読書という筋トレ

ここ数年本を読むという習慣を忘れかけていた。

あれほどまでに熱中した本や、欲しかった本もあったのにもかかわらず、何年もの間ほとんど本を読まずに過ごしてきた。そのせいで失ったものもたくさんあるかと思う。失ったものは失ってしまったので、可視化することはなかなか難しいけれど、たとえば、文章を書くことも好きではなくなってしまった。

本を読まなくなったのは、いつからだろう。体調を崩して一日中家にいた時も、ほとんど本というものを手に取らなかったということさえあった。

いま、自分の考える力の劣化を強く感じ、危機感を抱いている。それで、無理やり本を読んでいる。無理やりでも、読書はそれなりにためになるということは再確認できている。単なるインプットに終わらなければいいけれど、最悪、単なるインプットに終わったところで、失うのは読書に費やした時間ぐらいのものである。

読書を無理やり再開したのは、仕事のためである。仕事をするにあたって、自分の無知さと、刺激のなさに嫌気がさしてしまった。世の中には、無知なままでもいい仕事をできる人がいることはわかっているけれど、私はそういうタイプではない。かといって、常に勉強し続けてきたタイプでもなかった。

本を読む時間を作ることは、それほど難しいことではないかもしれない。電車に乗る時間や、寝る前の時間を幸い私は読書に割くことができるし、それ以外にも、酒を飲んだり、CD屋を見たりしている無駄な時間がたくさんあるので、その時間を読書に回せばいいのだ。

しかし、なかなかそう簡単にはいかない。

人間というのはやる気を起こすことが一番大変なのだ。やる気が起きてからは、あとはそんなに難しくはない。問題はやる気をいかに起こすかである。

やる気を起こすためにも、読書は役に立つ。読書をすると、自分の今まで知らなかった価値観を手に入れることができるし、それはグーグル先生や、ツイッターでは残念ながら手に入るものではない。しかし、困ったことに、グーグル先生やツイッターは、あたかも自分の持っていなかった価値観を提供してくれるような気分にだけはさせてくれるのだ。だから、つい人は易きにながれ、読書をしなくなってしまう。

もう、読書の時代は終わったという方もいるだろうし、古典を読むことから学ぶことが多いと言う方もいるだろう。私は、どちらも正しいと思う。読書なんかは、この時代においてある意味不経済である。自分の必要な情報にダイレクトにアクセスできない。そこに到達するためには、長い手順が待っているのが本というものの常だ。逆説的だが、だからこそ読書というものに価値があるのだと思う。

自分の必要な情報なんていうものはあくまでも、自分のイマジネーションの中だけの世界である。自分のアンテナは、自分が思っている何倍も小さい。自分の感受性を信じて進める人も存在するのだろうけれど、私にはそこまでの感受性はない。いや、感受性というのは、逃げであって、本当は努力という言葉の方が正しいのかもしれない。自分のイマジネーションは結局自分の努力であると思う。

そのための筋トレとして、読書は丁度いい。

テレビや、グーグル先生や、ツイッター等の手軽なメディアでは、その筋トレができない。筋トレをしなければ、重いものに出会った時に、諦めてしまう。私は、今まで、重いものをたくさん諦めてきてしまった。そして、手軽な方、手軽な方に逃げてきた。少なくとも過去数年にわたって。

いま、いきなり重量級の本を時々読んだりしているけれど、当然持ちきれない。かといって、軽いダンベルで基礎体力をつけ始めていては人生いくらあっても足りない。とりあえず、自分が持つことのできるギリギリの重さの本を読んで筋肉をつけている。

かつて、哲学書を読もうと思い立ち、何冊か読んでみたことがあったが、初めの5行目ぐらいから、全く頭に入ってこなかった。それも、当然であろう。私は哲学書と言うものに対して、どのように向き合えばいいのかを知らない。なので、仕方ない。仕方なく、4冊も読まずに諦めた。しかし、体力がついている人は、どのように向き合えばいいかわからない本であっても、力の加減だけで向き合えてしまうものである。私の目下の目標は、哲学書にすら立ち向えるぐらいの筋肉をつけることである。

「読書という筋トレ」への1件のフィードバック

  1. もうずいぶん昔のことですが、社会福祉学の修士論文を書くために、さまざまな本や論文を読みました。 
    その頃、僕は50歳に近づいていましたが、そんな歳になっても、新しい“なにか”を手に、将来に向かって進んで行けそうな気持ちが強まり、晴れ晴れするような感じでした。

    遡って、20歳代の頃、難しい福祉の専門書を少し読んでは戻りを繰り返しながら、
    それでもわかったようなそうじゃないような~。
    こんな調子で大丈夫だろうか、と思いながらもなんとか喰いつくようにして読んでいたのがなつかしい。

    20歳代から50歳ごろまで、通信教育の大学や大学院、いくつかの福祉系国家資格、ケアマネジャー試験ほか、たまに「なんでこんなこと続けているのか? いつも勉強ばっかりして」と自分で思うこともありました。

    でも、今はありがたい気持ちですね。
    そのようなことにお金や時間を遣う夫を支えてくれた妻。「うちのお父さんは、大人になっても勉強している」と誇らしげに言っていた子供たち。

    励まし、手を差し伸べてくれた上司や先輩。
    僕の話を熱心に聴いてくれていた、同僚や後輩、受講生や学生のみなさん。

    おかげさまで、今の僕がいるんでしょうね。

    歯の浮きそうなありきたりの話かもしれないし、まるで宗教か何かのような話かもしれませんが、そうやって受けてきた恩を、いくらかでも返せたらいいけどな、と思ってはいます。

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