方面のことを忘れてしまうくらい音楽が完成されている。ジョー・パスのソロギターもそうだけれど、素敵な音楽に仕上がっているので、素直に音楽を楽しめるのだ。

100ぺん生まれ変われるとしても、彼の10分の1もギターテクニックを身につけることはできないだろうけれども、同じくらいの割合で彼のような豊かな音楽を奏でることもできないだろう。ベースラインがグイグイ曲をおして行って、コードバッキングがその間に複雑かつ的確に入ってくる。その上をメロディーラインが自由自在に動く。

マーティン・テイラーはジャケ写もいい。渋いオヤジ感が出ていて、ああ、やっぱりこういう信頼できそうな人がこれ弾いているんだなあと、勝手な感想を抱いている。その、信頼できそうなジャケ写にも、程よい胡散臭さすらあって好感が持てる。

のどかで豊かなジャズのライブ Bobby Hackett 「Live at Roosevelt Grill Vol.2」

私はどうもBobby Hackettというコルネット奏者が好きである。昔(1940年代)グレンミラーのバンドでギターを弾いたりコルネットを吹いていた人だ。弾いていたらしいのだが、その頃の演奏はあんまり聴いたことがない。エディー・コンドンの名盤「Bixieland」でコルネットを吹いている。

ボビー・ハケットのキャリアについて、詳しいことはわからないので、詳しくは Wikipediaを見ていただければわかりやすいかと思う。実にシンプルにまとめられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ボビー・ハケット

この人のコルネットの音は絶品である。どちらかというとソフトな音色でまさに私の好みである。Columbiaからリリースされていた、「The Most Beautiful Horn In The World」なんかは、ストリングスもので、ムード音楽に分類されかねないサウンドであるけれど、そういうジャンルにとどまらず、ジャズのアルバムとして楽しめる。彼のコルネットの音色がとても「ジャズ」だからである。まあ、なんとも雄弁なラッパである。

ボビー・ハケットといえば「Coast Concert」が名盤として名高いけれど、あのレコードだけでなく素晴らしい演奏を聴かせているアルバムは多い。

「Live at the Roosevelt Grill」もそんなアルバムの一枚である。手元に「Live at the Roosevelt Grill Vol.2」しか見当たらなかったので、「 Vol.2」を聴いてみた。

なんともリラックスした、アットホームな雰囲気のライブである。Live盤としては音質もまずまずだ。CDだとボーナストラックで5曲追加されているのだが、それらのトラックも追加されてよかったと思える内容だ。

選曲もいい。ジャズの古いスタンダード中心の選曲の中にボビー・ハケットの名を一躍有名にした「A string of peals」なんかも入っている。ファンとしては嬉しい。

メンバーも豪華である。スイング時代の有名どころが一緒に演奏している。こんな豪華なメンバーのライブを生で聴けた方々がとても羨ましい。これはおそらく、ライブ録音をするから特別に揃えたのだろう。トロンボーンのヴィック・ディッケンソンもピアノのデイブ・マッケンナも堂々と安定したソロをとっている。アンサンブルも息が合っていて、付け焼き刃でやったジャムセッションという感じではない。

こういう、アルバムは聴いていて安心できる。騒がしすぎず、退屈でもない。まあ、こんなアルバムばっかりでもジャズはつまらないのだろうけれど、夜に独りゆっくり聴くにはちょうどいい。まあ、騙されたと思って聴いてみることをお勧めする。ジャズって、せせこましくなく、こんなに豊かだったんだなあと思わせられるアルバムだ。

1970年の録音なのだが、70年代といえば、ジャズもフュージョンの波が押し寄せていたのだから、こんな音楽は時代遅れだったのだろう。それから40年以上経った今聴いてみると、70年代のフュージョンだって時代遅れなわけだから、全然時代遅れな感じはしない。今だからこそ、素直にこのアルバムの音楽に耳を傾けることができるのかもしれない。

一方で、いまの時代にはなかなかこういう、のどかな演奏をしてもいられないんだろうな。いまのジャズミュージシャンもちょっと気の毒だ。

出会いと別れの季節に 「Arrivals & Departures The airport pictures of Garry Winogrand」

もう桜の咲く季節になってしまった。

毎年この時期になるとなんだか知らんがウキウキした気分と同時に憂鬱になる。また、一年が過ぎてしまったのだ。桜が咲いてしまうと、一年が経ったことを確かに感じさせられる。また、春が来たのだ。

春のウキウキ感はなんら根拠のない高揚感である。ただ春だからムズムズ、ウキウキする。もしかしたらこれは季節に対する動物的な反応なのかもしれない。人間も動物だとしたらまあ、長い冬眠から覚めなければならない時期なのかもしれない。もし植物にも共通した感覚なのだとしたら新芽が芽生える時期なのかもしれない。まさか私の心身が植物にまで共通しているところがあるとは考えにくいが。

