いつかはBob Jamesの曲を

我が家にはRhodesピアノが2台ある。一台はRhodes Stageでもう一台は、Rhodes Suitcaseだ。なぜ、2台も持っているかというと、これはもう道楽の世界で、実際のところ本当に2台も必要なのかは怪しいところなのだけれど、トレモロを楽しむためにはどうしてもSuitcaseが必要になるし、書斎に置くにはStageが丁度良い。

それで、2台ある。

なぜ、シンセに入っているローズの音源ではダメなのかというと、これはもう、ローズを触ってみたことがある人にしかわからない世界である。生のローズにはそれにしかない感触がある。特に木製鍵盤のRhodesは格別である。

私はRhodesピアノの音が好きで、いつも、聴いていたいぐらいだ。とくに、Bob Jamesの弾くローズの音は良い。彼がどのモデルでレコーディングしているのかは知らないけれど、彼のローズの音には、彼にしか出せない何かがある。あの音はスーツケースでしか出せない。したがって、スーツケースはどうしても必要なのだ。

それでは、ローズで何かを弾けるのかと言われれば、何も弾けない。私は、鍵盤楽器はほとんど弾けないのだ。

いつかは、ボブジェームスの曲を一曲でも弾けるようになりたいものだ。

ゴミ同然で手に入れたGretsch 6117

約10年前に、1964年頃製造のGretsch 6117、いわゆるDouble Anniversaryを楽器屋で発見した。その時は、ボロボロで、ゴミ同然の状態だった。ネックはかろうじてボディーにくっついていたが、いつ取れてきてもおかしくないような状態だった。

楽器屋に値段を聞くと、まだ値段はつけていないという。

値段が付いていないのでは仕方がないので、そのまま帰ろうとしたのだが、なんとなく不憫に思い、もし値段が出たら教えてくださいと一言伝えて、連絡先をおいて店を出た。きっと15万〜20万ぐらいにはなってしまうだろうな、と思っていた。その頃比較的綺麗な60年代のグレッチのアニバーサーリーはだいたい25万円ぐらいだった。

数日が経って、仕事をしていると、携帯電話が鳴った。楽器屋からだった。電話口でそのグレッチの値段を言われた時、思ったよりも安かったので、驚いたのを覚えている。

「ただ、状態が酷いんです。もはや楽器として機能しません。その上での値段です。」と伝えられた。

その日、仕事帰りに楽器屋まで飛んで行った。楽器屋で改めて見てみると、その楽器は酷い状態だった。ピックアップは最近のフィルタートロンに交換してあったのだが、どちらも高さが合わなかったらしく、ブレーシングを削って、大きなキャビティーを開けてピックアップがマウントしてあった。そのため、ブレーシングは折れる寸前で、出てくる音もガラガラという酷い音だった。

それでも、楽器屋にお金を払って、ギターを梱包してもらい店を出てきた。

そのあと、10年間のうち、2回ほどネックを取り外してリセットした。60年代のグレッチのネックジョイントの工作精度はひどく、いくらリセットしても、所詮は素人仕事、何度やっても起きてきてしまう。

今も、いつ何時またネック起きが始まるかはわからないけれど、弦を張り、2日が経過した。その間に、ネックの反りを直し、フレットを磨き、なんとか音が出るようにまで回復した。

ブレーシングはスプルース材で埋木してキャビティーのようになっていた箇所は直したのだけれど、まだガラガラという音しか出ない。それでも、買ってきた当初よりはだいぶマシになって、一応ハコモノの音が出るようにまでなった。

ピックアップは10年ほど前にヴィンテージのハイロートロンとディアルモンドの安物に付け替えたままだが、かろうじて良い音が出ているので、そのままにしている。

これ以上、このギターにお金をかけるわけにもいかないので、今できる調整だけしているのだけれど、いまでも、いつ壊れてきてしまうかはわからない。

ライブに使えるわけでも、練習に持っていけるほど頼りになるわけでもないけれど、大切な私の相棒。Gretsch 6117.

