今更私が言うことでもないけれど。

もう収束したのかもしれないけれど、アメリカでは、どうも大変なことになっているらしい。

なんでも、人種差別の問題をまた持ち出してデモをやっているようだ。たしかに、差別される側にとってみれば、一大事なわけだし、長い間差別を受けてきたことに対する怒りがあるだろう。話を聞いている限り、その怒りも真っ当な怒りだ。

私は、ジャズやらブルースやらのいわゆる黒人音楽などと呼ばれる音楽が好きなのだけれど、ふと考えてみると、ジャズやらブルースやらは、今でも黒人は黒人同士、白人は白人同士でグループを組んでいる方が多い。まあ、例外はたくさんあるけれど。

本当に凄いミュージシャンは、どんな人種だろうと凄くて、どんな連中と組んでもすごい音楽ができる。例えば、マイルスデイヴィスのバンドの歴代のピアニストには黒人も、白人も同程度いたし、アジア人(日本人)だっていた。それでも、すごい音楽を作り続けてきたことは間違いない。

今更、黒人だの白人だのまだ言い続けなくてはいけない世の中に住んでいるのはさぞかし住みづらいだろう。本当なら、インド人だって、中国人だって、日本人だって南米系の人だってたくさん住んでいるのだから、白人と黒人の二元論で話ができる世の中でもないのに、いまだに「Black lives matter」とかいうスローガンが出てくるのだから、恐れ入る。本来なら「Lives matter」というのが筋だろう。

それなのに、今更そこに「Black」という単語を入れて話をしなくてはいけない世の中であるというのは、何と嘆かわしいことか。

この議論は、なにもアメリカに限ったことではなく、ここ日本でも似たようなことは規模さえ違えども行われている。被差別者と、差別する人という図式が成り立たない世界は悲しいかな、まだ存在しない。日本人と外人、関東人と関西人なんて、とくにいがみ合っているわけでなくても、お互いに目には見えなくても差別はあるし、差別とまでは言えなくても目に見えない優越感、侮蔑、嫌がらせははびこっている。もっとわかりづらいのは、若者と老人、男性と女性、障害者と健常者、そういう世界の差別もある。

しかし、今になって「Old lives matter」とか「Woman lives matter」とか言ったりしてみると、なんとも浅はかな響きがしてくるではないか。人間生きていれば、若者だって老人だっているわけだし、男だって女だっている。精神障害を持っている人もいれば、そういう障害という名前をつけられることなくのさばっているアホ野郎もたくさんいる。それに、今更ラベルをつけて、「俺は本来は偉いんだ」とか「あのかわいそうな方々にお恵みを」とか言ってみたところで、それは、差別をアプリオリなものとして受け入れているだけに過ぎないのではないだろうか。

私は、黒人だろうと、白人だろうと、日本人であろうと潰されていく人たちは潰されていくし、生き続ける方々は生き続けると思っている。ただ、社会はみんなに平等ではないことはわかっているから、運悪く、生まれつき潰されがちな立場に立っている方々も多いだろうということは推して測れる。そんなことを、いまさらわかりやすくしてやらなくてもいいのに。

わかりづらいので例を挙げると、私なんかは高校の頃、オーストラリアに留学していた。オーストラリアの高校で日本人は人間以下だ。白人、赤毛、アボリジニー、近隣諸国のネイティブの人、そのあとずーっと降って日本人である。一部の先生方からの差別も含め、ほとんど人間扱いされなかった。そして、その代償なのか何なのかわからないけれど、被差別者の我々は、ことあるごとに表彰された。まるで、その表彰が我々被差別者へのラベル貼りの作業のように。

今更、そんなこと言ってみたところで時代遅れなのはわかるけれど、人間はそうやって差別する側か差別される側に回りたがる癖があるらしい。私も、オーストラリアで日本人であるということを捨てて、現地人づらをしていれば、あんな目に合わなかったのかもしれない。現地人のように汚い言葉を使って、現地人並みに学校の成績が悪く、現地人並みに浅はかで、表彰の数々をはねのけていたら、あんなに差別されなくても良かっただろう。

しかし、私は、そんなアホな真似をするぐらいであれば、好んで差別され続ける道を選んだのだとも言える。現地人のように体はでかくなかったし、英語も下手だったが、そんなことよりも、自分が日本人であることにこだわった。自分自身に「私は日本人です」という看板を背負わせて歩いていた。そんなに日本人であることにこだわる必要はなかったし、そんなに嫌ならオーストラリアなんかにいなければ済んだ話だったのに。

アメリカの人種差別の場合は、もっと根が深く、今更アメリカを出て行くわけにもいかず、すでにコミュニティの中で居場所も見つけている方々に対する差別だから、こういう面倒なことになってしまうのだろう。

こういう時だからこそ、もう一度ラベルを貼ろうとしている自分たちに気がついて、ラベルそのものよりもラベルを貼ろうとする浅はかな自分たちのアホらしさと愛おしさに気づき、もう、そんなこと言ってる場合ではないだろう、こんな世の中なんだから、としらばっくれてみてもいいのではないかと思う。差別することの罪よりも、差別しやすくすることの罪をもう一度考えてみてはいかがかと思う今日この頃である。

BACHのトランペットのピストンボタンをターコイズにした

トランペットという楽器は、それだけで目立つ楽器なのだけれど、そのせいか、トランペッターの多くは目立ちたがり屋の人が多い気がする。

例えば、ディジーガレスピー。彼なんかは、アップベルの楽器を吹いている。ベルが上向きに曲がっていても、いなくても出てくる音そのものは変わらないのだろうけれど、目立つという理由だけでああいう楽器を吹いているのだろう。

