1976 Fender Telecaster

どうも私は70年代のギターに偏愛癖がある。

偏愛癖という、日本語なのななんなのかわからない言葉を使ってしまったが、70年代のギターはどれも一定の完成度と、一定の出来の悪さが同居していて良い。という話は、このブログのどこかですでに書いているかもしれない。

フェンダーに関して言えば、塗装、作りの良さは50年代に勝るものはないかもしれない。60年代も量産体制が整っていて、出来の良いものが多い。70年代のもの、特に70年代後期のものは、ネックジョイントはグラグラだし、塗装も出来の悪いポリ塗装で本当に嫌になってしまうようなギターが多い。テレキャスターもストラトキャスターも74年頃のモデルと70年代後期のモデルを持っているけれど、前者に比べ後者は格段にテキトウな造りである。

ボディー材も76年頃を境にやけに重たくなるし、ネックの作りすらどこか違っているような気がする。

それでも、70年代の楽器が好きなのは、70年代は迷走の10年だからである。60年代にほぼ完成の域に達したエレキギターを、次にどう味付けしようかを悩んでいる姿が良い。

この際、ギブソンやら他のメーカーは置いておいて、フェンダーに関してのみ話をすると、同じ値段を出すなら、クオリティーでは90年代以降の方が良いものは多いのではないだろうか。しかしながら、70年代のフェンダーの良さは、その個性の強さである。悪く言えば扱いづらさ、よく言えば、、よく言えばなんであろうか。

70年代という時代をリアルタイムで知らない私は、70年代のミュージックシーンについて何も知らない。よく考えると、70年代の音楽は殆ど聴いていないかもしれない。持っているのだろうけれど、意識的にじっくり聴いてみたことはない。けれど、70年代の楽器を触る時、その雑さに混在するエッジの立ったブライトな音色は何者にも変えづらいと感じる。とくにテレキャスターに関して言えば、70年代のテレのリアピックアップから出るような凶暴でトレブリーなサウンドはどこに出しても恥ずかしくない。こいつは、これで10年近くを勝負してきたのだ、という自信のようなものがみなぎっている。

アンサンブルに溶け込もうとか、太い音色を出そうとか、そういったことは一切考えていない、「目立つ」「ギラギラした」音。なかなか他の時代の楽器では再現できない。一度、クロアチアのピックアップメーカーにオーダーして、70年代のテレキャスターのような凶暴な音のピックアップを作ってもらったことがある。出来上がってきて、それはそれで凶暴なのだけれど、今のフェンダーメキシコにつけて使ったところ、どうも何かが違う。どこか使いやすいのだ。これではいかん。万能な楽器になってしまっているではないか。

今日、帰宅して、自宅のキッチンに並べている楽器を整理していたら、1976年製のテレキャスターが出てきた。出てきた、と言っても、買って持っていることは知っているのだが、どうもネックの塗装がボロボロすぎて使っていなかったのだ。勿体ない。これが、また、ものすごく凶暴な音がする。ロイブキャナンもびっくりな個性の強いテレキャスターのサウンドだ。

あまりにも塗装の状態がひどいので、1978年のRhodesピアノから取ったRhodesのロゴバッジを貼り付けてある。いつかこいつの、ネックの塗装をやり直して、使えるギターに仕上げて、現場でガンガン使いたいと思っている。

ブラックフィニッシュにブラックガード。なかなか存在感があるギターである。どこか、塗装が上手いお店をご存知の方は教えて欲しい。70年代後期らしく、ポリ塗装を施してやりたいと考えている。

また秋が来た

盆が過ぎると秋というのはわかっていながらも、東京の8月は暑苦しく、秋が来ても体感的には気づかない。暑い暑いと汗をかきながら、8月を過ごすのが毎年の常というものである。

9月が半分以上過ぎて、ふと、涼しさを感じるようになった。洋服屋から夏物の半袖が消え、あまつさえカシミアのコートすら並び始めた。たしかに夏は過ぎていったのだ。

今年の夏のおとづれはどんなだったのかは覚えていない。ただ、やけに暑い夏であったことだけは覚えている。新型コロナウイルスのニュースもだんだん気にならなくなってきた頃、夏がおとずれた。ものすごい湿度の梅雨が続き、部屋中のものにカビが生えてしまい、カビキラーで拭き掃除をしていたと思ったら、知らぬうちに暑苦しい夏が来ていたような気がする。とにかく、今年の梅雨は本当にジメジメした嫌な梅雨だった。

