どれだけCDを買っても聴きたい音楽がつきないこと

今はもうCDの時代ではないのかもしれない。

最後に映画のDVDをレンタルしたのはもう5年以上前だったかもしれない。よく覚えていない。結局一度もBlu-rayディスクというものの世話にならなかった。映画はもっぱらアマゾンプライムで視聴している。アマゾンプライムで観ることのできる映画は非常に限られていて、観たいと思うような映画に限って取り扱いがないのが常なのだけれど、まあ、それは仕方ないだろう。アマゾンの映画レンタル商売と私の趣味が合わないのだから。しかし、まあ、アマゾンプライムで十分事足りるぐらいしか映画を見たいという欲求がないのでそれはそれで割り切っている。

しかし、こと音楽となると、数多ある配信サービスではどうも満足ができない。未だにCDやレコードを買って聴いている。これは、映画の場合と逆で、もしかしたら私のCDラックにあるぐらいの音源であれば、どこかの配信サービスで十分カバーできるのかもしれないけれど、それでは満足できない。

私は、まだ見ぬ名盤がないか探すためにいつもレコードショップに足を運ぶ。書斎には約3,000枚のCDがあるのだけれど、それでは満足できないのだ。なにせ、今聴きたいというような音楽は大抵自宅のレコードラックにはないのだ。

もしかしたら、音楽を嫌いなのかもしれない。音楽に飽きているのかもしれない。けれども、きっとどこかに、私が今聴きたいような音楽があるのではないかと思い、レコードショップに足を運ぶ。

自宅にあるCDのほとんどは、かつて聴きたくて聴きたくて仕方がなかったものばかりである。その時々で、それらの音楽がないと明日を過ごせないのではないかという切実な思いで買いあさった。

けれども、ふと音楽を聴きたくなった時、そこには聴きたい音楽が見つからないのだ。

これを、贅沢病といえば、まさにそうなのだろう。けれども、耳は常に贅沢で、耳の贅沢は心の贅沢で、心の贅沢は常に心を豊かにしたいという欲求に駆られているものである以上、この贅沢病を治そうとも思っていない自分がいる。

とは言っても、聴きたい音楽が手元にないというのとも違う。手元にある音楽はどれもなかなか悪くない音楽なのである。これほど多くの素晴らしい音楽と出会え、聞こうと思えばいつでも手が届く、この音楽視聴装置という魔法に出会え、それを所有していることは私にとってこの世界に生きている最も素晴らしい喜びの一つなのである。まったく、この世界に生まれてきて良かった。

音楽はときに素晴らしく心を打つ。それは上手い下手を超えて、魂に手をかざしてくる神々のような存在だ。そもそも私が聴きたい音楽は上手い音楽ではない。例えば、クラシックのピアノであればホロヴィッツやミケランジェリなどは文句なしに上手い。その他、有名無名、ベテラン・若手の上手いピアニストは腐るほどいる。しかし、それがどれ程上手くても魂に手をかざすような演奏に仕上がっているわけではない。私がいう素晴らしい音楽は、私を超えて、私の魂と、音楽の神様に接近してくるような音楽なのだ。

以前、仕事柄、色々なピアニストの音楽を聴いた。その中には一部の有名人を含めて、上手いと言われている人、下手と言われている人がたくさんいた。しかし、その中で、私の魂に手をかざしてきたような演奏に出会えたのはほんの数回だった。まあ、私が自分から進んでピアノ音楽の演奏会に足を運ばなかったせいも大いにあるけれど、それでも、その少ない経験の中から私は学んだことがある。音楽の良し悪しは、演奏の良し悪しと必ずしも一致しないのだ。演奏が素晴らしいから、その音楽が素晴らしいわけではない。その聴き手の心の有り様にいかにアプローチしてくるかがもっとも大切なのである。

さらにピアノの世界には数多のコンクールがあり、幼い子供から、若手音楽家まで多くの人たちが参加している。

あれは、不毛だと思う。

たしかに、優れた演奏家を見つけることはできるだろうし。参加する演奏家はそのコンクールのために腕を磨くだろう。けれども、コンクールで秤にかけられるような音楽の中に、素晴らしい音楽を見つけることは、太平洋の中になくした貝殻を探すよりも難しい。もちろん、優れた演奏家は見つけ出すことができるのだが。

あのような形の中から、音楽を紡ぎだそうという無謀で不毛な産業に、何の意味があるだろう。

私が言っているのは、エキセントリックな音楽を聴きたいと言っているのではない。豊かでも良いし、貧しくても良いから、心を刺激してくれるような音楽に常に向き合っていたいのだ。それは、必ずしも優れた演奏の中には見つからない。もちろん、下手な演奏からそれを探す方が何万倍も困難なことは承知しているのだけれど。

そのような視点から、音楽と向き合える音楽家が出てこなければ、音楽の時代は終わるだろう。これは、クラシック音楽に限らず、ポップスにもジャズにも言える。むしろ、ポップスやジャズこそ、優れた演奏家の中から素晴らしい音楽を見つけることは困難であるとすら思う。

時々、音楽に良し悪しはないという意見をおっしゃる方もいる。彼らは、音楽を聴く心を持ち合わせていないのだろう。音楽に良し悪しはある。ただ、それが見えづらく、わかりづらいだけなのだ。

そのような事情で、私は時に素晴らしい音楽を探し、レコードラックに向かう。けれども、なかなかその中から、その時の気分に合っていて、かつ素晴らしい音楽というものを探すことは非常に困難だ。だから、そのためのメサドン療法として、上手い音楽も持っている。人間とは不思議なもので、良い音楽にあまり触れすぎていると、心が疲れてしまう。そういう時に、どうでも良い上手い演奏を求めるのだ。

今日は、疲れたので、上手い演奏を聴いている。これはこれで悪くない。

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