もちろん、世の中には寡黙なトランペッターという方々も存在するのかもしれない。純粋に、トランペットの音が好きで、目立つ目立たないに関わらず吹いている人たちも、ひょっとしたら世の中に存在するのかもしれない。

しかしながら、私の数少ないサンプルの統計の結果、トランペッターは目立ちたがりと相場は決まっている。

私は、学生時代にモダンジャズ研究会という、サークルに所属していた。「研究会」と名がつくので、もっぱら研究に明け暮れている根暗な方々が多そうな印象を持たれるかもしれないけれど、ジャズ研の方々はそれはそれは個性的な方々が多かった。特に、ジャズ研に入部する管楽器の方々は、高校の吹奏楽上がりの方が多くて、吹奏楽部に入部すれば良いものを、ジャズ研に入部するわけだから、「目立ちたい」という想いを胸に来られた方が多かった。

例えば、吹奏楽部では、トランペットパートは何人かいるトランペットパートの中の一人であるのに対し、ジャズのコンボでは大抵トランペッターは一人いれば十分である。だから、目立つ。目立つのが嫌ならば、コンボで吹こうなどとは思わないだろう。吹奏楽上がりではない管楽器パートの方も多くいた。彼らは、大学に入学してから管楽器を習得しようという腹の方々である。私もそうだった。いわゆる「大学デビュー」組である。

吹奏楽上がりか、大学デビューかは楽器を見れば分かった。吹奏楽を経験してきたトランペッターは、大抵ヤマハのゼノか、バックのストラディバリウスを使っていた。それも必ず、決まって銀メッキの楽器を。ラッカーのバックを吹いている後輩も一人いたけれど、彼以外は皆、銀メッキの楽器だった。

それに対して、大学デビュー組はやけに目立つ楽器を使っていた。キングだの、コーンだの、そういった吹奏楽上がりはまず使わないであろう楽器だった。かくいう私も他聞にもれず、黒ラッカーのマーティンコミッティーを使っていた。その、黒ラッカーの楽器は持っているだけで目立った。持っているだけで上手そうに見えてしまった。

結局、目立ちたい気持ちだけが先走り、練習をちっともせずに学生時代は終わった。私は、下手なのに目立つのが嫌になってしまい、結局大学5年の春にその美しい楽器を手放してしまった。手放して、代わりに銀メッキのベッソンを買った。今でも、その美しい楽器を二束三文で手放してしまったことを後悔している。

大学を5年半かかりなんとか卒業させてもらい、そのあとしばらくトランペットを吹くことはなかった。楽器から離れてしまった。3年に一度ぐらい、思い出したかのように楽器を引っ張り出してきたり、新しい楽器を買ったりして、トランペットを再開しようとするが、挫折する。そんなことを何度か繰り返したりした。そんなのだから、トランペットはちっとも上達しないまま今日に至っている。

このコロナの騒ぎのおかげで、家にいる時間が多くなり、久しぶりにトランペットを手にしてみた。初めは、自宅の押入れにしまっているMartinの Committee Deluxeを吹いていたのだけれど、ちっとも上達しない。

そこで、基本に戻ろうということで、バックのストラディバリウスの中古を買ってきた。それも、シルバーメッキ、のような外見のニッケルメッキの1980年製のものを買ってきた。ニッケル鍍金というのは、一時期流行ったらしく、時々出てくるのだそうだけれど、もちろんバックのオリジナルではなく、後がけのメッキである。赤ベルのニッケル鍍金だから、かなり吹きづらそうに聞こえるけれど、さすがヴィンセント・バックの設計した楽器、吹きやすい。

40にして、初めて「普通の」トランペットを入手した。見た目は銀メッキの楽器と一緒だから、まるで吹奏楽上がりのトランペッターのようである。見た目だけは品行方正になった。

しかしながら、なんともその優等生な見た目は、心がウキウキしない。楽器は良い楽器だから、吹いている分には何の文句もないのだけれど、元々が目立ちたがり屋なのだろう。他の人と同じ楽器は嫌なのだ。

そこで、ピストンボタンをターコイズのものに交換した。

やれやれ、見た目ばっかり目立ちたがるのは、私の悪い癖なのだ。

交換してみたら、案外カッコよく、安心した。音色は全く変わらないのだけれど、ターコイズブルーのフィンガーボタンはなかなか美しく、銀色の楽器に映える。こういう、小さなところから練習のモチベーションを上げていくのだ。

かつて、ヴィンセント・バックのオリジナルパーツでターコイズのボタンというのが存在していたのだけれど、今はもう廃盤になってしまったらしい。どこを探してもなかった。仕方がないので、インターネットを探していたら、自分の好きな石を選んでボタンをつくってくれる店があったので、そこから購入した。バックは、いろいろなカスタムパーツが存在するから、嬉しい。

楽器の見た目はかっこよくなったわけだから、あとは練習をして、自分自身がかっこよくなるだけである。

Ray Charlesのピアノ弾き語りをじっくり聴きたい

レイチャールズが亡くなってしまってから、もう随分経つけれど、本当はもっと沢山録音を残して欲しかった。

レイチャールズの若い頃のアルバムは、どうも元気が良すぎてあんまりじっくり聴いていない。ピアノ一台でのバラードとブルースの弾き語りアルバムでも出してくれたら、一生愛聴盤にするのだろうけれど、それはもう叶わない。

そういうアルバム、探せばあるのかもしれないけれど、まだ聴いたことはない。

レイチャールズは、ピアノの弾き語りの一つのスタイルを作った人だと思う。彼のようにビートを感じられる歌手はなかなかいないし、彼のピアノもああいう風に弾ける人は多くはない。その二つが合わさって、そこにあのアドリブ感覚が加わって、あの音楽はできている。

