今更私が言うことでもないけれど。

もう収束したのかもしれないけれど、アメリカでは、どうも大変なことになっているらしい。

なんでも、人種差別の問題をまた持ち出してデモをやっているようだ。たしかに、差別される側にとってみれば、一大事なわけだし、長い間差別を受けてきたことに対する怒りがあるだろう。話を聞いている限り、その怒りも真っ当な怒りだ。

私は、ジャズやらブルースやらのいわゆる黒人音楽などと呼ばれる音楽が好きなのだけれど、ふと考えてみると、ジャズやらブルースやらは、今でも黒人は黒人同士、白人は白人同士でグループを組んでいる方が多い。まあ、例外はたくさんあるけれど。

本当に凄いミュージシャンは、どんな人種だろうと凄くて、どんな連中と組んでもすごい音楽ができる。例えば、マイルスデイヴィスのバンドの歴代のピアニストには黒人も、白人も同程度いたし、アジア人(日本人)だっていた。それでも、すごい音楽を作り続けてきたことは間違いない。

今更、黒人だの白人だのまだ言い続けなくてはいけない世の中に住んでいるのはさぞかし住みづらいだろう。本当なら、インド人だって、中国人だって、日本人だって南米系の人だってたくさん住んでいるのだから、白人と黒人の二元論で話ができる世の中でもないのに、いまだに「Black lives matter」とかいうスローガンが出てくるのだから、恐れ入る。本来なら「Lives matter」というのが筋だろう。

それなのに、今更そこに「Black」という単語を入れて話をしなくてはいけない世の中であるというのは、何と嘆かわしいことか。

この議論は、なにもアメリカに限ったことではなく、ここ日本でも似たようなことは規模さえ違えども行われている。被差別者と、差別する人という図式が成り立たない世界は悲しいかな、まだ存在しない。日本人と外人、関東人と関西人なんて、とくにいがみ合っているわけでなくても、お互いに目には見えなくても差別はあるし、差別とまでは言えなくても目に見えない優越感、侮蔑、嫌がらせははびこっている。もっとわかりづらいのは、若者と老人、男性と女性、障害者と健常者、そういう世界の差別もある。

しかし、今になって「Old lives matter」とか「Woman lives matter」とか言ったりしてみると、なんとも浅はかな響きがしてくるではないか。人間生きていれば、若者だって老人だっているわけだし、男だって女だっている。精神障害を持っている人もいれば、そういう障害という名前をつけられることなくのさばっているアホ野郎もたくさんいる。それに、今更ラベルをつけて、「俺は本来は偉いんだ」とか「あのかわいそうな方々にお恵みを」とか言ってみたところで、それは、差別をアプリオリなものとして受け入れているだけに過ぎないのではないだろうか。

私は、黒人だろうと、白人だろうと、日本人であろうと潰されていく人たちは潰されていくし、生き続ける方々は生き続けると思っている。ただ、社会はみんなに平等ではないことはわかっているから、運悪く、生まれつき潰されがちな立場に立っている方々も多いだろうということは推して測れる。そんなことを、いまさらわかりやすくしてやらなくてもいいのに。

わかりづらいので例を挙げると、私なんかは高校の頃、オーストラリアに留学していた。オーストラリアの高校で日本人は人間以下だ。白人、赤毛、アボリジニー、近隣諸国のネイティブの人、そのあとずーっと降って日本人である。一部の先生方からの差別も含め、ほとんど人間扱いされなかった。そして、その代償なのか何なのかわからないけれど、被差別者の我々は、ことあるごとに表彰された。まるで、その表彰が我々被差別者へのラベル貼りの作業のように。

今更、そんなこと言ってみたところで時代遅れなのはわかるけれど、人間はそうやって差別する側か差別される側に回りたがる癖があるらしい。私も、オーストラリアで日本人であるということを捨てて、現地人づらをしていれば、あんな目に合わなかったのかもしれない。現地人のように汚い言葉を使って、現地人並みに学校の成績が悪く、現地人並みに浅はかで、表彰の数々をはねのけていたら、あんなに差別されなくても良かっただろう。

しかし、私は、そんなアホな真似をするぐらいであれば、好んで差別され続ける道を選んだのだとも言える。現地人のように体はでかくなかったし、英語も下手だったが、そんなことよりも、自分が日本人であることにこだわった。自分自身に「私は日本人です」という看板を背負わせて歩いていた。そんなに日本人であることにこだわる必要はなかったし、そんなに嫌ならオーストラリアなんかにいなければ済んだ話だったのに。

アメリカの人種差別の場合は、もっと根が深く、今更アメリカを出て行くわけにもいかず、すでにコミュニティの中で居場所も見つけている方々に対する差別だから、こういう面倒なことになってしまうのだろう。

こういう時だからこそ、もう一度ラベルを貼ろうとしている自分たちに気がついて、ラベルそのものよりもラベルを貼ろうとする浅はかな自分たちのアホらしさと愛おしさに気づき、もう、そんなこと言ってる場合ではないだろう、こんな世の中なんだから、としらばっくれてみてもいいのではないかと思う。差別することの罪よりも、差別しやすくすることの罪をもう一度考えてみてはいかがかと思う今日この頃である。

「今更私が言うことでもないけれど。」への1件のフィードバック

  1. 「仏教」は一元論とのことですが、
    僕は長い間それを知らなくて、一元論だったことを知ったときは驚きました。
    仏性はすでに自分の中にあると。
    「キリスト教」は二元論だそうです。
    神が迷える子羊を救ってくださると。
    でも、僕には「イエスの教え」そのものは一元論のように思えている。
    欧米の福祉理論はキリスト教の影響が大きいですが、一元論のように思えます。
    僕は、国から出たことがない。海外旅行くらいしか。
    差別を肌で感じたことがない。
    いや、そうかな? この仕事をしていると「いい仕事ですね」って言われることが多いけど、
    本音かな?
    僕は好きでやっていますけれど。
    福祉はアートと言う学者先生もいらっしゃる。
    実は、僕もそう思っています。

    川岸さんのCD、夫婦で聴いています。
    ほんとうにいい音楽を紹介してくださってありがとう!
    あのピアノの音なんですね。

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