それに対して、春の憂鬱には根拠がある。

何もできなかった一年間。達成感のない一年間。ムダに歳をとってしまった一年間。そういったものを一気に思い起こさせられる。そういう、敗北に対する憂鬱なのだ。春は憂鬱で然るべきものなのだ。

これはどんなに充実した一年を過ごしたとしても感じてしまう敗北感なのかもしれない。私が社会人の1年目を終えた歳の春も、同じように憂鬱だった。花が咲いて、また訳も分からず一年が過ぎてしまったと思った覚えがある。ただガムシャラに過ごした一年を振り返って、サラリーマンという因果な身分になった自分を呪うと共に、自分を支配する仕事というものへの敗北感と、その仕事も満足に身についていない無力感があった。

まあ、あんまりネガティブなことばかり書くのはよそう。暗い気分になってしまう。

そういえば、春は、出会いと別れの季節ということになっている。世間一般では。

確かに、私も、最初に入った会社では4月1日に人事異動とか入社式とかがあって、「出会いと別れ」があった気がする。それより前に遡ると、学校に通っていたわけだが、3月は卒業式、4月になると新学期である。新学期はクラス替えやら、授業の履修登録、入学式なんかもあってまさに出会いと別れがあった。

あれはあれでよかった。なんとなく体系的に一年という期間を心や体が把握できた。

出会いと別れというのは、生きているにおいて必要な要素だと思う。出会いも別れもないような生活を1年ぐらい続けていると心が鈍ってしまう。

Garry Winograndの撮影した空港の写真を集めた「Arrivals & Departures」という写真集がある。この本は編集者のAlex Harrisと写真家のLee Friedlanderがウィノグランドの残した空港で撮影されたスナップ写真(ほとんどが未発表作品)を選び集めて本にしたものである。2004年、ウィノグランドの死後約20年後に出版された。

空港といえば、まさに「出会いと別れ」の場であるので、こういう季節に空港でのスナップ写真を見るのにはちょうどいいかなあなどと思い、本棚から出してきた。タイトルの「Arrivals & Departures」も、まさに「出会いと別れ」という感じがした。

写真集を開いてみて、掲載されている約90点の作品を見た。確かに出会いと別れの舞台は確かにそこでは展開されている。出会いは、多くの場合が笑顔で、別れは多くの場合寂しい顔をしている。

しかし、まあ、この本を見て印象に残ることはそういうものではない。むしろ、空港にいる人々の虚ろな表情、そして、空港という施設そのものの曖昧で雑多な空間の風景が心に残る。

空港っていうのは、出会いや別れだけでなく、待ったり、手続きしたり、移動したり様々なことが同じ空間で行われている。そこに集まる人々は皆大抵は虚ろな表情をしている。出迎える時と、見送りの時にはニコニコ、シクシクしたりするけれども、あとはただ機械的に移動しているか、列に並んだり、椅子に座ったりして待っている。そういういろいろなことが同時進行的に行われているのが空港という場所なのだ。

空港はそういう意味では街中よりも特殊な空間である。街中ではこれほどたくさんの出会いと別れはないし、待つということもこれほど多くはない。そのような特殊な環境での人々の様子が写真にどう写るのかがここでは示されている。

私の印象としては、街中で撮られたウィノグランドのスナップ写真に写る人たちのほうが表情に多様性がある。空港の人たちはみんな似たような顔をしている。ニコニコ、シクシクしている人たち以外は皆同じような虚ろで黄昏たような表情をしている。街中の路上はもっといろんな人が写っている。街頭には、怒りとか、侮蔑とか、苛立ちとかそう言った攻撃的な表情も登場する。この本における空港の写真ではそう言った表情はほとんど見られない。

これは、写真を選んだハリスとフリードランダーが意図したことなのかもしれない。ウィノグランドの写真の中ではかなりドライで、どちらかというと知的な写真群である。乱暴に分類してしまえば、感覚で捉えられるような写真ではなく、見て考える写真である。見てすぐに驚いたり、恐れたりする類の写真ではなく、観察してから感じる写真である。瞬間で感じるのではなく、見る側の心の中でドラマがある写真とも言える。

ウィノグランド自身が同じく100枚弱の空港の写真を選んで本にしていたら、一体どんな写真集になっていただろう。そこに写る人たちはどんな表情をしていて、空港はどんな空間として写っていただろう。もっと感情に訴える写真集になっただろうか。それとももっと冷たい印象の写真集になっただろうか。

おそらく、彼が作ったとしても、こんな空港のシーンが繰り広げられると思う。彼の死後20年が経過してセレクトされた写真であっても、空港というのはもとよりこういう場所だから、これがウィノグランドが見た空港の風景だったのではないだろうか。

ただ、写真集というのは二、三枚でも違う写真が入ってくるだけで印象が変わるものだから、是非ウィノグランド自身のセレクションの空港を見てみたい。

音楽の閻魔様 Tony Rice 「The David Grisman Quintet」

趣味でギターを弾くのだが、20年以上弾いているのにとても腕は拙い。とても人に聴かせられるようなもんじゃない。これは、もとよりあまり熱心に練習していないので仕方がない。練習なんぞしなくても、20年も手元に楽器があれば、ある程度弾けるようになりそうなもんだが、楽器というのはどうもそういうもんではなさそうだ。