レイチャールズのまだ聴いたことのない「理想のアルバム」について考えていても、実際にその音楽は聴けないから、今日は彼のデュエット集を聴いている。「Genius loves company」というアルバム。錚々たるメンバーとのデュエットの中でも、特にエルトンジョンとデュエットしている「Sorry seems to be the hardest word」が気に入っていて、時々聴いている。

それ以外の曲も、どれも素晴らしいのだけれど、このElton Johnとのデュエットは、二人のピアノ弾き語りの名人が、それぞれのスタイルをぶつけ合いながらも、一つのバラードを作り上げていて、聴いていてとても心地いい。Sorry seems to be the hardest wordはエルトンジョンの曲だけれど、巨匠レイチャールズは、あたかもこの曲を自分で書いたかのように歌いこなしている。

欲をいえば、これらのデュエットしている曲を、レイチャールズのピアノ一台で聴きたい。

何年も前に、会社の偉い人からチャックベリーのDVDを借りたことがあった。チャックベリーは、言わずと知れたロックンロールとブルースの偉人である。その彼が、DVDの最後で、エレキギター一台の弾き語りで、古いジャズのスタンダードを歌う。曲はなんだったのか覚えていないけれど、I’m through with loveだったような気がする。探せばCDがどこかにあったと思うけれど、もうずっと聴いていない。さすが、チャックベリー、それがすごく上手いのである。

きっと、レイチャールズが独りでピアノ弾き語りをやってもあれぐらい上手いだろう。どうせなら、アコースティックピアノの弾き語りアルバムと、ローズピアノの弾き語りを両方聴きたい。

世の中には、きっと私と同じことを考えている人がいるだろうから、探せばそういうアルバムがあるのだろうけれど、どうなんだろう。

レイチャールズはスーパースターだったから常に、凄いアレンジャーが付いていて、素晴らしいバックバンドが付いている。レイチャールズ本人もきっとそういう大編成が好きだったのだろう。このアルバムのタイトルの通り、Genius loves companyだったのかもしれない。

Ray Charlesが好きな方にもう一人オススメなのは、Charles Brown。R&Bのピアノ弾き語りを得意としている歌手である。名曲Please Come Home for Christmasを是非聴いてみてください。

Art Pepperのように音楽を奏でられる天才は

スタンゲッツ、アートペッパー、チェットベイカー。この3人は間違えなくジャズの世界ではスーパースターだ。それぞれが、独自のサウンドを持っていながらにして、最晩年までメインストリームのジャズを貫いてきた。エレクトリックにもならずに、ジャズファンクもやらずに(3人とも白人だからというのもあるのかもしれないけれど)、チンチキチンチキの4ビートジャズを貫いてきた。

スタンゲッツは、サックスの世界では一番表情豊かな音色の持ち主だと思う。スタンゲッツの音色は、きっと真似しようと思っても真似できなかったのだろう。時に力強く、時に柔らかく、なんでもこなしてしまう。音色も、テクニックも、歌心も完璧なプレーヤーだ。まさにテナーサックスを吹くために生涯をかけたジャズマンだと言えるんではないか。

チェットベーカーは、それとは対照的に、すごく寡黙なトランペッターだ。いつもソフトなサウンドで、熱くなりすぎない。多くを語らない。それでいて、歌心は他のジャズプレーヤーから抜きん出ている。アドリブというものがいとも簡単に湧き出てくるかのようなフレーズの数々。チェットは、何方かと言えば不器用な方だ。

もちろん、若い頃のチェットベーカーはなんでもできたし、速いフレーズもバリバリ吹けた。ハイノートヒッターではないけれど、音域なんて彼の音楽の前ではどうでもいいファクターだったと思う。

それでは、アルトサックスのスーパースター、アートペッパーはどんなプレーヤーと表現すればいいのだろう。彼も、上に挙げた二人と並ぶ天才であることは間違いない。なんといっても、アートペッパーは自由自在に楽器を操ることができるし、チェットベーカーのように、鼻歌を歌うようにソロを吹きまくる。メロディーが溢れ出てくるようなそんなアドリブだ。

3人に共通しているのは、早死にしてしまったこと。スコットラファロやら、クリフォードブラウンのような早死にではないけれど、本来であれば、まだまだ活躍できる50代、60代で亡くなってしまっている。

チェットベーカーのアルバムは若い頃のものから、晩年の作品までかなり持っているけれど、スタンゲッツ、アートペッパーに関して言えば、聴くのは晩年の作品ばかりだ。

スタンゲッツとアートペッパーはどうも、上手すぎて、若い頃の演奏を聴いていると疲れてしまう。二人とも最晩年に録音したアルバムが素晴らしい。音色や、テクニックは若い頃の方がすごかったのだろうけれど、なんでもできてしまう名手だった二人が腕の衰えを少しだけ感じながらも情熱を振り絞って吹いているそれらの作品は素晴らしい。いくら、腕が衰えたと言っても、そこらのスーパープレーヤーの何倍も表現力はある。

今日は、アートペッパーのアルバムを聴いている。1975年の「Living Legend」という作品。晩年の作品ではないけれど、程よく力が抜けていて聴きやすい作品。この人がバラードを吹いたらいかに凄いかがわかる。

個人的には、アートペッパーの最高傑作は、「Roadgame」というアルバムに入っているEverything happens to meだと思っている。私は、そのトラックが好きで、何度も何度も繰り返し聴いた。本当に、感動的なバラード。