出自不明のリゾネーターギター

色々なギターを今まで買ってまいりましたが、その中には、一体これなんだったっけ、というものも幾つかあります。それは、買ったことを覚えていないとか、そういうものではなくて、ボディーだけ買ったとか、ネックだけ買ったとか、そういったものが複雑に組み合わさって、気がついてみたら、これはもともとどこのなんというギターのボディーという触れ込みで買ったのか、などという代物が出来上がっていたりするのです。

今、私が押入れから取り出してきたギターもその一台で、ヘッドにはJohnsonと書かれているので、あの中国製のリゾネーターとかを量産しているJohnsonのギターのように見えます。しかしながら、私の記憶を辿ると、確か、このJohnsonのネックは、どこか楽器屋でジャンクで三千円ぐらいで買ったもので、ボディーは別のところから2万円だったかで(いや、もっと安かったかな)購入したものです。

Johnsonの方は、Johnsonと書かれている以上、確かにJohnsonのエレキギターのネックだったのでしょう。作りはチープで、木材もよく分からないクオリティーで、デザインも垢抜けないですが、グリップが太めで弾きやすいネックです。ギターのネックは、こうでなくちゃならん、とまでは言いませんが、私好みの太さです。

ボディーの方は、これがまた、どこにもなんとも記載されておらず、いったいこのボディーはなんだったのかと思い出せずにおります。

エレクトリックの、リゾネーターで、ピエゾとリップスティックピックアップが付いているので、そのミックスで使えるエレキドブロの定番の構成ですが、いかんせんボディーが軽いので、どうも、ネックとのバランスがイマイチです。イマイチなのですが、膝に当たる方のくぼみが、どちらかというとヘッド側に寄っている為、膝に乗せて弾いてもかろうじてヘッド落ちしないで弾けるか弾けないか、と言うような塩梅です。

いま、試しに膝に乗せてみましたが、やっぱり、ヘッドの方が重いようで、上手くバランスは取れませんでした。

しかし不思議なもんで、このニコイチのギターなのですが、ネックが思いの外ぴったりとネックポケットに収まっているのです。そして、リゾネーターギターの宿命、ネックのスケールがぴったりでないと、通常はオクターブチューニングを合わせることができなくなるのですが、不思議なことに、このネックとボディーはスケールがあっている為か(まあ、多分普通のフェンダースケールなのでしょうが)オクターブチューニングがかろうじて合っているのです。

このギターは、もしかしたら、ニコイチでなくてもともと、この状態で売っていたのかしら、と考えてみたのですが、よく見ると、ネックジョイントのあたりを削った跡があります。私の記憶が正しければ、確か、このネックのヒールの部分を、のこぎりでゴシゴシ切断した記憶もあります。

やっぱり、ニコイチだったよなぁと、しみじみ思いながら、久しぶりにこのギターを爪弾いておりますが、エレキとはいえ、リゾネーターが付いている為、生音がとても騒がしい。夜中に練習する為にはちょっとうるさ過ぎるようです。

また、しばらく、押入れに寝かせといて、次のバンド練の時にこっそりと持ち出してみようかなどと考えております。

もし、このギターのボディーがどこのメーカーのなんというモデルのボディーか、ご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただければ幸いです。

Lenny Breauという孤独

ピアニストは元来孤独な存在であるということを、先日まで働いていた職場で強く感じた。ピアニストは独りで完結するから、いつも孤独であると。

確かに、ピアノという楽器の特性上、一台の楽器でメロディー、コード、ベース総てのパートを受け持つことができる。私は、ピアニストではないから、詳しいことはわからないけれど、ピアニスト一人いれば、音楽は成り立つ。

それは、クラシックの世界だけでなく、ジャズにもピアノソロのアルバムは存在するし、ピアノソロのコンサートも開催されている。いわんやクラシックの世界でピアノは多くの場合ソロで演奏される。器楽の伴奏とか、室内楽、コンチェルトのソリストとしての演奏場面はあるけれど、クラシックでピアノの出番といえば、圧倒的にソロが多いのでは無いだろうか。

