The Weight「幸せで満たされない」気持ち

肩の荷をおろせ、肩の荷を降ろすんだ。荷物を降ろして楽にすれよ。

the bandのこの名曲を、Marty Stuartが歌っているのを聴きながら、私の心は少しだけ救われる。この街で住むということはなにかとストレスがかかるもんなのである。

何かとストレスがかかる。ひとりでは抱えきれないほどの荷物を背負いこみ、朝の満員電車に乗り込む。乗り込むというよりも押し込まれるように。

会社の最寄駅についたら、レッドブルとペットボトルの紅茶を買い、一気に飲み干しオフィスへ向かう。そのまま、いちにち働き通しだ。

昼休みもろくに取れない。狭いオフィスのボロボロのデスクに座り、コンビニで買った昼ごはんを食べる。昼を食べながらも、視線はパソコンのモニターを見ている。キーボードから手を外さずに、昼飯をほうばる。

夕闇が降りてくる。夕闇が降りた途端に、私の手元には仕事が舞い込む。なぜだかわからないが、毎日物事はそのように進む。大抵はトラブル。トラブルでなくても、夕方に舞い込む仕事は大抵は面倒ごと。

面倒ごとも片付かぬまま時計は9時を回る。

これ以上、仕事を続けても効率が下がるだけである。

10時を回る前に、私はオフィスを後にする。時には11時をすぎることもある。それでも、給料が一円でも多くもらえるわけではないし、会社の景気も良くならない。

名刺に書かれた肩書きばかりがどんどん立派になっていっても、私の給料は一円も上がらない。世の中の30代後半のサラリーマンの平均の6割ぐらいの給料で、こうして楽器屋の毎日は過ぎていく。

達成感も、社会への貢献も、自己実現も何もない職場である。

しかし、私は楽器屋という商売以外にやりたい仕事もないのでそこで働き続けている。

楽器屋は悪い商売ではない。なによりお客様を含め、楽器が好きな人たちに広く夢を与える仕事だし、夢を売っている仕事だからだ。

私は、楽器がうまい人に楽器を買って欲しいとか、良い楽器だからたくさん練習して欲しいとか、全く考えない。ただ、楽器を買って、生活の片隅(時として生活のど真ん中)に楽器を置いて、その幸せを甘受して欲しいとだけ思う。もしも、楽器が買えなくても、楽器が欲しいという気持ちを温めることによって幸せを感じて欲しい。それが我々楽器屋のできる精一杯のことだから。

楽器を練習するとか、上手いとか、得意だとかはそれとは全く別の話だ。いい楽器を買う人たちには、楽器の良さを何かしら感じてもらい、それに喜びを感じてもらえればそれでいい。楽器の良さは、性能ではない。良い楽器とは、所有する人の夢を叶えてあげれる楽器だと思う。「高いから欲しい」「高級だから欲しい」「なんとか手に入る範疇だからほしい」「練習したくなるから欲しい」「持っているだけで満足できるから欲しい」「いい音がするから欲しい」等、理由などなんでもいい。

楽器屋の中には、いい楽器は上手い人に使って欲しいと考えているアホな輩がいるみたいで、私自身が楽器屋に楽器を見に行く際も、楽器屋の店員が私の楽器の腕前を計りにかけて私に「ふさわしい」商品を勧めてきたりすることがあるが、あれはとても不快である。だいたい、楽器屋に私の楽器の腕前についてとやかく言われたくない。私は、ただ、いい楽器が欲しくて楽器屋に行くのだ。黙って、俺に良い楽器を安く売って欲しいのだ。時には、ロクデモナイ楽器を高く売りつけて欲しいのだ。

楽器なんてたいした弾けなくたって、楽器の良し悪しはだいたいわかる。わからない場合でも、「値段」という分かりやすい計りの針が楽器にはついている。

だいたい。楽器が欲しくなった時に、2〜3店舗見て回ると、何が「良い楽器」で何がそうでないかは誰にでもわかるもんだ。わからないのではないかと考えるのは、楽器屋の勝手な思い上がりで、そんなことはない。誰にだって、自分のニーズに合っている楽器ぐらい5〜6台の楽器を触っているうちにわかる。

この感覚は、美術品を買ってみるとよくわかるだろう。美術品なんて、よく分からない、と思っている方も多いのかもしれないけれど、いざ身銭を切って絵を買おうと考えてみると、自分の予算、それに見合った価値のもの、自分の好みがはっきりしてくるのだ。

私が仕事で扱っている楽器は安い楽器ではない。安い楽器なら「性能」で差別化して売ることもできるかもしれないけれど、「性能」は安物の説明にしか通用しない。高価な品はいかに「夢」を提供できるかにかかっているのだと思う。だいたい、ランボルギーニを買う時に、取説のスペック表を見ながら比較検討する奴なんてほとんどいないだろ。ランボルギーニはランボルギーニだから欲しいんであって、フェラーリよりもスペックが良いフェラーリの代替品として買うことなんてほとんどないのだ。

私は、ギター屋に行って、「さて、ギブソンにしようか、それともフェンダーにしようか」なんて考えたことは一度もない。「どっちも欲しい」ということはある。どっちも欲しい時は、「どっちかより欲しくなった方」を買う。2者択一ではない。ギブソンとフェンダーは、ペットに猫を飼うか、鳥を飼うかぐらいの違いなのだ。

私の仕事は因果なことに、ピアノ屋である。今まで一度も興味がなかったピアノを売っている。ピアノはギターと違って滅多やたらに「ギブソンもフェンダーも」買うということができない。お金の方はそれを許しても(大抵お金の問題はなんとかなるもんだ)置き場所の方がそれを許さない。

ピアノ屋という商売の嫌なところは、実際は2者択一であるはずもない、かけがいのないブランドを、他のブランドと比較させて選んでもらわなければいけないことだ。そして、フェラーリやらランボルギーニと違って、一度買ってしまうと30年以上壊れることなく、存在し続けることだ。

本当はあれもこれも欲しい。けれども、どれかを選ばなくてはいけない。これが、ピアノ購入の悲劇である。よっぽど広い家に住んでいるわけでないのであれば、この、どうしょうもない、不毛な2者択一(もしくは3者択一)を迫られる。

楽器選びの一番面白いところは、この「欲しいけど、どうしようかな」と考えることだと思う。「欲しい、欲しい、ほしい。けど、どうしようかな」これが一番幸せな瞬間である。ギターの場合、一生のうちに100回ぐらいはこの気分を味わえるのだが、ピアノの場合多くても一生のうちに3回が関の山である。

私自身、セールスマンではないから売るのは専門ではないのだけれど、自分が人一倍楽器屋に足繁く通うので、楽器が欲しい時の「幸せで満たされない」気持ちがそこらの楽器屋よりもわかる。

その「幸せで満たされない」気持ちをくすぐられながら、だまされる楽しさが楽器購入の楽しみだと思っている。

そんなサービスを提供できるのは、ソープランドか、外車のディーラーか楽器屋ぐらいしかないのだと思い、私は今日も楽器屋の店員として働いている。