晩年のアートペッパーが、じっくりと一音一音を絞り出すかのようにバラードを奏でる。12分のトラックで、10分ぐらいまではクールに、美しく吹くのだけれど、最後で彼は、吹きまくっていた黄金時代を懐かしむかのように熱く、激しくバラードを奏でる。エンディングのテーマの最後の最後ではフラジオを鳴らすのだけれど、その音ががかすれそうで、それがなんともかっこいい。

まるで、「俺は、今でもまだ吹けるんだぞ」と聴衆に語りかけるようなエンディング。そのクライマックスで、彼は少しだけ苦しそうにフラジオを鳴らす。その叫びのような一音だけで、彼の音楽の美しさを証明しているかのようだ。

自由自在にサックスを吹ける奏者は沢山いる。けれども、アートペッパーのようにドラマチックにアルトサックスで音楽を奏でることができるプレーヤーは彼しかいない。そんな当たり前のことを、彼の録音を聴くたびに思い知らされる。

こういうアルバム、好きだなぁ Chet Baker & Paul Bley “Diane”

私の最も好きなトランペッターはChet Bakerなのだけれど、このブログではあまり彼のアルバムについてとりあげてこなかった気がする。

Chet Bakerは語られていることが多すぎて、今更私がここで書くほどのこともないのだけれど、彼の生涯についてはいろいろと言われているが、彼の音楽についてはその陰に隠れてしまいがちなので、少しだけ書かせていただこうと思う。

今日はChet BakerがPaul Bleyとデュオで吹き込んだアルバム「Diane」について。

そもそも、ポール・ブレイというピアニストについて私は詳しいことは知らない。参加作もこのアルバムぐらいしか持っていないかもしれない。しかし、このアルバムを聴く限り、ポール・ブレイのピアノはとても静かで、美しい。寡黙でいて、無駄がない。それでいて、語りかけてくるような、暗さと温かさがある。

70年代にカムバックしてからのチェットは、50年代のマイルスデイヴィスよりもさらにスペースのあるジャズを奏でる。このアルバムでも、その姿勢は変わらず、フレーズとフレーズの間隔が広く空いているのもそうだし、奏でられる歌もとても言葉少ない。Chet Bakerのトランペットも歌もそのようだから、そこにPaul Bleyのピアノが重なると、トランペットと伴奏という役割を越して、無口な二人の中年男性がなんとか会話の糸口を探りながら、音楽を進めているかのような感覚で聞こえてくる。

その会話は、いつまでも平行線のようにも聞こえるし、その一方で二人が語りたいことは十分語り尽くしているかのようにも聞こえる。まるで、音楽という表現に、音の数は関係ないかのようだ。実際、この二人には、音の数の多さなんていうものは音楽を形成するためにはさして重要なことではないのかもしれない、もしくは、音を絞ることによってそこから紡ぎ出される会話の内容を大切にしているのかもしれない。

チェットベイカーは、あまり譜面に強いトランペッターではなかったと聞いたことがある。コード譜というものにもそれほど強くなく、すべては耳で感じた感覚でアドリブを繰り広げていたと聞いた。そのような音楽家だから、これだけ寡黙なピアニストと組むと、会話が成り立たなくなってしまうのではないかという不安もあるのだけれど、幸いにしてこのアルバムは、そのような不安は微塵も感じさせない演奏に仕上がっている。

それは、収録されている曲がほぼジャズのスタンダード曲、それもチェットベイカーの得意なレパートリーばかりだということも、良い方向に働いているのだろう。無駄のない音使いの中からは、リラックスした二人の音楽家の会話が聞こえ、その音と音の隙間からは、次にどんな音楽ができあがるのだろうかというスリルが感じられる。

音使いの少なさばかりについて、書いてしまったが、もちろんこのアルバムはそれだけでは語れない。この、アルバムの音楽を作り出しているのは、チェットの柔らかく、ダークで深く、それでいて華奢な音色と、ポールブレイのキリリとしたピアノの音色とも言える。

特に、ポールブレイのピアノは、空気の澄んだ日にどこか遠くから聞こえてくる汽笛のようなキリリと澄んだ音色である。チェットのトランペットに寄り添うように弾いてみたり、時には独白調になってみたりしながらも、その澄んだ音色は変わらずにそこにある。ジャズのピアノの名手は数多いれど、このような音色で聴かせるピアノを弾ける名手はなかなかいないのではないだろうか。

チェットのトランペットはこの時ブッシャーのアリストクラートモデルを吹いているはずだ。アルバムのジャケットに写っているのもそのモデル。彼が、質屋で手に入れたと言われている、スチューデントモデルのトランペットである。私も、同じモデルを持っているので吹いたことがあるけれど、特にキャラクターの強い楽器ではない。

ポールブレイのピアノは、ハンブルクスタインウェイだろうか。それともヤマハだろうか、はっきりとしたことはわからないけれど、楽器のキャラクターが前面に出てくるような感じではないが、どのような楽器であれ、このような澄んだ音色を作り出せるのは凄い事だと思う。

二人は、このアルバムをたったの1日で録音している。チェットとポールブレイはアルバムこそこの一枚しかないかもしれないが、何度も共演していたとどこかで読んだ。このアルバムを聴く限り、ポールブレイは、晩年のチェットベイカーの音楽を実現するために理想的な共演者だったのだろう。

このアルバムで奏でられる音楽は、力強くなく、本当に儚い。しかし、そのはかなさの中に、本来音楽を奏でるということのために求められる大切な要素と、音楽を鑑賞するということの不思議な喜びが詰まっていることは確からしい。