梅雨が明けたのがいつだったかはよく覚えたはいないけれど、そのあとは何日も暑い日が続いた。とにかく暑い夏だった。

今日は4連休最後の日。散歩に出かけた。御茶ノ水まで電車で向かい、楽器屋を数件見て、レコード屋を見るというだけの散歩。4連休とは言っても、どこに行くわけでもなく家で過ごしたけれど、毎日家の近所に散歩には出かけた。昨日は西新井まで電車で行き、昼ごはんを食べて帰ってきた。

それでも、コロナの影響はまだ続いているのは事実だろう。私は、旅行にはあまりいかない方なんだけれど、4連休もあれば、妻の実家に帰省するなりなんなりが出来たはずだが、今回はどこにも行かなかった。

その代わりに、毎日少しづつ小さな外出はして過ごした。

今日、御茶ノ水から、上野まで歩いた道すがら、ふと、もう暑くなくなったということに気づいた。とくに、秋の花を見たわけでもなんでもなかったが、ふと秋の訪れを感じたのだ。

帰宅したら、一人だった。

私は、とりあえずステレオのスイッチを入れて、音楽を聴いた。Valery Afanassievの弾くFranz Schubertのソナタ。シューベルトのこの曲はこの季節にふさわしいような気がした。

秋の深まった森の中をどこまでも歩くような爽やかでいて、すこし肌寒さを感じる音楽。ピアノ一台で演奏されているのにもかかわらず、どこかティンパニーや、コントラバスの音が聞こえて来るような不思議なところがある。Afanassuevがどのようなピアニストか、私は詳しくは知らない。ただ、この演奏は格式が高いシューベルトというよりも、どこかアンビエントな雰囲気のある内省的な演奏だと感じる。特に1楽章は。

20分にも及ぶ1楽章だけを聴いたら、妻と娘が帰ってきたので、夕飯にした。夕飯が終わると、疲れてしまって、自室で少しだけ眠った。汗をかいたせいでよく眠れなかったのだが、疲れは少しとれた。

書斎に戻り、再びAfanassievのCDを聴きながら、パソコンに向かっている。私は、一生かかってもこのような大曲をピアノで演奏することは不可能だろうけれど、Schubertの曲は好きなので、何か一曲弾けるようになりたい。あの、映画「さよなら子供達」で主人公が弾く「楽興の時」の第2曲?だったか。あれを弾けるようになりたい。

Rhodes Suitcaseの接点不良、、、

昨日、週末にRhodes Suitcaseを修理したと書いたけれど、今日嬉々としてローズを弾いていたら、突然、また音が出なくなってしまった。

さっきまで鳴っていたオルガンの音が、プツリと鳴らなくなってしまった。

なんとなく、その前から嫌な予感はしていたのだけれど、突然のことで頭が真っ白になった。ああ、ついに、トランジスタが飛んでしまったかもしれない。この前、下手に修理したせいで、かえって症状を悪化させてしまったのかもしれない。そんなことが、頭をよぎった。

仕方がないので、症状を見ようとパワーアンプを止めているネジを一つづつ外して、中身を見てみた。私は、このパワーアンプを外すのが恐ろしくて嫌なのだ。なんせ、馬鹿でかい電解コンデンサがむき出しになっている。そこに触れた途端に間違えなく感電する。それも、かなりの強烈な感電を。

なので、できることなら、パワーアンプをバラしたくない。

しかし、音が鳴らなくなってしまったのなら仕方がない。

アンプをバラしてみた。

また、接点不良が原因だった。

仕方がないので、接点復活剤を端子に吹いて、繋ぎ直したら、音が出た。音が出たのは嬉しいのだが、次またいつ何時同じ症状が出てくるかわからない。

その時は悔しいが、あきらめようか。感電するのが怖いのである。山田かまちはギターアンプを分解していて感電死したというし、そういう事態がいつ何時私に降りかかってくるかもわからない。

あの馬鹿でかい電解コンデンサに触れたら、私も山田かまちだろう。

だから、次、音が出なくなったら、諦めて、しばらくお金がたまるのを待ってから、専門家に診てもらおうかと思う。

Rhodes Suitcaseのパワーアンプを修理した

Rhodes Suitcaseピアノには2つのパワーアンプが内蔵されていて、外部機器をつないで音を出せるようになっている。2チャンネルあるうちの片方を使ってローズを鳴らし、もう片方で外部のシンセサイザーなりなんなりをつないで鳴らすことができるのだ。