ピアノソロ、というものを鑑賞するのが私はあまり得意ではなかった。それは、クラシックもジャズも同じで、ピアノという楽器の音色だけでは、なんだか物足りないような、そんな気がしていたのだ。ピアノソロの弾き語り、というのであればその範疇では無いのだけれど、歌もなく、ただピアノのん音色だけで一つのコンサートを聴くというのは、これがまたなかなか疲れるのである。

ピアノソロの鑑賞には集中力が必要だ。

あの、「ピアノの音色」のなかに、歌をみいだして、そこに絡まる対旋律やハーモニーの妙味を聴き取るのはなかなか大変な作業である。そこには、オーケストラほどの多彩な音色は存在しないし、その一方で、ピアノの音色というのは思いの外多彩なのである。そこまで聴き込まなくては、ピアノの音楽というものは聞こえてこない。

ギターという楽器も、ピアノ同様に孤独な楽器である。こと、クラシックギターは多くの場合ソロで演奏されるという意味でもピアノと同様である。同様に、ソロで演奏される楽器でありながら、ギターはピアノほど多才な楽器ではない。できることに限りがある。音色のヴァリエーションも、ピアノほど様々ではない。

クラシックギターと一般に呼ばれる楽器は、フラメンコギターや、フォークギター、エレキギターと違い、ソロで聴かせることを想定して作られている。もちろん、エレキギターや、フォークギターでソロ演奏をする場合もあるのだけれど、クラシックギターの音色は、その他のギターに比べふくよかでいて、一音一音に芯があるようにできている。

Lenny Breauという、ギタリストがいる。彼は、チェット・アトキンスに見出されてデビューしているから、分類で言えば、もともとカントリーのギタリストなのかもしれないけれど、彼のキャリアのほとんどは、ソロのインプロヴァイゼーションを行っていたから、ジャズギタリストとも言えるし、既存の音楽のジャンルにとらわれない活動をしていたとも言える。

今夜は、その、レニーブローのCDを聴いている。

ギターソロで奏でられる、彼の音楽は、どこか暗く、乾いている。私は、彼のギターの音色が好きだし、彼が奏でる音楽も好きなのであるが、どうしても、それが心地よく感じられない。彼の演奏には、影があるし、その影は私を不安にさせ、暗い気持ちにさせる。

そんなCDを聴いいていると、落ち着きや、癒しというものとはまた違った自浄作用をもたらしてくれる。これは、クラシックギターの音色のもつ孤独さによるものかもしれない。

独りきりの世界に浸りたかったら、聴いてみてください。Lenny Breau。

 

 

フリオ・イグレシアス!

今日、明日と仕事のお休みをいただいた。

お休みは割とちゃんといただいているのだけれど、家にいても落ち着かないので、休みの日も仕事場につい行ってしまったりすることもここ最近あったのだけれど、今日ばかりはゆっくり家で休んだ。ちょっと御茶ノ水に1時間ほど行ってきたけれど、それ以外は特に外出らしい外出もせず、酒も飲まず、昼寝もせず、一日中音楽を聴いていた。

ここ最近、暑い日が続いたせいか、夜の寝つきが悪く、昨日は寝るために銭湯に行って汗を流したのだけれど、結局CDラックにあるAORを片っ端から聴いて夜1:30になってしまった。AORなんて、あんまり聴かないのに、職場の友人とAOR談義で盛り上がり、それで急に聴きたくなり、夜中まで聴いてしまったのだ。

AORの話は、さておいて、今日も日がな一日音楽を聴いていた。

今日は、朝から、妻のパソコンでジャズのYouTubeを聴いていたりしたら、止まらなくなってしまい、書斎にこもって爆音でオトナの香りがするビッグバンドもののジャズバラード、それも歌ものばかりを聴いて1日を過ごした。お仕事をされている方もいるというのに、誠に呑気な休日を過ごしてしまい、世間様に申し訳ない。

私は、普段あまりビッグバンドもののジャズは聴かない。暑苦しいからだ。この残暑の中ビッグバンドやラテンものは暑苦しくてつらいと感じてしまう。ところが今日だけは違って、ラテンものなんかも聴いた。フリオグ・イレシアスなんかも聴いてしまった。