五十嵐一生と辛島文雄の共演盤「I wish I knew」に並ぶ、愛聴盤である。

ディキシーランド再訪 Doc Cheatham

近頃、トランペットの話ばかり書いているので、ご興味のない方には大変恐縮なのだけれど、こういう不景気な世の中だからこそ、トランペットの温かい音色で鬱憤を吹き飛ばしてしまおうと、今夜もトランペットもののアルバムを聴いているChet Bakerが好きで、ジャズといえばチェットのアルバムばかり聴いているのだけれど、たまには趣向を変えて、今日はディキシーランドジャズを聴いている。

ディキシーというと、どうも苦手な方は苦手なようで、特にモダンジャズを聴く方の多くはディキシーを聴かないという人が多いように思う。たしかに、最近のジャズが好きな人がディキシーランドを聴くと、どうもトンガっていないような気分になってしまうのは仕方ないだろう。ロバートグラスパーを好きだと言う人にバリバリのディキシーを一緒に聴こうと誘ってもおそらく断られるだろう。

しかしながら、偏見を捨てて聴いてみると、こういうオールドスクールなジャズは、案外トンガっていてカッコイイ。一度に2本も3本もの管楽器がアドリブの取っ組み合いをやるジャズのスタイルって、ディキシーぐらいじゃないだろうか。片方がリードを吹いて、片方がそれにオブリガードをつける時もあれば、一気に両方とも前に出てきて吹きまくる、時にはそれに歌やピアノソロも加わる。こういうのは聴いていてスリリングである。

オールドジャズの世界も名盤は沢山あるけれど、今夜聴いているのは、Doc Cheathamというディキシー時代の大御所が歳をとってから吹き込んだ一枚「Swinging down in New Orleans」1994年の作品。バリバリのオールドジャズを高音質で楽しめる。

ドクチータムの若い頃の音源は聴いたことないのだけれど、80歳を過ぎたあたりから、ニコラスペイトンと共演盤を出したりして、俄然元気が湧いてきた名人である。1905年生まれのはずだから、このアルバムを吹き込んだ時は88歳。それでも、全然歳を感じさせない演奏である。

若い頃はどんなトランペットを使っていたのかはわからないけれど、このアルバムではスタンダードなBACHのストラディバリウスを吹いている、それも、ジャズマンには珍しい、銀メッキ。バックの銀メッキって、なんだかジャズに向いていないんじゃないかなんて、ずっと思っていたけれど、この人の演奏を聴いてイメージが変わった。ダークでハスキーな音色から、パリッとした音まで、バックらしいハキハキとした音色で聴かせてくれる。

そういえば、ウィントンもニコラスペイトンも、あのロイハーグローブも、若い頃はみんなバックを吹いていたっけ。ニコラスペイトンはラッカーの楽器だったけれど、ロイハーはやっぱり銀メッキ。楽器なんてなんだってかんけいないんだなあ、と思っていたら、私の好きなチェットベイカーも晩年はセルマーが貸与したバックのストラディバリウスを吹いていた。

肝心の音楽の方は、これがまた素晴らしい。ディキシーらしく4弦バンジョーも登場する。聴いていて、暑苦しすぎず、楽しいアルバム。しかも、ジャズのスタンダード曲集なのも嬉しい。ニューオーリンズ系のミュージシャンに明るくないので、ドクチータム以外のメンバーは誰も知らないのだけれど、ノリノリのスイングもあれば、しっとりと歌を聴かせるバラードありのアルバム。

ドクチータムは、トランペットもピカイチなのだけれど、渋いボーカルも悪くない。こういうアルバムは、難しいこと考えずに、じっくり聴かないで、さらりと聴いていても十分楽しめる。しかめっ面して、うんうん唸りながら聴くようなジャズとは違うから、疲れていても聴いていられる。

ジャズ、聴いてみたいけれど、どれから聴けば分からんという方にも、ジョンコルトレーンを聴くほど元気じゃないと言う方にも、ジャズとはなんなのかわからなくなってしまったと言う方にも、オススメできるアルバムです。ジャズとはなんたるかを、もう一度叩き込んでくれる、そういうアルバムです。

 

あ。このアルバム紹介するの2度目だった。

哲学を傍らに〜ピアノのあれこれから思うこと

つい最近まで、私はピアノ屋に勤めていた。ピアノ屋でいろいろなピアノを扱ったり、お客様のピアノを見せてもらったりした。私の勤めていたお店は高額商品を中心に扱うピアノ屋だったから、お客様も高級ピアノを持っている方が多かった。

ピアノ屋になるまでは、ピアノというのはただの黒い箱だと思っていた。まあ、もっとも、ピアノ屋になるぐらいだから自分自身も楽器は好きで、世の中の普通の人よりも楽器については知っているつもりだった。けれども、ピアノ屋になってみて、自分がいかにピアノについて知らないでいたかを思い知った。アップライトピアノとグランドピアノの違いはわかるとしても、それ以上はほとんど知らないも同然だった。

例えば、グランドピアノにはアリコート弦というものがある。これは、ハンマーでは叩かれない弦のことで、倍音を共鳴させるためだけに張ってある。アリコート弦として、「4本目の弦」を実際に張っているのは、ドイツのブリュートナーという会社のピアノなのだが、ブリュートナーの「4本目の弦」方式以外に、この「アリコート」という不思議な方式は、世界中のグランドピアノで採用されている。