今まではローズだけで使っていたので、特に不便はなかったが、この度Hammond organが私の書斎に来たので、それまで使っていたデジタルのハモンドをリビングに持って行き、Rhodesにつないで使うことにした。

それで、試しにつないでみたのだが、どうも音が出ない。調べてみると、片方のチャンネルのパワーアンプが故障しているようであった。ローズスーツケースのパワーアンプはトランジスタアンプで、ずいぶん古いトランジスタが使われているので、簡単には直せない。パーツがないのだ。デジタルハモンドをつなげるのを諦めていた時、Vintage Vibeでローズのパワーアンプ修理キットを発見した。

迷わず購入してみたところ、これがまたかなりシンプルなキットで、トランジスタ7つと、抵抗2つ、電解コンデンサー2つだけのものであった。その他の部品については、各々で調達して直せということらしい。

とりあえず、どこが故障しているかもわからないので、すべてのトランジスタを交換してみた。ついでに、抵抗と電解コンデンサもキットについてきたものは全て交換してみた。

もう一度、組み直してみても、音が出ない。

これは困った。大枚をはたいて買った修理キットの意味がなかったのか、と諦めていたところ、インプット側の端子をいじっていたら、奇跡的に音が出た。ただし、音が出たり出なかったり。

よく見てみると、どうやら接触不良らしい。やれやれ、もしかしたら、はじめから単なる接触不良だったのかもしれない。けれども、たしかに音が出たので、接触不良を修理し、再度つないだところ、両方のチャンネルから音が出た。

これで、ローズにデジタルハモンドをつないで使うことができる。何はともあれ Vintage Vibe様様である。

ローズのパワーアンプの修理だけで土曜日の午後の全てを使ってしまったが、とりあえず治って音が出たので良しとしよう。あのキットさえあれば、たとえ、もう片方が壊れてしまっても修理ができることがわかっただけでもよかった。

ちなみにVintage Vibeのキット、出力トランジスタ付きのキットと、出力トランジスタなしのキットがあり、私は、念のため出力トランジスタありの方を買った。けれども、よく考えてみたら、出力トランジスタは壊れていなかったので、なしの方でもよかったのだけれど、あのローズのトランジスタ、今買っておかないと無くなってしまってはいけないので、とりあえず手元に置いておこう。

Vintage Vibeいつまでもパーツを供給し続けてくれますように。

オルガンの正しい使い方

私は、両親がキリスト教の家庭で育った。しかしながら、教会へはほとんど足を運び入れたことはない。

年に1度か2度、クリスマスと、イースターには教会に行った記憶がある。それらの日には、子供も参加できるパーティーがあるので、連れて行ってもらったのだと思う。

母は今は毎週教会に通っているらしいのだが、子育てをしている間は、教会に行く暇もなかったのだろう。だから、私はほとんど教会での記憶がない。クリスマスのミサの記憶はあるにはあるのだが、教会の裏の駐車場に車を駐めて、チェペルの横の隙間の雪をかき分けながら暖房の効いた建物の中に入っていった記憶と、聖しこの夜を歌ったことぐらいしか覚えていない。

当然ながら、賛美歌の類は全く覚えていない。

この度、オルガンを弾こうと思い、はて、何を弾けるだろうと考えてみたが、何一つとして弾ける曲はない。弾けもしないのに、書斎の3分の1ぐらいをHammond organが占めているのだ。これは、とても不経済なので、オルガンを練習することにした。

初めは、まず、ジャズを弾きたいと思ったのだが、ジャズは難しくてとても手がでない。オルガンでジャズを演奏する場合、左手はウォーキングベースを弾くか、コンピングをするかどちらかなのだが、もちろん、そんなことできるわけがない。

ベースラインも弾けなくて、コードを押さえながら右手でメロディーラインを弾くことができなかったら、ジャズは無理である。さしあたり、これでは弾ける曲がない。仕方がないので、一番簡単なジャズピアノの教則本を見ながら勉強しているのだけれど、1ページ進むのに1月以上はかかりそうなので、全く面白くない。

