ディキシーランド再訪 Doc Cheatham

近頃、トランペットの話ばかり書いているので、ご興味のない方には大変恐縮なのだけれど、こういう不景気な世の中だからこそ、トランペットの温かい音色で鬱憤を吹き飛ばしてしまおうと、今夜もトランペットもののアルバムを聴いているChet Bakerが好きで、ジャズといえばチェットのアルバムばかり聴いているのだけれど、たまには趣向を変えて、今日はディキシーランドジャズを聴いている。

ディキシーというと、どうも苦手な方は苦手なようで、特にモダンジャズを聴く方の多くはディキシーを聴かないという人が多いように思う。たしかに、最近のジャズが好きな人がディキシーランドを聴くと、どうもトンガっていないような気分になってしまうのは仕方ないだろう。ロバートグラスパーを好きだと言う人にバリバリのディキシーを一緒に聴こうと誘ってもおそらく断られるだろう。

しかしながら、偏見を捨てて聴いてみると、こういうオールドスクールなジャズは、案外トンガっていてカッコイイ。一度に2本も3本もの管楽器がアドリブの取っ組み合いをやるジャズのスタイルって、ディキシーぐらいじゃないだろうか。片方がリードを吹いて、片方がそれにオブリガードをつける時もあれば、一気に両方とも前に出てきて吹きまくる、時にはそれに歌やピアノソロも加わる。こういうのは聴いていてスリリングである。

オールドジャズの世界も名盤は沢山あるけれど、今夜聴いているのは、Doc Cheathamというディキシー時代の大御所が歳をとってから吹き込んだ一枚「Swinging down in New Orleans」1994年の作品。バリバリのオールドジャズを高音質で楽しめる。

ドクチータムの若い頃の音源は聴いたことないのだけれど、80歳を過ぎたあたりから、ニコラスペイトンと共演盤を出したりして、俄然元気が湧いてきた名人である。1905年生まれのはずだから、このアルバムを吹き込んだ時は88歳。それでも、全然歳を感じさせない演奏である。

若い頃はどんなトランペットを使っていたのかはわからないけれど、このアルバムではスタンダードなBACHのストラディバリウスを吹いている、それも、ジャズマンには珍しい、銀メッキ。バックの銀メッキって、なんだかジャズに向いていないんじゃないかなんて、ずっと思っていたけれど、この人の演奏を聴いてイメージが変わった。ダークでハスキーな音色から、パリッとした音まで、バックらしいハキハキとした音色で聴かせてくれる。

そういえば、ウィントンもニコラスペイトンも、あのロイハーグローブも、若い頃はみんなバックを吹いていたっけ。ニコラスペイトンはラッカーの楽器だったけれど、ロイハーはやっぱり銀メッキ。楽器なんてなんだってかんけいないんだなあ、と思っていたら、私の好きなチェットベイカーも晩年はセルマーが貸与したバックのストラディバリウスを吹いていた。

肝心の音楽の方は、これがまた素晴らしい。ディキシーらしく4弦バンジョーも登場する。聴いていて、暑苦しすぎず、楽しいアルバム。しかも、ジャズのスタンダード曲集なのも嬉しい。ニューオーリンズ系のミュージシャンに明るくないので、ドクチータム以外のメンバーは誰も知らないのだけれど、ノリノリのスイングもあれば、しっとりと歌を聴かせるバラードありのアルバム。

ドクチータムは、トランペットもピカイチなのだけれど、渋いボーカルも悪くない。こういうアルバムは、難しいこと考えずに、じっくり聴かないで、さらりと聴いていても十分楽しめる。しかめっ面して、うんうん唸りながら聴くようなジャズとは違うから、疲れていても聴いていられる。

ジャズ、聴いてみたいけれど、どれから聴けば分からんという方にも、ジョンコルトレーンを聴くほど元気じゃないと言う方にも、ジャズとはなんなのかわからなくなってしまったと言う方にも、オススメできるアルバムです。ジャズとはなんたるかを、もう一度叩き込んでくれる、そういうアルバムです。

 