もし、グランドピアノを見る機会があったら、高音弦の張ってあるところを見てみてほしい。調律するピンに弦の張ってある鍵盤側ではなくて、ピアノの響板側の方を見てみると、金属のフレームから飛び出した杭のようなものに弦が引っかかっていて、その手前の銀色の出っ張りのようなまくらに弦が乗っかるように張られている。このまくらに乗っかった箇所から、もう少し鍵盤側にもう1箇所弦が乗っかっている「ブリッジ」という棒のようなものが見えるだろう。このまくらと、ブリッジの間の弦は、鍵盤を押してもハンマーで叩かれることはないのだけれど、ピアノを鳴らしている時、この間の部分が常に共鳴している。そのことによって、ピアノの音色に高次倍音が加わり、複雑で煌びやかな音色になるのだ。これが、「アリコート」という仕組みで世の中のグランドピアノの7割以上はこの方式を採用しているのではないだろうか。

我が家にある、ベヒシュタインというメーカーのピアノは長い間ずっと、このアリコートという仕組みを採用してこなかった。それどころか、この部分が共鳴しないように、フェルトで押さえてある。アリコートを採用しないと、余計な高次倍音が混ざらないので、どこか素朴で儚い響きになる。ヨーロッパのピアノは、個性的なメーカーが多くて、お互いにあまり真似をしないで楽器作りをしてきたという背景もあって、古いピアノはこのアリコート方式を採用していないメーカーが多い。

逆に、アリコート方式で有名なのはスタインウェイだ。この方式を発明したのは、たしかスタインウェイじゃなかったかしら。スタインウェイではこれをアリコートと呼ばずに、デュプレックス方式と呼んでいる。スタインウェイピアノは、それ以外にも様々な方法で高次倍音を共鳴させ、あの重厚でいて、凛としたピアノの音色を作り出している。その、複雑な高次倍音を共鳴させるさじ加減は、秘伝のレシピのようなもので、そっくり同じ設計で作っても、なかなかスタインウェイのような音にはならない。

我が家のベヒシュタインは(写真のピアノはベヒシュタインではなくSchimmelというピアノです)、その全く逆の発想で作られていて、共鳴弦によって高次倍音を付加するのではなく、弦のテンションと長さの取り方により、複雑な倍音構成を実現している(らしい)。話すと長くなるので割愛するけれど、アリコート方式一つを取っても、ピアノの作りはそれぞれに工夫と個性がある。

その中でも、最もアグレッシブな工夫(まあ、100年以上前の技術だけど)を凝らしたピアノ、スタインウェイが今となっては、ピアノのスタンダードになってしまった。

近年作られた多くのピアノを見ていると、どれもこれもが、スタインウェイの技術を真似して作られていて、どうもつまらないような気持ちになってしまうのは私だけだろうか。

しかしながら、いくらスタインウェイの技術を採用したからといって、スタインウェイの音になるわけではない。実際は、そこからが楽器造りの勝負なのだ。これは、カタログやホームページに書かれたスペックからは読み取れない世界なのだけれど、その、同じ音にならないというところが楽器にとって一番大切なことなのだ。

多くの、メーカーがスタインウェイの技術の真似をしている、と書いたが、だからと言って、スタインウェイの音を真似しているというわけではない。倍音の乗せ方は、先ほど書いた通り秘伝のレシピである。同じハイテク調理器具を使っても、レシピが違うと味が違うように、ピアノメーカーによって、音色は様々である。

悲しいことに、ただ、スタインウェイの後を追ってコピーしているだけのメーカーも沢山ある(どことは言わないけれど)。けれども、一流ブランドのピアノを弾くと、どれもが、スタインウェイの技術を借用しながらも驚くほど味付けが大きく違うことに気づくだろう。もちろん調律や、その他いろいろなファクターが介在するので、聴きわけるのは難しいのだけれど、一流メーカーのピアノにはそれぞれ、どんな音のピアノを作りたいかの哲学がある。

この、音作りの哲学というのが、実際は楽器造りで一番大事なことで、設計や製造技術はその後についてくるものだと思う。

なんで、今日こんな話を書いたかというと、帰宅して、書斎に置いてある楽器を見ていて、ふと、自分はなぜこんなに同じような楽器を何台も所有しているのかと思ったからである。

そうか、私は、哲学を傍らに置いているんだ。と、わけのわからない納得のしかたで、自分の収集癖を正当化してみるのである。

今宵もまたSwing Jazzを Charlie ShaversとHarry Edison

世の中、新型コロナで大変ではあるけれど、こういう時こそ前を向いてこれから何をすべきかについてじっくり考えなくてはいけない。考えなくてはいけないとは思うのだけれど、こういう時に前向きに考えられるのは、ある意味普段からのトレーニングを要するのではないだろうか。

前向きに考えるトレーニングと言われても、そういうことは普通の学校なんかではなかなか教えてくれないし、スポーツでもやろうものなら別だろうけれど、完全に文科系の、私はそういうトレーニングを怠ってきたような気がする。

しかしながら、トレーニングを怠っていることはもはや言い訳にはできなくて、とにかくどんな時でも前に進まなければなるまい。時間ができた人は、この機会に本を読んだり、勉強したりでもいいだろうし、逆に、時間を取られてしまって忙しくて何も手がつかないという方は、この機会に普段とは違う経験をして、一回りでもふたまわりでも大物になれるチャンスなのではないだろうか。

そんな、無責任なことを書いているけれど、かくいう私は、特に普段と変わったことをしてはいない。もっと積極的になろうという気持ちはあって、毎朝、仕事に行く前に、今日こそ、昨日よりも積極的な態度で仕事をしようと思うのだが、いまいち不完全燃焼のまま数週間が経過してしまっている。