音楽というものは、もとより面白いという類のものではないのかもしれないが、ここまで何も弾けないと、面白くないというよりも苦行である。

そこで、まずは、ジャズの基本、ゴスペル、と言いたいところなのだが、ゴスペルの元ネタの賛美歌を練習することにした。

賛美歌、全く知らない。知らないが、賛美歌は覚えやすいはずだし、何よりも弾いていて少しは心が救われて、苦行は苦行でも気分は悪くないだろうと踏んだのである。それで、銀座の教文館に行って、教会で弾く音楽の楽譜を買ってきた。初めは、賛美歌をと思ったのだが、賛美歌は伴奏譜だったので、オルガン曲集を買ってきた。

大雑把に言うと賛美歌のフレーズを、オルガンように編曲している曲集である。教会の奏楽曲というのか、そういう用途の曲集である。

私は、心の中ではジョードシューなのだが、ここに来て、教会音楽の練習をするとは思ってもいなかった。しかし、神に仕えるもののための音楽である、何宗であろうが弾いていけないこともあるまい。

それに何より、このHammond organという楽器はそもそも、教会で音楽を奏でるために発明された楽器なのであるから、本来の用途である奏楽曲を弾くというのは理にかなっている。

それで、バロック時代の、何やら知らない作曲家の曲にチャレンジしているのである。

ちょっと弾いただけで、弾けた気になるよう、一番短い曲が載っている「短いオルガン曲集」という本を買ってきた。まずは、これで、ゴスペルぐらいまでをカバーするオルガニストになろう。

サイクルチェンジャー要らず

Hammond B3は117V 60Hzで使うようにできているらしく、東京の50Hz環境で使うためには周波数変換機というもの、いわゆるサイクルチェンジャーがなくては使えない。誠に困ったものである。そうでなくてはA440のピッチに合わなくなってしまうのだ。

しかし、私の家に入れたハモンドにはサイクルチェンジャーが付いていない。どうしたものか、困ったものである。これでは本当は50Hzで使うと大体短3度低い音程になってしまうというのだ。しかし、一応A440のピッチで音は出ているようだ。

気になって、油を注すついでに裏を開けて見てみた。

ハモンドオルガンの中身を見るのは初めてである。どこがどのように改造されていても、私は気付かない。油を注すインストラクションを見ながら、油を刺そうとすると、Runモーターのあたりがインストラクションと随分違うのだ。

見たことのないモーターが増設されている。そのモーターから、トーンジェネレーターのシャフトにベルトがつながっている。確かハモンドは、モーターのダイレクトドライブじゃなかったっけ、などと思いながら考えてみると、これは50Hzに合わせて鳴らすための改造である。

なんと、サイクルチェンジャーを増設するのではなく、モーターを変えているのだ。世の中に、このような改造を施してあるハモンドは一体何台ぐらいあるのだろう。きっと珍しいだろう。

あいにく、オイルを注すので一生懸命になってしまい、モーターの写真を撮るのを忘れてしまったが、こういう力技で、解決する方法があったかと、目から鱗であった。

ノイズの原因は、そのベルトドライブの部分でもあったようだ。とりあえず、Hetmanのチューニングスライドグリスを塗っておいた。普通のハモンドオイルでは、すぐに油ぎれを起こしてしまうからだ。果たして、これでいいのかわからないけれど、モーターノイズは一旦収まった。

Hammond organの動作音が静かになった。

昨日、自宅にハモンドオルガンを搬入したのだが、電源を入れるたびにモーターの音がブンブンうるさくてどうも気になっていた。

ハモンドオルガンというのは、このぐらい雑音がするものなのかと諦めていたが、聞いているとその雑音がどんどん大きくなっているような気がして(気持ちの問題なのだろうけれど)気になっていた。どうも、カタカタがしていた。

カタカタの原因はわからないのだけれど、インターネットで調べると、同じような悩みを抱えている人がいて、やれ、モーターの不具合だとか、やれスタートモーターが壊れているだとか色々と書かれていた。

モーターが壊れてしまっていてはどうしようもないので、これは諦めるしかないかと思っていたのだけれど、まだ望みは捨てないでいた。

幾つかの記事を読んでいるうちに。油をさしたら治ったという記事があったので、これはいっちょもう一度油をさしてみるべか、と思い立ち、ハモンドを移動して油をさし直した。昨日から3回か4回は油をさしている。その度にハモンドを移動するのだけれど、これがなかなか大変なのだ。