やめてしまいたいことだらけ

このブログには、ずっと正直な言葉を書いてこなかった気がする。

誰に遠慮しているのか。私の近親者もこのブログを読んでいるからなのか、はたまた、このブログにテーマのようなものを作ってしまったためなのか。もしくは、そもそもこのブログにはテーマがないためなのか。

どうも、綺麗事ばかりを並べてしまい、全く自由に書けなくなってしまった。それは、自分に娘ができたためなのか。綺麗事以外のことをさらけ出したところに、やっとものを書くことの意味があるような気がする。

私は、美しいことを書きたいわけではなく、真実を書きたい。それが、誰かを傷つけているとしても、実感を書きたい。本当に生きている自分を書きたい。誰にとっても心地よい文章なんてもんは書きたいとは思わない。

そう思って、10年ほど前に別のブログを書いていたのだけれども、こっちのブログでは綺麗事ばかりをばかりを書いてきた。だから、自分で読んでいても全くつまらないことばかりを書いてきた。ラジオ体操のように健全で、だれにも刺さらない文章ばかりを書いてきた。

もう、そんなことは終わりにしたい。これからは自分の書きたいことを書いていきたい

と、言ってみたものの、書くべきことがないのだ。

昨年の夏を過ぎたあたりからか、いや、もうずっと前からだろうか、私の心には何も残らなくなってしまった。

本を読む習慣をやめてしまったせいかもしれない。酒を飲む習慣をやめたせいかもしれない。薬が変わったせいかもしれない。なぜなのかはわからないが、とにかく私の心に穴があいてしまって、もう何も蓄積されなくなってしまった。

かつて私は、もっとおおらかに人を愛することができる人間だった気もする。気のせいだけかもしれないけれど、このところ数年間、私にはほとんど感情というものがない。何かに打ち込んだり、何かに心を奪われたり、そういう感情をどこかに捨ててしまっていたのかもしれない。

自信を失い、情熱を失い、好きだった仕事も失った。

今の生活も決して嫌なわけではないけれど、黙っているだけでは何も生きている実感がない。駄文を書くことにも面白さを感じなくなってしまった。かつてはあんなに本を読んだり、文章を書くことが好きだったのに。

今の仕事はそこそこ情熱をもってやっている。少なくともそのつもりではあるけれども、ここにいるべきなのかと常に自問自答をする毎日。

ひとまず、一度立ち止まり、

本を読み、

酒を飲み、

今の薬を飲むのをやめてしまいたい。

 

妻がピアノを弾く写真をプリントした C. BECHSTEIN V

写真を撮るのと、モノクロプリントが趣味だったので、自宅の物置に水道を引っ張って暗室にしている。しかし、困ったものでここ数日の雨にやられて、暗室が雨漏りするようになってしまった。

暗室の床に置いてあった印画紙が全て水に浸かってしまい、かつてプリントしたプリントも全て水に浸かってしまい、私にはポートフォリオらしいポートフォリオが全くなくなってしまった。そもそも、たいしてポートフォリオらしいものはなかったのだけれど、これはこれで悲しいもんである。

水に浸かってベタベタにくっついてしまった古い写真を全て燃えるゴミに捨てた。手元に残っていたネガファイルも、いくつかは水害に遭いダメになってしまった。何よりもこれが寂しい。

カメラも何台かは水害に遭い、カビが生えた。

カメラというものは元来水に弱い。水害にあってしまうと、終わりである。ここ数年、全く使っていなかったカメラとはいえ、かつては欲しくて欲しくてたまらなかったカメラたちである。ものすごく悲しい。ほぼ、立ち直れないでいる。フイルムで撮影する写真というものは、現像やプリントに大量の水を必要とするのだが、同時に、水にとても弱いのだ。