人間、何が辛いって、いやなことが降りかかるのも辛いけれど、不完全燃焼が続くのも辛い。

辛いのであれば、自分からもっともっと努力すればいいのだが、その努力すら不完全燃焼気味である。これは、よくない。とてもよくない。明日こそ、今日よりももっとしっかり仕事をして、汗だくにはならなくても、どっと疲れて帰って来るぐらいの態度で臨みたい。急に明日がそうならなくても、この騒ぎが収まる頃には、バリバリ働き、社会人としてもっと会社に貢献できる人間になっていたい。

そのためには、まず、気分のメリハリが必要だ。緊張している方は、いまいちなのであれば、少なくともリラックス方面は徹底してリラックスせねばなるまい。

リラックス、といえば、私は音楽を聴くことが一番リラックスかもしれない。もちろん、どんな音楽かによって、エキサイトしたりリラックスしたりは違うけれど、特に肩肘を張らずに、どんな音楽でも聴いていれば、リラックスのしかたを思い出すことが出来る気がする。

それで、今日もあいも変わらずチャーリーシェイヴァースのアルバムを聴いている。それも、先日紹介したガーシュウィン曲集ではなく、別のストリングスもの、所謂「ヒモ付き」のジャズスタンダード曲集「The Most Intimate」を聴いている。

このThe Most Intimateもなかなかの名盤である。Charlie Shaversに駄盤はないのか、と思わせられるくらい、この人のアルバムは良いものが多い。

甘ったるいから、ダメな人はダメなのかもしれないけれど、トランペット好きで、嫌いな人は、少ないのではないだろうか。かくいう私は、ずっとCharlie Shaversを聴いてこなかった。理由は、シンプル。巧すぎるからである。こういう、なんでもできちゃうトランペッターが苦手だった。なんでもできるから一流のプロで居られるのだけれど、この人の場合ズバ抜けてすごい。ハイノートは煌びやかだし、ハスキーな中音域もフレーズの歌い回しも、早いパッセージだってなんだっていとも簡単にこなしてしまう。

ビバップ以降のスタイルの凄腕もすごくて、尊敬してしまうけれど、それ以前のスタイルでも、すごいやつは凄い。代表的なところでいくと、Harry Jamesあの人も凄い。もう、トランペットと一緒に生まれてきたのではないかというくらいトランペットを自由自在に操り、めまぐるしく表情を変えながら音楽を奏でる。いくらトランペットが体の一部だって、あれだけ体の一部を操れるのは、オリンピック選手ぐらいではなかろうか。スポーティーな凄腕である。

しかし、スポーティーな凄腕というのも、いつも聴いていると飽きてきてしまうものでもあるのだ。チャーリーシェイヴァースは、スポーティーなところをあまり見せつけないアルバムがあるので、良い。疲れたらそれを聴けば良いのである。

それでもチャーリーシェイヴァースの音楽は、ちょっとよくできすぎている。彼のようなビシッとキマッた音楽に疲れたら、もう少しラフなジャズを聴きたくなるのもので、私も、Charlie Shaversの後には、なにかクールダウンする音楽を聴くことにしている。

それは、騒がしいハードバップでも良いのだけれど、トランペットで言えば、もうすこしリラックスして、Harry EdisonかBobby Hackettなんかが丁度良いと思っている。Harry Edisonは名盤が多いのだけれど、特に「Sweets for the Sweet」という、これもストリングスもののアルバムが良い。ストリングスものではなくもっとじっくりとジャズを堪能したいのであれば、「At the Haig」というワンホーンカルテットでの名盤もある。今日は、さらにもう少し、リラックスした音楽をと思い、Buddy Tateやら Frank Wessやらのスイング時代の大御所とのジャムセッション「Swing Summit」を聴こう。

Charlie Shaversでお腹いっぱいになった後は、Harry Edisonのアルバム、オススメです。

姉の仇のように聴いていた「Hot House Flowers」

姉が中学の時にブラスバンド部でトロンボーンを吹いていた。いや、正確にはトロンボーンを吹こうとしていた、といったほうが良いかもしれない。私は、姉がトロンボーンを吹いているところを一度も見たことがない。

「教育熱心」だった両親は、姉が勉学ではなく部活動に精を出すのが気に入らなかったようで、ブラスバンド部にも反対していた。今考えてみると、なんの取り柄もない、勉強だけできる人間を育てたところで、なんの良いこともないのに、両親は、姉の学校の成績のことばかりに文句をつけ、しまいにはブラスバンド部をやめさせてしまった。

姉だって、もしかしたら少しは悪いところはあったかもしれない。私の姉は、聖人ではないし、その頃どんな人間だったかなんてすっかり忘れてしまった。

姉が、トロンボーンのマウスピースでバジングをしているところを2度ほど見たことがある。中学のブラスバンド部に入部したての頃だ。姉は、ジャズを吹きたいと言っていた。吹奏楽の退屈なCDを何枚か持っていたのも覚えている。私も、姉がいない時にこっそり聴いたからだ。

4歳ぐらい離れた弟の私は、高校に入る頃、ジャズばかり聴いていた。それも、トランペットもののジャズを。

きっと、ジャズを吹きたかった姉の憧れていたものが、どんなものなのか知りたかったということもその理由にあったのだろうけれど、ちっとも良さがわからないジャズのCDを4枚ほど持っていて、それを何度も繰り返し聴いていた。結局、ジャズの魅力なんて、ちっともわからなかった。ジャズのレコードから流れてくるトランペットの音は、私のイメージするトランペットの音とはかけ離れていた。私の中では、ニニロッソのような甘ったるい音色がトランペットだと思っていたからだ。