Hammond B3は200キロぐらいある。その巨体を動かすのは並大抵のことではない。まず、レスリースピーカーをどかせる。これが60キロぐらいあるので、うまいこと動かさないと、壊れてしまうのだが、持ち手のようなものが付いていない。レスリーは、据え置きで使うようにできているのだろう。持つところのような便利なものは一切ついていない。だから、できるだけ床に傷がつかないようにゆっくり動かすのだ。

レスリーが移動できたら次はハモンドを動かす。隣においてあるアップライトピアノに傷がつかないように、ぶつけないように動かさなくてはいけない。200キロの楽器を一人で引っ張ったり押したりするのはこれがまた大変。

なんとか動かすことができて、ハモンドのオイルを注入した。

いかんせん、10年以上オイルをさしていなかったものだ。普通なら1ozぐらいさせばいいと書いてあるのだけれど、ちょっと多めにさしておいた。昨日までは1ozずつさしたところに、今日はさらに半オンスさした。モーターのベアリングにつながっているところに重点的にさした。すると不思議なことに、少し動作音が静かになった。

良かった。

とりあえず、ハモンドでは一曲も弾けないのだけれど、ちゃんと動作するようになったのだから嬉しい。このハモンドは借り物なのであんまり無茶なことはできないのだけれど、オイルを注すぐらいはやってあげないと壊れてしまっては大変だ。とにかくインターネットに書いてあった通り、オイルをさして良かった。

Hammond B3がやってきた

入るかどうか、が入ってきたところで置き場所があるのかないのか、心配していたHammond B3とLeslie122RVがなんとか部屋に収まった。

ハモンドについては、あらかじめどこに置こうか考えていたのだけれど、レスリースピーカーについては、事前に考える余裕がなく、運送屋さんに、どこに置きますか、と言われても、はて、どこに置こうかと考えてしまう始末。

それでも、なんとか場所を作って、部屋に入れた。

Hammond B3の電源を入れると、常にモーターの駆動音がかなり聞こえるのだけれど、果たしてこれでいいものなのか。油をさせるところにはさせるだけ油をさしたのだけれど、果たしてこれで良かったのか。

ちっともわからないけれど、とりあえず音は出た。気になっていたサイクルチェンジャーは付いていなかったけれど、何やらモーターが替えられていて、なんとかA440は出ているようだ。

まだ、何も弾ける曲がないのだけれど、さて、これから何を練習しようか。

読書という筋トレ

ここ数年本を読むという習慣を忘れかけていた。

あれほどまでに熱中した本や、欲しかった本もあったのにもかかわらず、何年もの間ほとんど本を読まずに過ごしてきた。そのせいで失ったものもたくさんあるかと思う。失ったものは失ってしまったので、可視化することはなかなか難しいけれど、たとえば、文章を書くことも好きではなくなってしまった。

本を読まなくなったのは、いつからだろう。体調を崩して一日中家にいた時も、ほとんど本というものを手に取らなかったということさえあった。

いま、自分の考える力の劣化を強く感じ、危機感を抱いている。それで、無理やり本を読んでいる。無理やりでも、読書はそれなりにためになるということは再確認できている。単なるインプットに終わらなければいいけれど、最悪、単なるインプットに終わったところで、失うのは読書に費やした時間ぐらいのものである。

読書を無理やり再開したのは、仕事のためである。仕事をするにあたって、自分の無知さと、刺激のなさに嫌気がさしてしまった。世の中には、無知なままでもいい仕事をできる人がいることはわかっているけれど、私はそういうタイプではない。かといって、常に勉強し続けてきたタイプでもなかった。

本を読む時間を作ることは、それほど難しいことではないかもしれない。電車に乗る時間や、寝る前の時間を幸い私は読書に割くことができるし、それ以外にも、酒を飲んだり、CD屋を見たりしている無駄な時間がたくさんあるので、その時間を読書に回せばいいのだ。

しかし、なかなかそう簡単にはいかない。

人間というのはやる気を起こすことが一番大変なのだ。やる気が起きてからは、あとはそんなに難しくはない。問題はやる気をいかに起こすかである。

やる気を起こすためにも、読書は役に立つ。読書をすると、自分の今まで知らなかった価値観を手に入れることができるし、それはグーグル先生や、ツイッターでは残念ながら手に入るものではない。しかし、困ったことに、グーグル先生やツイッターは、あたかも自分の持っていなかった価値観を提供してくれるような気分にだけはさせてくれるのだ。だから、つい人は易きにながれ、読書をしなくなってしまう。