あ。このアルバム紹介するの2度目だった。

「ディキシーランド再訪 Doc Cheatham」への1件のフィードバック

  1. いま、職場です。昼休み中。
    文章を読んでいて、中学1年生の頃のある出来事が瞬間的によみがえりました。

    父が病死したのはこの年の10月。
    当時、千葉県の君津市に住んでいました。ここには大きな製鉄所があるのです。
    僕は、福岡県の飯塚市生まれ。ここは炭鉱町。石炭で栄えた街です。
    吉原町といって、とても賑わったところ。いわゆる夜眠らない街だったところです。
    父の実家は、その商店街にある町工場。
    祖父が始めた工場です。中村式ポンプって、特許をとって営んできた。イギリス人に弟子入りして知識や技術を身につけ、自分の工場を持ったのだそうです。
    石炭の時代が過ぎ、石油の時代になってゆく。
    街は、かつての賑わいがなくなっていきます。
    三男坊の父は、サラリーマンになった。
    北九州市に八幡製鉄所という大きな製鉄所があります。そこが君津市に新工場を建てた。民族大移動です。うちはその中の一家族だったと言うわけです。

    父が亡くなった年の12月。クリスマス。一家の大黒柱をなくした僕たちは、年内中に、母の里である福岡市に移ることが決まっていました。
    ちょうどクリスマスの日。僕と妹は、二人で家にいました。テレビで歌番組かなにかをやっていて一緒に観ていました。
    母は、引越しの準備やパートの仕事で忙しそうです。「今年のクリスマスは、なにもしないまま過ごすのだろう」と思っていると、夕方、母が帰宅して「早く着替えなさい。街に行こう!」と言うのです。
    びっくりしながら、でも、とても嬉しかった。3人でパスに乗って、街に着いたときは、ずいぶん暗くなっていました。
    デパートに入ると、母が「何でも好きなものを選びなさい」と言うのです。
    僕は、レコード売り場へ行って一枚のLPレコードを選びました。
    サッチモさん、ルイ・アームストロングさんのベスト盤。

    僕がトランペットを初めて吹いたのは小学5年生の2学期の終わりごろです。
    ある日、なぜか、担任の女性の先生が「中村君、放課後に音楽室に行ってごらんなさい。音楽クラブが練習しているのは知っていますね。もし、その様子を見て、あなたが気に入ったのなら、入部できるはずですよ」とおっしゃるのです。
    僕は「先生は、どうして僕にそんなことを言うのだろう?」と思いました。だって、僕はピアノを習っているとか、特別に歌がうまいとか、ハーモニカやリコーダーがうまいとか言うわけではなかったから。それに、その音楽クラブは、“勉強のよくできる優等生”の集まりのような印象だったから。
    放課後、音楽室に行ってみると、顧問の先生から準備室に呼ばれ「これを吹いてごらん」とトランペットを手渡されました。隣に6年生の先輩がいて「ふっ~、って吹いても音は出ないよ。ぶぅ~、ってやるんだよ」と言ってトランペットの持ち方や、構え方を教えてくれました。
    緊張しながら吹いてみると、なんと音が出たんです。すかさず先生が「合格! これから君は、このクラブのトランペッターだ」と。
    それから毎日、トランペットはいつも僕のそばにいました。

    でも、中学校には吹奏楽のようなクラブがありませんでした。僕は剣道部に入って毎日練習。帰宅してからは、入学祝で買ってもらったギターを弾いていました。
    トランペットとはお別れでした。

    でも、僕はトランペットが好きだった。プロのトランペッターはほとんど知らない。ニニ・ロッソさんのレコードは買ってもらって聴いていましたが。ニニ・ロッソさん以外に知っている唯一の“ジャズ”トランペッターがサッチモさんだったのです。
    中学に上がった僕は、ラジオを通して、ジャズなるものに、まだ見ぬものへの憧れのような気持ちを抱いていたのです。

    サッチモさんのレコードを、それこそ抱き抱えるようにして家に帰りました。早速、聴いてみた。2~3曲聴く頃には「すごい、強烈、ぼくには刺激が強すぎるような気がする」と思ったのを思えています。丁度その時、鼻の奥がツ~ッとなって、あれっ、っと思った瞬間、鼻血がポタッ。
    そばにいた妹が、台所で晩御飯の用意をしている母に「お兄ちゃんが鼻血だしてるよ」と。慌てて母が「だいじょうぶ!」とそばに来てくれました。
    その時、鼻にちり紙を詰めた僕が「ジャズを聴いてたら鼻血がでた!」とおどけてみせると、母と妹が、大声で笑ってくれたのです。

    たったそれだけのことだったのに、僕はその時の様子を、今でもはっきり覚えています。
    父は長い入院生活の末に亡くなりました。悲しいことが続き、つらいことがあったばかりなのに、僕のささやかな、冗談のようなしぐさで、親子3人が笑えたことが、とても嬉しかったのです。

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