それでも、トランペットには憧れがあって、高校の同級生がどうやらトランペットを持っていて、使っていないというので、借りてきて、吹いてみようとしたりもした。

マウスピースは、街の楽器屋で2,500円で売っていたDoc Severinsenと書かれた箱に入っていた7Cを使っていた。その頃はDoc Severinsenが誰なのかも知らなかった。彼の世界最高の音色については、何も知らなかったけれど、とにかく、安かったので、そのマウスピースを買った。

両親は、私の学校の勉強のことにしか興味がなく、私も、ずいぶん前にヤマハ音楽教室を嫌で嫌で辞めたこともあり、誰にもトランペットを習うこともせずに、時々、借りた楽器を口に当てて、ひどいアンブシュアだけが身についた。のちのち、そのアンブシュアを治すのにずいぶん大変な思いをした。

高校時代に、家が嫌になってしまい、日本の学校も嫌になってしまい。オーストラリアの高校に通った。そこでも、人種差別で大変な目にあい、ろくに友達はできなかった。それで、仕方なく、また、音楽を聴いてばかりの生活になった。

そのころも、まだジャズと、トランペットへの憧れは変わらずに、わかりもしないジャズを何度も繰り返し聴いていた。今考えてみると、当時私が聴いていたジャズは複雑すぎた。だから、それだけ何度聞いてもちっとも体に入ってこなかったのかもしれない。ただ、音楽のセンスがなかっただけかもしれないけれど。

それでも、何度も何度もウィントンマルサリスの「Hot House Flowers」というアルバムを繰り返し聴いた。なぜか、そのわからない音楽のこのCDが好きだった。ウィントンの音楽は、今聴いても、どうもインテリ的で、テクニカルで複雑なのだけれど、さすがはトランペットの天才、音色は素晴らしい。その、音色の素晴らしさだけでも、感じるところはあったのかもしれない。

オーケストラアレンジなので、どうも、ストレートアヘッドなジャズとも違うのだけれど、これはこれで、今聴いてみるとなかなか良い。ウイントンのトランペットは、どうも味気ないという先入観があったけれど、味気ない中にも、なにか説得力のようなものがある。味気なさは、巧すぎるところからきているのかもしれない。実際、ソロも、優等生的なだけにおさまらないで、自由に吹きまくっている。この自由さは、若い頃のウィントンマルサリスのアルバムでは存分に発揮されているのだけれど、その自由さがどうも気に食わなかったのだけれど、このアルバムの自由さは私が聞き慣れているせいもあるけれど、どこか心地よい。

この頃のウィントンはBACHのヴィンドボナを吹いていたと思う。どう考えてもクラシック野郎の吹くようなこのおぼっちゃま楽器から、ダークでリリカルなジャズを紡ぎ出していたんだから、さすがウィントンである。

特に、個人的には5曲目の Djangoが好きで、何度も聴いた。

お勉強ばっかりやっていても、ロクな人間にならないだろうと冒頭に書いたけれど、楽器の練習と音楽のお勉強ばかりやっていたであろうウィントンであるが、19歳にしてこのような素晴らしい演奏ができるのだから、天才はやっぱり違う。

ウィントンは、これからどうやって枯れていくんだろう。それが、本当のかれの音楽的勝負だと思いながら「Hot House Flowers」をあらためて聴いている。

 

久しぶりにアルバム1枚通して聴いた Gershwin, Shavers and Strings

Charlie Shaversという名トランペッターについて、詳しいことはよく知らないけれど、とにかくトランペットが上手くて、音も煌びやかな音からしっとり聴かせる音色まで的確に使い分ける凄いやつだ。

私は、ずっとこのCharlie Shaversが苦手だった。どうも上手すぎるので、癪にさわるというか、なんというか。世の中にこんなに自在に楽器を弾けるやつがいるというのがどうも受け入れられなかった。

しかし、先日、ちょっとした気まぐれから、この「Gershwin, Shavers and Strings」というアルバムを買ってきて、聴いたところ、やっぱり良いものは良いのだという当たり前のことを再確認した。

どっぷりとジャズを聴こうと思うと、このアルバムは肩透かしを食う。なぜなら、ここにあるのはジャズというよりもムード音楽だからなのだ。ムード音楽、と聞くと多くの人は、「じゃあ、それならやめよう。時間の無駄だ」と思ってしまうかもしれないけれど、ここまで完成度の高いムード音楽を聴いてみると、心を奪われてしまう。

ガーシュウィンの曲集にちなんで、イントロが「ラプソディーインブルー」の引用だったりして(それも、何曲もそのパターン)どうもなんとなく胡散臭いのだけれど、その怪しさも含めて、遊び心があるムード音楽に仕上がっている。ジャズの要素が全くないかというと、そんなこともなくて、メロディーをフェイクしたり、アドリブソロがちょっとだけ入っていたりして、それはそれでCharlie Shaversのジャズ魂も確認できるのだけれど、そういう難しいことは抜きにして、ジャズが苦手な方にも楽しんでもらえそうな内容に仕上がっている。

トランペットもののムード音楽といえばニニ・ロッソなんかを連想してしまいそうな感じもするのだけれど、ああいうヨーロッパ系の(ニニ・ロッソがヨーロッパなのかどうかは知らないけれど)ムード音楽とは一線を画す、古き良きアメリカ音楽に仕上がっているのもこれはこれで貴重だ。

Charlie Shaversの他のアルバムと違うところは、彼がテクニックをこれでもかとひけらかさないところ。それでいて、完璧なコントロールのもと危なげなくトランペットを吹ききっていて、聞き惚れてしまった。

このところ、アルバム一枚をゆっくり聴いたことなど久しくなかったけれど、このアルバムは、最初から最後まで通して聴いてしまった。