練習はしているのだ。「熱心に」練習していないのである。

この「熱心に」というのは説明するのが難しいのだが、例えば、一つのフレーズが弾けるようになりたくて、弾けるまで何度も繰り返し練習する。初めはゆっくりのテンポで弾けるよう、出来るようになったらだんだんテンポを上げて練習する。そういうのが熱心な練習の一例だ。

私は、そういうことができない。せっかちなのである。「だいたい」弾ければそれでいいのである。この「だいたい」とはどれぐらいだいたいかというと、人が聞いてそれと分かるほどしっかりとした程度まで弾けなくても、自分さえ弾けた気分になればそれでいいのである。

そういうことだからいつまでたっても上達しない。

まあ、それでも、程度の差こそあれ、世の中のギターを趣味としている人たちの6割ぐらいが私のように、「だいたい」弾ければ良しとしているのではないだろうか。だいたいでも自分が気分良くなればそれでいいのである。その拙い演奏を聞かされている家族や身の回りの人間には気の毒だが、楽器なんていうものは、もともと出てくる音色の9割9分は拙い演奏なのだ。それからだんだん練習して上達して、一部の上手い演奏が生み出される。それでいいのだ。

その1分の割合の上手い演奏が録音として残っていて、レコードプレーヤーなんかで鑑賞できるというのは、とてもありがたいことなのだと思う。

今日、The Tony Rice Unitの「Devlin」というアルバムを聴いていて、そんなことを思った。

まあ、このThe Tony Rice Unitの演奏はギターのトニー・ライスをはじめとして、名人揃いである。技巧的にも音楽的にも一分の隙間もない演奏である。どうだ、マイッタかこのやろう。というような完璧な音楽である。それを好きかどうかは別として。

この演奏が退屈だと思う人もいるかとは思うけれど、これを聞いて「拙い演奏だなー」と思う人はまずいないだろう。完璧主義ともまた違った、完成形がある。バンドの編成自体が少人数なので、音に隙間ができそうなもんなのに、そういう隙はなく音が詰まっている。それでいて、リラックスしている雰囲気すらある。こういうのが名人芸と呼ばれるもんなんだろう。

トニー・ライスはミュージシャンとしてはもう超一流で、素晴らしい音楽を繰り広げている。ブルーグラスの伝統にとらわれることなく、ブルーグラスの文脈を引き継ぎながらもジャズ・フュージョンの要素その他、色々な音楽の要素を取り入れ新しい音楽を発表し続けている。こう言う土壌からこっち方面のムーブメントが湧いてくるというのはすごいことだと思う。そのムーブメントはThe David Grisman Quintetの同名アルバムに端を発しているのだろうけれど、超一流の楽器プレーヤーが新しい音楽を奏でると、一気に音楽が完成するのだろうか。

The David Grisman Quintetはデビューアルバムから凄い。このアルバムの音楽がなければ今のブルーグラスはもっと狭っ苦しい音楽になっていただろう。ギターはトニー・ライスが弾いている。自信に満ち溢れた、説得力のあるギターである。

どこで、どれだけ練習したらこんな上手いギター弾けるようになるのか全くわからん。きっと日々「熱心に」練習していたのであろうな。これからなんぼ練習してもこういう世界にたどり着くのは絶対に無理だ。感覚自体が違う。ブルーグラスの基礎を押さえた上で、こういう他の音楽に幅を広げなければならないなんて、想像を絶する。

まあ、一方で、こういう素晴らしい音楽をやってくれて、アルバムを残してくれているんだから、リスナーとしては安泰だな。もっと突き進んだ演奏を聴きたければ、トニー・ライスが自身のアルバムでやっているから心配ない。

突き進んだ演奏を聴こうとすると、必ず泥沼にはまる。このThe David Grisman Quintetまさに、泥沼にはまる寸前の音楽だ。泥沼への入りぐちあたりがこの世の最高の音楽を聴けるのかもしれない。泥沼にはまって、どっぷり浸かっちゃったような音楽より、危険なところに足を踏み入れているところの音楽がスリリングで良い。本当の意味で、そのような音楽に出会えることは死ぬまでないかもしれないし、それは死ぬときなのかもしれない。

そして、演奏者としても、そのような泥沼の入り口あたりが、演奏がこの世の最高の音楽を奏でられるところなのかもしれない。トニー・ライスはこのアルバムを前後して新しい音楽の世界に飛び込んでいった。彼の音楽はその後どんどん発展して行ったけれども、この「The David Grisman  Quintet」での演奏が、一つの頂点と言えるかもしれない。

楽器が上手い方々はそれでも、楽器一台席抱えて、その世界に飛び込めるか?

ぜひ、飛び込んで欲しい。後に何も残らなくても別にそれで構わない。