語彙の豊かさの正しい表し方 Al Kooperの「Naked Songs(赤心の歌)」

語彙の豊富さというのはとても重要なもんだとつくづく思う。

私は、はっきり言って語彙が貧しい。貧しい言葉の中から何かを書くというのはとても苦しい。

そういったことを夏目漱石の「草枕」を読みながら思った。夏目漱石は色々な言葉を自由自在に使いこの小説を書いている。ちょっと嫌味なぐらい豊かな言葉が溢れている。この本を読んでいると、言葉は知識であり思考そのものをつかさどっているんだと思わせられる。

夏目漱石の言葉の背後には膨大な知識があり、それぞれの言葉がそれぞれの世界観を持っている。

例えば、「軽侮」なんて、一見、結構使われてそうな言葉も、私は使わない。そういった言葉で表現するものがないからだ。けれども、そういうありふれていそうであまり使わない言葉が、この本の中ではその言葉があるべきところに収まっている。

そういうものに接すると、改めて自分の語彙の貧しさに直面する。

これは、音楽にも同じことが言えて、ボキャブラリーは重要である。

例えば、ジャズなんかを聴くと、ロックではあまり使われない音使いがたくさん出てくる。音楽理論で言うと、オルタードスケールだったり、ディミニッシュだとか、いろいろあるらしいけれど、詳しいことはわからない。ただ言えることは、ロックではあまり使われないボキャブラリーがジャズの世界で使われていることだ。逆に、ロックの世界ではまかり通っている言葉(フレーズやビート)がジャズではあまり用いられていなかったりする。

フォークやブルースなんて一見シンプルで、ボキャブラリーが貧困そうに思われるが、そんなことはない。フレーズや音楽理論ではシンプルな言葉たちも、それぞれが複雑に絡まり、様々なバリエーションを持ち存在する。ブルースで使われるスケールは少ないかもしれないけれど、そのスケールの中で様々なフレーズが交差する。そして、それぞれの言葉が、適切な場所に収まって音楽が成立している。音楽の世界でも、古くから残っているものは語彙が豊かである。

文学にも、音楽にも引き出しの広さが求められる。

引き出しが広いっていうのは、音楽をやるにあたってとっても大切なことの一つなんだなと、Al Kooperの「Naked Songs(赤心の歌)」を聴いていて思った。

このアルバムで、アル・クーパーは自身の音楽の引き出しをいっぱいに広げ、色彩豊かに仕上げている。ロックあり、ブルースあり、ソウルあり、ゴスペルありのアルバムである。

そして、その豊かな言葉たちがアルバムの中で適切なところで顔を出し、そこにぴったりと収まるとともに、全体の大きな世界観を作り上げている。それぞれの言葉は聴いていて難解な印象は受けないし、むしろわかりやすい。この辺が夏目漱石の「草枕」よりも胃に優しい。飲み込み、消化しやすいのだ。

いろいろな知識、世界観が無理なく一つのアルバムに収まり、それを過剰にひけらかすことなく、嫌味でなく、それでいて刺激的で、バラエティーに富んでいて、楽しませてくれる。語彙の用い方の一つの理想型である。

「赤心の歌」という邦題をつけた人もすごいと思う。「赤心」なんて言葉、普段はあまり使わない。というより、このアルバムのタイトルでしか使っているところを見たことがない。見たことがないけれど、「Naked Songs」の邦訳として、とてもぴったりだ。こういうところで語彙が試される。

夏目漱石がアル・クーパーを聴いたらどう思うだろう。「草枕」を書き直すとかもしれない。いや、そんなことはないか。語彙の豊富さでは夏目漱石に軍杯が上がるからな。

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