仕方が無いので、それらの写真とカメラの供養に、妻がピアノを弾いている姿を写真に収めた。カメラは水害の中でかろうじて生き残った1920年代(40年代だったか?)のプラウベルマキナ。それと、同じく20年代の6x9の蛇腹カメラである。蛇腹カメラには100ミリのアナスティグマートがついている。この二台は、かなり古くてボロボロなのだけれど、修理してガンガン使っていた。だから、床よりも2〜3cm高い場所に置いてあって、カビの被害も少なかったので、なんとか使うことができた。

このカメラで、妻が私たちの家宝ベヒシュタインを弾いている写真を撮ってプリントした。雨漏りした暗室で。

プリントに使った印画紙は、箱にカビがびっしりついていたのだが、ビニール袋の中はなんとか無事だったのがあったので、それを使った。高い印画紙だったのだけれど、供養だと思い使った。

妻は、休みの日にちょこっとだけベヒシュタインを弾いている。私もすこし触るのだが、ピアノというのはどうやら難しい楽器のようで、ちっとも上達しない。誰かに習えば良さそうなものなのだけれど、私は元来ひとにものを習うことが苦手なので、楽譜とにらめっこしながら、一音一音拾うようにして鍵盤を押さえている。この調子では、10年かかっても童謡も弾けるようにならないだろう。今まで、努力というものから逃げていた自分への戒めだと思って、ピアノに向かっている。

私と、ピアノの対話ができるようになるのはいつになるのだろう。

JBL 4312A を購入。とりあえず、Bill Evans Trioを聴く

約17年ぶりにスピーカーを替えた。

二十歳の春に上京した際に国立のオーディオユニオンでTannoyの安いスピーカーを買ったのだが、それに特に不満もなく今までやってきた。もちろん、満足していたわけでは無い。しかし、家ではあんまり大きな音は出せないし、聴く音楽も、カントリー、ジャズ、ロックやらクラシックはては演歌までだから、とくに偏りの無い安物のTannoyの音に慣れていたのだ。

偏りの無い、それでいて特に魅力も無い音であったのだが、やはり20年近く使っていると少しずつ物足りなくなってくる。特に、ジャズを聴くときのベースの頼りなさ、シンバルのシャリシャリ感が物足りなくなった。演歌だって、もっといい音で聴きたい。低音が安定するスピーカーで聴きたい。なんて思うようになった。

JBL 4312Aは期待通り低音が安定している。安定しているというよりも、大迫力である。JBLは低音が大迫力であるという評判は確かなようだ。部屋中にくまなく行き渡るベースの音。今までには無かった感覚だ。まるでライブハウスのようだ。

特に、アナログレコードを聴いたときに、今までは低音が物足りなかった。最近のCDはわりとドンシャリ系の音作りなのか知らんが、割とくっきりはっきり聴こえる。小型の Tannoyでは十分な低音は鳴らせないけれども、それでも、都会の喧騒に埋もれずにベースの音、バスドラの音が聴こえるような気がしていた。

しかし、 JBLに変えて初めてわかった。今までは低音が聴こえていなかったのだ。高音も聴こえていたのはほんの一部で、本当はレコード中にもっと豊かな高音部も隠れていたのだ。

JBLは決して万能スピーカーでは無いと思う。このスピーカーで聴くとバランスが悪くなってしまう音楽、特にクラシックなんかではあるだろう。オーケストラものやオペラなんかには向いていないと思う。思い込みかもしれないけれど。コンサートホールでオーケストラを聴くような繊細な音はこのスピーカーからは鳴らないような気もする。気のせいかもしれないけれど。

けれども、一旦それがモダンジャズとなると、このスピーカーを凌駕するものはこのクラスではなかなか無いんじゃ無いか。この、ピアノトリオを聴いているときの感覚が、ライブハウスのようだ。ウッドベースの最低音はもちろんだが高音部の音までパサパサしないで聴こえる。シンバルの音も、綺麗に聴こえる。ビッグバンドを聴いていると、生で聴くビッグバンドとは違うんだけれど、ビッグバンドらしい音圧に浸ることができる。