もう、読書の時代は終わったという方もいるだろうし、古典を読むことから学ぶことが多いと言う方もいるだろう。私は、どちらも正しいと思う。読書なんかは、この時代においてある意味不経済である。自分の必要な情報にダイレクトにアクセスできない。そこに到達するためには、長い手順が待っているのが本というものの常だ。逆説的だが、だからこそ読書というものに価値があるのだと思う。

自分の必要な情報なんていうものはあくまでも、自分のイマジネーションの中だけの世界である。自分のアンテナは、自分が思っている何倍も小さい。自分の感受性を信じて進める人も存在するのだろうけれど、私にはそこまでの感受性はない。いや、感受性というのは、逃げであって、本当は努力という言葉の方が正しいのかもしれない。自分のイマジネーションは結局自分の努力であると思う。

そのための筋トレとして、読書は丁度いい。

テレビや、グーグル先生や、ツイッター等の手軽なメディアでは、その筋トレができない。筋トレをしなければ、重いものに出会った時に、諦めてしまう。私は、今まで、重いものをたくさん諦めてきてしまった。そして、手軽な方、手軽な方に逃げてきた。少なくとも過去数年にわたって。

いま、いきなり重量級の本を時々読んだりしているけれど、当然持ちきれない。かといって、軽いダンベルで基礎体力をつけ始めていては人生いくらあっても足りない。とりあえず、自分が持つことのできるギリギリの重さの本を読んで筋肉をつけている。

かつて、哲学書を読もうと思い立ち、何冊か読んでみたことがあったが、初めの5行目ぐらいから、全く頭に入ってこなかった。それも、当然であろう。私は哲学書と言うものに対して、どのように向き合えばいいのかを知らない。なので、仕方ない。仕方なく、4冊も読まずに諦めた。しかし、体力がついている人は、どのように向き合えばいいかわからない本であっても、力の加減だけで向き合えてしまうものである。私の目下の目標は、哲学書にすら立ち向えるぐらいの筋肉をつけることである。

産みの苦しみを見てしまった、初夏

オペラシティーの建物を出たら、雨が上がっていた。

その日は朝から、おかしな天候だった。朝家を出た時には晴れていたのだが、初台についてみると、雷雨に見舞われ、私は演奏会が始まる前にその雷雨の模様を観ながら喫茶店で朝ごはんを食べ、コーヒーを飲んで時間を潰した。

私は、演奏会そのものには興味がなかった。ただ、その頃仕事で演奏会作りに加わっていたので、その関係で、勉強として一度ピアノのコンクールというものを見なければならないと考えていたので、そのために足を運んだ。

会場について、コンクールの予選を聴いていると、曲目は違えど、皆ほぼ一様に上手い演奏をする。それが、トコロテンを押し出すかのように、するすると現れ、舞台袖に降りていく。演奏そのものが心を打つことはほとんどなかった。小学生、中学生の演奏で感銘を受けるうような演奏は期待していなかったが、本当に聴いていても、つまらないものであった。

ただ、そこには確かに努力のあとはあった。それは、私の経験したことのない努力の形だった。ただ、ピアノを審査員にウケるように弾くというたゆまぬ努力。きっと楽しくなんかないだろう。受験勉強が楽しくないのと同様に、彼らも、そのつまらない努力のために、初夏を潰しているのだ。ひょっとしたら去年の冬から同じ曲と格闘しているのかもしれない。その、努力を感じさせる何かがあった。

人間とは不思議なもので、幾つかの演奏を聴いているうちに、弾き手がその努力を好きでしているのか、嫌々やっているのかがわかってしまう。初めはそれは、ただ流して弾いているだけなのかと思ったが、そうではなく、その演奏は嫌々弾いている演奏なのだ。これがプロの弾きてなら、嫌々弾いていようとどうであろうと、それを技術でカバーすることはできるだろう。悲しいかな、素人の子供にそれはできない。

親なのか、先生なのかに着せられた、ドレスや、似合わない背広に身を包んだ子供が演奏する姿を、半日も見るのはある意味つらかった。ただ、一つ確かにわかるのは、ここで演奏しているコンテスタントの方が、私の何万倍も辛いのであろうということだった。ここで、頭一つ抜けたところで、将来何の役に立つのかもわからないお遊戯を、審査員の前で晒し者にされながら踊り続けるのはさぞ辛かろう。

