この詞を頼りになんとか5月の訪れを乗り越えられそう。 井上陽水 「5月の別れ」

世の中はすっかり4月であるが、4月という月を仕事もしないで病気療養に過ごすのはとても歯がゆい。

4月は出会いと別れの季節であると聞くが、出会いと別れだけでなく、そういうことがない私にとっても、なにか特別な月である。例えば、6月と4月どっちが私にインパクトがあるかというと、なぜか4月である。

4月になると、年度始めということもあり、また一年が巡ってきたんだなあ、とつくづく感じる。それと同時に、もう3月は過ぎてしまったという、感慨にふける。3月が過ぎてしまったということは一年の4分の1が過ぎたということだ。1月から3月はどの年も足早に過ぎていく。これは、どういうメカニズムになっているのかわからないけれど、いくらのんびり過ごしていても1月から3月までの時間はとても短い。

今年、私は1月から今まで4ヶ月近く、ずっと仕事を休んでいる。建前上は療養中ということになっているが、自分の中では、果たしてもともと病気だったのかどうなのかわからなく、ただサボっているだけなのではないかと感じている日々である。実際、毎日毎日のんべんだらりと過ごしてしまい、何か特別なリハビリを積極的に行っているという実感もイマイチ湧かないまま毎日が過ぎていく。

このままでは、二度と社会復帰できないのではないかという不安が頭をかすめる。社会とのつながりこそが、今まで私に生きている実感をもたらしてくれた。療養していると、社会からの距離がするっと遠ざかってしまい、もう二度と掴めなくなるのではないかという恐怖に囚われる。

家庭というものも、私にとっては社会の一部なのだが、その家庭の中でもどこか座りが悪い。家庭に居場所はいくらでもあるのだが、その居場所にいること自体がおぼつかない。ひょっとするとこのまま、独り身になってしまうのではないかという恐怖もある。社会の中の居場所を見つけられないでいると、家庭の中でさえ不安に陥ってしまうのだ。そんな中、なんとか社会の隅っこでひっそりと生息している。

4月が終われば、5月である。

5月、が来れば、本格的にエンジンをかけなければならない。少なくとも今まではそう思ってきた。学校に行っていた頃も、5月は4月よりも憂鬱だった。4月はまわりが浮かれているが、5月になれば、皆普通モードになる。新しい生活が日常に変わるのだ。そんな中、自分だけ毎年5月に乗り遅れてしまう。運良くエンジンがかかっても、その操作を誤ってしまったりする。そうして、今までゴタゴタを繰り返しながら毎年5月をやり過ごしてきた。5月が来るのは恐ろしい。

別れゆく二人が5月を歩く

というのは、井上陽水さんの「5月の別れ」の歌詞だが、今日、このフレーズに随分助けられた。5月がとても爽やかで素敵な季節だと思えたのである。

若葉が芽生えた並木通りをいざ別れゆく恋人と二人で歩む。それだけで、5月が来たことの代え難さがある気がした。

お互いに春一番が吹くまで口に出すまいと思っていた頃、ゆうつさを抱えながら、二人での日々を思い返し、ポケットに手を突っ込みながら黙って歩いた桜並木、そういうものが5月のありふれた暖かさの中で、涼しさが心地よくさえ感じる風に吹かれながら別れとして解き放たれるのだ。

これが3月だと、しんみりしてしまう。3月に別れるなんて嫌だ。3月は別れるという能動的表現よりも、もっと別れがおとづれるという受動的表現の方があっている。

5月だと、あなたにも、きっと素敵な出会いがあるよ。ここまで二人で歩いてこられたことを喜ぼう。俺たちは、案外悪くない二人だったんだ。そうやって、別れを受け止められる。自分の中だけでも。

これは、別れだけの歌ではない。別れはものすごく体力がいることだから象徴的に語られているけれども、「5月の深夜残業」だって「5月の深酒」だって構わないのだ。季節の移り変わりというものを前向きに受け止めて、生きづらい世の中を生きていくという一つのライフスタイルの提示とも言える。

恋愛という関係のうつりかわり、季節の移り変わり、現在という実感がだんだん思い出と言うものへ変わっていくこと等の愛おしさを、5月の訪れ、空の色の変化、月の満ち欠け、星空の移り変わりに昇華し歌い上げているのだと思う。

勝手な解釈で申し訳ないが、私が5月にさしかかる季節を乗り切るためには、そういうちょっとした燃焼促進剤が必要なのだ。そして「別れゆく二人が5月を歩く」というフレーズが、私にとってそれになってくれそうなのだ。