何よりも、フランクシナトラの声がくっきり聴こえる。さすがJBLである。フランクシナトラはJBLで鳴らすためにマイクの向こうで歌っているのでは無いだろうか、と思わせるほどシナトラの歌がドッシリとして聴こえる。ああいう、バリトンボイスにはうってつけのサウンド作りなんだろう。

今夜は、ビル・エヴァンスの「California here I come」を聴いている。ピアノトリオの名盤である。エディーゴメスの音が良い。今までエディーゴメスなんかを良いと思ったことはほとんど無かったのだけれど、なかなか良い。フィリーの音も良い。特にブラシの音が今までのスピーカーよりザラザラ感が出ていて良い。スネアのスナッピーの音がクリアだ。ビル・エヴァンスの音をどうとかいうのはよくわからないけれど、パーフェクトだ。

とりあえず、ビル・エヴァンストリオはJBLに向いているということは十分にわかった。

流行りに乗って、カズオ・イシグロ「 Never let me go」を読んだ

ノーベル平和賞だのなんだのにあまり興味はないけれど、やはりノーベル賞はすごいことだけは知っている。

ノーベル文学賞、などというと、それがどれぐらいすごいことなのかわからなくなってしまうくらいすごいものなんだろう。それは、川端康成、ガルシアマルケス、大江健三郎なんかの、数少ない私が読んだことのあるノーベル文学賞受賞者の顔ぶれをみても明らかである。

とくに川端康成は、すごいと思う。世界に何編の小説があるのか、私には見当もつかないが、まあ、数えて数えられる以上に現存することは確かだろう。星の数ほどという表現があるけれども、まさに星の数ほど、世の中には小説というものがある。

例えば、八重洲ブックセンターに行く。あそこにはそれこそ数え切れないほどの書籍が置かれており、9割9部9厘の本は読んだことのない本だ。その中の1割ぐらいが、小説やら文学という範疇に収まる本で、それだけを採ってみて、全て読んでみろと言われても、おそらく一生かけても読むことはできないだろう。しかし、忘れてはいけないことは、あそこに置かれている文学も、世界に現存する小説、文学のほんの一部であるということだ。

その証拠に、私は何度かあの店で中上健次の本を探しに行って無かった、という経験がある。中上健次に限らず、福永武彦、堤中納言物語もそうだった。無かった。

中上健次、福永武彦などと言ったら、文学の世界では大家である。その、大家の本ですら無い。いや、探したらあったのかもしれないけれども、見当たらなかった。いわんや、大家では無い方々の作品のこと、日本語に訳されていない海外の文学に思いをはせると、それこそ、八重洲ブックセンター50軒分以上の文学というものがこの世に存在するであろう。

その中でも、川端康成は特別なんだから、すごいと思う。数多ある文学の中から、「ノーベル文学賞」をとっちゃったんだからすごい。

なにも、ノーベル賞をとったから川端康成がすごいというのでもない。あまり本を読まない私の中でも、川端康成は特別にすごいと思う存在だ。彼の作品は何度もなんども読むたびに新たな発見がある。それだけでは無い、読むたびに心を惹くものがある。人をして、感動させる何かがある。それがいったいなんなのかがわからないのだけれども、とにかく強く惹きつけられるものがある。

生きていて、川端康成の作品に出会えてよかったと思う。夏目漱石の草枕だって、素晴らしい作品だと思うけれども、川端康成のほうが上だと思う。文学に上も下も無いとおっしゃる方もいると思うけれど、それでも、川端康成のほうが上だと思う。

それで、ノーベル文学賞である。

イシグロカズオ、もといカズオ・イシグロがとったらしい。かずお・楳図ではなく、カズオ・イシグロがとったらしい。あの、日の名残りのカズオ・イシグロである。

「わたしを離さないで」(原題Never let me go)を読んだ。

世の中では、村上春樹がとるんじゃないか、とか毎年騒がれるが、村上春樹がとるなら、その10年前にカズオ・イシグロがとらないとおかしいだろう。Never let him go!とカズオ・イシグロに叫ばれているような衝撃を受けた。