けれども、その中で、最後に弾いた中学生がの演奏には、なかなかの感銘を受けた。本人も楽しんではいないのかもしれないけれど、それが、芸としてある程度成り立っていたからだ。それは、審査員には興味のないことなのかもしれないけれど、ピアノの上手い下手もわからない私にとっては、芸として面白いかどうかだけがここに座っている意味だと思って聴いていたから、彼の演奏は唯一聴くに耐えた。ショパンの革命エチュードを弾いていたような気がする。

コンクールの予選を最後まで聴かずに、私は会場を後にした。コンクールの客席に、職場の同僚が娘さんを連れて聴きに来ていたので、彼女らとコーヒーを飲むことにしたのだ。彼女もまた去年までは娘さんをこのコンクールに出場させていたとのことだった。

娘さんは、黙ってコーヒーを飲んでいた。母親の職場の同僚とコーヒーを飲んでもつまらないのだろう。そりゃそうだ。かわいそうなので、早々に切り上げてあげるべきだったので、店を出た。

私が、手持ち無沙汰そうにしていると、気を使ったのか、天気も良くなったのでちょっと新宿まで歩きませんか。と同僚が背後から声をかけてきた。娘さんは、ちょっとお母さん早く帰ろうよ、というような雰囲気であったが、私は夕方まですることがなかったし、そもそも、ああいうものを観た後だったから気分転換に誰かと談笑しながら外を歩きたかった。

新宿駅に向かい、西新宿のビル群を縫うように3人で歩いた。雨はすっかり上がって、日差しが強く感じられた。私は都庁の前で立ち止まり、自販機で水を買い飲んだ。水を飲んでいると、あのコンクールの時に気づかなかったプレッシャーのようなものから解放されたような気がした。聴いていた私が、これだけプレッシャーを引っ張っているのだから、あそこで演奏していた彼らは、いったいどれだけのプレッシャーを背負っていたのだろうと考えるとゾッとした。もっと、彼らの演奏に真摯に向かえばよかったと、少し後悔した。

プレッシャーから解放され、気分が軽くなったので私は気が大きくなってしまったのか、同僚の親子に都庁の展望室に登らないかと提案してみた。なぜ、そんなことを思いついたのかはわからない。この開放感を味わうためには、どこか見晴らしのいいところに立ちたいと思ったのだろうか。

娘さんは、嫌とは言わなかったが、行きたいとも言わずに、同僚と一緒に私についてきた。思えば、身勝手な提案ではあったが、私はあのプレッシャーからの開放感を味わわなければ、気分が滅入ってしまいそうであったのだ。

展望室に上がると、さらに気分が高揚し、私は二人を連れて都内の展望を案内した。まるで、自分の所有物であるかのように。

あっちは六本木、こっちに僕の家がある。日比谷線の三ノ輪駅の方だけど、ここから見えるかな。うちは3階建てだからひょっとしたら見えるかもな。

などと、言いながら、一通り外を眺めたら、やっと気分が晴れてきた。同僚も、お付き合いとはいえ、すこし楽しそうであった。ベンチに腰掛けていると、展望室の中にグランドピアノが置いてあり、それを弾くための行列ができていた。私は、その時初めてピアノが置いてあったことに気がついた。

ちょうど、その時ピアノを弾いていた若者はなかなかの腕前で、カンパネラを弾いていた。その演奏は、プロのようではなかったが、さっきまで聴いていたコンクールのそれとは違い、のびのびと感じられた。ああ、私はこういう音楽しか今まで聴いてこないようにしてきたんだな、と思った。たしかに、私はあのコンクール会場で聴いたような音楽は無意識的に聴かないようにしてきたのだろう。

芸というものを熟成させる過程で、どうしても、人に睨まれながら演奏をしなくてはいけない局面を何度も通過するであろう。けれども、そのような演奏をいつまでもしていては芸としてお金を稼げるようにはならない。あの、厳しいプレッシャーを通り越して、あたかも都庁の展望室で弾いているような演奏ができるようになって初めてそれが芸として成り立つ。そんな、どうでもいいようなことをつくづく考えながら、展望室を後にした。

都庁を後にして、照りつける暑い日差しの中を、新宿駅まで向かった。何か、美しいものが生まれるまでの産みの苦しみと言うものをまざまざと見てしまったような気まずさを感じながら、私たちは初夏の新宿を歩いた。