単なる気味の悪い小説とも捉えられるこの一編の中には、一貫したものがある。一貫性ではなく、一貫し、話を突き動かすものがある。それがなんなのか、言葉で言えるのであれば、この小説など読まなくてもいいだろうけれど、私にはそれがなんなのか言い表わせるボキャブラリーが無い。

あえて言うならば、それは、不安という言葉であろうし、腰掛の人生に対する肯定とも言える。自分という存在を肯定することの果てども無い戦い、そしてその戦いの虚しさ。そういうものがこの小説にはある。それが、ここで私の言っている一貫しているものと同じものでは無いのかもしれないけれど、ある意味ではそうだとも言える。いや、そう言いたい。

そう言い切りたいが、そう言えない。そういうもどかしさを含んだ人生そのもに対するどうでも良さと切実さ、それがこの小説にはある。

この際、主人公の置かれている特別な境遇は一度置いておこう。それでも、そこには誰もが持つ自分を肯定したいという飽くなき欲求と、肯定したところでどうということでも無いという虚しさがはっきりと描かれている。それは、すべての登場人物に共通しているようで、いや、まあ、共通しているのだけれども、それぞれに違った立場からその足元の不安定さが滲み出てきている。

これが、仮に普通の境遇の人の話だったとしよう。そうしたところで、この話そのものが私に訴えかけてくるメッセージはそれほど変わらないのかもしれない。

けれども、この小説の持つ独特の世界観、主人公たちの持つ境遇、普通の人生では無い人生が、まるで鏡のように私たち「普通の人」たちを映し出す。それも、かなりいびつな形に、不自然な形に、特権階級の人達として映し出す。

この小説は、他の多くの小説同様にいびつな鏡なのである。私を映し出すいびつな鏡。

この小説はそこだけでも、十分に成り立つ作品なのであるが、そこに留まらず、懐かしさを超えた気味の悪さが存在する。その気味の悪さも同様にこの小説を貫いている。気味の悪い小説というものは世の中にたくさんあるのだろうけれど、この小説に説得力があるのは、その気味の悪さの原因は読者自身にあるということを初めから投げかけてくることだろう。

まあ、それ以上書いてしまうとこれからこれを読む人たちに悪いから、書かない。それと、これほどまでに完成された作品について、何かこれ以上言える言葉を私は知らないから。

アンドリューヨークに飽きたのでミュリエルアンダーソンに切り替えた。

アンドリューヨークのHauser Sessionsを聴いている。

今更聴くようなアルバムでもないのだが、そんなに悪くもない。

そんなに悪くもないが、そんなによくもない。

セゴヴィアのために作られた、ヘルマンハウザー1世のギターを使って録音しているから、Hauser Sessionsというタイトルなのであるが、音楽として、これといって面白いものでもない。

そもそも、セゴヴィアはすごいと思うが、そんなに好きではない。アンドリューヨークだって、すごいとは思うけれど、そこまで好きではない。音は美しいと思うけれど、心を鷲掴みにするような音楽ではない。そこが、この人の音楽の良いところなのかもしれないけれど。

どんな夜にでも、ある程度心地よく聴けるアルバムではあるけれど、これは、純粋なクラシックギターファンは聴かないだろうし、フィンガーピッキングが好きな方々も、わざわざアンドリューヨークまでは聴かないだろう。ミュリエルアンダーソンあたりまでだと、そこそこポップな曲もやっているので、楽しく聴くことができる。

アンドリューヨークの魅力ってなんだろう。なんなんだろう。

クラシックギターの世界で新しいことをやっていることか。新しいと言っても、スティールストリングの世界では普通に行われてきていることなんだと思うけれど、それを作品として譜面に起こしているからすごいのか。

メロディーパートと伴奏パートの音色の使い分けが上手いから良いのか。

音色そのものが綺麗だから良いのか。

わからない。

結局、クラシック畑の人たちが弾くオリジナル曲って、なんだかドライで好きになれない。トミーエマニュエルのような躍動感、チェットアトキンスのような大味な感じ、そういうのがないきがする。

誰か、私の心を揺さぶるようなクラシックギタリストを紹介してほしい。

結局、村治佳織か。